ぼちぼちいこか 「サムイ島からアンコール3」グランドホテルが開業 PDF

伴 勇貴 2000年04月 

シェムリアップのグランド・ホテルが開業

 

いよいよカンボジア、シェムリアップのアンコール・ワット遺跡群だ。もう何回目だろうか。最初の時のような時めきはやや薄れてきてはいる。しかし、今回は、前回、シュムリアップを離れる時、あと数日後にはオープンすると聞いた素晴らしいホテルに泊まるという別の楽しみがあった。

 

もう十数年も続いている夕食しながらの気ままな会合、「かいのかい」の席に石澤先生をお招きし、アンコール・ワットの話をお伺いしたことがある。その際、大先輩のSさんから「すごいホテルがアンコールにできた。そこに泊まってみなければ!」と勧められた。それが「グランド・ホテル」だ。

 

しかし、いくら説明を聞いても、最初に泊まった、それも石澤先生たちの定宿じょうやどの「バイヨン・ホテル」のイメージが強くしみ込んでいるもので、ピンとこない。夜9時になれば電気は止まる。風呂はあるが、小さなガス湯沸かし器で、ぬるいシャワーをチョロチョロと浴びるのがやっとだ。ゆったりと浴槽に浸かって1日の疲れを いやすなど想像できない。これが一番のホテルだった。これが基準なのだから、何と説明されても、「すごいホテルがアンコールにできた」と言われても、その意味がわからなかった。

馴染みの旅行社の人も、まだ行ったことがないという。S大先輩の発言を裏付ける人は周りにはいなかった。石澤先生も、いまだに「バイヨン・ホテル」にご執心で、「グランド・ホテル」は、お茶を飲みに行ったぐらいで、詳しいことは分からないという。

 

しかし、とにもかくにも、何事も「百聞は一見にしかず」である。バンコックからアンコール・ワット遺跡群のあるシュムリアップの空港まで直行便が1日数便も飛ぶようになり、便利になったのは驚きだった。空港も以前のように客引きや物乞いでごった返してはいない。目障めざわりな軍人の姿も消えている。間違いなく社会の地殻変動が始まっていた。カンボジアに来る時には、日本国籍を持つカンボジア人の経営する現地の旅行会社の人を雇うことにしているが、その人たちの様子もすっかり明るいものに変わっていた。

 

ラッフルズ・リゾート

その彼らに「グランド・ホテル」についてたずねたが、立派だというだけで要領を得ない。どうもホテルには専属ガイドがいて、「グランド・ホテル」の宿泊客は、彼らにとっては商売の対象にはならないらしい。それに彼ら自身、格が違うという扱いをされているらしく、ロビーに入ること自体に多少抵抗があるようだった。

 

事実、ホテルに一歩入った途端、ガイドたちが要領を得なかった理由も合点した。建物そのものは以前からあったもので、新築の高層ビルを期待していただけに、やや拍子抜けしたが、中は別世界だった。従業員たちは一様に小綺麗な服装で態度はきびきびし、それでいて愛想良く丁寧に対応する。

 

サムイ島の「ロイヤル・メリディアン・バーン・タリン・ガム」も、バンコックの「オリエンタル・ホテル」も顔負けである。内装がっていて、年代と風格を漂わせている。広々とした空間に並べられた優雅な応接セット。手すりの付いた大理石の螺旋らせん階段。パリの古い格式のあるホテルで見かけた古風な鉄格子のエレベータ。その前で、にこやかに立っているエレベーター・ボーイ。何もかもが磨き上げられている。もちろん冷房もきっちときいている。突然、異次元の世界に迷い込んだようだった。

 

そのはずである。部屋に案内され、パンフレットを見たら、あの「東洋の貴婦人」とも言われるシンガポールの「ラッフルズ・ホテル」の系列ホテルだった。「ラッフルズ・リゾート」と銘打って、インドネシアやスペインなど各地に展開中で、その第1号店が「グランド・ホテル・アンコール」のようだった。

 

