ぼちぼちいこか  アポロは幌馬車だった PDF

伴 勇貴 1999年09月 

「フロリダのメルボルン」

「まいったな。おい、これから20時間以上もかかるぜ」
 「ビジネス・クラスだって、もう体力の限界だよ」
 「お前、禁煙だぞ。耐えられるか」
 「それにしても酷いことになったもんだ」
 「実を言うと、俺、昨日もほとんど寝てないんだよ」 
 「一緒に旅行するなんて30年ぶりかな ・・・・・」
 「大学時代に内之浦のロケット実験場まで車で行った時、以来だな」
 「あの時、もっぱら車を運転したNは肺癌で亡くなっちゃたし ・・・・・」
 「あいつは、なんとなく影が薄かったからかな ・・・・」
 「それに比べ、お前は、死にかけた身体だっていうのに元気だよな」
 「なに言ってんだ。お前こそ、年齢不詳でエイリアだよ」
 「だいたい隣の部室で女に囲まれ、ギターばかり弾いていて頭にきたよ」
 「年がら年中、PPMの歌が流れてきて、気が散って仕方がなかったよ」
 「それにしてもお前の部室は本当に暗い雰囲気だったな」 

 

成田を離陸してホッと一息ついたB747の機上での一コマである。開放感もあって、たわいのない話が堰を切ったように出てきた。知り合ってから、あと数年も経てば40年にもなる大学時代からの友人Kとの二人旅だった。

大学時代のクラブ活動で彼はESS(English Speaking Society)にいた。僕は学生会館の部室が隣り合っていた「地文研」(地学・天文)にいた。そこで偏光顕微鏡で鉱物結晶を眺めたり、学園祭に展示するプラネタリウムを作ったりするのに熱中していた。華やかなESSとは全く異質の雰囲気のクラブだった。

もっとも、僕自身は「地文研」以外にも剣道部にいたし、混声合唱団でテノールをやり、合間に男声合唱団でドイツ・リードや黒人霊歌をやり、さらには週2回、家庭教師もやっていて、十分に目一杯だったのだが ・・・・・ 。

慌ただしい旅立ちだった。ロスアンゼルスのソフト会社を見てきて欲しいと言われたのが10日ほど前だった。まあロスなら東海岸ほど時間はかからないからと了解し、内容が内容だったので、その道のプロで気心の知れた友人Kに一緒に行ってくれと頼んだ。

それで日程を調整し、航空券の手配も終えたところ、3日前に、ロスは間違いで、目的地はフロリダだと言われた。焦って航空券の手配をやり直すので精一杯だった。行きと帰りの日は動かせず、ハード・スケジュールになることは明白だった。しかも亡命キューバ人が多く、なにかと厄介らしい。麻薬取引などでも問題を起こしている。時々、そんな記事が載っていた。

しかし、いまさら断るわけにもいかなかった。それに正直なところフロリダという言葉が魔力的だった。1年中温暖な気候と陽光の保養・観光地というイメージには勝てなかった。しかも、あの有名なディズニーワールドもある。世界一の規模で、ロス郊外のディズニーランドのほぼ100倍以上もあって、おとぎの国や冒険の国あるいはハイテクを駆使した未来の国など大人でも飽きることがない ――― そんな記事を読んで勝手に夢を膨らませていた。

それが間違いのもとだった。フロリダと言っても広い。フロリダのどこかと聞けば、メルボルンだという。メルボルンと聞くと浮かんでくるのはオーストラリアで、フロリダにメルボルンなどという都市があることは知らなかった。調べると、観光地で名高いディズニーワールドに近いオーランドと国際都市マイアミの中間に位置する海岸沿いの都市だった。直行便はない。シカゴ経由で国内線をいくつか乗り継がなければならない。乗り継ぎ時間を入れると、ロスに行く約2倍、実に25時間を超える大旅行になる。

友人KはCAD・CAM(Computer Aided Design/Computer Aided Manufacturing)の道ではちょっと知られた人物だ。学部では僕と一緒に宇宙工学を専攻したが、大学院でコンピュータに転向し、その後、イリノイ工科大学や某研究機関でCAD・CAMをやり続け、紆余曲折を経て、今は小さなソフト会社をやっている。そのかたわら「元祖フリーター」を自称し、今では「シルバー・フリーターだよ」と自嘲気味に言いながら好奇心が疼くことなら何にでも首を突っ込みたがる。

それでいて、やることはやる。カンが良いので、ポイントを突いた分かりやすい資料をチョイチョイと作ってくれる。長いつき合いで分かっていた。だから話はすこぶる簡単だった。概略を話し、「どうだ一緒に行かないか」―――それだけのやり取りで、彼は面白そうだから行こうと快諾した。

やっぱりケネディー宇宙センターだ! 

