ぼちぼちいこか  心身の不自由は進み、耐え難し PDF 

伴 勇貴 1999年08月 

江藤淳の自殺

心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずるゆえん所以なり。乞う、諸君よ、これをりょうとせられよ。
                    平成11年7月21日   江藤 淳

B4判の400字詰め原稿用紙に万年筆で几帳面に欠かれた文語調の83文字。これが文芸評論家・江藤淳氏(享年66歳)の遺書のすべてだった。江藤氏の自殺は各界に様々な波紋を投げかけた。経済記事が中心の日本経済新聞でさえも7月23日に次のような記事を掲載した。

江藤氏は、現在店頭にある「文学界」(文芸春秋)8月号で新しく「幼年時代」の連載をスタートしたばかりだった。冒頭の一行は「2階の6畳に遺された家内の姿見には、当然のことながら鏡掛けが掛っている」。愛妻の慶子さんを失った江藤氏がその忘れ形見である鏡掛けに思いをはせる情景から始まる。
 その鏡掛けは、1998年の正月に慶子さんが、江藤氏が幼少期に失った実母の着物を慶子さんの着物と縫い合わせて作ったもの。1998年正月といえば、江藤氏が妻が癌に冒されたことをひそかに知る1ヶ月前のことだった。
「私にとって、かけがえのない2人の女が、いずれも私を残して先に逝かなければならないという運命のいたずらを、1枚の鏡掛けによって示していたのだろうか」と氏は振り返る。そして失われた2人の回想に入っていく。
 文章家で知られた江藤氏はこの連載を始めることで、妻の死という最大の危機を乗り越えようとしたらしい。しかし、その決心の矢先に自身が脳梗塞に遭い、文筆家の将来にも漠然とした不安を抱えることとなった。悲痛な遺書を残し、自ら命を断ったのも、この二重の苦しみがあったからと見られる。
(「自殺の江藤氏が遺書――妻の死と筆の将来、二重の苦悩に包まれる」)

江藤淳氏がなぜ自殺したのか。昨年11月、ただ1人の家族である妻、慶子さんを癌で亡くし、自身も軽い脳梗塞で入院するなど、心身ともに衰弱しきっていたことがあるだろう。ただ保守の論客という硬派のイメージとは反対に、人間の孤独や不幸を骨身にしみて知る温かく傷つきやすい心を持つ文人肌の人だったことを強調したい。
 「こんなところで、死んでたまるものか。何としてでも慶子の遺骨を、青山のお墓に納めなければならない。やがては墓誌も、建てなければならない。ってでも書斎に戻り、『漱石とその時代』を完成させなければならない」。最新刊「妻と私」(文芸春秋)の中で、生への執着もみせていた。その一方で「なんだか妙にくたびれた。ぼくもできることならこのまま、慶子のいるところへ行ってしまいたいな」ともらしていた。
 もともと文芸評論家としての出発は、孤独と不幸を見つめ、向き合うことだった。幼年期に母を結核で失い、孤独を知り、学生時代には結核で入院生活を送るなど不幸を味わった。生後すぐに里子に出された夏目漱石に親近感を持ち、デビュー作「夏目漱石」やライフワーク「漱石とその時代」を書くことになったのもこのためである。
 母、祖母、祖父など他界した近親者を追跡し、よみがえらせた「一族再会」や、幼い時に母を亡くした体験をもとに 「“母”の崩壊」をモチーフに、母子密着の日本文化と父性原理が支配する米国文化を相対化する「成熟と喪失」などの代表作も、この孤独と不幸をみつめることから生まれたと言えるだろう。
 江藤氏は、日本人の様々の不幸を己の生まれながらの不幸と突き合わせながら、未熟さや甘えを克服して、日米関係や憲法問題まで発展させ「父性原理」や「治者の論理」で国家の行く末を考える論を展開していく。
 江藤氏は若いころ、ロックフェラー財団の招きで、プリンストン大学に慶子夫人を伴って留学している。漱石や永井荷風と同様、海外留学を踏まえて、米国など強大な国とどう向き合っていくか、日本人の宿命を考えてきたのが江藤氏のもう一つの仕事だった。
 こうした江藤氏の仕事を温かく見守り、陰で支えてきたのは慶子夫人だった。結局、最高の知性も、その死の痛手から立ち直ることができなかった。ご冥福を祈る。
(編集委員 浦田憲治「自殺の江藤氏が遺書――人間の孤独と不幸知る心、漱石論や国家観の礎に」 )

