ぼちぼちいこか 「電気自動車売込みイタリア紀行4」ベニス観光 PDF  

伴 勇貴 2019年04月 

ベニス観光

合間を見て、ガイドブックを片手に、ホテル近くのバス停からバスに乗ってベニスに出かけた。英語でベニス、イタリア語でベネチア。地中海貿易で巨万の富を蓄えたものの大航海時代への移り変わりとともに衰退の道を歩んだアドリア海北岸の島に立地する港湾都市。今は「地中海の女王」とか「水の都」と呼ばれる往時おうじをしのばせる屈指の観光都市。「ゴンドラ」、「ベネチア・グラス」、歌「サンタ・ルチア」それとシェークスピアの「ベニスの商人」─── ベニスと言われると、僕には、こんなことぐらいしか浮かんではこない。

行ってみて驚いた。まずベニスは島の集まりだった。1846年完成の4キロの鉄道橋、1932年開通の、それに沿った自動車橋道路。このいずれかを経由しない限り陸路ではベニスには行けない。鉄道の終着駅の「サンタ・ルチア」と自動車ターミナルのある「ローマ広場」が町の玄関だ。それから先の交通手段は、狭い運河をぬって進む昔ながらのゴンドラか、島々を結ぶ「水上バス」しかない。基本的には、橋の架かっていない離れた島に行く以外は、歩くしかない。

バスの終点は「ローマ広場」。なぜベニスに「ローマ広場」があるのか分からないが、ともかくベニスに着いてからが大変だった。本島の中央を貫くS字型の大運河のほか、約200近い運河が縦横に走り、そこに約400の橋がかかっている。道は迷路のように入り組んでいる。

こちらの方向に行けば目的地に着くだろうなどと歩いたら、間違いなく、とんでもない目に遭う。橋がないため行き止まり。戻るしかなく、ぐるぐる歩き回される。

地元の人たちは橋の位置と道の関係を熟知しているから平気なのだろう。だが、いつも適当に歩いている僕はすっかり戸惑った。得意の方向感覚など、ベニスではまったく役立たない。ガイドブックを片手にヘロヘロになり、同じ場所をウロウロする羽目に陥った。「穴場」を探すのも諦めた。ともかく有名な「サン・マルコ広場」を基点に動くことにした。

ほとんどの観光客が同じようだった。リュックサックとスニカーの定番スタイルの顔を覚えてしまった欧米人に、あちこちで何回も出会った。彼らも、苦笑というか弱ったというか、恥ずかしいというのか、そんな表情をしていた。それが救いだった。僕だけはない。みんなが戸惑っている ─── その様子を見て恨みがましい気持ちが和らいだ。

お定まりの観光コース

このような場所に都市が建設されたのは、5~7世紀にイタリア北部に侵入し、当時のヨーロッパ大陸に住んでいた人たちを恐怖のどん底に落とし入れたフン族などの異民族の侵攻から逃れ、あしだけが一面に茂っている「干潟」に新天地を求めて人々が移住したことが、きっかけだったという。塩や魚などの交易で繁栄し、それが独立性を高め、その連合体の中心地、「都市国家」の中心地として発達した。初めは陸地に近い干潟に居たが、防衛上の見地から干潟の中心、現在の場所に移ったのだという。

「都市国家」というけれど、日本で言えば「堺」のようなところだったのだろう。イスラム圏との交易を含め地中海での広範な貿易特権も得る。そして十字軍の遠征が行われるようになると、その出発地、根拠地になると同時に、地中海貿易に関する特権も得る。それで得た富と発言力を背景に、13~16世紀の間、国際政治の場でも重要な役割を持つことになった。

しかし、その地位もイギリスなど北西ヨーロッパ諸国が地中海貿易に進出したため、17世紀には没落し、18世紀になると、ただ自由かつ洗練された歓楽的な雰囲気で名高い小国になってしまったという。その息の根を止めたのはナポレオンだった。1797年、イタリアに侵入したナポレオンは、ベニスを占領し、長く続いてきた共和制を廃止、ベニスをオーストリアに移譲した。その後、様々な政治的な駆け引きなどに翻弄されることになるけれど、2度とかつての独立した「ベネチア共和国」のような地位を復権することは出来なかった。

