ぼちぼちいこか 「電気自動車売込みイタリア紀行3」ベニス郊外での試験 PDF  

伴 勇貴 2001年04月 

ベニス郊外での走行試験

 

 もう一つのイタリア・メーカーへの売り込みのため、ベニスに移動することになった。ピサ駅から列車に乗り、フィレンツェに出て、そこで「ユーロスター」に乗り換えてベニスに向かった。もっともホテルはベニス市内ではない。電気スクーターの陸送トラックの利便などを考えて、一つ手前の駅で下車したところにあると聞かされた。胸騒ぎがしたが、ベニス近くなのだから、まさかピサの「駅前旅館」のようなところではあるまい、と自分に言い聞かせた。

ユーロスターはなかなか豪華な車輌だった。ところがフィレンツェでの乗り換えで、事件が起きた。後で振り返ってみれば不吉の前兆だった。添乗員よろしく飛び回っていたMさん1人だけが乗り遅れてしまったのだ。

理由はたわいないことだった。ともかく乗車する前に何か飲み物と食べ物を買い込もう。食堂車は混み合うだろうし、それでバタバタするのは嫌だし、安上がりに済まそう。ということでMさんがマクドナルドに買いに走った。「小錦」のような身体からだを揺すりながら汗を拭き拭きMさんは大きなマクドナルドの袋を抱えて戻ってきた。ところが、いつの間にかOさんら2人の姿が消えていた。

で、Mさんはあせった。出発時間が迫っていた。それでもまだ、どのホームからベニス行きが出るのか分からなかった。僕にマクドナルドの大きな袋とMさん以外の切符を預け、こんどは発車ホームの確認に走った。ともかく発車ホームが分かったら先に列車に乗っていて欲しいと頼んで、Oさんたちを探しに出かけた。

全席指定席なので、僕は列車に乗り、所定の席につき、皆が来るのを待っていた。間もなくOさんらが現れた。発車が迫ったので、ともかく列車に飛び乗り、前の車輌から順に探して来たのだという。その時、Mさんの姿が窓の外に見えた。手を振って、早く乗れと合図した。しかし、間一髪、乗り遅れてしまった。発車ベルは鳴らない。悲しみとも怒りともつかない複雑な表情のMさんを残したまま列車は静かに動き始めた。Mさんの姿は次第に小さくなり、視界から消えた。

ともかくMさんと連絡を取るしかない。幸いMさんは携帯電話を持っていた。時刻表を見たら、結構な本数が走っている。連絡が取れて、ホテルで落ち合うことにした。ようやく安堵し、持ち込んだマクドナルドを食べた。食べ終わるとOさんは安心したのだろう、座席からずり落ちそうになりながら、ウトウトし始めた。

やっぱり駅前旅館だった

下車して驚いた。ピサどころではない。ベニスのサンタ・ルチア駅のたった一つ前の駅だというのに、日本で言えばローカル線の無人駅のような雰囲気だった。その瞬間、今度のホテルより、まだピサの「駅前旅館」の方がましだろうと思った。今度のホテルには何も期待しないことに決めた。

地図を頼りにホテルに向かった。普通の住宅地の中を歩いているようで、こんなところにホテルがあるのだろうかと不安に陥った。不安を払い除けながらさらに進んだら、ようやく看板が目に入った。ドラッグ・ストアのようなものが一軒あるだけで、周囲には何もないところだった。その建物の前に電気スクーターの陸送用の真っ赤なトラックが停まっていた。場所に間違いはなかった。

余計な期待は抱いていないだけに、サバサバした気分だった。フロントは小綺麗で、愛想の良い女性がいた。彼女が手続きを始めると、中国人らしき男性が現れた。イタリア語でやりとりしている。何なのだろうと思った。ロビーを見回すと、漢文の掛け軸のようなものとか中国製の陶器の置物のようなものがあちらこちらに飾られていた。何とも異様な雰囲気だ。チェックインしている間にも数人の中国人にあった。ようやく事態が飲み込めた。経営者は中国人らしかった。そして、もっぱら中国人の団体客が利用しているホテルのようだった。

部屋の鍵をもらって、3~4人で一杯になる小さなエレベータに乗って部屋に入った。一昔前の日本のビジネス・ホテルという雰囲気だ。小さなテレビが申し訳なさそうにある。トイレも風呂もベッドも同じだ。良く言えばコンパクトということなのだろうが、ともかく小さい。部屋の中からは緑の木立しか目に入らない。だが、窓を開けて下を見ると、大きなゴミ箱と放置されている何台もの錆びたトラックやら乗用車が目に入った。空調を入れたら、妙な音でうなりだした。

チェックすればするほど、駅前旅館だと確信した。おかしさがこみ上げてきた。もともと旅行目的が、立ち上げたばかりの会社の製品の「行商」なのだから、ピッタリと言えばピッタリである。これから数日、ここで過ごすのかと呟き、ともかく荷物をほどいた。

