ぼちぼちいこか  年末のアンコールワット PDF

伴 勇貴 1998年12月 

11時過ぎにバンコックからアンコール・ワットのあるカンボジアのプノンペンに向けタイ航空のB737で飛んだ。約1時間15分のフライトだ。水平飛行に入ると軽食が出た。3度目ともなると余裕がある。ここの機内食はなかなかだなどとに入っている間に、機はバンコックの市街地を飛び越えて、果てしなく続く森林の上空に出ていた。

眼下には、真っ白な雲が点々と層状に浮いている。その陰が、濃い緑の絨毯の上に満々と水をたたえたの湖を創り出す。茶褐色の細い道路が、その間をぬって唐草模様を描き出す。雲、森林、道路―――この3者が作り出す自然の造形に見入っていた。

機内アナウンスで現実の世界に戻されたら、もうプノンペン空港の上空だった。軽々と着陸する。国際空港とは名ばかりの平屋の小さな建物だ。タラップを降りると、ムッと30度を超える暑さが襲ってきた。

手荷物をゴロゴロと音を立てて引っ張りながら滑走路を歩いて建物に向かう。歩きながら、つい3日前はワシントンの街角で震えていたこと思い出した。折角だからクリスマスまでワシントンに滞在したらと言うのを振り切り、そんなに無理して大丈夫かと心配そうに聞くのも無視し、ワシントンから戻るやいなや荷物を冬物から夏物に替え、また成田から飛び立ってきた。

ともかくカンボジアの大きな自然の中に飛び込みたかった。自然のもりの中に全身を投げ出し、そのなかに浸りたかった。

「今が一番良い季節ですよ」

石澤先生からの誘惑には勝てなかった。上智大学外国学部長 ――― それが石澤良昭教授の肩書だが、知る人ぞ知るアンコール・ワットの権威である。その著書を手にアンコール・ワットに来ていた若い人たちが、先生を見つけ、サインを求めて列を作る様子をの当たりにしたこともある。その石澤先生と2人で心ゆくまでアンコールを散策する。そう思ったら、矢も盾もたまらなかった。

プノンペンで乗り換えてシュムリアップに向かう

カンボジアへの入国手続きは、今回は意外に簡単だった。でも、一歩、ドアの外に出たら騒動のはずである。案の定、出迎えやらタクシーの客引きやらで、ごった返していた。僕の顔を見た、片言の日本語を口にしながら、4、5人がワッと迫ってきた。手を左右に振りながら「ノウ!」とか「駄目!」とか「いらない!」とかを連発し、後は申し訳ないけど無視を決め込んだ。

脇目も振らず国際線のドアを出て、左側にある国内線のカウンターに向かう。ここで乗り換えてアンコール・ワットのあるシュムリアップに行くからだ。小型のターボプロップ機、フランスのエアロスパシエ社のATR72で約45分のフライトが残っている。

出発まで2時間以上もある。まだ、チェックインのカウンターに人の姿も見えない。カウンターの直ぐ横のレストランで待つことにした。地場のラーメンらしきものをさかなに、地ビール「アンコール」をチビチビやりながら持ってきた本を開いた。 乾季で観光には最適ということなのだろう。シュムリアップ行きのフライトは満席だった。半年ほど前、日本人などの観光客が亡くなった事件があって、客足がばったり途絶えたと聞いていたが、戻ってきていた。

大半は日本人。あとはすべてフランス人らしい男女のカップルである。日本人のカップルは老夫婦1組だけ。残りは、僕1人を除き、女性グループ。しかも、唯一の日本人のカップルの旦那は、終始、つまらないという表情で、まったく口を開かない。フランス人の老夫婦たちが臆面もなく手を握りあい、なんだかんだとキスし合っているのと対照的である。今の日本の世相が、ここに来ている日本人の姿に凝縮されているようだった。

そんな一行、60人あまりを乗せた古いターボプロップ機の機内は、とにもかくにも狭い。荷物を膝の上に載せて座席で小さくなっているしかない。広大なトレサップ湖を上から眺めたいが、前後左右を大柄なフランス人に挟まれ、そんな余裕はない。空調はほとんど効かない。外人特有の体臭にヘキヘキし、限界だと思った時に、椰子の林の中に開かれた小さな空港にスーウッと着陸した。

