ぼちぼちいこか 本当の東京最後の秘境 白金 PDF
伴 勇貴 1999年04月
寒い日が三日ぐらい続いたあと、比較的暖かな日が四日ぐらい続く。そんな「三寒四温」を繰り返しながら、一歩一歩、春が近づいている。日に日に夜明けの時間は早くなり、朝の光は勢いを増す。政府が言う景気回復の胎動の兆しはなかなか感じられないが、春は間違いなく胎動している。改めて自然は凄いとしみじみ思う今日この頃である。
そんなことを感じさせる冬の早朝の陽の光がし込んでくる白金のマンションに移ってきて、そろそろ8ヶ月になる。月日の経つのは速い。もといた元麻布のマンションは、それはとても都心とは思えない閑静なところにあった。それでいて便利だった。坂道を下って5、6分も歩けば、ほとんど何でも間に合う麻布十番の商店街に出た。
しかし、日当たりが悪いのが致命傷だった。他の住人は外人ばかりで、あまり日当たりなど気にしていないようだった。でも、こちらはそうは行かない。とくに冬場は最悪だった。日の出・日の入りに逆らわない生活を心がけるようになっている身に堪えた。ふた冬が過ぎたところで、ついに転居を決意した。
「良い物件がありました」
日当たりが良くて、こざっぱりしていて、駐車場が付いている。家賃は手頃で、しかもオフィスに近いところ――「条件は全部満たしています」そう言って馴染の不動産屋が得意そうに紹介したマンションに移った。
古くは銀、白銀とも書いた。
白金長者」とよばれた豪族、柳下上総之介の一族が南北朝時代から代々、この地に住んでいたのが地名の由来だという。長者の館は高台にあり、その一帯は「白金台」と呼ばれた。それが江戸時代に高松藩主・松平氏の下屋敷となり、1917年(大正6年)に皇室の料地となったあと、1949年(昭和24年)には自然教育園(面積約20万平方メートル)として開放された。付近には、東京大学医科学研究所、聖心女子学院、明治学院大学などがある。
「また高級なところに移ったな――」
白金に転居したと聞くと、こう言う友人が多いが、とんでもない。イタメシやイタリア・ファッションで有名な「プラチナ通り」などの高級イメージで売っているのは「白金台」である。地図でいうと、「プラチナ通り」というのは、目黒通りへ抜ける外苑西通りである。「白金」ではない。
「白金」、それも地図では、横に走る恵比須から地下鉄「白金高輪駅」を結ぶ通りの上側、白金1丁目、3丁目、5丁目はタイムマシンで昭和30年頃の東京に戻ったようなところである。そんなところも気に入って移ったのだが、住んでみて改めて、麻布十番を「東京最後の秘境」と呼んだのは、マスコミの宣伝に乗せられたに違いないと恥ずかしくなった。
坂の上と下の棲み分け
「東京地名考」(朝日新聞社会部編 朝日新聞社 1986年)では、白金の一帯は次のように紹介されていた。10年以上も前の古い記述だが、今でも通用する。ところどころにバブルのが目立つ程度で、街の構造は基本的に変わってはいない。
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街は2つの顔を持っている。高台は、ちょいとした長者でないと住めない邸宅の多い高級住宅地。緑豊かな広い構地を持つ聖心女子学院(高・中・初等科など)は明治41年、オーストラリアから来日したマザー・ヘイドンら聖心会修道女が設立した語学校に始まる。
一方、明治通り寄りの地域は町工場、銭湯、公益質屋などもあり、庶民的な雰囲気だ。天下の御意見番・大久保彦左衛門の眠る立行寺もある。そして北里研究所、北里大学。ペスト菌の発見、破傷風菌の純粋培養法など前人未到の業績をなし遂げた北里柴三郎(1852~1931)は苦学・晩学・超人的努力の人。烈々たる愛国者。「奮闘は由来、吾が期する所」。
「16歳の初陣以来………」の彦左衛門は少し格が落ちるようでもあるが、いつの世にも硬骨漢は希少価値がある。まあ、プラチナといってよかろう。
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ここでいう「高台」の地域が、だいたい今の「白金台」に相当する。白金台1丁目とか2丁目などの住所のところである。明治通り寄りの「町工場、銭湯、公益質屋などもあり、庶民的な雰囲気だ」という地域が、今の白金1丁目、3丁目、5丁目あたりである。この対照的な地域の境が高台の麓を走る道路 ─── 地図でいうと白金高輪駅から恵比寿へ抜ける、都バスが頻繁に走る通りである。町工場や低い家並みを背に、この道路に面する南側のベランダに立つと、緑深い高級住宅がいくつも目の前に大きく迫ってくる。向こうからは見下されているのだろうが、実に微妙なところに、まさに高台と低地との境に、今いるマンションは建っている。
