ぼちぼちいこか  書かねばならないもの PDF

伴 勇貴 1999年08月 

「作家というものは書かねばならぬものがなくなれば死ぬのです」

前回、江藤淳の自殺に絡んだ話を書いたところ、友人は、数年前の記憶だがとして、江藤氏と文芸系の著名人との話でのエピソードを語った。江藤氏がかつて激賞しつつも後半の作品については手厳しく批判した中上健次氏が話題になり、ある人がまだ若いうちに死んだのは惜しいことです、と言ったところ、江藤氏は躊躇ためらわず、「作家というものは書かねばならぬものがなくなれば死ぬのです」と、きっぱりと断言したという。

「恐ろしくも印象的な発言だった」と、その場に居合わせたという友人は僕に漏らした。ちなみに、彼は文壇とか論壇などとはまったくの門外漢である。

中上健次―――1946~1992年。 昭和期の小説家。和歌山県生れ。新宮高校卒。上京し、肉体労働に従事しながら「文芸首都」に加わり小説を書き、『十九歳の地図』(1974年)で注目される。故郷の紀州を背景に自己の複雑な一族の葛藤を追求した『岬』(1975年)で芥川賞受賞。その後も『枯木灘』(1977年)、『地の果て至上の時』(1988年)など同系列の作品が多い。(日本人名辞典 新潮社)

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この話を聞いて、ちょうど読んだばかりだった雑誌「噂の真相」の9月号に載っていた「愛妻を追って衝撃自殺を決行した文芸批評家・江藤淳の死の真相」(江川謙造)という記事を思い浮かべた。

美談仕立ての追悼記事が目立つが、「江藤淳という生涯醜悪なほど権力や権威を追い求め続けた生臭い人物の本質を考えれば、彼の死がそんなに『美しい』ものであったとはとうてい思えないのである」と言い、次のように続けていた。ちょっと長い引用だが我慢して欲しい。

●江藤にも浮気相手がいた!

 そもそも夫婦関係は、自殺以降、巷間語られているほど夫婦愛に満ち、仲睦まじいものだったわけではない。文壇関係者が語る。

「生前当人たちも話していたように、ここ十年ぐらいは確かに仲の良い夫婦でしたが、それ以前はいつ離婚しても不思議ではない状況でした。というのも、江藤さんは上品ぶってはいましたが、御多分に漏れず女好きだったからです。慶子夫人は気は強かったが実は慶応の女子部から大学にそのまま進学した名家のお嬢様だったから、度重なる江藤の浮気にいたくプライドが傷ついたんだと思います。なにしろ、慶子夫人は若いころかなり美人で、それを江藤が大学院時代に口説き落として結婚した経緯もありますから」

 この文壇関係者によれば、江藤はいわゆる素人の女性には手を出さず、浮気はもっぱらプロの女性専門だったという。

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  大手出版社の幹部がこう証言する。

「そのホステスは『きょうこ』という源氏名で、ホステス仲間からは『イジワルきょうこ』と呼ばれていた。何でそう呼ばれていたかというと、イジワルだったから(笑)。そういえば、慶子夫人に顔も雰囲気もよく似ていたよ。たぶん、江藤さんはああいう気の強いタイプの女性が好きなのだろう。当時の江藤さんの彼女に対する入れ込みぶりは相当なもので、毎日とはいわないが、かなりの頻度でその文壇バーに通っていた。もちろん『きょうこ』に逢うためにね。そして閉店までねばり、『きょうこ』と2人で店を出て、どこかに寄るのが常だった。……… 結局、その『きょうこ』は73年頃に若くして亡くなったんだけれど、おそらくその直前まで江藤さんとは愛人関係にあったと思う」

そして、こうした浮気が慶子夫人の逆鱗に触れたのか、あるいは江藤にその後、別の愛人ができたためなのか、どうやら江藤は一時期本気で離婚を考えていたようなのである。

いまから20年ほど前のことだった。ある編集者が江藤と原稿の打ち合わせをしていたら、江藤が突然、何の脈絡もなくこんなことを言いだしたというのだ。

「『実は妻と離婚したい』と言うんだよ。こちらが聞きもしないのにね。それで、『エッ、どうしてですか?』というと、江藤さんがこう言う。『本当に離婚したいんだけれど、ただ事情があってどうしても離婚はできないんだ』こんなことを、まるで恥じているようにうち明けるんだよ。どういう事情で離婚したくてもできなかったのかは、僕もそれ以上聞かなかったから分からないけれど、当時、江藤さんが慶子夫人と本気で別れたいと考えていたのは事実です」

●江藤にとっての国家は母性

だが、江藤は結局のところ、最後まで慶子夫人と離婚することはなかった。その『事情』はなんだったのか。いまとなっては知るすべもないが、おそらく江藤にとって慶子夫人は、すでに当時から他に女ができたからといって簡単に別れられるような対象ではなかったのではないか。