しかし、理由の如何を問わず自殺という行為を選択したことについては、もっといろいろ意見があってしかるべきだろう。これまでの江藤氏の一連の著作や公の発言を思い浮かべるとなおさらのことである。

人間には人の世話になりたくないことがある

僕の20年来、30年来の友人たちの父親や母親が、このところ相次いで肺炎、脳梗塞、そしてがんで倒れ、入院している。

「ともかく今回は退院できたが、もう本当にいつ逝くか分からない」
 「一命はとりとめたが、口はきけないし、半身のまひ麻痺は治らないという」
 「そしゃく咀嚼機能もやられてしまい、チューブで流動食を入れるしかない」
 「これからの看護が大変で、そのことを考えると気が重い」
 「もう癌があちこちに転移し、こんすい昏睡状態に陥っている」

こんな話を聞いて、「何事も順繰り、順繰り。いずれにしろ、やらなくちゃならないんだし ……… 。それが終われば、俺みたいに気楽な心境になれるよ。もっとも、それもつかの間で、次は自分の番。こっちが危うくなっちゃうんだから。まあ、人生、そんなものだろう」――― そんな慰めにもならないことを、近くの居酒屋にたむろしては喋っていた。そんな日々の中に、江藤淳氏の自殺のニュースが飛び込んできた。

それだけに複雑な思いが交錯した。習慣で目を通している日本経済新聞の朝刊の一面の下段のコラム「春秋」の記事を思い出した。

人間には人の世話になりたくないことがある。老いて「おむつ」をつけるのがその第一ではあるまいか。頭脳は確かでも足が立たなくなる。何とか自分で用を足したいのだが、どうにもならない。老人病院での見聞によって、多くの老人が屈辱感に耐えていることを知った。
 看護婦やヘルパーの数には限りがある。ベッドの上で「催した」ことを訴えても、介護に手が回らない場合が多い。「そのままにして下さい。後で始末します」というような声が掛かる。明らかに人間の尊厳にかかわる問題である。始末する側の苦労はいうもでもない。病院でこの有様なのだ。在宅看護ならもっと厳しいだろう。
 温水洗浄機というものがある。カラオケに次ぐ日本の大発明と評する向きもあり、すでに3割の家庭に普及した。シャワーの洗浄と温風によって、手を使わずにすべてが完了するタイプもある。元来は医療用に開発されたものだが、通常の看護の場で見かけたことがない。たとえばベッドとこれを組み合わせることはできないのだろうか。
 大手メーカーに聞いたところ「研究中ではあるが、実用化となると」という返事だった。ベッドや便器の構造、さらに価格にも問題があるようだった。しかし日本の技術とアイデアを駆使すればできないはずがはない。来春から公的介護保険制度がスタートする。公的介護であるならば、このようなところにも公的資金を大量に注入してもらいたい。(コラム「春秋」1999年3月7日)

確かに温水洗浄機を組み込んだベッドが開発されれば、多くの寝たきり老人が助かるだろうし、介護でヘトヘトになっている看護婦や家族たちが大きな恩恵を受けることは間違いあるまい。

しかし、最初の「人間には人に世話になりたくないものがある」という書き出しにはやや抵抗を覚える。そう言い切っても良いものかどうか分からない。一般化して良いのか自信がない。出来るなら、世話になりたい、頼りたい ――― そう願うのが自然な気がする。それほど人間は強い存在ではない ――― 是非はともかく、そう思うようになっている。