ヘロヘロになってフロリダのメルボルンに到着したのは木曜日の午後だった。空港には、えらく陽気な男が出迎えに来ていた。それが訪問先の営業担当役員だった。フロリダは初めてだと答えると、ガイドよろしく、ホテルまでの間、車を運転しながら説明しまくる。気遣いは分かるが、ヘロヘロの僕にはまったくの逆効果で、抜け目がなく、気が許せそうもないという印象を持たせるだけだった。

話しの合間に、ニコッとして渡されたアジェンダに目を通すと、明日の金曜日と土曜日に延々とプレゼンテーションを受け、それで翌日の日曜日の朝には立つという滅茶苦茶なスケジュールだ。口を聞くのも煩わしい気分になった。明るい外の風景が空々しく、場違いに見えた。

もっとも友人Kは、予想通り、時差ボケなどまったくないらしく、ご機嫌そのものだった。陽気な男の下手な冗談にも丁寧に対応していた。彼の英語の能力はアルバイトで通訳をやっていたことがあるくらい抜群で、そんなことは造作もない。適当に相槌をうちながら、バックからデジカメを取り出し、結構、夢中になって風景を撮り始めた。改めて彼にはかなわないと思った。「エイリアンめ!」と心の中で呟いた。

「ところで …… 」と、陽気な運転手は話題を変えた。土曜日のプレゼンテーションの後、フロリダが初めてなのなら、ディズニーワールドかケネディー宇宙センターに案内しようか、と切り出した。思わず身を乗り出した。すると、彼は待ってましたとばかり、ディズニーワールドとケネディー宇宙センターの話を始めた。しかし、選ぶのならケネディー宇宙センターにして欲しいというのが見え見えだった。

日本人はだいたいディズニーワールドに行きたがるが、行くのに時間がかかる上に、とても一日ではすまない。宇宙センターの方が近いし、アポロなどいろいろあって面白い。その方が自分も都合がいい。本来、土曜日は休日で家族サービスもしなければならない云々と付け加えるのを忘れなかった。

「出来れば、ケネディー宇宙センターに行きた~い!」

 迷うことなどまったくなかった。すっかり気が重くなっていた僕も叫んだ。「何と言ったって、やっぱりケネディー宇宙センターだ!」顔を見合わせて、改めて日本語で確認し合った。この僕たちの素早い反応は陽気な運転手には予想外だったらしい。日本人ならディズニーワールドを選ぶに決まっている、と決め込んでいたらしい。

「2人とも大学で宇宙工学を専攻したもので …… 」と説明したら、彼は嬉しそうに納得し、さらに陽気になった。僕も彼につられて、ようやく明るい気分になれそうになってきた。

ジュール・ベルヌ世代 

小学生から中学生にかけて、フランスの作家、ジュール・ベルヌ(1828~1905年)の「海底二万里」や「地底旅行」や「月世界旅行」あるいは「十五少年漂流記」などを夢中で読んだ記憶がある。

それは僕一人ではなかった。今ではほとんどが絶版になっているが、当時は岩波少年文庫が花盛りで、その中にジュール・ベルヌの作品が数多く収録されていた。映画にもなった。「ビートルズ世代」とか「フォーク世代」あるいは「安保世代」の並びで言えば、「ジュール・ベルヌ世代」というものがあったとしてもおかしくはない。次々と小説の中に書かれていることが現実化するとのを目の当たりにして育ってきた。それだけに懐かしさ以上のものがある。

ちなみに「ジュール・ベルヌ」と入力し、インターネットのホームページを検索したら100以上ヒットした。「Jules Verne page」というものまで開設されていたが、その気持ちも分からなくはない。

 1957年10月 ソ連、世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功
    1960年 8月 ソ連、犬2匹を乗せたスプートニク5号の回収に成功
    1961年 4月 ソ連、有人衛星ウォストーク1号打ち上げ成功
          (ガガーリン、地球を一周「地球は蒼かった」)
    1961年 5月 米、アポロ計画発足
    1968年 7月 米、アポロ11号、人類初の月着陸に成功