そんなことを思い出しながらも今回はお上りさんに徹しようと決めた。長さ約10メートル、幅は約1.5メートルという「ゴンドラ」に乗ること、有名な「ベネチア・グラス」を買い求めること、それとガイドブックに書かれていたビザンティン・ロマネスク様式の「サン・マルコ大聖堂」や、かつてベネチア共和国政庁であった「ドゥカーレ宮殿」などの歴史的建築物、それと多くの著名な絵画が所蔵されているという「アカデミア美術館」に行くこと、それだけを心掛けることにした。

「ゴンドラ」には、特別な思いを持っていた。映画やテレビの旅行番組で見ていると、別世界に引き込まれるようだった。しかし、自分が実際に乗ってみて、間もなく、期待は無残にうち砕かれた。

見栄えのする場所は極めて限られていた。お世辞にも水は綺麗とは言えないし、あちこちの建物から下水がチョロチョロと流れ込んでいる。水際の建物の多くは浸水に悩まされている。くさい臭いを我慢しながら、そんな状況を見ていると、ロマンチックになれと言われても難しかった。

救いと言えば、たまたま乗ったゴンドラの船頭が、船頭仲間のボスらしく、エンタテイメント精神に富んでいたことだった。滅茶苦茶めちゃくちゃな英語だけれど、それで何とか楽しませようとする。それに、ついつい引き込まれた。狭い見通しの悪い曲がり角にくると、衝突を避けるため、自動車の「警笛」代わりに大声で合図を送り合うのが約束らしい。彼の「オーエー」と歌うように送る合図は、素晴らしい声と声量で、明らかに群を抜いていた。それを聞いているだけで映画の主人公のような気分にさせてくれた。

時折、すれ違う、ワイングラスを片手に、いかにも気のよい、世界の田舎者のアメリカ人の底抜けの明るさも救いだった。そんな一行に出会うと、こちらも英語が下手なことなど忘れ、訳の分からないことを叫び、「チャオ!」とやりあい、手を振って別れる。わずかな距離の遊覧コースだったが、ぼられたという気分にはならなかった。すべてを承知の上で、また乗っても良いと思った。さすがに観光で飯を食っている人たちである。

サン・マルコ広場は、サン・マルコ寺院を中心に、宮殿とか博物館によって三方が囲まれ、もう一方は海に面している長方形の広場だ。広場はカフェと餌をついばむ無数の鳩で埋まっていた。それを見たら、何も建物の中に入ることない。カフェでエスプレッソでも飲みながら、人間ウォッチングと、青空の下での日光浴を楽しむだけで十分だと思った。

でも、結局、いくつかの建物に、行列待ちして入る羽目になった。もちろん入って見れば、決して悪くはない。しかし、いくら芸術だと言われても、それらが作成された背景、それらによって、どれだけ多くの人たちが救われたというかあざむかれたというか ─── そんな人間の怨念おんねんのようなものが漂っていて、やや辛くなった。フィレンツェとは、どこか違う雰囲気が充満していた。

「芸術の機能」─── 芸術の役割は時代によっても、それを支援する人間の意図によっても大きく左右される。旧石器時代の洞窟に描かれた狩猟の絵などは、あくまでも収穫を願う呪術じゅじゅつ的なものだったが、近代の写実的な絵画と本質的な差異はない。その点ではほとんどの宗教芸術が同じである。20世紀の社会主義国ばかりか、戦前の日本でも、社会体制を支えることが、芸術の一つの大きな目的というか正しいあり方だった ─── こんな説明が「美学」の専門書には書かれていた。

ベニスを徘徊しているうちに、こんなことを思い出し、それが頭にこびり付いてしまった。そのため、いくら著名な絵画を目にしても素直に「美術鑑賞」の対象として眺める気分にはなれなくなった。十字軍によって、「神に感謝しつつ」、どれだけ多くの人たちの血が流されたことか。どれだけの略奪と強姦が繰り返されたことか。救いを求める多くの貧しい人たちの寄付で、どれだけ司教たちが私腹を肥やしたことか。それがこの結果か ……… そんな思いが頭から離れず、気分も悪くなった。教団など組織の一員にならなければならいないことを前提とする「宗教」には嫌悪感けんおかんを覚える僕にすれば、我慢ならなかった。「純粋」に眺めれば、玉石ぎょくせき混交こんこうなのに、ただひたすら「感動」している人たちと一緒に居ることが辛くなった。

