ぼちぼちいこか 「サムイ島からアンコール2」オリエンタルホテル PDF 

伴 勇貴 2000年03月 

バンコックのオリエンタル・ホテル

サムイ島は素晴らしかったが、不満がなかったわけではない。12月下旬は雨期が終わり、とても過ごしやすい時期と聞かされていた。しかし、十数年ぶりの寒波に襲われ、勝手が違った。間もなく例年の暖かさに戻るはずだとホテルの人も震えながらこぼす有様ありさまだった。夏服だけしか用意していなかったため、朝晩の冷え込みは少しえた。見た目はお構いなしに「重ね着ルック」でしのぐしかなかった。

そうでもなければ、予定を変更し、サムイ島に留まっていたかもしれない。ただただバンコックに行けば、もう少し暖かいに違いないと自分勝手に言い聞かせ、サムイ島を離れた。「今度は2月ごろに来ます」そう言って、顔馴染みになった人たちに別れを告げた。後ろ髪を引かれる思いだった。

だが、いい加減なもので、コサムイ空港でバンコック・エアウェイズ(PG)の60人乗りぐらいの高翼双発ターボプロップ機、ATR72の出発をシンガー・ビールをラッパ飲みしながら待っている間に、気持ちは次の目的地、バンコックに向かっていた。

バンコックではリージェント・ホテルに泊まるのが普通だ。しかし、今回は、ビジネスの雰囲気から逃げたかったので、「お上りさん」よろしく、「一度は泊まってみたい」と思っていたオリエンタル・ホテルを予約した。そのことが一層、バンコックへの気持ちをはやらせていた。

すでに何度か立ち寄ってはいたが、「話の種」に一度はオリエンタル・ホテルに泊まってみたかった。丁度、クリスマスに当たるため、いったいどんな趣向が凝らされるのかも楽しみだった。

バンコック空港には白の制服できめたホテル専属の運転手が名前を書いたプレートを高く掲げて出迎えた。手を上げて合図する。直ぐに気が付いた。丁重に歓迎の言葉を述べた後、荷物を渡すように促す。小さな手荷物1つだから、どうでも良いし、それにやや気恥ずかしさもあったが、荷物をあづけて後ろに続く。手入れの行き届いたアイボリー色のベンツが待っていた。

もう、それだけで、いつもとは違うリッチな気分になった。やっぱり根が単純なのだろう。そう言えば、つい先日も、ある相談事を持ち込まれ、引き受けて良いものか逡巡しゅんじゅんし、困り果てて30年あまりのつき合いになる友人Mに相談したところ、即座に「係わらない方が良い。そんなことで悩むなんて人が良すぎる。めるのではなく、馬鹿だと言っているのですよ!」と、明快にからかわれてしまったくらいなのだから ……… 。

クリスマス・イブのジャズ

しかし、リッチな気分は、オリエンタル・ホテルについて部屋に案内されたところで萎えてしまった。バンコックと言えば毎回登場する井口さんに頼んでちょっと値切ったのがまずかったのか、それともそもそも古い由緒正しい歴史のあるホテルのためなのか ─── ともかくサムイ島のホテルと比べるとみすぼらしかった。

それでも船で渡った対岸の会場での、タイ版お神楽と民族舞踊の組み合わのショーを見ながらの夕食は何度行っても飽きなかった。踊り子は相変わらず魅力的で、その品定めだけでも飽きなかった。

それで初日は終わってしまったが、翌日のクリスマス・イブには予想外の催し物が用意されていた。井口さんと再会し、自動車のエンジンを船外機代わりに使って猛スピードで走るバンコック名物のボートをチャーターし、水上観光を楽しみ、食事を終えてホテルに戻ったところ、しばらくして花火大会が始まった。