一段落したらロビーで落ち合うことにしたが、まだ時間は十分にある。気分転換のためホテル周辺の探索に出た。駅と反対の方角に向かった。両側に大きな街路樹が並ぶ道をキョロキョロしながら歩く。相変わらず高層の建物は見当たらない。緑の木立とバラなどの花木がやけに綺麗きれい映える。横道に入ると、普通の個人の住宅ばかりだ。イタリアのそれもベニス近くにいる気分とはまったく無縁だった。

子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。道の突き当たりのロータリーの一角に、ちょっとした広場があって、そこで数十人の子供たちが遊んでいた。その反対側の一角の空き地では、「巡回移動遊技場」とでも呼べばよいのだろうか、大型トラックで運んできたメリーゴーランドや的当て球技などの施設の組立が行われていた。子供たちは、その完成を心待ちにしているようだった。

自分の子供のころにも、年に1、2回、そんな「一座」が回ってきた。別世界が来たようで小銭を握りしめ、胸をときめかせて出かけた。少し夜遅くまで遊ぶことも許してもらえた。ほんの一瞬、子供たちの大声で引き戻されるまで、ほろ苦い想い出の世界に紛れ込んでいた。

このロータリーのあたりが、新興住宅地の入り口らしい。瀟洒しょうしゃ、さすがにイタリアだと感じさせるようなキッチン用品の店やブティック、あるいはカフェなどがあった。といっても白金の「プラチナ通り」の店のような気取ったところがない。買うか買わないかは別にして、気軽に店に入れる雰囲気である。実際に入ったところ、異邦人だと意識させない店員の対応には心休まるものを覚えた。全部合わせても店舗は十軒にも満たない。ここに住んでいれば、休日には間違いなく立ち寄るだろうと思った。

柳絮りゅうじょ」の街?

これらの店舗の他は、いくら歩き回っても一戸建ての住宅しか見えない。これ以上、探索しても代わり映えはなさそうだった。これ以上、遠くに行くと戻るのも大変になるので、地図を見ながら、別の経路でホテルに帰ることにした。この判断が良かったのだろう。帰りにも、珍しい、初めての光景に出会った。「森林浴」を楽しみながら歩いていたら、突然、「残雪」と「新緑」のコントラストが目映まばゆい、早春の森林のような世界に迷い込んだ。

突然、目の前に現れた光景に戸惑った。気を取り直して「雪」のようなものを手にとり観察すると、白い小さな花だ。それが歩道を覆いつくしていた。車道の路肩では20センチあまりもの厚さになっていた。何の樹木だか分からない。残念なことに、僕の持っているデジカメは旧式で直ぐにバッテリが消耗し、充電中だった。それで写真を撮れなかった。帰国してから記憶を頼りに手元の植物図鑑などで調べたが、いまだに何の樹だったのか定かではない。

初めは北京の4月中旬から約1ヶ月見られるという春の名物、白い綿毛に包まれた柳の種子で、まるで花のように見えるという「柳花」だと思った。が、それとは違った。「柳花」というのは正しくは「柳絮りゅうじょ」-----「絮」とは真綿のこと- ----- と言い、写真のようなもので、僕がベニス近郊の住宅街で見たものとは明らかに違うと再確認した。

僕が見たのは桜の花びらが一面に地面をおおったような光景だった。しかし、花は小さく、色はやや黄色みをおびた白で、しかも、その量が桁違いに多いため、その堆積が残雪のように見えたのだと思う。

決して「柳花」「柳絮りょうじょ」のように軽く、フアフアするものではなかった。いま振り返ると、樹はライラックのようなものだったと思う。いずれ、その正体を明らかにしたいと思っている。

なお、日本で「柳絮りゅうじょ」を見ることができないのは、たまたま中国から最初に輸入されたのはオスの樹で、これをし木で増やしたため、オスばかりで、種を結ぶメスの木がないからだということも知った。

それにしても、ホテルは中国人の経営だし、その周辺では「柳絮りょうじょ」を思い起こさせるような光景が見られる。偶然と言ってしまえば、それまでだが、複雑な気持ちを抑えることが出来なかった。

軽いノリの人たち  ベニス郊外での電気スクーターの走行試験

ホテルに戻るとMさんが到着していた。ホッとした。Mさんは、休み暇もなくなく、レンタカーの手配に出かけた。近くにはなく、結局、サンタ・ルチア駅まで行かなければ駄目ということだった。そうなれば時間も掛かるということで、それはお願いし、残りのメンバーで明日のデモの打ち合わせに入った。連絡は取れてはいるものの、詳しいことはまったく決まっていなかったからだ。議論したが、ぶっつけ本番で臨しかなかった。

地図を頼りに指定された工場に赤いトラックとレンタカーを連ねて向かった。著名なメーカーだが、町工場の面影をとどめた雰囲気の会社だった。ただし、開発関係部門のセキュリティは厳しく、守衛相手では電気スクーターを搬入しようにも要領を得ない。入り口で守衛が頑張り、差し止める。

