ぼちぼちいこか 「電気自動車売込みイタリア紀行2」鉄道でフィレンツエ PDF  

伴 勇貴 2001年04月 

鉄道でピサからフィレンツエ

 

中学高校時代には国名とか地名とか鉄道だとかを競って覚えた。それは、この歳になっても役立っている。しかし、相次いで国家が誕生したアフリカは完全にお手上げだし、欧州の国境線、主要都市の位置関係も定かではなくなっている。白状すれば、ピサ、ミラノ、ローマ、フィレンツェ、それとベネチア(ベニス)の位置関係も今ひとつハッキリしなくなっており、それが今回のイタリア旅行では災いすることとなった。

成田からミラノに飛び、イタリアに入国し、国内線でピサ空港に移り、レンタカーで「駅前旅館」に投宿し、そこから毎日、新型電気スクターの評価テストのためフィレンツェ近郊のイタリア・メーカーにレンタカーで1時間以上もかけて通った。ピサに着いて改めて地図を見て驚いた。ピサは航空機も鉄道も完全に幹線から外れた場所にあった。宿泊代の違いはあるにしても、不便なピサ泊とする理由はまったくなかった。フィレンツェ泊にすれば良かった。人任せで事前にチェックしなかったことを後悔したが、文字通り、後の祭りだった。

仕事の利便だけではない。そもそもフィレンツェと比較するとピサには観るべきものが少なかった。フィレンツェはメディチ家とルネサンス発祥はっしょうの都市だ。買い求めた旅行ガイドでも、ピサの20倍近いページを使って「見どころ」を説明している。ダビンチ、ミケランジェロなどの名前がゴロゴロと並んでいる。連日、近くまで行っているのに、フィレンツェに行かない手はない。次の宿泊地はベニス。このままだとフィレンツェを素通りという事態になりかねない。それにピサの家庭料理も悪くはないけれど、本場の「イタメシ」も食べてみたいと思った。

イタリア国鉄(Ferrovie dello Stato FS)

で、なんとか時間を作ってフィレンツェに行こうと考えた。ピサ駅で時刻表を調べたところ、イタリア国鉄に乗って、1時間~1時間半ほどの距離だ。1時間に3~5本ぐらい走っているので、あまり時刻を気にする必要がない。乗りたかった列車にも乗れるし、言うことはなかった。

ヨーロッパ大陸の列車に乗るのは約30年ぶりである。約30年前、ある調査のために各国を回った際、日曜日に「ライン下り」を楽しもうとライン川の上流の都市、コブレンツまでノコノコと列車に乗って出かけた以来だ。

いろいろヨーロッパの鉄道事情は紹介され、相当に良くなったと聞いていた。そして「ユーロトンネル」を潜り抜けてみたい、「オリエント急行」に乗ってトルコまで行ってみたい。パリから「TGV」に乗って南フランスに行ってみたいなどと思っていた。それだけに今回のイタリア国鉄の乗車は、そのキッカケの第一歩になるのではという想いが込み上げてきた。

切符を買った。旅行ガイドには「ヨーロッパと日本の駅で一番違っているのは改札システム。ヨーロッパのほとんどの駅では改札口がなく、そのまま列車に乗り込むが、刻印機のあるところでは自分で必ずチケットに日付を刻印すること」「チケットの刻印を忘れると、不正乗車と見なされることもある。チケットの刻印機の奧まで差し込んで、音がしたら完了。抜き出したら、刻印されているか確かめること」などと書かれていた。

刻印機らしきものはあった。ところがチケットをいくら差し込んでも作動しない。壊れているらしい。何台かで試したけれど同じだった。ややあせった。しかし、地元の人たちが機械を使っている様子はない。同じように困った表情を浮かべているのは旅行者風の人たちだけだ。ほとんどの人が切符を買うと、そのまま一直線にホームに向かう。それでホームに「本物」の刻印機が設置されているのかと思って、探しに行った。でも、それらしきものはなかった。観察していたら、そのまま乗り込む人がほとんどだった。 

僕も意を決し、そのまま乗り込んだ。いずれ検札が回って来ると思った。しかし、回って来なかった。車窓からの風景に見とれているうちに、列車はフィレンツェ駅に着いた。あっけなく狐につままれたようだった。

下車し、矢印に従って歩くと、旅行客風の人たちでごった返している広場に出た。フィレンツェは交通の要衝で、ここから各地に向けて列車が出発する。ホームが何本も並んでいた。