タラップを降り、また手荷物をゴロゴロと引いて、一段と小さい平屋の建物を目指して歩いた。滑走路からの照り返しで息が詰まる。陽炎かげろうが揺らいでいる。あっという間に汗がんできた。プノンペンよりも暑い。ワシントンほど寒くはなかったけれど、飛び立ってきた成田も4度ぐらいで、荷物を減らすために薄着で家を出てきたので縮み上がっていた。それとは全くの別世界だった。

バイヨンホテルでストレッチングに励む

時間の進み方もゆっくりで、半分ぐらいのような気がする。平屋の建物の出口のところに頼んでおいたガイドが名札を持って立っていた。日本人の男で、しかも1人旅。相手も僕に直ぐに気が付いた。ニッと微笑んだ。僕もニッと微笑み返した。

待っていたマイクロバスに乗り込んでホテルに直行する。バスは冷房が効いていて煙草も吸えた。ようやくホッとした。愛想の良いガイドで、懸命に職務を果たそうとする。しかし、支離滅裂しりめつれつな英語で、ほとんど意味をなさない。「説明はいいから」と言うと、ちょっと悲しそうに顔を曇らせた。そして日本語が話せると良いのだけれど、日本語が話せれば稼ぎも良くなるのだけれど………そんなことを呟いた。気の毒に思ったが、ともかく静かにして欲しかった。

ホテルは上智大学アンコール遺跡国際調査団の定宿じょうやどのバイヨンホテルだ。前にも泊まったところで懐かしい。チェックインを済ませ、明日の9時に迎えに来るように言ってガイドには帰ってもらった。日本語が出来なくても構わない。滞在中はずっと雇うからと言うと、分かったらしく嬉しそうに「明日の朝九時ね!」と日本語で繰り返し言って姿を消した。

今の僕には寸暇を惜しんで見て回ろう、観光しようなどという気持ちはまったくない。石澤先生が留守なのを良いことに、ともかくのんびりすることにした。「『気』の巡りが悪くなって体がから冷え切っています。どこか暖かいところへ行って、ゆっくりし、自然の空気を胸一杯に吸い込んで鋭気を養ってこなくちゃ駄目ですよ」こんなことを鍼の先生に言われ続けていたからだ。

ホテルの前をシュムリアップ川が流れている。乾期に入って3ヶ月近く経ち、底が見えるくらいに水量は減り、にごいた。この川が雨期には増水し氾濫する。今年もホテルのロビーまで水に浸ったというけれど、それが嘘のようである。

川の両側はやネムノキに似た大木の並木である。その木陰の白いベンチを占拠する。他に観光客らしき人影はない。真紅のブーゲンビリアが目にしみる。このベンチに腰を下ろすのは約1年ぶりだ。以前は賑やかな顔ぶれで、友人の作家の杉田望や寅さんも一緒だった。

人並みにちょっとセンチメンタルな気分になった。途端とたんに「駄目じゃない!」というの声が頭の中に響く。そう、駄目だ! 気を取り直し、「エイ」と声を出し、「気」を養うのに良いという「呼吸」から開始した。

「丹田」――「の下の下腹部にあたるところ。ここに力を入れると健康と勇気を得るといわれる」(広辞苑)、「東洋医学で,臍の下のあたりをいう。全身の精気の集まる所とされる」(大辞林)

木立を抜けてくる空気をいっぱい吸い込み、陽の光を体全身で浴びながら、丹田呼吸をひとしきりやった。続いて、このところすっかり止めていた自律神経訓練法に挑戦した。たとえば、気持ちを集中し、意図的に手や足を熱くしたり冷たくしたりするヤツだ。

昔はそれが簡単にできた。しかし、今はまるで駄目だった。手から一種の「気」のようなものも出せた。それも相当に強かった。ところが、今やってみると、わずかしか出てこない。自信があっただけに、ビックリした。やはり自律神経はズタズタだし、すっかり気力も衰えてしまったということなのだろう。

その事実に落ち込んでしまった。すると、また、さらに大きな声が聞こえた。

「頑張らなければ駄目じゃない!」

その声にうながされ、まるで夢遊病者のように「基本だよ!」と言われたストレッチングを始めた。手足、とくに足がすっかり固くなって、この暑さの中でも冷えたままである。血行不良の見本のようなものだ。シュプリアップで、いったい何やってるんだ。ブツブツきながら、川辺のベンチの横で1人でストレッチングにった。