しばらくすると、えらく人の良さそうな人物が現れた。Oさんが話をする。すぐに了解が得られた。開発部門に通じるゲートが開かれ、そこにトラックを移動するように指示された。拍子抜ひょうしぬけするぐらい、軽いノリの人だ。裏口から開発部門の部屋に案内された。直ぐに担当者との細かい技術的な議論に入った。もうOさんの独壇場どくだんじょうだ。趣味ともビジネスともつかない話で盛り上がる。このままで終わるのではないかとハラハラし始めたころ、幹部が現れた。

彼との話はいとも簡単だった。ともかく、まず持ってきた電気スクーターに乗りたいという。そうなると話が早い。直ぐに数人が現れて、多分、面白いから来ないか、そんなやり取りが行われたと思うのだが、技術と営業の幹部を含めて数人があっという間に集まった。

それで乗ろうという。どこで乗るのかと思ったら、いつの間にかスピードガンを片手にしていた営業の幹部が、工場の正門の前の道路でやるという。テストコースなどないので、いつもそうしているという。真っ先に自分が乗って必死で走る。速度記録を出そうとする。今度は、その速度を図っていたヤツが、俺の番だと交替し、挑戦する。そんなことを技術と営業の幹部たちが次から次と繰り返す。そのノリには、さすがにあきれた。

それだけやればバッテリは、当然、消耗する。充電しなければ動けなくなったところで、中断し、ようやく社員食堂での昼食となった。社員食堂の一角を仕切り、僕たち用のスペースが作られていた。普通はセルフサービスだそうだが、給仕が現れてサービスをする。ただし、食べ物は同じである。

そこで初めてワインを飲みながら、彼らと歓談した。彼らは予想していた以上の性能だったので、すこぶるご機嫌だった。昼食の間に充電が終わるから、午後から、またテスト走行をやろうという。もちろん、こちらとしても望むところだ。僕たちも彼らの軽さにつられて気楽になった。しかも、社員食堂の食事とは言っても、ピサや、今度のベニス近郊の「駅前旅館」などの食事とは比較にならないくらい美味い。堪能たんのうした。食後は、食堂の一角のカフェでカプチーノを立ち飲みしながら一服した。至福の時だった。

しかし、午後のテスト走行には驚いた。ホンチャンのバイクのテスト・ドライバーが現れて、構内をちょっと走ったら、「いけるじゃん」─── 多分、そんな話を幹部とやったらしい。すぐに市街地走行をやるという。これがいつものやり方だという。仮ナンバープレートを付けて、ちょっと遠くまで走ってくるという。彼には電気スクーターを扱っているなどという意識はない。

普通のバイクやスクーターのように「モーター」をふかしている。「なかなか良い反応じゃないか」そんな雰囲気で、繰り返している。こちらとすれば、バッテリの消耗が気になって仕方がない。しかし、そんなことを気にする様子は全くない。ガソリンエンジンのスクーターとは違うなどと注意しようと思っている間に、まさに「チャオ!」という雰囲気で、市街地走行に出てしまった。

あの調子だと、どこかでバッテリがあがって走れなくなってしまうのではないか。気になって仕方がない。で、いったいどこまで走るのかと聞くと、いつも使っている道を行くなら、十数キロ先のところまで行くだろうという。でも、よく分からないという。これはヤバイと思った。しかし、携帯電話を持っているから、止まったら迎えに行くから心配ないと彼らはあくまでも楽天的だ。

たしかに、それで電気スクーターを持ち帰ってくることはできるだろう。それに、そんなことで壊れるようでは使い物にならないことも分かる。致命傷になるような事態を避けるため対策も講じてある。それでも視界から消え、どこをどうやって走っているのかまったく判らないため不安感は払拭できない。あの乗り方でやったら、どこか壊れてしまうのではないだろうか、変な具合に壊されたら、次の予定が駄目になってしまう ……… 気にし始めたら切りがなかった。

そんな気持ちでいたもので、どれだけ時間が経過したのかも定かではない。案の定、バッテリがあがった、もう走れないという連絡があった。直ぐに彼らはトラックを差し向けた。しかし、僕たちは戻ってきたスクーターを点検するまで気が気ではなかった。幸い電気スクーターにはまったく問題はなかった。ただバッテリがあがっただけだった。

の後、テスト結果を踏まえた上での検討会に入った。いろいろ意見は出たが、概ね好評だった。彼らが評価中の他社製品と比べてはるかに良いというコメントだった。彼らが評価中のものを見せると同時に、その評価データなども見せてくれた。きわめてオープンだった。彼らは翌日もテストをやりたいという。搬送が面倒なので、充電方法などに関する注意事項を教え、本体を開発部門の一隅に残したまま、その日は終わった。あっという間に一日が終わっていた。

もっとも、彼らは僕たちが気軽に本体を置いていくことには多少は驚いたようだ。しかし、僕たちにすれば、顧客獲得が目的で、そのためにあえて隠すことはない。真似ようたって、一朝一夕にできるはずがない。そんな自負があった。