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「高さは眺望を支配する。高見から見下ろすのは実に気分がいいものだ。しかも高さというものは優越感をも刺激するものらしい。……… 江戸時代の坂からの眺望とヒエラルキーは比例した。坂の空間は、はっきりとした棲み分けが行われていた。……… 坂の上から大名の下屋敷・中屋敷や寺社が置かれ、坂の下には町人地、坂の中程は下級武士の住居が占めた。……… 坂の上と下の棲み分けは、見下ろすことと見上げること、つまり土地の高低が身分の高低に反映したといえるだろう」(「坂の迷宮」志賀洋子 日本経済新聞社 1997年)
この「棲み分け」が白金では今でもハッキリと続いる。その中で僕は下級武士に割り当てられた一帯に安息の地を見出したらしい。今は身分の高低ではなく金持ちか否かが「棲み分け」の基準だが、それにしても出来過ぎである。
もっとも、何と言われようと、僕にすれば、バス停のすぐ近くだし、なんだかんだと理由をつけては集まっては一杯やる作家の杉田望と、大学で4年間も一緒で、それからというもの腐れ縁としか言いようのない浅井隆士の2人の住まいの中間に位置し、便利なことこの上ない。それに祖父や両親の墓もある高輪の菩提寺、浄土宗・正覚寺にも歩いていける所であったのは因縁としか言いようがない。
1年の節目々には昔ながらの盆踊りの太鼓や祭りの囃しのがどこからともなく流れてくる。近くの神社の境内では縁日が開かれる。麻布のように、それを目当てに来る観光客で溢れることもない。昔ながらの情緒が温存されている。寂れていると言われると、そうかも知れないとも思うけれど、僕は気に入っている。
商店街の通りも車がすれ違うのがやっとで、そこから洗濯物や植木鉢がやかな細い横道に入った途端に、かくれんぼや缶けりなどに明け暮れた子供時代に戻ってしまう。そんなタイムトンネルの入口があちらこちらに隠れている、胸がときめくところが、今いる「白金」である。
松飾りと寒椿
きわめつけは正月だ。狭い道路に面した家々の玄関には申し合わせたように松飾り ―― 門松が飾られていた。それも丈が1メートルにも満たない小さな松1本を基本にしたものである。「生活改善運動」の申し子のような松の絵が印刷された紙など見当たらない。あくまでも昔ながらのものである。
門松は高台の「白金台」では見られない。「明治通り」と向こう側の高台の「麻布」にも見られない。「白金台」も「麻布」も高級住宅街のイメージで売っており、それに門松はふさわしくないのかもしれない。
門松は、「明治通り」と高台の「白金台」に挟まれた地域、谷間という地理的条件もあって時代の流れから取り残されたように思える「白金」だけに見られる名物なのかも知れない。
しかも、その白金では何故だか分からないが、寒椿が目に付く。椿ではない。椿はその字の通り春に花を付けるのだが、寒椿は11月下旬から翌年の2月にかけて花を咲かせる。麻布にいた頃はほとんど目にしなかったが、白金ではあちらこちらで寒椿を見かける。
人通りの少ない路地を肩をすくめて急ぎ足で歩いていると、黄昏の中に真紅の花が忽然と姿を現す。沈丁花みたいに香りの予兆がないだけに、心が乱される。椿でも、特に寒椿だとウキウキする気分にはなれない。夏目漱石の「草枕」の椿に関する一節が浮かんできてしまう。
………
あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。
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家に戻り買ったばかりの「草木花 歳時記 春」(朝日新聞社1999年)を開いて椿を見たら、やはりなんとなく考えてしなう句が目についた。
古井戸のくらきに落つる椿かな(蕪村)
落椿投げて暖炉の火の上に (高濱虚子)
椿は常緑樹で、緑少ない冬季の貴重な庭木であることに違いはないが、どうも好きになれない。「姉子、椿 ……… 」の曲が流れてくると、椿油 ―― 日本髪といったことと同時に、伊豆大島 ―― 源為朝が島流しになった流刑地などと連想してしまう。それに対して、同じ時期に花を咲かせる満作、梅、連翹、木瓜、木蓮/などを見つけた時には、ただただ嬉しくなって思わず声を上げてしまう。
七草ナズナ、唐土の鳥が………