ペストとカーニバル

こんなことを思うのも、十字軍の根拠地として繁栄した都市ということが、ただ頭にこびり付いていたからだけではない。「ゴンドラ」に乗船すると、下水の流れ込む狭い運河を往来する羽目になった上に、街を歩くと、あちこちに気味悪い「仮面かめん」を所狭しに並べた店があり、それらを眺めさせられたからだ。

「仮面」を見て、中世のベニスについて考え込んでしまった。東西貿易の中継地であったベニスでは、10年に1度ぐらいの割合でペストの流行に悩まされた。ペストはもともとネズミ類の流行病で、貿易船とネズミとは切っても切れない関係にあったことがわざわいしたらしい。14世紀に中央アジアに発生したペストが、ヨーロッパ全域を席巻せっけんし、「黒死病」(死亡者の皮膚が黒ずんでみえたことからの俗称)として怖れられたことは有名だ。その時、当時のベニスの全人口の約半分が死亡したという。

だいたい中世のヨーロッパは汚かった。「中世は『入浴しなかった千年』とも呼ばれる。裸は罪との教会の指令によるものである。上下水道やゴミ処理が進んでいない中世の都市や宮殿は悪臭が漂い、貴族や王族は香水が必須だった。イギリスで初めて石鹸が作られたが1641年。すでに宗教的制約は緩んでいたが、課税が重く、産業的な発展は遅かった」(「アシモフの雑学コレクション」新潮文庫)というのだから、ペストが大流行したのもやむを得まい。ちなみに「日本大百科全書」(小学館)では、ペストについて、概略、次のように書かれていた。

ペスト菌の感染によっておこる急性伝染病。ペストの流行はすでに2、3世紀ごろからあったと伝えられているが、14世紀に中央アジアからヨーロッパ全域を席巻せっけんした大流行は有名で、当時のヨーロッパ全人口の4分の1にあたる2500万人の死者が出て、「黒死病」として恐れられた。

ペストは元来ネズミなど齧歯げつし類の流行病であり、これがノミ、ナンキンムシ、シラミなどの昆虫の媒介によってヒトに感染する。リンパ節腫、ペスト敗血症および肺炎などを引き起こす。ペスト患者の大部分の病型は腺ペストで、皮膚や粘膜から侵入したペスト菌が、近くのリンパ節で増殖し、これが出発点となって他のリンパ節にも広がっていく。

大多数は飛沫感染によってペスト菌を直接吸入して発病する。肺ペストとペスト敗血症では、ともに2、3日の経過で死亡する。腺ペストは、経過が1週間以上にわたる場合は治癒することもあるが、致命率は30~90%である。治療には、抗生物質剤およびサルファ剤が用いられる。

実は、このペストと「仮面かめん」、それとベニスのカーニバルとは密接な関係がある。有名な長いくちばしを持ったベニスの「仮面かめん」は、ペストが流行した当時、医者が感染しないように 長いくちばしの部分に布とニンニクをめてマスクとして使用したものだという。このマスクをかぶり、手に長い杖を持ち、患者に近寄らないようにして診察して回ったのだという。なお、カーニバルは、謝肉祭しゃにくさいと訳されているが、その生い立ちとか狙いは、キリスト教とは関係のないもののようだ。「日本大百科全書」(小学館)には、概略、以下のように説明されていた。

キリスト教国のうち、主としてローマ・カトリックの国々で行われる祭り。毎年、復活祭(イースター)の40日前から始まる4旬節の期間中は、キリストの断食をしのんで肉食を絶つ習慣があるが、その前に肉を食べて楽しく遊ぶ行事。

その起源はローマ時代の豊作を祈る農耕祭あるいは農神祭と呼ばれる祭り。キリスト教の初期に、この新宗教に加入したローマ人を懐柔するため、彼らの間で行われていたものを認めたもの。仮装行列や張り子の偶像行列などが盛大に行われる。