「ラッフルズ・ホテル」アルメニア人のサーキーズ兄弟が1886年に始めたもので、サマセット・モームなどの作家や各国皇族あるいは映画スターなど多くの有名人が定宿とした。ホテルの名前は、シンガポール発展の基礎を築いたジャマイカ生まれのイギリス人の植民地経営者、ラッフルズ卿、Sir ThomasStamford Raffles(1781~1826)にちなんだものだという。ラッフルズ卿の略歴は以下の通り。1795年ごろイギリス東インド会社に入社。1805年、マレー半島のペナンに赴任。書記として勤務するかたわら、マレー文化の研究に没頭。1811年、ジャワ副総督に就任、1816年まで、独自の主張に基づいて住民保護を考慮した植民政策を実行。帰国後、『ジャワ誌』を刊行。1817年、スマトラの副総督として再度アジアに赴任。1819年には、新しい根拠地としてシンガポール島をジョホール王国から獲得し、ここを自由港として経営しするなど革新的な政策を実施。しかし、社内で強い批判を受け、健康を害したこともあって1824年に帰国。帰国後、政治家を志す一方、博物館や学会の創設に動いたが、1826年脳卒中で急死。開業100年を迎えた1986年から2年半、ホテルを休業し、全て取り壊し、設備類を一新。内外装はもちろんのこと調度品などもすべて復元し、1991年、完全リニューアル・オープンした。

生ガキ、フォアグラそれにワインとブルーベリー

どうせなら上のクラスの部屋に泊まりたくなった。それで交渉したのだが、驚いたことに上のクラスから順次、満室になっていた。「仕方ない ……… 」と、プールのある中庭にベランダが面する中クラスの2階の部屋であきらめた。それでも部屋の調度類には風格があるし、驚きの連続だった。

 

ベランダから外を見るとプールの向こうにカンボジアの果てしない森林が続く。荷物を解くのももどかしく、大きなバスタブに湯をたっぷりと張って汗を流す。そして備え付けの綺麗な浴衣を羽織り、心地よい堅さのキングサイズ・ベッドに大の字になる。ゆっくり回転する天井の大きな扇風機から送り出される風が心地よい。何もかも信じられなかった。

 

 一息ついてからロビーで待っていた上智大学アンコール遺跡国際調査団長の石澤先生と落ち合う。今回も先生に甘えて、数日間、おつき合いをお願いたからだ。時間が時間だったので、夕食をとりながら滞在中の予定を決めよることにした。

 

今日はクリスマスだ。「グランド・ホテル」のレストランもスペシャル・メニューを用意しているという。フランス料理のスペシャル・メニューもあるという。エスニック料理に辟易へきえきし始めていたので迷うことなくフランス料理にした。テラスに陣取りメニューを見ていると、きちんと身なりのホテルの責任者が挨拶に来た。なんと石澤先生が定宿としているバイヨン・ホテルの元従業員だった。「グランド・ホテル」のオープンに伴い、引き抜かれ、シンガポールの「ラッフルズ・ホテル」で訓練を受け、それから責任者として配属されたのだという。言われてみれば、確かに見覚えがあった。しかし、立派に大変身していた。

カンボジア、それもシュムリアップでフランス料理でもあるまいと思うだろう。ところが、これが驚くほど絶品だった。心地よい風が吹いている。昼間の暑さが嘘のようだった。彼に勧められるままに、生ガキやフォアグラから始め、キングサーモン・ステーキなどを食べた。ボルドー産の「サン・テミリオン」の赤ワインを楽しみながらだ。デザートには生のブルーベリーが出た。

 

 若い頃、フランスに留学し、そこでアンコールの権威に師事した石澤先生としては、ことの他ご満悦だった。ボルドー産ワインはブルゴーニュ産と違い、数種のぶどうを混醸こんじょうしてつくられる。そのため味わいは複雑で繊細で、エレガント。なかでも特に有名なのはメドック、クラーヴ、ソーテルヌ、サン・テミリオン、ポムロールの5地区 ─── ワインに限らず何事にも一家言ある友人のSさんなら、きっとこんなことをまず口走るに違いないのだが、石澤先生は「やあ、良いですね。ここでこんなに美味いサン・テミリオンを味わえるとは ……… 」と、顔を赤らめニコニコするだけだった。

