ぼちぼちいこか 「電気自動車売込みイタリア紀行1」ピサからスタート PDF 

前田勲男  

駅前旅行シリーズ ピサからスタート

すっかりご無沙汰してしまった。中断してから、もう、そろそろ一年ぐらいになるだろうか。どうして書かないのか。具合でも悪いのか ─── いろいろ言われる。しかし、理由はきわめて単純だ。ただ仕事や私事に忙殺され、書く気分にはなれない状況が続いていたのである。

書きたいことはいろいろ貯まっているが、未整理で頭の中でゴチャゴチャになっている。再開しようと思うと、それらを丹念に整理するしかない。どれから書き始めようかと悩んだ挙げ句、森繁久弥、小林桂樹、それと三木のり平の3人が主人公だった「駅前旅館」シリーズにそっくりだった珍道中、昨年、2000年5月のイタリア旅行からから再会すること決めた。印象が強烈で、記憶を辿るのも楽だ。

最初にイタリアに行ったのは25歳の頃だ。ある国際交渉の補佐役としてパリに行かされた。仕事は予想以上に厳しかった。朝から夕方まで会議。そして夜は遅くまで、その整理と翌日の交渉のための準備に追われるという日々の連続だった。宿泊はシャワーしかない小さな木賃宿。体力には自信があったが、さすがに参った。何よりも冬のパリではまったく太陽を見ることが出来ないことがつらかった。昼間といって日本で言えば夕方だ。いくらワインと料理が美味い、冬のパリの名物の「焼き栗」が美味いと言っても、陰鬱いんうつな気分になった。

それで上司に頼んだ。気分転換をさせて欲しい。それも太陽の日を浴びたいと頼んだ。幸いパリ駐在の上司は理解が速かった。分かった、週末にローマに行って来い。手配してやる。直ちに申し出を認めてくれた。もっとも金がないので手配してくれたのは、いわゆる民宿だった。そこで数日を過ごした。食事も家族と一緒。テレビを見るのも一緒。まさにイタリア映画に出てくる典型的な大家族のところでの居候いそうろうだった。

そこを拠点にローマの史跡を歩き回った。「ローマの休日」に出てくる場所に行っては物思いに耽った。熱烈なヘップバーン・ファンで、高校時代には等身大のポスターを手に入れて壁に貼って喜んでいた。

それだけに「スペイン広場」の階段にしゃがみ込み、ソフトクリームを舐め、「トレビの泉」にコインを投げ入れ、「真実の口」に手を入れる ……… 。そして目の前を新聞記者役のグレゴリー・ペックが乗り回していたスクーターが行き交うのを見て心を踊らした。

ほろ苦い想い出である。その後もローマを訪れたが、いずれも20代のことで、それ以来、イタリアに行きたいと思っていたものの、機会に恵まれなかった。

電気自動車への夢

だからたまたま絡むことになった友人たちがやっている新事業の関係でイタリアに行かないかという話には無条件に飛びついた。新会社の製品 ─── 電気自動車用のモーターの販路拡大のための話だ。今でこそ環境問題の絡みで注目を集めることの多い電気自動車だが、彼らはもう10年あまり研究開発を続けてきた。電力会社などからの開発受託を受けながらやり続けてきた。

「継続は力なりである」いつの間にか関係者間では知られる存在になっていた。しかし、開発受託ではなく独自でビジネスを始めるとなれば、話は別だ。議論は尽きなかった。各社が本格的に電気自動車に乗り出し始めている。従来通りの研究開発の受託ビジネスに終始するのか、それともメーカーに転身するのかの岐路だ。夢見る大人たちの集まりである。議論の果てに頑張ってメーカー、それも電気自動車用のパワーユニットのメーカーに脱皮することに挑戦しようということになった。

となると、損益もさることながら、市場確保が大切だ。慣れないことをやらざるを得ない。大手自動車メーカーの動きを考えると、まったなしだ。しかも、大手自動車メーカーとは真っ正面からぶつからない分野に資源を集中しないと、こちらがされてしまう。そんな議論を戦わした後、まず二輪車市場に活路を求めようということになった。