とくに中世のヨーロッパでは、封建制度やキリスト教倫理による束縛の枠外にある様々なものを取り込み、日常の社会規範や秩序を一時的に転倒させ、それが終わった後、再び元の秩序に活性化された状態で戻す狙いがあった。

日常の社会規範や秩序を一時的に転倒させる ……… そのために「仮面かめん」が役に立つと言うわけだ。「仮面かめん」を付け、仮装かそうしていれば、馬鹿なことをやっても誰がやっているのか分からない。安心して無礼講ぶれいこうを楽しめる。

それでなくとも、中世のベニスは今から見ても相当に乱れた社会だったようだ。何と16世紀半ばで人口10万人に対して1万人を超える娼婦がいたという。ピンからキリまでの娼婦がいた。高級娼婦ともなると、ファッションや教養的にも時代の最先端を行く女性で、貴族の女性たちの「あこがれの的」だったという。夜も昼もギャンブルに明け暮れ、ルーレットで身ぐるみはがされ、裸で修道院に帰った神父がいたとか、愛人を兼ねた召使いを持たないと貴婦人は恥だとされたとかいった類の話も数多く伝わっている。

君主、貴族から、文人、自然科学者、画家、役者、ペテン師、そして貴婦人から下女、娼婦に至るまであらゆる類の人間と係わり、抜け目のない才覚と遠慮を知らぬモラル、深くはないが広い教養を武器に自由奔放な生涯を送った、そしてエロチックな情事の記録が全編にあふれる「回想録」を書いた、プレイボーイとして名高いカサノバ(1725~1798年)が生まれたのもベニスだった。

ティントレットの「最後の晩餐」

ベニスの細い迷路のような路地を歩いていると、こんなことが次から次と浮かんでくる。だからサン・ジョルジョ島に行こうと決めた時には、晴れ晴れとした気分に戻った。サン・マルコ広場の沖合にある島で、「ゴンドラ」では行けない。「水上バス」を利用しなければならない。ところが、これが「都バス」と同じで、どれに乗れば良いかなかなか分からない。ガイドブックの説明はほとんど役立たない。季節によっても違うし、時間帯によっても違う。どの「水上バス」に乗れば良いのか、案内板を見たり、「バス停」に聞きに行ったりしていたら、人なつっこそうなイタリア人が寄ってきた。

胸に鑑札をぶら下げている。話を聞けば「ベネチア・グラス」工場の無料見学ツアーの誘いだ。セリフがふるっている。悪いヤツが多い。でも自分は、ちゃんとした資格を持っていると鑑札を指で指す。そして日本語のパンフレットを取りだしながら、片言の日本語で、怪しい無資格者の連中のやっているものに比べれば、いかに素晴らしく、いかに妥当な値段であるかを強調する。

ちょっと心を動かされたけれど、話の辻褄つじつまが合わない。で、冷やかし半分で、それも楽しみながら話だけは聞いた上で、丁重に時間がないので行けないと断った。良いカモだと思ったのだろう。そして、ヤッタとでも思っていたのだろう。ところが、最後になってどんでん返しである。急に不機嫌になった。

僕とすれば逆で、楽しませてもらったという気持ちが強かった。で、まったく無邪気そうに「サンキュー」「チャオ」と思いっきりにこやかな顔で言い、手を振って、当惑した表情の彼を後にした。しばらく歩いてから振り返ったら、彼は、また別の日本人らしい観光客をつかまえて、笑顔を振りまきながら身振り手振りを交えて口説いていた。

サン・ジョリュジュ島には高い鐘楼しょうろうを持った教会がある。1610年完成。コリント式(古代ギリシャの都市、コリントから起ったもの。ローマ・ルネサンス以降の建築にも用いられる。葉を飾った華麗な柱頭に特色)の巨大な円柱がベースになっている。この教会に「最後の晩餐」の絵がある。そんなことを聞かされた。名前だけは知っている「コリント式」の円柱の実物を見ることも、そして何よりも「最後の晩餐」の絵が見られるという話には心が動かされた。「ベニスにあったのかなあ?」─── ややに落ちなかったが、「水上バス」に乗るのも悪くないと思って向かった。