 

(余談だが、この同年齢の友人Sさんの博識ぶりには舌を巻く。仕事に絡んだことから趣味に至るまで、頭の中がどうなっているのか分からない。その彼の誕生日に、とっておきのカリフォルニア産の赤ワイン、「オーパス・ワン」を持参したところ、彼は負けまいと秘蔵の白ワインを振る舞った。しかし、前口上の割には、味は今ひとつだった。渋々、彼も認めた。だが、おかしくなるくらいに悔しそうだった。そんな純なところが、なんとも言えない彼の良さである。)

 

ここ「グランド・ホテル」では、必要なものは何もかも産地直送で、フランスから輸入しているという。だから生ガキも安心して食べられる。もちろんサービスも良い。しかも、それでいて東京で食べるのと比べて、半分以下、多分3分の1ぐらいの値段だ。長い植民地政策の経験があるのだろうが、ともかくヨーロッパの連中の徹底ぶりには改めて舌を巻いた。

 

建築物の基軸は東西それとも南北

先生には申し訳ないのだが、最近は、遺跡もさることながら、カンボジア社会そのものの変化を肌で感じたいという欲求の方がだんだん大きな比重を占めるようになっている。そして明日からのアンコール遺跡見学のスケジュール策定などすっかり忘れ、雑談に興じて遅くなり、ともかく明日9時にホテルで落ち合いましょうとだけ決めて別れる羽目になってしまった。

 

翌朝、ニコニコしながら、いつものベスト姿で石澤先生が現れた。聞けば、ちょうど1週間ぐらい後に予定されていた故小渕総理のアンコール・ワット訪問の説明役をすることになっているという。「それじゃあ、今回は、その予行演習になりますね!」などと減らず口をたたききながら、挨拶もほどほどに、待たせておいた車に乗り込んだ。を切ったようにまた話しが弾む。

 

 アンコール遺跡の修復を一生の仕事としたいという石澤先生との出会いにも話が及んだ。思い起こせば、僕も石澤先生も大手術を乗り越えた直後のころだ。そろそろ15年が経つ。本当に「光陰こういんのごとし」である。

 

「疲れているでしょうから、今日は、あまり無理をしないで、午前中にいくつか見て、午後からアンコール・ワットに行って夕日に映える姿と見というのではどうでしょうか」「良いですね! 夕日の中に浮き上がるレリーフは最高ですね! 今回も、とくに予定は立てていません。のんびりと雰囲気に浸れれば、もうそれで十分です。それにしても、何もかも、もの凄い勢いで変わっていますね」

 

 こんなやりとりから始まって、荘厳なアンコール遺跡に見とれ、のどかな田園風景に小さい頃の想い出をダブらせ、地元のスパイシーで素朴な料理に舌鼓したつづみ打つ。 こんな時の流れを忘れるような日の連続だった。これ以上の贅沢はない。

 

 ところで、今回、上智大学アンコール遺跡国際調査団のメンバー、片桐正夫先生から興味深い話を伺った。 日本大学理工学部教授で専門は建築史。「韓国の建築文化」(南洋堂)、「日本文化の原点の総合的探究」(日本評論社)、「アジアの仏教名蹟」(雄山閣)、「文化遺産の保存と環境」(朝倉書店)などの著書があり、アンコール・ワットの正門に通ずる石畳の参道の修復に取り組んでいる先生である。

 

 久しぶりの再会の挨拶に時間を費やすのもしいかのように、片桐先生は、直ちに故小渕総理の訪アンコール・ワットに備えて用意した資料を使って、参道の修復方法などの説明を始めた。セメントで固めてしまう欧州諸国の「野蛮」な方法ではなく、当時の技術を出来る限り再現し、それもカンボジア人の技術者を養成しながら、崩れた参道の左側を修復する試みだ。

 

カンボジア人の心のり所である遺跡の修復はカンボジア人の手で行えるようにしなければならない、そのためには技術移転と人材養成が不可欠だ………そんな上智大学アンコール遺跡国際調査団の「信念」に沿って進められている活動である。