「悪いな――」「済まないな――」「迷惑をかけるな――」そんな言葉を連発しながら逝く方が、妙に悟った心境になるよりも遙かに僕には人間らしいように思う。年を重ねてみると、居直りかも知れないが、何と言われようと、そして周囲の者は大変なことに違いはないが、その方が人間として自然で、自然が一番だと思う。両親の死に至るまでの過程を思い出しながら改めてそう思った。

お前から事情を説明した方が良いだろう。 親父の癌手術

親父は、晩年、老人性の便秘という診断で、近所のかかりつけの町医者からもらった薬を服用しながら、80歳を過ぎても、若い頃から好きだったサイクリン グ車を乗り回し、元気にやっていた。腰を痛めていた母親に代わって、こまめに日常の雑用もやっていた。ところがある日、どうにも我慢できないと苦痛を訴えた。掛かり付けの医者は慌てて、胃腸関係では有名な病院に紹介状を書き、すぐに行くように言った。

そこで典型的な直腸癌の末期で、あちこちに転移し、もう手の施しようがないと宣告された。こんな状況になるまで、よくも放っておいたものだと強く叱責された。2ヶ月、最大でも半年の命と言い渡された。

説明を聞いて茫然自失の母親をせき立て、手の打ちようがないと繰り返す医者とやや喧嘩腰で、その場から直ちに外科医として誉れ高い知り合いの教授のいる大学病院に親父を運び込んだ。しかし、彼の診断もまったく同じだった。彼は沈痛な面もちで、ボソッと僕につぶ呟いた。

「すまないが、もう手の打ちようがない。手術は出来ない」
 「半年も無理だろう」
 「だいぶ前から、ときどき苦しいと言っていた」
  「苦しいと言った時、きちんと検査するように言えば良かった」
  「下剤をちゃんと飲まないからいけないんだなんて、怒ってばかりいた」
  「それで、とうさんは我慢していた。私が腰を痛めていたからだ」
 「私が馬鹿だった、私が殺してしまった」

うわ言のように、ただ喋り続ける母親を外に出し、それでも何とかならないかと必死に頼んだ。結論は、最初の病院で見せられたレントゲン写真からも僕には薄々わかってはいた。自分自身の長い入院生活中に、それこそ門前の小僧で、僕もレントゲン写真をある程度は判別できるようになっていたからだ。

いつも強気の外科医も今回はひどく弱気だった。そんな姿を見るのは初めてだった。「ちょっと2人だけにしてくれ」と、助手や看護婦など人払いをして2人だけになった大学病院の診察室の中でのことである。

長い沈黙の後、彼は口を開いた。末期の直腸癌、それもあちらこちらに転移した直腸癌の患者の最期の姿を淡々と説明し始めた。僕は言葉を失った。また長い沈黙があった。それから知人の外科医は意を決したように口を開いた。 「わかった。最善を尽くしてみよう。意志の強いお前の親父にすれば、意識がはっきりしている中で糞尿にまみれて死ぬのは、もっとも辛(つら)いに違いないと思う。そういう事態だけにはならないように努力してみよう。それで、どれだけ生きられるか保証できないが、人間の尊厳を損なわないようにする手術をやってみよう。それで、もう一度、好きなものが食べられるぐらいにはなるだろう」  レントゲン写真を見ながら基本的な手術方針の話に入った。彼が説明し、僕が質問し、了解する。そんなやり取りの末、内臓のあちこち転移している癌はできる限り切除する、切除できない部分はレーザーで焼く。その上で人工肛門、人工ぼうこう膀胱にする。 ともかく排便・排尿に伴う肉体的、精神的な苦痛を和らげることを最重点にすることに決めた。人工肛門・人工膀胱も進歩し、人の手を借りずに自分で処理できるまでになっている。も 漏れ、臭(にお)いはまず問題にならない。普通に生活できる―――そんなことも詳しく教えられた。