2時間あまりにわたってメコン川上空で延々と繰り広げられた華麗な夜空の祭典には度肝どぎもを抜かれた。イルミネーションに輝く木々と、その上空に花開く花火との対比の妙 ─── それを雑踏でもみくちゃになることもなく、心ゆくまで堪能たんのうできるのは贅沢ぜいたくの極みだった。井口さんに探してもらったフカヒレ料理の店の夕食は、完璧に外れだったが、それを補って余りあった。

その余韻もあったし、寝るには早すぎると思い、部屋に戻る途中、中庭に面したホテルのバーをのぞいたところ、間もなく女性ジャズ歌手、アリス・デイのライブが始まるという。バンブー・バーという小さなバーだ。まだ彼女はバーの片隅で1人で飲んでいた。

しばらくしてライブが始まった。ジャズのスタンダード・ナンバーを何曲か歌った。バンドのメンバーもリラックスし、初めから乗っていた。久しぶりのジャズ、それも予期もしなかったバンコックでのジャズ、感激はひとしおだった。しかし、彼女が情感込めて歌っている時でも、相変わらず大声でしゃべっている人たちがいた。ドイツ人、それと中国人らしい人たちのグループは、まったく関心がないようだった。こちら方がハラハラした。

ところが、さすがプロだ。雰囲気を察し、曲目をがらりと変えた。バンドの仲間ににこやかに合図し、クリスマス・イブにふさわしい黒人霊歌のオンパレードに変えた。大学時代、合唱団で気分転換に合宿などの時にはよく歌っていた曲目ばかりだった。それはそれで懐かしいことこの上なかった。

 

 ●Battle of Jericho

モーゼの後を継いだヨシュアが同胞と共にイスラエルへと帰るに際しての最大の難関だった、ジェリコの城壁での戦いを歌ったもの

 ●Nobody Knows de Trouble I've Seen

私の悩みを誰も知らない、イエス様の他は誰も。先に天国に逝ってしまった友達に、すぐに私も逝くと伝えて欲しいと歌うもの

 ●Swing Low Sweet Chariot

預言者エリヤは偉大なる功績を残し、ヨルダン川を向こうに渡り、天国から迎えに降りてきた炎の戦車(シャリオット)に載って天国へ昇っていったという旧約聖書の話に基づいた歌

こんな定番の歌を立て続けに歌った。そして締めくくりは、これしかないという「聖者の行進」だ。これには、みな大喜びだった。

 

青山『ロブロイ』物語

「オールド・ファッション」のグラスを片手に、僕もすっかり雰囲気に酔った。バーボンの香りも手伝って、数十年前、青山にあったライブハウス「ロブロイ」にいる気分になっていた。「ロブロイ」─── 記憶では確かスコットランドの義賊の名前だったと思うのだが ─── その店に通い始めたのは、学友の友人がやっているということで、今は退職して悠々自適の生活を送っている知人のSさんに連れて行かれたのがきっかけだった。

その経営者とは、後に作家などとして有名になった安部譲二(1937〜 )氏である。もっとも、店そのものは、その当時の安部氏の奥さんだった遠藤瓔子えんどうようこさんがとり仕切っていた。その遠藤さんが、後に「青山ロブロイ物語 ─── 安部譲二と暮らした7年間」(世界文化社 1987年)という本を出版した。その巻末の常連客リストに僕の名前も載っていた。当時は、それほど意識はしていなかったが、やっぱりかなり「入り浸って」いたのだろう。

余談だが、インターネットとは本当に便利なものである。遠藤さんを思い出したもので、愛用しているサーチエンジン「インフォシーク」で検索したところ、遠藤さんに関する記事がいくつか見つかった。雑誌「Coffee Break」(VOL.91)には「遠藤瓔子さんの巻」と題し、次のような記事が載っていた。遠藤さんが、NHKの将棋番組に素人の1人として出演していたエピソードに関する話で、その後半で「ロブロイ」にまつわるエピソードも語られていた。

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JALのスチュワーデスを4年間務めていた遠藤さんは、同じ職場のパーサーだった若き日の安部譲二さん(後に作家に転身)と知り合い、何年後かに結婚した。遠藤さんは再婚、安部さんは3回目の結婚だったそうだ。