それは夫婦間の愛や絆が云々などとう意味からではない。実を言うと、江藤淳にとって慶子夫人とは「妻」ではなくて、自分のすべてを理解し包みこんでくれる絶対的な存在、依存すべき「母」だったからだ。

偉大なる海軍中将を祖父に持ち、ただでさえ病弱な「お坊ちゃま」として育った江藤淳は、四歳という幼少時に母親と死別した哀しい体験から、極度のマザコンだった。

そして、慶応大学で慶子夫人と出会い、大学院修士課程1年の時に夫人と結婚して「母の不在」に終止符を打つと、以来、江藤はずっとこの「母」に依存して生きてきたのだ。

「評論家として歯に衣着せぬとか鋭い舌鋒とか称されてきたが、慶子夫人の前では子供のようだった。いや、ようだった、というよりも、子供そのものだったと言っていい。慶子さんは気が強く、よくしゃべる女性で、だから江藤さんは夫人にしょっちゅう怒られていたんですが、江藤さんは怒られても『エヘヘヘ ……… 』と気弱そうに笑うだけ。慶子夫人と二人でいる時の江藤さんは、評論家『江藤淳』とはまったく別人で、夫人の子供みたいだった」(前出・文壇関係者)

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実は江藤が評論家として、保守文化人として改憲論や占領史研究といった勇ましい論陣をはり、過去、文壇から論壇、政治まで各方面にあれだけ批判や論争を仕掛けることができたのも、夫人という「母親」が江藤を背後から見守っていてくれたからにほかならない。

 別の論壇関係者がいう。

「実際、江藤さんは原稿を書くとき、本当に慶子夫人が見守っていてくれないと書けなかったんです。慶子夫人は江藤が書いている間、いつも必ず後ろにずっと座っていましたからね。まるで、息子の受験勉強を見守る教育ママのように。で、江藤さんがある資料を必要とすれば即座に取り出し、書き終われば真っ先に目を通して意見を交わす。そして江藤が不安げな表情を見せれば、『あなたの原稿は素晴らしい!』とホメあげて自信を持たせていたんです。いわば陰の編集者でもあった。江藤さんは編集者に自分の原稿の感想を聞いたことは奥さんが病死するまで一度もなかったんですが、それは夫人の意見や感想があれば、他の人間の意見はまったく必要がなかったからでしょう。産経や読売に連載していた政治コラムは、おそらく慶子夫人との合作に近かったんじゃないかな」

そういう意味では、この保守派の大御所は「国家」を論じていたようで、実は「母性」を語っていたにすぎないのではないか。

 ………………

 実際、慶子夫人という「母」=国家を喪失してからの江藤は完全に幼児退行してしまっていたという。夫人がなくなったその日から尿が止まって自分では何ひとつできなくなり、鬱病的、不安神経症的な症状を見せる。自我の崩壊といっていいだろう。

つまるところ、江藤淳はけっして亡き妻を追いかけて自殺したわけではない。「母親」の喪失という江藤にとって国家の崩壊にも匹敵する出来事が、江藤を死に追い込んだのだ。

「もとより江藤さんは、妻といえども他人に対する愛で死ぬようなタイプではないんです。妻の死によって自分自身をもうこれ以上支えきれなくなったから死を選んだにすぎない。その意味では、江藤さんほどエゴイスティックな人物はいない」(同・論壇関係者)

かつて子供を作る能力のないことを診断された時、栄えある海軍中将の血を絶やしてしまう絶望感から「一族再会」で「母の崩壊」「喪失感」を描き救済を求めた江藤淳。しかし、皮肉にも「母」の死によって、今度は彼自身が自己崩壊してしまったのである。

合掌。

かなり江藤淳氏に対する私恨しこんが漂う記事である。しかし、いろいろ物事の裏と表を垣間見てきたためだろうか、それで人の話にしても活字になったものにしても割り引いて受け取るようになっているためだろうか、驚きもしなかった。「あることないこと」が言われ書かれるのは世の常である。「ないことないこと」ではない。文字通り、「あること」と「ないこと」、つまり「ないこと」だけではなく、「あること」――― 実が入り交じっていることが多いからである。まったくデタラメと否定できるようなケースは滅多にお目に掛かったことがないからである。

それでなくとも江藤淳氏については、以前から、似たような話が関係者の間で囁かれていたことも知っている。女性問題についてもそうである。ちなみに同じ号の「噂の真相」の「吉行淳之介(1924〜1994)の愛人・大塚英子(1938〜 )が書いた『夜の文壇博物誌』に見る作家の酒態」という記事にも、江藤淳氏の女癖が決して良くはなかったことが暴露されている。