心地よい潮風を浴びながら「水上バス」から眺めるベニスの風景は格別だった。「ゴンドラ」で味わったベニスの恥部は見えない。海面に浮かぶ幻想的な都市だ。観光客でごった返している「水上バス」の中だけれど、最高にハッピーな気分になった。もっと乗っていたいと思っている間に島、下ろされた。

次の便が来るまで、1時間以上の余裕がある。ユラユラと揺れる「水上バス」から、船員の手を借りて島の波止場に降りた。立派な教会があるだけで、他に何もないようなところだった。「最後の晩餐」を見たかったので建物に急いだ。内部に入ると荘厳な雰囲気で、うろうろするのも気が引けて、さりげない様子をよそおい、目指す「最後の晩餐」を探した。しかし、記憶にあった、NHKのテレビ番組で観た「壁画」の修復風景の映像につながるようなものは一切なかった。人が数人、群がっていた。その前に絵画が飾られていた。

それはベニス生まれで、ほぼ一生をベニスで過ごした画家・ティントレット(1518~1594年)の「最後の晩餐」だった。逆光線による強烈な明暗の対比や、ミケランジェロ(1475~1564年)に傾倒し、動的かつドラマティックな表現を生みだしたということで知られる画家だ。その最後の作品が、このサン・ジョルジュ・マッジョーレ聖堂の「最後の晩餐」の「絵」ということだった。

「最後の晩餐」─── キリストが捕らえられ、十字架につけられる前日、12人の使徒と夕食をともにし、ユダの裏切りを皆に告げ、またパンとぶどう酒を祝し、「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪がゆるされるように、多くの人のために流すわたしの血、契約の血だからである」などと語ったとされる話で、多くの絵画などの題材にされたといったことは知っていた。

しかし、「最後の晩餐」=「レオナルド・ダ・ビンチ」というステレオタイプの思考に完全にはまっていた。レオナルド・ダ・ビンチの「壁画」を観ることができる、そう思って、そのことについて微塵も疑っていなかった。それだけに驚きというか落胆が大きかった。「壁画」と「絵画」との違いなどというものではない。両者を比較すれば、一目瞭然だろう。

同じ大きさの画面にして比較すると、構図などの点でティントレットに軍配を上げたくなる。これが、今の感覚からすれば普通だと思う。レオナルド・ダ・ビンチ(1452~1519年)やミケランジェロ(1475~1564年)などの作品を乗り越えるべく努力した成果のたまものだと言ってしまえばそれまでなのだけれど。

もっとも、迫力という点では必ずしもそうではないのかもしれない。実物は見たことないが、やはり巨大な「壁画」は圧巻なのだろう。そう思うと、目の前のティントレットの「絵」が可哀想に思えた。大きさばかりではない。祭壇の横の壁に掛けられ、祭壇のきらびやかな装飾に押され気味というか、その対比が異質で、「絵」がだいなしだった。1枚だけを持ち出し、別の環境で観賞すれば、もっと素晴らしいに違いないと思った。

いずれにしても僕は完全に一人合点ひとりがってん、早とちり、勘違いをやらかしていた。レオナルド・ダ・ビンチはフィレンツェ近郊に生まれ、フィレンツェとミラノを中心に活動し、有名な壁画はミラノの修道院の食堂の壁画であるという話を思いだした。

本当の晩餐 

食堂と言えば、そう、イタリアに来て以来、一度ぐらいは、いわゆる一流のレストランで食事をしたいと思い続けてきた。ピサでもフィレンツェでも、この願いは果たせなかった。それだけにベニスでは心に期するところがあった。それでガイドブックに載っていた一番の高級店に予約を試みた。(要予約)とあったので、ホテルで頼んでもらった。すると案の定というべきか、満席で断られた。2番目の「季節で作る伝統の味 ─── 近海で採れる魚、野生のアスパラガスなど季節の地の素材のみで作る、伝統的なベネチア料理が食べられる」と紹介されていた店は、どうも廃業したらしかった。電話は繋がらないし、電話帳にも店の名前は見当たらなかった。「海の幸いっぱいの人気店」というのも連絡がつかなかった。何と(要予約)とある3店のうち2店までが廃業したようだった。