しかし、その事実の伝え方が問題になった。人工肛門・人工膀胱 ――― そう聞けば相当のショックをうけるに違いない。結局、その役割は「お前のことを一番信頼しているから、お前から説明した方が良いだろう」という彼の言葉で、親父と母親には僕から説明することになった。 「俺は、それで大丈夫だから心配するなと力づけてやる」と彼は付け加えた。2人で話し始めてから、すでに2時間以上が過ぎていた。

「もういい。やらなくていい」

狭い教授室の片隅の椅子に座って待っていた。目の前の長椅子では、親父の手術を終えて、精根尽き果てた知人の外科医が大きなイビキをかいて寝ていた。手術室を出てきて、「とりあえず手術は上手く行った。詳しく説明するから、ちょっと待っていてくれ」と言った後、血だらけの手術着のままで長椅子に倒れてしまった。

彼の寝顔を眺めながら、「手術は上手く行った」という言葉を何度もはんすう反芻していた。反芻しながら安堵感が次第に大きなものとなり、それと同時に僕も疲れを覚えて思わずうとうとしてしまった。

親父が亡くなったのは、それから約2年後だった。彼が2年ぐらいは保証するが、それが限度だろう。多分、全身に癌が転移するだろう、と説明を受けた通りだった。もっとも母親には手術は上手く行ったから大丈夫だよとしか言わなかったのだけれど ……… 。ともかく、その2年の間、親父は再び好物の天ぷらやカツなどを思う存分食べ、タバコも酒もやった。僕も残り時間を意識しながら、親父といろいろ想い出を作ることができた。

再び病状が悪化し、救急車を頼んで病院に運び込んだが、その時には、もう無理はしまいと決めた。救急車に同乗し、苦しそうな親父の手を握りしめ、大丈夫、すぐまた元気になるよと励ましなら、そう心の中で誓った。

癌は肺にも転移し、出血していた。気管を切開する方法もあるが、知人の外科医はどうするかとか聞いた。そうすれば、楽にはなるし、多少、長く生かせることはできるが、話すことはできなくなる。僕は、もうそこまですることはないと言った。彼も、そうだろうと同意した。

楽にするだけなら、管を口から入れて、出血を抜き取る方法がある。入れる時はちょっと辛いけれど、入れてしまえばどうということはない。それは僕自身も類似の経験をしていたから知っていた。

ところが、そのための処置を若い医者がやり始めたら親父は抵抗した。苦しいから嫌だと言って必死で若い医者のやろうとすることを拒んだ。親父が医者に逆らったのは始めてだった。若い医者は困って、どうすることもできなくなって、僕の顔をみた。僕は生涯に最初で最後だったけれど、その時、思いっきり親父の顔をぶん殴った。そのぐらいのことが我慢できなくてどうする。ほんの一時のことで、それを我慢すれば楽になるのに ……… 。そう言って怒って殴った。親父は唖然(あぜん)として僕の顔を見た。その時、僕は、もうベッドの上の親父に馬乗りになっていた。

そして、同じように驚いている若い医者に向かって、押さえているから、その間に管を入れて欲しいと言った。親父は多少、抵抗したが、唸(うな)りながら、驚いて僕の顔を凝視しながら、苦痛に耐えた。無事、管は入り、管を伝って大量の出血が抽出された。すぐに親父は楽になった。  親父(おやじ)に殴ったことを謝りながら、でも楽になっただろう、と言ったら、「うん」と頷いた。厳しかった顔が穏やかになった。「もう大丈夫だから、少し寝た方がいいよ」というと、ニコッと笑って、目を閉じ、すぐに寝息をかき始めた。