ヨーロッパ主要都市を結ぶ超特急、最高時速約300キロのスマートな車体の「ユーロスター」(Eurostar)の姿もあった。しかし、イタリア国鉄には似つかわしい車体ではなかった。イタリアの鉄道というと、暗くもの悲しい1956年のイタリア映画「鉄道員」と、その主題曲を思い出すからだ。「鉄道員」の撮影に使われたのはミラノ中央駅だそうだが、フィレンツェ駅もよく似ていた。モノクロなら、多分、区別できまい。一昔前の上野駅をさせる駅だった。

ところが、「ユーロスター」の姿を見たのがわざわいしたのだろう。もの悲しい雰囲気はどうしても漂ってこない。何よりもいただけないのはマクドナルドだ。ドンと赤い大きなマークを構内で誇らしげに掲げる。そこが若い男女で混み合っている。これではとても感傷な気分にひたることはできなかった。

この雑踏を抜けると、もう駅の外、いきなりフィレンツェの街角に放り出された。改札口がないのだ。改札口に慣れ親しんでいる僕には、ケジメがないというか、シマリに掛けているというか、どうにも落ち着かなかった。

メディチ家とルネサンス

ピサのあるトスカナ州の州都がフィレンツェである。「花の都」という意味で、英語名はフローレンス。人口は約44万人で、ピサの4倍近い。ピサはアルノ川の河口近くの都市。フィレンツェは、その上流の丘陵とに立地している。中世後期からルネサンス期(13~16世紀)にかけ、文学や美術の世界的中心地となり、その遺産を今日に伝える歴史・観光都市だ。

そしてフィレンツェと言えば、大富豪でルネサンスの保護者だったメディチ家である。

メディチ家の基礎は14世紀のメディチ銀行の設立で築かれた。その後、ヨーロッパ各地に支店を開設、戦費に窮する各国に貸付けを行い、巨万の富を蓄積する。政治的には表立つことを避け、財力と新興大商人層内での信望を武器に支持人脈網を確立。それによってフィレンツェ共和国内で隠然たる影響力を持つようになる。このメディチ家の繁栄の立て役者がコジモ(1389~1464年)。ミラノ、ナポリとの友好関係を保つのが彼の一貫した外交方針で、共和国の安定と繁栄に貢献し、死後「祖国の父」の称号を贈られた。

彼の孫ロレンツォ(1449~1492年)は、市民ながら若い頃から他国の君公と対等に交わり、フィレンツェでも無冠の王のごとく君臨した。祖父の外交方針を継承し、イタリア半島の諸勢力の均衡に努めた。賢明かつ豪胆で、「偉大なる者」という称号を与えられた。コジモ同様、芸術を保護し、自らも文学作品を残した。

しかし、彼の長男は凡愚で、1494年、メディチ家はフィレンツェ共和国から追放される羽目に陥った。その後、復帰、追放を繰り返し、姻戚関係の皇帝などの後押しで、1530年にメディチ家のフィレンツェ再復帰が実現する。

だが、メディチ家の後継者たちは、コジモ一世(1519~1574年)やフェルディナンド一世(1549~1609年)を除くと、おおむね凡庸で、1600年代初め、メディチ銀行は閉鎖を余儀なくされた。

そして後継者のいなかった奇行の主ジャン・ガストーネ(1671~1737年)の死により、トスカナ大公=メディチ家は絶えた。

 

このメディチ家が収集・製作させた絵画や彫刻などが、フィレンツェのウフィッツィ美術館、ヴェッキオ宮殿、アカデミア美術館などの主な展示品になっている。ここはひたすら歩くしかしかたがなかった。

ラファエロ、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど ─── 日本で実物を見ようとすると人混みでもみくちゃにされるのを覚悟するしかない ─── の作品がに飾られ、ゆったりと好きなだけ眺められたのは、好き嫌いは別にして、得がたい贅沢な時間だった。

もっとも白状すれば、階段の上り下りもあって、最後はフラフラだった。分厚い美術品などの解説書を片手に、スニーカーとリック姿の欧米人がする中では、休み休み見るのが精一杯の僕の姿は異様に映っただろう。でも、それが許されるのは嬉しかった。

フィレンツェのスパゲッティ

一目だけでも見たいというもので溢れていた。書物や写真だけで知っていたものが、行列などしなくても見られるのだから、自分自身はフラフラになっているのに、見るのを止められない。「また来ればいい」と呟きながらも足が動いてしまう。