思い起こせば、ソ連が人工衛星の打ち上げに成功したというニュースを聞いたのは小学生の時だった。ガガーリン少佐の「地球は青かった」という言葉に新鮮に感動したのは高校生の時で、アポロ11号から人類が初めて月世界に降り立つテレビ中継に釘付けになったのは大学1年の時だった。

アポロ計画 ――1960年代末までに人類を月に着陸させ、再び地球に生還させるという計画は、宇宙開発でソ連に大幅に遅れをとった米国が国威発揚と技術力の優位確立のために、大統領に就任したばかりのケネディーが1961年5月に国家最優先計画として定めた。しかし、当時は、そんな政治的な背景には思いも到らなかった。ただただ興奮したことを覚えている。

というのも、一つには、アポロ計画の中心人物が昔から憧れていたフォン・ブラウンと聞いたからだ。第二次世界大戦で使われたドイツのロケット兵器、V2号の開発の主任技師で、敗戦後、アメリカに連れて行かれ、アメリカの宇宙開発の中心になった人物だ。その伝記を小学生の頃に繰り返し読み、中学生のころから自分でもロケットを作り始めていただけに感慨はひとしおだった。

ラジオや無線機の製作に熱中し、スティーブ・マクイーン(1930〜1980)のテレビドラマ「拳銃無宿」に刺激され、銃身を短く切った改造空気銃での射撃練習に明け暮れ、アルバイトを兼ねて、「ミス中学」の写真の現像・引き伸ばし・焼き付けに凝り、微生物を顕微鏡で観察するのに時間を忘れていた。

それにロケット製作が加わった。今ならとても無理だろう。危険きわまりないことをやった。塩素酸カリウムと二酸化マンガン、それに炭とか硫黄などを混ぜたものを金属パイプに詰めたロケットを作り、多摩川の河原で乾電池とニクロム線を組み合わせた点火装置を使って、打ち上げ実験までやった。

土手の後ろに隠れてカウントダウンを行い、スイッチを入れた。大音響とともに黒煙を吐きながら長さ1メートルあまりの僕たち悪ガキ連のロケットは大空に吸い込まれた。歓声を上げたらパトカーのサイレンが聞こえた。対岸に数台のパトカーが集まった。それを見て僕たちは一目散に逃げた。

確か中学2年の時だった。それでも凝りなかった。高校生になると固体ロケットの燃料についての知識も増え、有機溶剤を使ってプラスチックを溶かし、それと「火薬」とを混ぜ合わせて、燃焼速度を遅くすることを試みた。いろいろな組み合わせのものを作り、燃焼実験を行った。爆発するのではなく、それなりの速度で燃焼する。いま思っても、なかなかのモノが出来たと思う。

しかし、それを高校の化学の実験室で再現したのがまずかった。僕の制止も聞かずに、それを同僚が鉛筆のサックに詰めて飛ばした。煙を吐きながら飛んだところに化学の教師が顔を出した。こっぴどく怒られた。もちろん、僕が首謀者ということになった。以来、僕は、たとえ最高得点を上げても、決して通信簿では化学は「5」にならなかった。

文句を言いに行ったら、実験態度が悪いと片付けられた。事件を起こしたのは高校1年の時だったが、後遺症は卒業まで残った。最後まで化学では「5」は貰えなかった。試験では常に全校で数番以内のポジションにいたと思うのだが ……。

月まで行けるロケットを設計したい

話を本題に戻そう。ロケット工学の理論やアイデアを多数発表し、「ロケットの父」「宇宙開発の父」と呼ばれているのは、帝政ロシアからソビエト連邦で活躍したコンスタンチン・ツィオルコフスキー(1857〜1935)である。1903年に論文「ロケットによる宇宙空間の探検」(Exploration of Outer Space by Means of Rocket Devices)を発表し、液体燃料を使うロケットや多段ロケットなどロケット工学の理論的基礎を築いたという。

1957年、ソ連によって世界初の人工衛星、スプートニク1号が打ち上げられたのも不思議ではない。ちなみに僕が大学時代に愛読した空気力学やジェットエンジンなどの本でも旧ソ連の学者の書いたものが優れていて、旧ソ連の航空宇宙に関する技術はなかなかだというのが当時の正直な印象だった。

