ぼちぼちいこか  歎異抄と原始仏教 PDF 

伴 勇貴 1999年03月 

「猿の道」と「猫の道」

小猿は危険に陥ると母親にしがみつく。母猿は小猿を抱えて安全な所に移り、小猿は救われる。救うのは母猿だが、小猿は自分でしがみつくという意味で協力者である。ところが子猫の場合は、危険が迫ると母猫が子猫を口にくわえて逃げる。子猫は受け身であって救われるために自らは何もしない。

「恵みによる救い」を説く宗教では、紀元前の昔から、救われるためには「ぎょう」と「しん」が必要であるという説と、「しん」のみで救われるという説との論争が繰り返されてきている。旧約聖書にもあったし、ギリシャでもインドでも議論されてきた。「猿の道」と「猫の道」という印象的な比喩はインドでの論争の中から出てきたものだという。

歎異抄たんにしょう ― 現代を生きるこころ」(真宗教団連合編 朝日新聞社 1973年)の第3部「随想―歎異抄たんにしょうとわたし」――― 歎異抄たんにしょうは、親鸞(1173〜1262)の死後、異端の発生を嘆き、前半は親鸞の言葉を記し、後半は異義を批判する。弟子の唯円(1222〜1289)の編と言われる―――の中に収録されているインド哲学者の中村元なかむらはじめ(1912〜1999)東京大学名誉教授の「信と行」と題する随想には、以下のように書かれていた。

「ひとえに〈しん〉のみによって救われるというのが『歎異抄たんにしょう』の立場であるが、これは世界思想史の上から考察すべき諸問題を含んでいる」という書き出しで始まる、この「信と行」という随想には、インドでの「猿の道」と「猫の道」の議論に見られるように、「しん」のみで救われるという親鸞の思想は決して日本に固有のものでもなければ目新しいものでもないと示唆する多くの事例が克明に紹介されていた。そして、その最後は「今後『歎異抄たんにしょう』の思想を広い視野から考察するための参考として、ここで他の国々における若干の類例を挙げてみた次第である」

   作家の井上靖 「はげしさと美しさと」
  刑法学者の小野清一郎 「闘病の日々に」
  評論家の佐古純一郎 「第九条に涙した青春」
  作家の司馬遼太郎 「よみがえる新鮮さ」
  作家の丹羽文雄 「わが血肉に入る」

20人近い各界の著名人が、それぞれ熱い思いを込めて「歎異抄たんにしょう」について語っている中で中村元なかむらはじめ氏の随想は異彩を放っていた。もっと広い立場から眺めることが必要なんじゃないんですか。類似の思想は、あちこちの文化で生まれています。だいたい人間の考えることですから、そんなに大きな違いはないんですよ。そう1人静かに中村元氏は説いているように思えた。「思想をどうとらえるか 比較思想の道標」(東京書籍 1980年)でも同じようなことを書いていた。

それに対して作家の司馬遼太郎はあちこちで親鸞を熱っぽく語っている。「こういった思想をもった民族はいませんね」と言ったたぐいの話から始まって、賑やかなことこの上ない。

思想には、いっさいの呪術性じゅじゅつせいがなく、それを強く排除している点は、プロテスタンティズムに似ている。偶像を否定し、弟子を持たないと言い、教団も作らなかった。念仏は、他者のためのものではない。父母を供養するためのものでもない。親鸞ただ1人のためのものだと言い切った。壮大な寺院や大がかりな仏教行事――そろいの衣を身につけて規則正しい韻律で読経する僧侶たちに――それらに人々は驚異を感じ、深い感銘を受けたに違いないが、そうしたパフォーマンスに真っ向から挑戦した。………(「週刊朝日増刊 司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録」朝日新聞社 1996~1999年)

「歎異抄―現代を生きるこころ」には随筆を寄せてはいなかったが、作家の五木寛之も、司馬遼太郎ほどではないにしても似たところがある。とくに司馬遼太郎の没後は、「大河の一滴」 (幻冬社 1998年)、「他力」(講談社 1998年)など告白的で宗教的な香りの漂う著作が目立つようになっている。