もう、親父にやってやれることは苦しませないことだけだった。痛みを和らげるため、点滴と一緒にモルヒネを投与することだけだった。最期は腎機能の低下にともなう腎不全だった。すやすやと1週間ほど気分良さそうに眠り続け、そのまま亡くなった。親父が最後にちょっと目を覚ましたのは、亡くなる前日だった。

90歳を超える姉が妹と一緒に見舞いにきて、声をかけると、パチッと目を開けた。「ありがとう姉さん。でも姉さんの身体の方は大丈夫」そんなことを呟いたように思う。間違いなく、そう喋った気がする。そして僕の方を見て、「世話を掛けて済まないな ――― 」と言った。声は聞こえなかったけれど、目つきで僕には分かった。

そして、また目を閉じ、眠ってしまった。血色も良く、様態は安定していた。それで看病疲れが出ていた母親を促し、気分転換と休養を兼ねて、麻布十番温泉に行った。温泉に入ってさっぱりしたところで、更級蕎麦を食べ、「そう長いことはないだろうけれど、やるだけのことはやったし、苦しんでいる様子もないし ……… 。それより、これからのことを考えて、もっと自分の身体のことを考えなければ駄目じゃないか」などと慰めたり、叱ったりした。そして、病院に戻った。

戻るのを待っていたかのように、親父の様態は急変した。微妙なところで維持されていた親父の身体のバランスが狂いだした。それまで小気味よい規則的なリズム刻んでいたモニターの音が乱れだした。看護婦があわ慌て、医者を呼びに走った。若い医者が電気ショックを与える器具を持って入ってきた。そして親父の寝間着の胸を開き、電気ショックを加える準備を始めた。僕も一瞬の出来事で、判断力を失っていた。その時、知人の外科医が入ってきた。  「もういい。やらなくていい」彼は厳しい口調で言った。そして、ちらっと彼は僕の方を振り返った。僕は、黙って頷(うなず)いた。彼の一言で助かった。もう十分だった。母親は、まだ事態が飲み込めないようだった。若い医者は、怪訝な顔をしながら、器具を片づけた。看護婦が親父の寝間着を直した。彼は親父の手を取り、聴診器を胸にあて、しばらくして臨終を告げた。享年85歳。

「そこまでやってくれる医者はいないよ。感謝した方が良いよ」 僕の親父の手術から臨終に到るまでの話の一部始終を聞いたところで、僕の後輩は神妙な面もちで言った。同じ工学部を卒業の後、医学部に入り直して医者になった後、また気を変えて半導体検査装置などのメーカーを企業した風変わりな男が言った。彼に言われるまでもなく、もちろん僕は今でも知人の外科医に感謝している。

「入院するか退院するかは、先生、私が決めるんです」 癌の母親

 

それから5年あまり経って、今度は母親が癌に冒された。親父が亡くなった後、順繰りに左右の大腿骨を骨折し、ステンレスの人工骨と人工骨頭を埋め込むはめになったが、それでも気丈で、リハビリに余念がなかった。家の中でもリハビリ用の自転車に乗っていた。歩行器などの助けを借りて歩きまわり、食事も自分で好きなモノを作って食べていた。通信販売と配送サービスをフルに使って、気ままに生活していた。

骨盤に埋め込む人工骨頭の手術の際には、心臓が弱く、心臓停止で大慌てしたことなどを話しても、「そうだったのかい」と意にも介さなかった。心臓への負担を軽くするため、少しはやせた方がいいと忠告しても聞かなかった。

「食べ物は美味しいし、わたしは健康だ」
 「食べたいものを我慢してまで痩せたくない」
 「私の悪いところは腰だけだ」

それが口癖だった。腰痛は、昔、転んで座屈骨折をしたのが原因だった。

母親の主治医は、親父を手術した外科の教授から紹介された若い整形外科が専門の医者だった。彼が整形外科病院を開業した直後に、母親は大腿骨の骨折で世話になった。その若い医師が母親の腰の痛がり方は少し妙だと言い、念のためにと、いろいろな癌マーカー検査をやった。CTとかMRIで腰部を撮影した限りでは、とくに大きな変化は認められなかったからだ。整形外科の範疇ではないので保険請求ではねられるかも知れないが、と言いながら検査をやった。