米国のロケット研究の草分けは、ツィオルコフスキーから遅れること20年あまり、1919年に論文「超高空に達する方法」(A Method of Reaching Extreme Altitudes)を発表したロバート・ゴダード(1882〜1945)だという。1926年に世界で始めの液体燃料ロケットの打ち上げを成功させた。飛行距離数十メートルという彼の最初の液体ロケットの飛翔実験に立ち会ったのは妻を含め数人だったという。そのぐらい彼の研究は当初は注目を浴びることはなかった。

一方、ドイツではヘルマン・オーベルト(1894〜1989)が理論研究を進め、1923年に論文「惑星間空間用ロケット」(The Rocket into Planetary Space)により、宇宙旅行が技術的に可能なことを示し、フォン・ブラウン(1912〜1977)は、これら先駆者の努力を基に、第二次世界大戦中に報復兵器V2号を開発した。彼の指導で開発された報復兵器V2号は、全長14メートル、発射時重量13トン、約300キロ離れたところに750キロの爆弾を送り込むことができる本格的なロケットだった。ロンドン爆撃に使われ、ロンドン市民を震撼させた。

V2号は、これまでのロケットに比べて格段に大きい上に、液体ロケットの作動方式や慣性誘導方式なども採用された画期的なもので、これが今日の大型ロケットの基礎になった。第二次大戦後、V2号の技術者は米国とソ連に連行され、その技術は米ソ両国に引き継がれた。ちなみに米国の宇宙開発の推進役となり、アポロ計画の立て役者になったのは、米国に連行されたV2号の開発責任者だったフォン・ブラウンだった。

宇宙空間に乗り出す上でまず必要なことは地球の引力に打ち勝つことだ。それには推進剤を短時間で多量に燃焼させて大きな推進力を発生させることが不可欠だ。ロケット本体には、出来る限り軽量で、しかも大きな強度を持つことが求められる。ロケット全体としては、部品が非常に多く、しかもそれらに高い信頼性が要求されるため、全体をいかに作り上げるかが大問題となり、そこからシステム・エンジニアリングという新分野が生まれた。ロケットの軌道や姿勢を適切に制御・誘導することも不可欠で、制御技術とともに電波誘導や慣性誘導の技術も発達した。

それは「ビッグ・サイエンス」の誕生でもあった。その象徴がアポロ計画だった。NASA(米国航空宇宙局)を中心に進められ、投資された資金は実に250億ドルに達したという。

1968年7月18日に発射されたアポロ11号は7月20日に人類初の月着陸に成功した。月面に降り立ったアームストロング船長は「これは1人の人間にとっては小さな1歩であるが、人類にとっては大きな飛躍である」(That's one small step for a man, one giant leap for mankind)との印象的な言葉を地球に送った。続いて降りたオルドリンと共に、2人は着陸船の脚部に取り付けられた銘板のカバーを外した。それには「1968年7月、惑星の地球からの人間、ここに月への第1歩をしるす。われら全人類を代表し、平和を希求して来れり」(Here men from the planet earth first set foot upon the Moon July 1969 AD. We came in peace for all mankind)と刻まれていた。

月面滞在は約2時間半。その間、アームストロングとオルドリンの2人は各種科学観測装置の設置、月岩石の採集などを行い、コリンズの待つ司令船に戻り、再び地球への旅を続け、24日、3名ともが無事に帰還した。これ以降、1972年12月のアポロ17号までアポロ計画は続けられ、計6回、実に12人が月面に降り立った。

面白いことがやりたいという気持ちで一杯だった当時の僕にとって、このアポロ計画は刺激的だった。天文や地学の先生から誘われたが、僕は航空工学科に進み、その中でも新設されて間もない宇宙工学コースを専攻した。

卒業論文は、それこそ夢みたいな惑星間飛行用のイオン推進機関だった。手作りで実験装置の製作を終えてからが大変だった。性能の出ない真空ポンプや不安的な微少流量計の調整、スパッタリング(蒸着)問題との格闘、そして推力の測定、探針によるプラズマ境界面の形状の計測 ―― こんなことに追われた。

事実上、1人でやっていたので、いったん装置を動かしたら十数時間は拘束される。研究室での泊まり込みの連続だった。なお、イオンロケットの原理は、宇宙開発事業団のホームページでも紹介されている。