遠藤さんが安部さんと付き合いだしたころ、なんとデートの待ち合わせ場所は当時新宿・伊勢丹の近くにあった新宿将棋センターだったという。そのころから将棋好きの安部さんは、暇さえあれば将棋クラブで指していたのである。

「将棋とは昔から妙な縁があったんです(笑)。安部さんとの結婚生活は、安部さんが塀の中に入ったので7年で終わりました。その後、私は家族を養うために童話を書いたりして生計を立てました。

10年以上前に、出所した安部さんはデビュー作『塀の中の懲りない面々』が大ヒットして人気作家になりましたが、私もそのころ、前夫との生活や思い出を語った『青山ロブロイ物語』というエッセー集を出版したんです。当時の安部人気に便乗したもので、私の本もよく売れました。まあ、離婚したときに慰謝料をもらってなかったので、それくらいはいいんじゃないですか(笑)」

安部さんが出資し遠藤さんが取り仕切っていた東京・青山の『ロブロイ』というライブハウス。60年代から70年代にかけては、面白いミュージシャンが出演すると評判になったそうだ。まだ無名時代のタモリがその店でデビューし、内田裕也や矢野顕子、坂田明らも出演したことがある。

遠藤さんの著書『青山ロブロイ物語』は、その当時のエピソードを綴ったもので、近く文庫化されるという。また、4月に出版される『継母ままはははボケテ哲人となる』(クレスト新社刊)は、義母の介護をユーモラスに描いた体験記である。

「私が将棋を始めたとき、“おまえはようやくおれと老後を過ごす気になったのか”と安部さんは冗談を言っていましたが、今でもたまに電話がかかってきますし、実の息子の2男とはよく飲んでいるようです。………

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これも余談だが、遠藤さんがホームページを立ち上げていたこともあって、つい最近メールのやりとりも始めた。会ったところで、お互いを認識できるかどうか危ういところだが、これもメール時代の旧交の暖め方なのだろう。

坊さんがパソコンゲームに興ずる

すっかり横道に入ってしまった。話を元に戻そう。

ジャズはともかく、仕事をまったく忘れて観光客になることに決め込んでの水上からのバンコックの観光は快適そのものだった。雨期の後だけに水量も豊富で臭いが気にならない。高速道路を走り、林立する高層ビルにまれていると感じにくい、この十数年あまりの間のタイの庶民生活の凄まじい変化が、心地よい風と水しぶきとともに伝わってきた。水上生活者の家屋も小綺麗になり、泥水の中で遊び、観光客の姿を見つけると先を争って近づいてきて物乞いしたりする裸の子供たちの姿もすっかり消えていた。

ところどころでボートを降り、定番の寺院巡りも行った。だが、これには逆にすっかり興ざめした。手入れが行き届き、綺麗になったのは結構だが、それでなくとも薄っぺらな華美な雰囲気が漂っていたところに、参拝者目当ての商法が目立つようになり、昔の様に素直な気持ちにはなれなかった。

そんな僕の気持ちを見透かしたように、井口さんはタイ社会での僧侶に絡む逸話を披露した。

バンコックのゲームソフトやビデオソフトの店に入ると、それでなくとも目立つ黄色の僧衣姿がやたらに目に飛び込んでくる。いくら修行中の身とは言っても時間がたっぷりある。だから目に付きにくい僧坊の裏などに回ると、パソコンゲームに興じている姿に出くわすことが少なくない。ポルノビデオにも、結構、ご執心しゅうしんだという。「エェー」と驚いたら、そんなことは誰もが知っていることで、非難する声などタイでは聞かない、と事もなげに言う。

「坊主は金持ちで、托鉢たくはつに回るルートすらも利権化している。日本流に言えば、めかけを何人も抱えている者だって少なくない。それでも非難する声は上がらない。喜んで寄付もする。タイ社会では坊主になれば食うのには困らない。と言って上流社会の者も高学歴者もまず坊主になることはない。巧い具合にタイ社会では出家という制度が失業救済を兼ねた一種の社会保障システムとして機能しているようだ」