常緑性の草木には呪力や霊力があると信じられている。それならそれで「緑」だけで我慢すればよいのに、一際目立つように冬に華麗な花を咲かせる。そんなところが僕が椿を好きになれないことに関係しているのかも知れない。その点、同じ常緑性の草木でも鏡餅にえられる裏白とか譲葉などには清々しさを覚えてしまう。
ウラジロ(裏白)――常緑性の大形のシダ。日本の東北地方南部が北限で、南はフィリピンまで分布。葉の表面は艶のある緑色だが、裏面は白色を帯びていることから、この名前がついたという。一般にシダと言うと、ウラジロをさす。羽状の複葉の各片が垂れる――長く垂れる――ことを「歯垂る」、「齢垂る」にかけ、長寿の意味を持たせ、正月を祝う注連飾などに使われる。
ユズリハ(譲葉)――常緑高木。高さ10メートルに達する。葉は長楕円形で長さ20センチ前後。葉の表面は革質で光沢がある。中部地方以西の本州から九州、中国に分布。庭木として広くも植えられている。若葉が生じてから古葉が落ち、新旧の葉の交代が目立つことから、この名前がついたという。新旧交代の意味を持たせ、新年や祝事の飾り物として用いられる。
こんなことを植物図鑑や百科事典で知った時でも、ただただ素直に古の人たちの自然を観察する鋭い眼と豊かな想像力に感心したことを覚えている。
余談だが、このウラジロとユズリハを国会議事堂の周囲にびっしりと植え込んだらどうだろう。御利益あって、長老を敬いつつ新旧交代が円滑に行われ、日本の国の変革も進展するかも知れない。
「ウラジロ・ユズリハ革命起こる! あまりにも突然で関係者も当惑」
そんな見出しが新聞の一面を飾る。ウラジロとユズリハを手に集まる群衆と、それを排除しようとする機動隊。想像しただけでもなかなか痛快ではないだろうか。
「何でこんなことをするの?」
いろいろ聞き回っては、正月の支度で慌ただしい両親を煩わせたのは、つい昨日のことだったように思い出す。その僕が、気が付くと、やっぱり正月には松飾りや鏡餅は欠かせないと呟き、年末になると、親父がやっていたように、必死で格好のいいウラジロやユズリハを探すようになっている。あろうと、なかろうと、どうでもいいじゃないか ─── そう思う一方、ともかく、昔から良いと言われることなら、それはそれで突っ張らずにやってもいいじゃないか。そこで妙に頑張る必要もあるまい、と普通に思うようになっている。
当然のことながら七草粥も欠かせない。1月7日の朝、無病息災を願って、粥に春の七草――芹、薺(油菜)、御行(母子草)、はこべら(繁縷)、仏座(キク科)、鈴菜(蕪)、清白(大根)――を入れて食べる行事である。その昔、中国から伝わった風習だそうだ。だが、由来などどうでも良い。もう、すっかり僕の体には染み込んでみ込んでいる。
「さあ、明日は七草粥だよ!」
子供の頃は、そうかされて、よく七草を摘 み行った。セリ、ハハコグサ、ハコベ、ホトケノザ。こんなのは雑草で、近くの空き地などにいくらでも生えていた。どこに行けば、何が採れるかなどは頭の中に入っていた。それに大根や蕪などを加えれば、簡単に七草粥ができた。「今年の七草は立派だね!」などと言われると、得意になって、旨いとは思わなかったが、ついついお代わりをしてしまったものである。
時代はすっかり変わってしまった。今では七草を摘むのも都会では容易なことではない。無理を承知で、今年の七草には、探しに出てみた。少しでも自分で摘んだものを混ぜて七草粥を作ろうと思ったからだ。表通りを離れ、路地を歩き回って、やっとハコベとハハコグサだけは見つけた。でも、柵越しの庭の中にあって、ちょっと「失敬」と摘むわけにはいかなかった。結局、スーパーに寄って「七草パック」を買う羽目になった。
「七草、ナズナ、唐土の鳥が日本の国に渡らぬ先に ……… 」と、豊作を祈る鳥追いの唄を口ずさみながら、トントントンと調子を付けて包丁で七草を細かく刻み、熱々の粥に入れる。それを、緑の鮮やかさが 褪せないうちに、フウフウ言いながら食べるのは格別である。
子供の頃は、決して旨いとは思わなかったが、嗜好が変わったのだろう。今は妙に旨い。野草の匂いや苦みが厭だったが、逆に、今はこたえられない。丁度、雑煮や御節料理などに癖壁してくる頃なので、最高である。嬉々として、お代わりするようになっている。今年は、朝食も昼食も七草粥だった。
七草粥が終わると鏡開きである。松飾りは片付けられ、あっという間に街は普段の姿に戻る。印刷所は動き出し、炒り豆屋の親父は店先で大きな竹製のザルに袋から豆を移し、丹念に選りすぐって豆を炒りだす。飽きもせずに朝から晩までやっている。そんな様子に気を奪われていると、もう桃の節句である。