だから、なかなか卒業設計のテーマにまで思いは到らなかった。今はどうか知らないが、僕らの時代には、卒業論文と卒業設計の2つの関門を通過しなければならなかった。しかし、卒業論文で思わぬ悪戦苦闘を強いられていただけに、卒業設計は少し手抜きをしたかった。それは僕だけではなかった。友人Kは、多分、そうした雰囲気を察したのであろう。皆で、と言っても宇宙工学を専攻していたのはたったの5人だったが、月まで到達させる多段ロケットを設計しようという魅力的な提案をした。

テーマが良かった。それに何よりも連日、1人で実験に悪戦苦闘していた僕には「共同設計」という言葉は心地よく響いた。異論はなかった。5人ともが賛成した。すると、Kは「じゃあ、僕が軌道計算をやるよ!」と真っ先に宣言した。Kの宣言に促されて、各人が先を争って、それぞれの担当を宣言した。

30年後の対面 

徹夜明けの僕は機先を制せられた感じだった。残されたのは1段目と2段目のロケットだった。結局、それを高圧プラズマを卒業論文のテーマに選んだため、同じ研究室で同じように実験で悪戦苦闘することになっていた友人Sとで担当する羽目になってしまった。「まあ、良いか …… 。何とかなるだろう」と軽く考えたことが、新たな難問を抱える原因となってしまった。

今は大学教授をやっている友人Sとの話し合いで、僕が1段目を担当することになった。要求性能から考えて、アポロ計画で採用されていたサターン・ロケットと同じ液体水素と液体酸素を燃料とするロケットを設計しなければなかった。今、日本が開発中で、いろいろトラブルを起こしているH2ロケットと同じようなものである。それに30年ほど前に、学生の分際で挑戦したのである。

液体水素と液体酸素のポンプはどうする ―― ポンプの翼型設計は? 軸受けの潤滑は? エンジンのノズル部分やスカート部分の冷却はどうする ―― その熱計算は? 構造設計は? 取り組んでみると、判らないことばかりだ。手掛かりは、雑誌などに載っていたサターン・ロケットの写真と説明ぐらいだった。

ようやくの思いで計算式を作ったものの、数値計算をしようにも、パソコンなどという便利な道具はない。電卓さえもなく、使えるのは竹製の計算尺だけだった。それでメッシュに切った各点の数値計算を繰り返し、その結果を基に液体水素や液体酸素のポンプの図面を描いたところ、それまで見たこともない奇妙な形状のものになった。いくら式を見直し、計算をやり直しても同じだった。助教授の紹介で、大手メーカーに聞きに行ったが、埒があかなかった。内部構造は写真などでは判らず、当時は、その是非を確認する術がなかった。

それに比較すれば、エンジンのノズル部分とかスカート部分は良かった。計算尺で数値計算を繰り返し、その値をプロットしたところ、サターン・ロケットのエンジンに似た形状になってきて、大感激したことを今でも覚えている。

ちなみに液体水素や液体酸素のポンプの設計が基本的に正しかったことが判明したのは、それから10年あまりも後のことである。ある大手メーカーの研究現場で学生時代に設計したのと同じような奇妙な形状のポンプを見つけ、感動したことは今でも記憶に生々しい。


こんな若い頃のほろ苦い想い出が、実物のサターン・ロケットや着陸船を目の当たりにして噴き出してきた。タイムマシンに乗って、30年あまり昔と現在とを激しく往来している気分だった。そして次第に感激が当惑に変化するのを抑えることが出来なかった。冷静になって観察するとたいしたものではなかったという気持ちが湧き起こってきた。

   「これだったら、今の高級乗用車のボンネットの中の方が凄いぞ!」
    「よく見ると、お粗末だな!」
    「こんなもので月までよく行ったな!」
    「奇跡だよ!」
  「まるで西部開拓時代の幌馬車だよ!」
    「帆船でアメリカを目指したのと同じようなものだ」
  「やっぱり野蛮な連中だな!」
  「かなわないな!」

あちらこちら忙しく動き回りながらデジカメで写真を撮りまくっている友人Kと、こんな軽口をたたき合いながら、改めて30年という歳月の重みを嫌と言うほど思い知らされた。 

                                  (1999年秋)