人の数だけ宗教はあってもいいのです

司馬遼太郎の語りにしても、五木寛之の作品にしても、心を打つものが少なくない。「そうだな!」などと共感するところが少なくない。僕だけではなく、今の多くの人たちに共通するだろう。五木寛之の最近作がいずれも評判を呼んでいることが何よりのあかしだろう。しかし、そうしたたぐいの本が評判になればなるほど、僕自身は、むしろ淡々とした中村元氏の話に引き寄せられている。りきみのない言葉が、むしろ心に染み込しみこんでくるようになっている。

ひとの生き死の問題については、仏教もいろいろ説いておりますが、根本的な立場は、生死は人間の思考を超えたものである、ということに落ち着くのではないでしょうかと思います。釈尊は、人の死後の生存や身体と霊魂の関係などについても、答えを与えてはいません。ただ、我々は目に見えないもの、大きな不可思議な力によって導かれているとだけは言えると思います。それを「因縁いんねん」と呼んでもいいでしょう。宇宙のあらゆるものが原因、条件となってこの世を作っており、私なら私を支配している。因縁のいたすとろで、どんなに頑張ってみても、どうにもならないことは多いし、病や老い、そして死も避けられません。

では、どうするか。仏教には「自然法爾じねんほうに」という言葉がありますが、私は、最後のところで偉大なものにお任せするとでも申しましょうか、我々の思考を超えた不思議な力に従って自然に生きるしかないと思っています。………

しかし、だからといって、何もせずに過ごしていいというわけではありません。与えられたこのわずかな人生を、どう送るかということが大きな問題となってくるのです。………われわれの奥にある人や生き物をあわれみ、ともに感じる心を大事にしていく。そんな生き方が願わしいですね。

いずれにしろ、絶対的なもの、偉大なものの奉じ方、言葉を換えれば、信仰の形は人によって違っていて構わないと思います。自分が納得しやすい形で理解すればいいわけで、極端にいってしまうと、人の数だけ宗教はあってもいいのです。……

人間には生きている限り、迷いがついて回るものです。生きることは、さまざまな選択の連続ですから、不断の迷いが起こることは避けられません。私もしょっちゅう迷っています。しかしですね。悟りを開いた後のお釈迦様に対してさえ、悪魔はなんやかんやと誘惑を続けていたと書いてあります。

一般には、お釈迦様はすべての誘惑を断ち切って悟りを開いたと思われがちですけれど、そうではないらしい。むしろ、一生の間、こころをなやますこともあったようなのですが、日々の暮らしにおいて、迷いながらも、絶えず反省し、努力を続けることのなかにこそ、悟りはあるということではないでしょうか。
   中村元「因縁にわが見ゆだね」(「生老病死の旅路」読売新聞社編 1998年)

出来る限り事実を、それも世界的な規模で調べ上げ、それらの比較分析を基本に据えて考えなければならない。「思想」という厄介なものを相手にするためには周到でなければならない。そうでなければ狭隘きょうあいな唯我独尊に陥り、別の「いさかい」を生み出す危うさが潜んでいる。インド哲学者の中村元東京大学名誉教授の一連の著作を読めば読むほど、そんな思いが底流に流れているような気がしてならない。

だいたい「思想」を形成する「信念」とか「確信」とかいうことが、そもそもおかしいかも知れない。人間の「記憶」は結構あやふやだからだ。そんな事実が科学の最前線では次第に明らかにされてきている。

「あやつられる心」(トーマスカイザー・ジャクリーヌカイザー共著 福村出版1995年)
 「記憶は嘘をつく」(ジョンコートル著 講談社1997年)
 「感情の生理学 こころをつくる仕組み」(高田明和著 日経サイエンス社1996年)
 「脳とクオリア なぜ脳に心が生まれるのか」(茂木健一郎著 日経サイエンス社1997年)
 「最新科学シリーズ 心と意識のハードプログラム 最新脳科学」(学習研究社1997年)