そうこうしているうちに完全にエネルギー切れになった。足も言うことを聞かない。

ピサではありつけなかった本場の「イタメシ」を食べようと勇んで来たのに、結局、動き回った起点のシニョーリア広場のレストランに飛び込まざるを得なくなってしまった。

観光客のたまり場のような店だ。少し我慢すれば、旅行ガイドにあったレストランの美味い食事にありつけると思ったが、もう駄目だった。限界にくると、突然、変身する。「なんでもいい。ともかく食べ物を口に入れ、休みたい」としか考えられなくなる。ロバのように頑固になる。そして「海水浴場のラーメン」だと思いながら、スニーカー姿の観光客と遠足で来ている子供たち、それと群がる鳩を見ながら、普通のスパゲッティを結構な値段を払って食べる羽目になってしまった。

救いは隣の老夫婦だった。話していた言葉はドイツ語だった。どうということのないスパゲッティを食べ、ワインを飲み本当に嬉しそうだった。その様子を見ていたら、「海水浴場のラーメン」のようなものだったけれど幸せな気分になった。遠足で来ている子供たちも良かった。通りの反対側の壁の前に座り込み、持ってきたサンドウィッチを取りだし、それを頬張ほおばりながら、ふざけ始めた。そう言えば、あんな時代もあった。古今東西、贅沢を言えば切りがない。人間、気持ちの持ちよう次第───改めて、人生の楽しみ方を教えられたひとときだった。

書物でしか知らなかった多くの美術品を一度に眺める機会に恵まれた感想をあえて言わせてもらえば、「ルネッサンス」というもののすごさを思い知らされ、「ルネッサンス」=「文芸復興」とステレオタイプに思っていたことの意義を肌身で感じたことだった。

ルネサンス───14~16世紀,イタリアから西ヨーロッパに拡大した人間性解放をめざす文化革新運動。都市の発達と商業資本の興隆を背景として,個性・合理性・現世的欲求を求める反中世的精神運動が躍動した。この新しい近代的価値の創造が古代ギリシャ・ローマ文化の復興という形式をとったので,「再生」を意味するルネサンスという言葉で表現された。文化革新は文学・美術・建築・自然科学など多方面にわたり西欧近代化の思想的源流となった。文芸復興(大辞林)

いくらこんな説明を聞いてもピントこない ─── 月並みだけれど、「百聞は一見にしかず」の世界だった。例えば、絵画。同じキリスト教の聖書の中の場面を題材にしていても、それ以前のものとは、まるで違っていた。生々しい人間がキャンバスの中で、壁画の中で躍動していた。それ以前の既成観念と様式美ようしきびに拘束されたものとは根本的に異なっていた。彫刻はもっと素晴らしかった。一気に、千年ぐらい前の自由奔放なギリシャ・ローマ時代にさかのぼり、しかも、それを上回る躍動感に溢れ、人間の生を感じさせると同時に、物理的な大きさの点でも圧倒するものだった。

「チャパツ」や「ガングロ」といった「流行はやり」ではない。もっと根元的な欲求にられたものだと感じた。当時の人たちが、これらを見て、どれほど大きな衝撃を受けたのかを思い、そして、そうしたものを認め、支援を惜しまなかったメディチ家を代表とする富豪たちを想像し、改めて人間の複雑さと多様性について考えさせられた。

見たい、知りたい、わかりたい

つい先日、ブラッと本屋に立ち寄ったら、新刊書の棚に「ルネッサンスは何であったのか」(塩野七生著 新潮社 2001年4月)があった。思わず買い求めたが、その第一部「フィレンツェで考える」には、概略、次のようなことが書かれていた。

 

約千年間、キリスト教会によって押さえ続けられてきた、見たい、知りたい、わかりたいという欲望の爆発が、後世の人々によってルネサンスと名付けられることになる精神運動の本質だ。欲望は爆発しただけではなく、様々な作品に結晶した。

創造するという行為は理解の本道である。考えているだけでは不十分で、それを口であろうとペンであろうと画筆であろうとノミであろうと、表現してはじめて知識なり理解になる。

ルネサンス時代とは、要するに、見たい知りたいわかりたい、と望んだ人間が、それ以前の時代とに比べれば爆発的としてもよいくらいに輩出した時代だ。見たい知りたいわかりたいと思って勉強したり制作したりしているうちに、ごく自然な成り行きで多数の傑作が誕生した、と言ってもよい。