 

 その片桐先生が、ところでと、「アンコール・ワットなど東南アジアの建築物の基軸は、中国や日本と違って、南北ではなく東西が基本になっているんですよ」と話し始めた。熱帯地方では、太陽の位置が高く、「日の出と日の入り」の場所を特定するのが容易だ。だからアンコール・ワットなど熱帯地方の古代の建築物は基軸が東西になっている ─── そんな説明だった。

 

 片桐先生が、棒きれで地面に描く図を見ながら、改めてなるほどと思った。しかし、ホテルに戻ってから説明を反芻はんすうすると、それは別に熱帯地方に限らない。中国や日本でも東西を基軸にした方が楽に違いがない。それなのに何故、中国や日本では南北を基軸にしたのか、どうしても釈然しゃくぜんとしない。

 

 それで翌日、片桐先生にお会いした時に、その素朴な疑問を話した。

「いや ───、そうなんですよね。実は、本当のところはよく分からない。あえて言うとすれば、中国では古くから南北を指す磁石が使われており、それで中国文化の影響の強い韓国や日本では南北が基軸になったのではないでしょうか。それもあくまでも仮説ですがね ………」

 

 そんな答えが即座に返ってきた。これもまた、なんとなく説得的である。だが、どうも時間的な関係が判然としない。やはり疑問が残ってしまった。ちなみに小学館の「日本大百科全書」によれば、「磁石の歴史」とか「羅針盤(コンパス)」については、次のように書かれていた。

 

●磁石が鉄を引き付けることは古くから知られていた。古代ギリシアでは怪力の神へラクレスの名をつけ、磁石を「ヘラクレスの石」とよんだといわれる。ローマのルクレティウスは『物の本質について』で磁石の反発力に触れている。古代中国では針に方向を与える石としても知られていた。……… 磁石は実用的に用いられることはほとんどなく、むしろ物を動かす磁石には霊魂があると信じられたり、ニンニクによってその力は失われるとされ、呪術・秘術的なものとされた。古代中国では占いに用いられ、やがて方位を知る道具として使われ始めた。紐でつるした磁石や、腹に磁石を入れた木製の指南魚などが記録にある。これが11世紀ごろアラビア人によってヨーロッパに伝わり羅針盤となる。………

●コンパスの始まりは紀元前11世紀ごろ中国の周代につくられた指南車であるといわれていた。しかしこれは、回転しても一定方向をさす機械的な歯車装置であって、磁石を使ったものではないとされ、コンパスの元祖であるという説は否定された。……… 磁気コンパスは、散見される記録によると、11世紀の初めに中国でつくられ、12世紀の終わりごろにはヨーロッパに伝えられていたらしい。初期のコンパスは、針を磁石でこすって磁化させ、この針を紐で吊るしたり、針を藁に刺して水に浮かべたりして北を検知したものと思われる。13世紀に入るとコンパスはかなり発達し、方位の目盛りもできてきたようであるが、コンパスとしてのいちおうの形をなしたのは14世紀に入ってからである。

………………………

 

 なんだかんだと言っても、最近は、マーケットをうろつくのが楽しみになっている。初めてシュムリアップに来たころは、地元の人たち相手の雑貨屋よりも観光客相手の雑貨屋が幅を利かせていた。しかし、最近はまったく違う。地元の人たち向けの雑貨や食料品であふれている。調味料や香辛料、野菜や果物、魚や肉など、自然の恵みの豊かさには目を奪われる。珍しい果物や野菜や川魚などが、ところ狭しと山積みにされている。それらを囲む、キラキラと目を輝かし、生き生きとしている人たちの熱気でマーケットはむせかえっている。

 

 この地で長年にわたって殺戮さつりくが繰り返され、何十万人もの人の命が失われた。しかも、かなりの数の人たちが栄養失調で命を落としたとは、とても想像が出来ない。飢餓で苦しんでいるアフリカなどの諸国と比べて、本当にアジアの多くの国々は恵まれていると思った。同時に、改めて、アジアの底力を感じた。21世紀は、アジアの時代だろうという思いを強くした。

 

(2000年春 )