など枚挙にいとまがない。

雑誌の「ダカーポ」(1999年1月20日号)までもが「あなたの記憶はウソをつく」という大特集を組むようになっている。

自分とはいったい何だろう?
 自分の人生はどうしてこうなったのだろう? ……… と考える上で、
 記憶は欠かせない。
 ところが、確かなはずの記憶が、実は写真を見たり、
 両親から聞かされた話の上に作り直された幻想ということはないだろうか?
 経験しないことを覚えていたり、記憶の中で人が入れ替わっていたり、
 口説かれたはずが口説いていたことになっていたり ………
 記憶との関係はどこか危うい。
 記憶はいかにして刻まれ、どう再生するのか?
 いまだ解明途上にある、記憶の森の最前線を探った ―――。

こんなキャッチフレーズで始め、「あなたと記憶の仕組みの危うい関係」、「記憶はこうして塗り替えられている!」、「人はなぜ簡単に洗脳されてしまうのか」、「あなたの記憶書き換え願望度は?」などといったテーマを掲げ、人間の記憶の仕組みを分かりやすく解説している。

詰まるところ、人間とは、そもそも無意識に都合の良い理屈で自己を正当化しなければ生きていけない存在らしい。それが何世代にもわたって繰り返されれば、当初のものとは似て非なるものを「事実」だと確信するようになっているとしてもまったく不思議ではない。仏教も、そうらしい(「仏教の受容と変容」石井米雄編 佼成出版社 1991年)

原始仏教は、今の仏教とはまったく違っていた

両親が他界し、墓を維持する役割を担うようなったこともあって、多少なりとも仏教に関心を持ち始めた。菩提寺ぼだいじは港区高輪にある浄土宗の正覚寺である。そこに両親の墓を含め、祖父・祖母、叔父など4つの墓がある。近くに住んでいることもあって、何かと寺に出向くことが多くなっている。それに自分自身が大病を患って残りの人生を考えるようになると同時に、カンボジアのアンコールなどから始まって、インドへと関心が広がって、自然に仏教を身近に感じるようになってきている。

気がついたら、がらにもなく、仏教やインド哲学などに関する本を読むようになっていた。何となく人間の歴史、それも学校で教わったものとは違う大きな流れが見えてきて、その流れで仏教の開祖の釈迦などのこともおぼろげながら理解できるようになっている気がする。

そもそも釈迦が説いた仏教 ――― 原始仏教は僕がイメージしていた仏教とは根本的に違っていた。

紀元前5、6世紀ごろ、ガンジス川の上流地域には農作物などの物的生産の拡大と商工業の発達を背景に相次いで大都市が出現した。力を示し始めた商工業者などの出現によって、旧来の階級制度―――バラモン教(ヒンズー教の前身)の四姓制度などを斥ける自由思想家が多数現れた。「およそ人類の歴史を通じて、この時代のインドほどに思想の自由が完全に容認されていたところは、最近代のヨーロッパを除いては、他に存在しなかった」(マックスウェーバー)。多くの国王や都市は、競って自由思想家たちを集めては、自由に討論させる場を提供したという(「原始仏教」中村元著 NHK出版 1970年)

そんな自由思想家の1人が釈迦だった。当時、世界は時間的に無限か有限か、空間的に無限か有限か。生命と肉体は同一化か別か。人は死後も存在するのか存在しないのか――など10項目の形而上学的問題が大きな議論になっていた。しかし、釈迦は、自分自身の経験に基づいて確かめられたものでない限り、何も信じてはならないという立場から、それらはいずれも相対的・一方的な問題であって、真実の認識には役立たないとして議論の対象から切り捨てた。

そして、人は何らかの永遠なもの、「我」「自己」があると考え、それに固執するために煩悩ぼんのうで悩まされ、迷いの生存(輪廻りんね)から抜け出せなくなる。しかし、真の主体性を確立すれば、その輪廻の呪縛から人は解放される。つまり「解脱げだつ」できる。そんなことを釈迦は説いた(「インド思想史 第二版」中村元著 岩波書店 1968年 「インド思想史」早島鏡正・高崎直道・原実・前田専學著 東京大学出版会 1982年)

釈迦の教えでは、現世の利益は考えられていなかった。教えは、基本的に自己救済を追求するものだった。一切のこだわりを捨てることでしか人は救われないとするものだった。この思想を貫いた釈迦は両親も妻も子供も捨てた。両親や妻子が殺戮される事態も受け入れた(「仏教伝来-東洋編」梅原猛ほか著 プレジデント社 1992年)。凄ましい一言に尽きる。いま風に言えば、自己の「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス著 紀伊国屋書店 1991年)の支配からの完全なる解放を釈迦は目指したようである。