検査の結果、卵巣癌の疑いが出てきた。主治医は、MRIの写真を見直しながら、専門ではないが卵巣癌とは思えない。もし癌だとすれば源発は別の部位ではないだろうか。ともかく総合病院できちんと見てももらった方が良いだろうと困惑しながら語った。

知人の大学病院の内科の教授に相談した。「東京まで連れて来られるだろうか」と聞かれ、千葉にいる母親の性格を思い浮かべて躊躇した。入院するにしろ通院するにしろ不便だし、それに頑固だし、とても承知しないと思った。年齢も年齢だし、何よりも苦痛を取り除くことを第一にしたいと思うと答えた。

彼も僕の考え方に同意した。そして、一緒に働いたことがある、自分の尊敬する医師が幸い近所の総合病院の院長をやっている。紹介するから、そこに行って相談したらどうかと言った。僕に異論はなかった。

そこで精密検査をしたところ、状況は予想以上に悪かった。源発は不明だが、すでに肺にも癌はあった。胸部のCTやレントゲン写真を見ても、それは明らかだった。どこをどうすれば良いなどと言える状況ではなかった。それに母親の心臓はもう手術に耐えられる状況ではなかった。

院長は、高齢で進行も遅いかも知れないが、それにしても、あと半年ぐらいの命だろうと言った。迷いはなかった。一切、手術は行わず、苦痛を出来るだけ和らげる対処療法に徹することに決めた。院長も、僕の考え方に対して、それが一番良いだろうと言った。

経口モルヒネの投与と肺に溜まる浸出液の除去―――基本はこれだけだった。あとは湿布とマッサージ。酸素吸入装置と寝起きが容易な医用ベッドも家に備えた。しかし、周囲の心配をよそに、母親は、その助けをかりながらも相変わらずの調子だった。新聞記事のスクラップを作ったり、本屋に電話しては文庫本を持ってこさせて読んだりしていた。松本清張、住井すゑ、アガサクリスティ―、西村京太郎、平林たい子、田辺聖子など、僕から見れば、見境なく、勝手きままに本を取り寄せては読んでいた。僕は、その合間をみて、好物の天ぷらや蕎麦などを食べに連れ出したり、温泉に連れていったりした。

体調が悪くなれば、入院し、ちょっと楽になれば退院するということを繰り返し、それから2年あまりの後、眠るように逝った。享年87歳。

母親は、少し苦しくなると、すぐに入院すると言った。言い出したら絶対に聞かない。そして、病院に連れていけば、多いときは肺から1リットル以上もの浸出液が出た。それを抜くと、楽になる。院長が、せっかくだから、もう少し入院して体調を整えてから帰ったらと言っても、元気が戻ると、もう我慢できない。自分の思うようにやりたいから退院すると言い出す。

「入院するか退院するかは、先生、私が決めるのです」 言い張る母

こう主張して一歩も引かない。これには院長もさすがに苦笑いで、「わかりました。そうしましょう。でも、苦しくなったらすぐに来るんですよ。いつでも入院できるようにしておきますよ」と耳の遠くなった母親に大声で答えた。そして「わたしも元気なのが不思議ですよ。だから遠慮しないで、好きにやらせてやって結構ですから」と母親に聞こえないように小声で僕に言った。

もうとっくに半年を過ぎていたが、元気そのものだった。しかし、1年半を過ぎたころから衰弱が目立ってきた。そして、ついに自分でトイレに行くのも難しい状況になった。嫌がっていたけれど、おむつを使うしかなかった。