さらに僕自身、幼児期から「今日のソ連邦」や「中国画報」などに囲まれて育ち、目黒区立第6中学校時代には、後に学生運動家として名をせた奥浩平氏の影響を先輩として少なからず受けたものだから、江藤淳氏には、その著作の内容の如何を問わず、知らず知らずのうちに複雑な感情を抱いてしまうのがさがになっているのも事実である。

奥浩平 ――― 1943~1965年。戦後の学生運動家。東京生れ。都立青山高校在学中、安保闘争に参加。横浜市立大に入学、マルクス主義学生同盟中核派に加盟。1965年2月外相訪韓阻止闘争で機動隊の警棒により負傷、入院。退院後、自宅でブロバリン(催眠鎮静剤)を飲み自殺。遺稿集に『青春の墓標』(日本人名辞典 新潮社)

だから、江川謙造氏が「噂の真相」というアングラ誌のような媒体を使ってでも、江藤淳氏の自殺をめぐって美談が氾濫しているのに反発し、江藤淳氏の素顔に迫ろうとした心情も分からなくはない。

まして、地方の高校を卒業した後、上京し、肉体労働をしながら小説を書き初め、芥川賞を受賞しながら、46歳の若さで亡くなった中上健次氏に対し、たぶん、受賞後の作品も同じような範疇はんちゅうから脱却できなかったことからなのだろうが、江藤淳氏が「作家というものは書かねばならぬものがなくなれば死ぬのです」と迷うことなく、即座に言い切ったというエピソードを聞かされると、なおさらである。

しかし、筆者の意図し反するのだろうが、これを読んで、僕はむしろ江藤淳にある種の親近感のようなものすら覚えてしまった。あの江藤淳氏が書き上げたものに対して実はいつも不安を持っていた。書いている側に夫人がいて、その不安を「あなたの原稿は素晴らしい!」と言われることで乗り越え、書き続けていた―――そんな様子を想像したら、なんだか微笑ましくも思えてきた。

もっとも、だからと言って「作家は書かねばならぬものがなくなれば死ぬのです」と公然とに江藤淳氏が言い放ったと聞くと、やっぱり不快な思いがわき上がるのを抑えることはできない。彼は夫人の死に悲嘆にくれて自殺したのではなく、それこそただ自分自身が「作家は書けなくなれば死ぬのです」ということで自殺したのではないかとしたくなる。

話はまったく違うが、「吉行淳之介の愛人・大塚英子が書いた『夜の文壇博物誌』に見る作家の酒態」には、江藤淳氏以外に大江健三郎、五木寛之、野坂昭如、丸谷才一、阿部公房、川上宋薫などの作家諸氏の酒や女性をめぐる素顔が暴露されていた。さらには亡くなった石原裕次郎や勝新太郎の夜の生活の逸話も紹介されていた。

 「こんな話をすると恥ずかしいのですが、吉行さんは非常にポテンシャルの強い人で、5時間でも6時間でもなさるのですよ。あのお身体で。ところが裕さんは、セックスはノーマルそのものだし、イクのも早かった(笑)。……… 子種がないという話通り、避妊なさったこともまったくありませんでしたし、テクニシャンでもなかった。巷間いわれていたタフガイというイメージとは全然違う淡泊な人でした」 …………

  あの勝新太郎もまた早漏だった。

「ある時、勝ちゃんがこんなことをいうんです。みんなの話を聞くと30分も40分もするらしいが、俺はどうも早いと(笑)。それで今日こそは長くやろうと思い、ある日枕元にストップウォッチ置いてやってみたというんです。で、これだけ頑張ればいいだろう、今日はすごいだろうとストップウォッチを見てみたらまだ7分だった(笑)。勝ちゃんとは、私とも絶対に今度やろうねって約束してたんですけれど、結局、そういう関係にはならないままでした。そうしたら吉行さんが1回やっとけばよかったのにというんです。そうすれば後で笑えたのにって(笑)」

こういうたぐいの記事を読んで、いったい、どう思うのだろうか、どう感じるのだろうか。それは人によって分かれるだろう。しかし、僕は嫌悪感とか悪感情を抱くよりも前に、だから人は面白いんだ。人ぐらい興味が尽きないものはないんだ。だから生きることが楽しいんだなどと、嬉しくなってしまう。

昔はいざ知らず、今は、そんな心持ちになってくる。そして、もしかすると江藤淳氏は人間に対して、ある種の規範のようなものを求め、それを自らにも課することはあっても、根本では、現実に生きて生活している人間そのものに対する関心が希薄だったのかも知れないと改めて思った。そして、何よりも、それがとても寂しく哀しいことだと思った。

(1999年夏 )