キリストの教で最も重要なことは「信ずる者は救われる」で、疑いを持つことは許されなかった。ラテン語による説教を聴かされた庶民は、ラテン語の祈りを機械的に暗唱していただけで、その意味するところまで考えることはできなかった。

聖書という教典を読み一般に説き聞かせる聖職者階級が、その組織自体の強化・存続を狙うのは不思議ではない。それは人間のさがである。そのため罰則を強化し、地獄の存在を強調するなどして脅した。

それを裏打ちしたのが、「コンスタンチヌスの寄進状」だった。キリスト教を国教にしたローマ帝国の皇帝、コンスタンチヌス大帝がローマ帝国の西半分、つまり後代のヨーロッパの地をローマ法王に寄進したとされるものである。

これは後にコンスタンチヌス大帝の生きた4世紀のものではない、11世紀になって偽造されたものだと見破られたが、中世の間、ずっと信じられ、土地の正当な所有権はすべてキリスト教会にある ── 土地は、所有主といえども教会から借りているにすぎず、所有権の存続を認めるか否かも、キリスト教会に決定権があるという主張の拠り所となった。

そして中世の人々は、キリスト教会という羊飼いの後に従う従順な羊となった。

ルネサンスの勃興と十字軍とは切り離せない。1270年に最後の十字軍が敗北したが、それまでにイタリアの海洋都市国家は大きな十字軍特需の恩恵を受けた。そこから天引税で自然に大金を手にすることができたローマ法王庁の金の運用を請け負うフィレンツェも繁栄した。経済的繁栄を背景に、学問に対する投資も活発化し、十字軍の遠征に伴って流入した異文化の共有化、体系化も急速に進められた。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くは人は、見たいと欲する現実しか見ていない」(ユリウス・カエサル)

 既成概念の呪縛から解放されれば、地中から姿を現した古代ギリシャ・ローマの壁画や彫刻のすばらしさを理解できないはずはない。身の回りに古代ギリシャ・ローマ時代の遺物や遺跡に溢れていた。いまわしい邪教の遺物として排斥されてきたものが大金に化ける時代になった。誰もが発掘に乗り出した。それらを目にした人たちがどれだけ驚いたかは想像にかたくない。

1455年のグーテンベルグ(1398~1462)による活版印刷技術の発明は、聖職者が知識を独占する時代の終焉を告げるものだった。判断を下すのに必要不可欠なもろもろの知識が一般に広く普及するようになった。ルネサンスは出版業に言及することなく語れない。

 

    ………………

こんな説明が、以前と比べると、ずっと興味深く読めるようになった。これは、フィレンツェ訪問の一つの収穫だろう。

この脈絡で考えると、ヴェッキオ宮殿にあった「地図の間」の意義も分かりやすい。巨大な鉄製の地球儀が部屋の真ん中に置かれ、壁面は世界各地の地図で埋まっていた。1580年代のものだという。アジアの地図もあった。東南アジアなどは、今のものと似ており、すぐに判別がついた。それに比べると、日本に対する知識はまだ乏しかった。一つの島として描かれていた。いわゆる「東西軸一島型」と呼ばれるものだった(「地図の文化史」海野一隆著 八坂書房 1996年)。 

大地が球体であることを最初に唱えたのは前6世紀のピタゴラス(前582〜前496)で、地球の全周を最初に測定したのはエラトステネス(前273~前192)。そして「地理学入門」を著した紀元2世紀のアレクサンドリアの天文学者プトレマイオス(83〜168)、ヨーロッパからインド、そして北アフリカをカバーする、いま見てもそうおかしくはない世界地図を作った。 

ところが、こうした知識はイスラム諸国に伝承され、ヨーロッパはキリスト教的世界観に支配されてしまった。ごく一部の知識階級は球体だということを知ってはいたが、大部分は聖書の記載や神話・伝説に縛られていた。「地上楽園」などが描かれた地図がまかり通っていた。こうした世界観がうち砕かれ、再び現実を直視する方向に向かわせたのもルネサンスだった。

コロンブス(イタリアの航海者。ジェノヴァの生れ。スペイン女王イサベルの援助を得て、1492年アジアに向かってスペインのパロスを出発、西インド諸島サン‐サルバドルに上陸、キューバ・ハイチに到達)が登場する背景があった。

ヴェッキオ宮殿の「地図の間」に居ると、当時の知識人たちが四方の壁の世界地図と中央の地球儀を眺めながら興奮して世界を語っている声が聞こえてくるようだった。