「俺だって結婚して子供のいるのだから ……… 。なに気取ってんだ」そう言って、嫌がっていた下の世話をしたら、衰弱しきっていたのに、驚くほど明るく声を出して笑った。えらく明るい笑いだった。それで救われた思いがした。母親は、それから観念したように人の世話を受け入れるようになった。

やがて、一日中、うとうとしているようになった。好物のスイカのジュースぐらいしか口にしなくなった。しかし、そんな状況なのに、ある朝、出がけに顔を見せたら、いきなり「みんなにちゃんとボーナスを払ったかい」と真顔でハッキリと言う。「もちろんだよ」と笑いながら答えると、「そうかい。良かった ……… 」と呟いて、目を閉じた。眠るようにして逝ったのは、それから1週間ぐらい後のことだった。身体も小さくなって、70キロぐらいあった体重も半分ぐらいになっていた。

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「脳梗塞の発作に逢いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり」―――あの下りはいただけない、形骸などという言葉を使うのは気に入らないと友人の杉田望が酔っぱらいながら言った。「だいたい人間の肉体や精神は、この年になれば、誰だって日々衰え、変化していくものなのに………」

近所の寿司屋で、いつものように一杯やっているときのことだった。同感だった。「形骸」―――「からだ。肉体。むくろ。生命や精神のないからだ」(広辞苑)、「人や動物の体。特に、人間としての機能を失って、物体としてのみ存在する体」(大辞林) ――― そんな言葉を使うのは、確かに人間としてややふそん不遜なように僕にも思えた。肉体も精神も次第に老い衰えゆくのが自然の摂理で、それを受け入れ、最期を迎える。格好が悪いことがあるかも知れないが、それを避けてはならない。両親を看取り終わって、しみじみそう思うようになってきている。

ちょっと横道にそれるが、僕自身、親父より数年前、親父の手術を執刀した外科医に一命を助けられた。それがなければ、今日の僕はない。  「絶対に手術は駄目だ、手術をしなければ、あと2年は生きられる」と主張して譲らない、当時、主治医だった著名な内科医と、彼は、患者の生活の質と尊厳をめぐって対立した外科医である。彼は、これまでの経験を基に、僕に新しい手術方法を試みたいと言った。夜毎、人影のない病棟で議論した。その結果、僕は彼に自分の命を委ねる決心をした。

「体中に管を埋め込まれた状態でベッドに拘束され、口からは食事はもちろん水さえもとれない状況で、それで2年間、生きるよりも、直ぐに死ぬかもしれないとしても、うまくすれば短期間でも人間らしい生活が再びできるようになる可能性にかけたい」とする僕の意志が最終的に優先されて手術は行われた。

入院し、点滴だけの生活を1年弱も続けた挙げ句のことだった。  手術は成功した。しかし、それは3年ぐらいは社会生活は出来るだろう、しかし、それから先は保証できないというものであった。それでも点滴の管から解放され、口から水を飲み、食物が食べられるようになった喜びは一入(ひとしお)であった。それで、あと3年も生きられるのなら十分だと思った。ともかく、術後、初めて口にした、澄まし汁のように薄いみそ汁の旨かったことは、今でもハッキリと覚えている。

ところが、それからもう15年あまりも経ってしまった。そして僕はまだ元気で、社会生活を続けている。禁酒を続けていた酒も、術後、僕の主治医となっている内科の教授の許しを得て、彼と3年ほど前に宴会をやって解禁した。以来、楽しく飲み続けている。しかし、これだけ元気でやっているのは、どうも僕だけらしい。執刀した外科医は、出来れば、どうなっているのか、もう一度、腹を切り開いて見てみたいと恐ろしいことを言う。

もっとも、これからもう一度、同じような体験しろと言われても、僕には、今は耐えられる自信はまったくない。そうなったら江藤淳のような選択をしないとも限らない。そう思うと、江藤淳の自殺について、何とも言えなくなってしまうのが、実は本当のところである。 (1999年夏)