自分たちが経験も積んでいる電気スクーターなどの二輪車分野で、まず、ある一定の地位を確保する ─── それが最初だろう。世界の主要二輪車メーカーに新型パワーユニットを積極的に売り込もう。しかし、新型パワーユニットだけ持ち込んでもインパクトは小さい。細かい技術論は別にして、ともかく新型パワーユニットを組み込んだ電気スクーターを持って行き、それを評価してもらうのが手っ取り早いという結論になった。

製品には自信はあるが、無謀と言えば無謀だ。でも、突破口を見出すためにはやるしかない。電気自動車が夢のモノでなくなる時期は目の前に迫っている。今まで研究開発に終始してきたけれど、ここで頑張らなければ、長年の苦労が無意味になる。そうした思いが皆を駆り立てた。「いずれ、いい想い出でになるさ!」と、正直言って僕も自分自身を奮い立たせるしかなかった。ソニーの故盛田氏は、試作のトランジスタ・ラジオを持って米国市場の開拓を行ったという話は有名だが、それと同じノリだ。

決めたら行動は速い。電気スクーター本体はパリまで航空便で運び、そこから陸路で、イタリアに持ち込む。しかし、各社とのアポイントの関係で、まずイタリア・メーカーに行き、それからフランスに戻り、フランス・メーカーの門を叩くというスケジュールが決まった。

それにしても、日本の小さな会社が高性能の電気スクーターを試作した。それを持って行くから、評価して欲しい。その上で良ければ、パワーユニットを買って欲しい ─── そんな申し出をしたのだから、相手もさぞかし戸惑ったことだろう。

最初の打ち合わせを行った後、2ヶ月も経たないうちに、僕たちはミラノ行きのフライトに乗っていた。すでに新型電気スクーターはパリに運び込まれ、陸路でイタリアに向かっている。落ち合う場所は、「斜塔」で有名なピサの町だ。

いい年になってからも無謀むぼうなことばかりを繰り返している。僕たちの仲間、腐れ縁というのだろうけれど、本当に何の因果なのだろうか。ここに至るまでの経緯を振り返り、思わず機上で苦笑いした。その時、うながされて窓から外を見ると、丁度、アルプスの上空だった。雲の合間の雄姿に吸い込まれた。最初に見た時と変わらない素晴らしい眺めだ。改めて身体の許す間に「絶対に登るぞ!」と心の中で叫んだ。

ピサの斜塔

イタリアに行ったと言っても、ローマだけだった。名前だけは知ってはいたが、今回の最初の目的地のピサがどんなところかまるっきり知らない。手元の百科事典をみても、

 

イタリア中部、トスカナ州ピサ県の県都。人口約10万4000人。アルノ川の河口から13キロ上流に位置し、鉄道・道路交通の要衝。かつては沼が多く、しばしばアルノ川の氾濫にみまわれてきたが、幾世紀にも及ぶ干拓事業によって豊かな農業地帯にかえられた。また工業に関しても、伝統的な羊毛工業、ガラス・陶器の製造に加えて、機械や化学などの諸工業が立地するようになった。ピサの名を世界的に有名にしているのはピサ大聖堂に付属する高さ約55メートルの鐘塔、いわゆる「ピサの斜塔」(1173~1350年)である。その傾斜防止はベネチアの地盤沈下防止とともにイタリアの国家的課題となっている。

……… その歴史は紀元前1世紀にさかのぼるが、ローマ時代の遺跡はほとんどない。紀元後9、10世紀から海上勢力として発展し、11世紀にはジェノバとともに西地中海のイスラム海軍を圧倒した。港として商業的に繁栄し、自治都市として発展した。しかし、13世紀末、ライバルのジェノバに敗れ、コルシカなどの支配権を失い、1406年にはフィレンツェに征服された。文化的中心としての重要性は維持したが、経済的にはメディチ家が力を入れた港リボルノの興隆の前に衰退した。