住所を頼りに探した。そうしたら1つは行方不明、もう1つは、やっぱり潰れていた。これがJTBの数ヶ月前に出されたばかりのガイドブックの内容であり、ベニスの入り組んだ細い路地をウロウロさせられているうちに本当に腹が立った。ガイドブックなどに、これまで頼ってきたことがなかっただけに、今回に限って、その姿勢を貫き通さなかった自分に腹が立った。

ガイドブックに掲載されていて、しかも期待が持てそうなレストランは、あと1軒しかなかった。残りは、行ってみたらいずれもカフェに毛の生えたような店ばかりだった。必死で地図を頼りに、聞き回りながら探した。ようやく見つけた時には、もう6時を回っていた。何しろ細い路地を抜け、橋を渡り、そしてぐるりと回って、また小さな橋を渡ったところにあるのだから、分かりにくいことこの上ない。近くにきているのに、目に付かず、何度も、何度も周りをウロウロして、ようやく見付けた。

7時開店とガイドブックにはあったけれど、もう信用しない。人影が見えたので、ドアをノックし、顔を見せた店の人に、今日、食事をしたいのだが ……… と聞いた。今度は正しかった。分かりました、もう少しで開けるから待って欲しいという。その返事を聞いた途端に、ドッと疲れが全身から吹き出した。そして「やっとイタメシにありつける!」と思った。

「市場に立つ美味なる店 ── 昔、郵便局として使用されていたという16世紀の歴史ある建物を利用。魚市場のすぐ隣というロケーションからも分かるとおり、自慢は新鮮な魚介類を使った料理。味と古き良き時代の雰囲気の両方が楽しめる店だ」

ガイドブックにはこう書かれていた。1800年の創業だとも書かれていた。これなら期待できると、心豊かな気分になり、一服しながら開店を待った。一番乗りだった。店の中の雰囲気も悪くはない。だんだん期待が高まった。案内されたテーブルは窓際とは反対の場所だったので、窓際の席が良いと言ったら、そこは予約が入っている、ここしかないとぶっきらぼうにいう。ちょっとムッとしたけれど、飛び込みで、たしかに予約を入れていなかったのだから仕方がない、まあ、そう悪そうではないし ……… と引き下がった。何はともあれ、腹も減っていて、早く真っ当な食事にありつきたかった。

待望のメニューが渡された。渡されて驚いた。日本語だった。さらに内容にも驚いた。代わり映えのしないものばかりだ。英語のメニューを欲しいと言ったら、内容は同じだという。帰る時、店はかなりの客で埋まっていた。その皿を横目で見ながら店を後にしたのだが、たしかに同じような料理を食べていた。とくに変わった料理は見られなかった。味も普通だった。

だいたいガイドブックとかパンフレットとかに頼るとろくなことはない。ベニスの駅前旅館もその1つだ。

「全70室。全室にトイレ浴槽、カラーテレビ、直通電話およびエアコン完備。ガーデンバーと近代的なアメリカンバーで世界の飲み物。伝統的なイタリア料理 ……… 」「ベニスの歴史的な中心部から5分の静かで心地よい場所に立地。全面改装。大きな無料駐車場が完備。ベニスにもすぐ。数メートル離れたところからは10分おきにベニス行きバスが出ている」

写真も悪くはない。しかし、現実とまったく違う。何が全面改装だ。いったい、いつのことなのだ。何が大きな無料駐車場だ。あの廃車置き場が駐車場だというのか。どこにバーがあるんだ ……… 。中華料理の方が遙かにましで、何が伝統的なイタリア料理だ。伝統的なイタリア料理というのはコーヒーと菓子パンのことか。言い出せば切りがなかった。ピサのホテルも実は似たり寄ったりだった。大きいな違いは、中華料理があるかないかぐらいだった。

振り返ると、こと食事に関する限り、ピサの駅前旅館で最初に紹介してもらった地元の人向けのレストランがコスト・パフォーマンスの点でも味の点でも最高だったかもしれない。山盛りのチーズたっぷりのサラダとパスタ。それと旨いハウスワイン。明らかに大食漢のMさん、チーズに目がなく、食欲が落ちないOさん、それと痩せの大食いのYさんなど、皆が腹一杯食べて飲んで平和になるのに1万円ちょっとしか、かからなかった。                                              (2001年春)