目からうろこが落ちるような話だった。日本の社会に浸りきって、僕は、少し宗教というものを厳密に考えすぎるようになっていたのだろう。

ちなみに他界した孤高の作家、埴谷雄高はにや ゆたか氏は立花隆氏との対談の中で、「パスカルは、『われわれは本源と究極は見ることができない、われわれが生まれてきた本源もやがて入りゆく究極も見ることはできない』と言うけれど、思考というものはその見られない本源と究極を見たいわけなのです。絶対見られないけれども見たくなる。これは本当に不思議で、われわれの存在、われわれの宇宙というようなものはどういうふうに発生して、どういうふうにして消滅するかとか、われわれ生物はどういうふうに発生してどういうふうに消滅するかとか、いろいろそういういわゆる妄想が ─── 僕は妄想と言っているのですけれど、刑務所の中はその妄想の時間にいちばんなりやすいわけです。………」(「無限の相のもとに」1997年12月 平凡社)と語っていた。

僕は、そんな延長線上で、釈迦は仏教を説き、親鸞も「嘆異抄」を残したなどと思っていた。しかし、井口さん流に、もっと鷹揚おうように受け止めた方が良さそうである。釈迦の説いた「原始仏教」は本当に厳しいものだったなどと生真面目に議論するのも馬鹿馬鹿しくなった。それで社会が成り立っているのなら、それで当人たちが納得しているのなら、それはそれで結構なことで、とやかく言うのは余計なお世話だろう、と納得し、妙に安心してしまった。

食事はやっぱり水上レストラン

それでなくてもタイ社会を支配しているのはおおらかな風土である。傑作な笑い話を聞いた。おおらかな反面、女性の力が大変に強く、浮気などが原因の夫婦喧嘩では、よく男性がシンボルを切り取られる事件が起きる。年に何十回もあるという。日本だと阿部定事件だ、事件だなどと大騒ぎになるだろうが、タイでは笑い話にしかならないという。

切ったシンボルを投げ捨てたら、アヒルに食われてしまい、手術してつなぎ合わせることができなくなってしまった。そんな話が笑い話として語られている。新聞にも書かれているという。

これにはオチもついている。タイの外科医は、こと男性のシンボルの縫い合わせ技術では世界一だと自慢しているという。シンボルがなくなってしまった男性がかつぎ込まれた病院には、ちょうど性転換を希望する男性が入院していた。タイは性転換手術が盛んなことも、その筋では有名である。で、物怪もっけさいわいと、性転換を希望する男性のシンボルを切り取り、それを切り取られたシンボルをアヒルに食われてなくしてしまった男性に縫いつけ、双方、めでたしめでたしだったという。

こんな馬鹿話をしながらバンコック最後の夜を、バンコックに行ったら必ずといいほど訪れる水上レストランで過ごした。ともかく値段が安くて、それでいて料理の種類は豊富で、味も良い。地元の人たちでいつも一杯で、ここで観光客に出会うことはまずない。井口さんと彼の友人のサンチェさん。ここでも、やや肌寒いくらいの異常な気温だったが、ほろ酔い気分も手伝って、久しぶりの再会で、話は尽きることがなかった。

ところで、写真に写っている2人のうち、井口さんはどちらでしょうか。正解は、右のコロコロ、ニコニコしている、タイの人としか見えない方の人です。そして左は彼の友人のタイ人のサンチェさんです。ゴルフが大好きで、それも「19番ホール(?)が一番良い!」などと冗談を言う、陽気で、話していて楽しくなってくる人です。

なお、バンコックを拠点に、特許出願や知的財産権などの分野で活躍している井口さんは、ホームページ(http://www.s-i-asia.com)も開いています。一度、ご覧になって見て下さい。

(2000年春)