 

こんなことが書かれているだけだった。

あまりにも無味乾燥なので、珍しく旅行ガイドを買った。いろいろ調べ、もっとも詳しいものを選んだはずだったけれど、やっぱりピサについてはほとんど書かれていなかった。

「ピサ早わかり」───「ピサの見どころは斜塔のあるドゥオモ(大聖堂)広場に集中している。広場は町はずれの城壁に隣接し、駅から2キロほどの道のり。駅前から出る一番のバスに乗れば約10分だが、徒歩でも20分程度。駅に近いサン・アントニオ広場を北にのびるフランチェスコ・クリスピ通り、それに続くローマ通りを進むと斜塔が見えてくる」─── それには、こう説明されていたが、それ以上でも以下でもなかった。

「無謀な売り込み旅行」なのだから、仕方がないのだけれど、後になって思えば、あえてピサに3泊もする必要はなかった。訪問先のイタリア・メーカーの所在地から判断しても、フィレンツェでも良かった。「ピサは、普通は観光バスでちょっと立ち寄る程度のところ」と後から聞かされたが、手遅れだった。

ピサは、確かに何もない田舎町だった。もっとも初めて訪れた「ピサの斜塔」には驚かされた。何よりも倒壊を防ぐため、鋼鉄のバンドで塔が締め付けられ、さらに傾斜を防ぐため、鋼鉄のワイヤーで引っ張られている姿には驚いた。しかも、立ち入り禁止だった。まるで工事現場のようだった。技術的には興味は尽きないが、興ざめした。この斜塔を使ってガリレイが重力の実験を行った(もっとも、これは真実ではなく、伝説だというのが今の定説らしい)。そんなことが頭にこびりついていて、ひょっとすると塔の中ほどまでは登れるのではなどと期待していたものだから、一層、拍子抜けした。

それよりは隣接する「ドゥオモ」(大聖堂)の方が凄かった。「入ってみない」とうながされて足を踏み入れた。地中海貿易で得た富で建設されたという「ロマネスク様式」の建物は、縁起えんぎなどはともかく、見る人を圧倒した。

しかし、これらを見終わってしまうと、本当にただの田舎町だった。風情を楽しむというなら別だが、何か特別のものを期待すると大間違いだ。そんな気分を嫌が上にも高めたのが、宿泊先のホテルだ。

旅行ガイドにはピサのホテルとして、駅前広場に面して立つ大型ホテル、斜塔のすぐ側にあるのホテル、それとピサの駅前近くにあるモダンな造りの小型ホテル ─── この3軒が紹介されていたが、僕たちのホテルは、そのいずれでもなかった。ピサの駅を降り、このホテルかな─―、あのホテルかな─―とキョロキョロ看板を見ながら辿たどりり着いたホテルを見て、正直、愕然がくぜんとした。着いたという安堵あんどと、まいったという気持ちが、ほとんど同時に襲ってきた。遊びじゃないのだからと言い聞かせるしかなかった。

駅前旅館

これが僕たちのたどりついたピサのホテルだ。赤いトラックはパリから新型の電気スクーターを陸送してきたトラックだ。交差点の角に立っている細長い小さなホテルがピサでの拠点だった。これを見た途端に、心の片隅あった観光気分が吹っ飛んだ。期待はできないとあきらめた。

こうなったら美味い本場の「イタメシ」にありつければ、それで幸運と思うこととした。しかし、旅行ガイドにはピサのレストランにはじめは関する記述はまったくない。地元の人に訪ねるしかない。一行の中では、もっとも食べ物にはうるさそうで、交渉も達者たっしゃそうなMさん ───「小錦」をさせる人だから、そう思ったのだけれど ───に、ホテルの「おじさん」にいてもらうことにした。