つい先日、八千草薫に似た女将がやっている近所のの焼鳥屋のトイレに入ったら、桃の花と博多人形のが飾ってあった。いつものように浅井隆士の悲憤慷慨酒ので、それで酩酊してしまったこともあるのだろう。ヤケに心にみた。内裏雛をキーワードに別世界に紛れ込んでしまった。
そんなこともあって、僕はもう戸を開け外に出ているのに、浅井は、まだ、いつものように女将を相手にしている。本人はからかっているのだと説明するが、横から見ていると説教しているとしかい思えない。こうした場面は浅井の独壇場である。そういう時には口を挟まないことに決めている。もっとも杉田望は耐えられないらしく、突然、「あの女将は俺のことを嫌っている」といった子供みたいなことを口にする。だからだろう、最近、この店で逢おうと言うと杉田は露骨にすねる。それで、ここで会うのは浅井と2人のことが多い。この時もそうだった。
節供節句ーーとも書く。年間の折り目、節目ふしめとなる年中行事。御節料理という言葉は、その名残り。日本各地にいろいろの節供があったが、江戸幕府が徳川氏の出身地三河の習慣を取り入れて五節供 --- 1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽 --- を定めたことから、これが広まった。それが、今の「七草」、「桃の節供」、「菖蒲の節供」、「七夕」、そして「菊の節句」の起源だという。
そして女の子が生まれたら雛人形を贈るなどの風習が確立し、今のような形の桃の節供――雛祭が一般化したのは、わずか明治以降のことだという。商店が雛人形の売り出しに拍車をかけたからだという。それ以前は、「節句」の意味も、やり方も、地域によってバラバラだったという。
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小学生の時、女友達の家に招待された。桃の節句を過ぎていたが、まだ雛人形が飾られていた。男だけの家族だったので珍しく、それらを使って、一緒に飯事をしていたら、「いつまでも雛人形を片付けないと、お嫁さんに行けなくなりますよ」と女達はお婆さんに怒られた。僕は訳が分からず驚いた記憶が鮮明に残っている。
しかし、改めて調べてみると、「厄払い説」(厄を雛人形に移して流す、流し雛という風習の流れ)、「しつけ説」(片付けができないようでは、良いお嫁さんになれない)、「結婚象徴説」(片付ける=嫁の行く)など、もっともらしい説があるらしいが、どう考えても無関係としか思えない。出しっぱなしで怒られていた女友だちは、とうの昔に結婚しているし、きちんと片づけていたようなのに、独身の高齢の女性もいる。
いまの2月14日のバレンタイン・デーとおなじたぐいのものと受け取るのが順当なところだろう。もっとも、雛祭りは廃れてきてはいるけれど、バレンタイン・デーでの「義理チョコ」は勢いを増しているようだが ………… 。
義理チョコとは感謝の気持ちや、コミュニケーションの円滑化を目的として女性から男性に対して贈答するバレンタイン・デーのイベントの一つであり、恋愛感情を伴って意中の人に手渡す本命チョコとは一線を画す目的を持つ。
ドラマや漫画などの劇作中においては、本音をうまく伝えることのできないヒロインの葛藤を表現するアイテムとして義理チョコが登場する場合があるが、現実世界においては往々にして「誤解されると大変なこと」であり、「勘違いを起こされると困惑するもの」である。
そのため、あらぬ勘違いを未然に防ぐために、渡し方や渡す品物などに一定のマナーが見られる場合もある。しかし、付き合いの深さや好感度によって、贈答品に格差が設けられるなど、女性側も社交辞令のみで渡しているようではないことがうかがえる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/義理チョコ
こんなオープンコンテンツの無料百科事典「ウイキペディア」の「義理チョコ」の解説を読むと噴き出してしまう。
もっとも、白金にいると、バレンタイン・デーというものがあったことすら忘れてしまいそうである。どこからも、そんな雰囲気が漂ってこないからだ。今年も「高島屋に行ったらバレンタインのチョコレートを買う人でいっぱいだった」。そんな話を小耳にんだけれど、チョコレートとは無縁であった。もちろん、万が一にももらったとしても、食べることもない僕にとっては、基本的に無駄なものなのだけれど ……… 。