だが、釈迦の死後、仏教は大きく姿を変える道を歩む。他人の救済や現世の利益が積極的に考慮されるようになる。インドでの仏教の最期の姿は、土着の神秘主義と融合し、呪文じゅもん真言しんごん)を唱えて秘儀を実践するとさとりが達成され、それで現世の利益も得られる「密教」だった。釈迦がもっとも戒めていたものの一つ、呪術じゅじゅつ要素と結びついたものだった。そもそも釈迦は「霊」の存在を認めていなかった。それに釈迦は「信ずる」ことも勧めなかった。むしろ「信じない」ことを理想とした。批判もなく、理解することもなく「信ずる」ことなど求められていなかった(「ブッダを語る」前田専學 NHK出版 1996年)

密教化することで仏教は一時、勢いを取り戻したが、それは同時にインドでの仏教を衰退させるきっかけになった。仏教はアイデンティティを喪失し、ヒンズー教の亜流のようになり、事実上、ヒンズー教に吸収される道を辿ることになった(「インド思想史」前出・「インド思想史 第二版」前出)

大人になって飲んだ甘茶は美味しいものではなかった

普通に思い浮かべる仏教とは似ても似つかないように思う。釈迦は「仏教」の開祖というよりは、偉大な哲学者だというべきだろう。原始仏教の香りを漂わせているのは、敢えて近いところで言えば、僕が体を壊し、それが縁で知り合い、今日に至るまでの契機を与えてくれた人の師である弟子丸泰仙でしまるたいせん(1914〜1982)(「セルフコントロールと禅」池見酉次郎・弟子丸泰仙著 NHK出版 1981年)、その生涯の師であったという澤木興道老師(1880〜1965)ぐらいだろうか。弟子丸泰仙でしまるたいせん氏は欧州での禅布教(曹洞宗)で知られる人で、僕が知り合った人は、その弟子丸泰仙でしまるたいせんの弟子として欧州を行脚あんぎゃした人である。

ともかく、今の日本の仏教は、宗派を問わず、空海が導入したインドでの仏教の最後の形、ヒンズー教の分派として見なされる、釈迦の説いた原始仏教とはまったく異なる「密教」の影響を色濃く残しているようである。だからだろう。厳密に考えると、納得できないところが少なくない。

しかし、振り返ると、僕自身、小さいころから、いろんな宗教に囲まれ、そのどれをも尊重するのが当たり前で、どれかに絞るほうが不自然という曖昧な環境で育ってきた。

無宗教と言われてしまえばそれまでだが、いわゆる神も仏もおそれない不遜なやからとは違う。人間の力には限界があること、そして、その限界を超えたところにあるものに畏敬の念を払うことは教え込まれた。仏壇と神棚が並んでいて供え物をしたり、拝まされたりした。寺にも行けば、神社で神妙しんみょうにおはらいもやってもらった。と思えば、知り合いの牧師がやる日曜学校には行かされるし、家には革表紙のバイブルもあった。遊び場所は神社や寺の境内で、いろいろな宗教に囲まれて育った。

こうした曖昧さというか、いい加減さが腹立たしい時代もあった。若い頃だ。しかし、歳を重ねるにつれて、どうでも良いと思うようになってきた。そして、今では、むしろ好ましいと思うようになっている。

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小さい頃、4月8日の「花祭」には、右手で天を、左手で地を指した仏像に柄杓ひしゃく甘茶あまちゃを注いだ。通っていた幼稚園が仏教系だった。お釈迦さんの誕生日だと聞いても、よく意味は分からなかったが、お菓子がもらえて、甘茶あまちゃが飲めるので嬉しかった。進駐軍のジープが走り回る時代で、甘いものに飢えていたからだ。そして「おいしかった」という記憶が残った。でも、大人になって飲んだ甘茶あまちゃは、おいしくはなかった。やっぱり記憶は嘘をつく。甘酸っぱい想い出だけが浮かんできた。