大正解だった。細い路地の奧の、個人の家の庭に踏み込んでいるのではとビクビクするようなところのレストランに行った。屋外に陣取った。初めはまばらだったが、気が付いたら地元の人で溢れていた。ワインは安くて美味い。もちろん料理もだ。イタリアの家庭料理だと思うが、美味かった。愛想は良いし、そして何よりも安いのが嬉しかった。

結局、3泊したうちの夕食2回は、この店でとった。2度目の時は、こちらの顔を覚えていて、今では思い出せないものが多いのだけれど、ともかく変わったものを次々に出してくれた。その中には「タニシ」のようなものもあった。ただ、どうしてもせないのが、ピザを口にすることが出来なかったことだ。このレストランの名物はピザだと聞いたのに、職人が風邪をひいて休みだとか、理由はともかく、一度もピザを口に出来なかった。それが今でも恨めしい。

もう1回の夕食───これは2日目の夕食で、同じホテルの「おじさん」のお勧めに従って行った「中華料理」、これは最悪だった。経営者は間違いなく中国人だった。それで期待した。メニューを見ても嬉しくなるようなものが並んでいる。値段も安い。ところだ。漢字で書かれている料理をいろいろ指でさすと、だいたい出来ないという答えだ。あきらめ、出来るというものを頼んだところ、現れたものは中華料理とイタリアンの「あいのこ」の奇妙キテレツなものだった。何を食べたのか。まずかったということしか、いくら思い出そうとしても浮かんでこない。

ピサの街角と路地

もっとも期待と欲望を捨て普段の生活レベルで考えれば、ピサも捨てたものではなかった。「駅前ホテル」から歩いて数分のところにサン・アントニオ広場がある。欧州によく見られる普通の「広場」で、観光客を喜ばせるものは何もないが、それはそれで悪くはない。広場に面したカフェで仕事の合間に「カプチーノ」を飲むスタイルの良い警官たち ─── 映画の一場面から抜け出てきたような黒いサングラスが妙に似合う警官など「ヒューマン・ウォッチング」しながら、誰の目も気にすることなく、まりの中に浸っているのは、なかなか贅沢な時間だった。

広場を眺めて気が付いたのは、ともかくスクーターが多いことだ。2輪車の大半がスクーターだ。「ローマの休日」以来の伝統なのかもしれない。イタリアに電気スクーターの売り込みに来たのは、ビジネス上の成否はこれからのことだが、センスとしては間違っていないと思った。

アントニオ広場から斜塔や大聖堂までの昔ながらの路地も、「何にもない街じゃないか」などという第一印象がおさまり、余裕をもってブラブラ歩いてみたら、なかなか風情があった。路上に広げられたガラクタ土産を冷やかし、買いたいものなど見当たらないウィンドウをのぞき込み、数百年は経つ古風な石造りの建物に挟まれた狭い路地をブラブラ歩く。同じ古都を散歩するのでも京都や奈良とはまた違う味わいがある。アルノ川沿いの道の散策も良かった。

もっとも、こんな時間を持てたのは、ピサ滞在中のほんのいっときだ。大部分は新型電気スクーターの搬入と評価に追われた。

2輪車の評価テストに立ち会うのは初めての経験だ。テスト・コースでの走行試験に入った。5月にしては、テスト・コースからの照り返しがきつい。ひたすらドライバーが計測装置を付け、テスト・コースを走り続けるのを見守る。この暑さで熱には弱いパワー半導体素子がまいらないだろうか、電源ユニット内の電池セルの温度上昇が限界に達しないだろうか。

心配しだすと切りがない。しかも、問題が起こっても僕自身何もできない。それだけに余計に気掛かりだ。無事に1回の充電で数十キロを走り終えた。もう1回やりたいという。充電には2、3時間は少なくともかかる。その間に昼食をとった。

こちらが技術内容を開示したものだから、相手も快く自分たちの開発状況を説明し、現場も見せてくれた。見た限り、怖れずに足らずとながらも思った。同じようなことが翌日も終日、続いた。これが久しぶりのイタリア旅行の始まりだった。      

(2001年春)