「やあ、よくいらっしゃいました」

丹田呼吸法とストレッチング。その繰り返しを2時間近くもやっていた。冷えきっていた身体のしんもなごみ始めてきた。うっすらと汗も滲んできた。頃合いを見計らっていたように「一度にやっては駄目でしょう」と、また指示が出た。そう、無理しては駄目だ。今日のところは、このくらいで良いだろう。そう言い聞かせて、ベンチに腰を下ろした。一服することにした。

昔は、この当たりでもシュムリアップ川は綺麗だったそうだ。下流に農業用水の取水のためにせきが作られ、それで流れがよどみ、濁るようになったのだという。

その濁った水の中で4~5人の子供たちが水遊びをやっていた。下流の椰子の木陰を出たり入ったりしている。上流では、人がすれ違うのがやっとの細いり橋の上から10人あまりの子供たちが釣り糸をらしていた。時折、騒いでいる。何かが釣れているらしい。長閑のどか/なこときわまりない。

フィリピンのセブ島で過ごした夢のような数日間のことを思い出した。薄緑色に輝く透明な珊瑚礁さんごしょう。小舟を出し、潮にまかせて漂いながら、時折、輝く海水に身体を浸す。裸で子供たちが崖から飛び込んだりして遊んでいる横で、地元料理に舌包みを打つ。術後の保養と気分転換を兼ねて行った。初めて味わう明るい南国の風物は最高だった。ただ、その中に身体を置く、それで十分だった。もう10年以上も前の想い出である。一緒に行った人たちは、今はどうしているのだろうか ――― 。

「ガラン、ガラン」という突然の大きな音で白昼夢はくちゅうむは中断された。小柄な痩せた中年のカンボジア人男性が、天秤の両側に大きな如雨露じょうろ を2つぶら下げて水を汲みに来た。前を横切り、石段を下り、水辺に立って、如雨露じょうろに水をいっぱい汲んで帰っていった。少し先のベンチではカンボジアの若者が携帯電話で話をしていた。

そう言えば、セブ島に行ったころには携帯電話なんてなかった。それを見て、現実に引き戻された。すでに太陽は傾き始めていた。椰子やしの葉の間から、真っ赤な陽が射し込み、川面かわもはルビーをちりばめたようだった。

振り返ってホテルに目をやると玄関先で調査団の人たちと話をしている石澤先生の姿があった。話が終わったらしいので、手を大きく上げて振った。気がつかない。大声で「石澤先生!」と叫んだ。気がついた。ニコッと笑みをらし、車をやり過ごしてから、道路を渡ってこちらに向かってきた。

「すっかりご無沙汰しております。来てしまいました」
 「やあ、本当によくいらっしゃいました。空港に寄ったのですが、行き違いになってしまいました」
 「申し訳ありません。気まぐれなもので、ご迷惑をおかけしてしまい―――」
 「今回は、お1人ですか」
 「ええ、もう完全な1人旅です。米国から帰ってきたばかりで、ちょっと迷ったんですが、来てしまいました」
 「身体、大丈夫ですか」
  「暖かいので具合は良さそうです。いい気候ですね」

一通りの挨拶が終わると、2人ともベンチに座って話し込み始めていた。ホテルの女性が紅茶を運んできた。絶妙のタイミングだ。「うちのところでアルバイトもしている子なんです」と先生が説明する。

そして「これからどうしましょうか」と滞在時の予定を聞くので、「とくに考えていません。ただ、暖かいところで、のんびりと遺跡の散策さえ出来れば十分です」と答えると、ニッコとして「じゃあ、そうしましょう」ということで、体調に応じて適当にやることになった。

アンコール・ワットのブラブラ歩き

アンコール・ワットやアンコール・トムなどの遺跡群を見るのも2度目のこともあって、気分的に落ち着いてゆっくりと遺跡群を楽しむことが出来た。アンコール・ワットやバイヨンの壁画は、先生と話しながら、のんびり見て回ると、歴史の流れを旅しているような気分になって厭きることがない。

午前中の散策が終わると、昼食をとりながらアンコール・ビールを飲む。これが実に美味い。で、先生たちが手掛けているバンテアイ・クデイの発掘調査やアンコール・ワットの表参道の修復から始まり、とりとめもなく話は続く。その後はホテルで小休止。午後3時ごろから、また出掛ける。6時ごろには夕食。またアンコール・ビールを飲みながら話し、9時ごろまでにはホテルに戻って休む。昼食、夕食をどこで食べるかが大きな課題。その繰り返しの贅沢な日々だった。

贅沢な日々を過ごしていると、日々、新たな驚きがあった。タ・プロームのガジュマルの巨木と石の建物の攻めあいを眼前にすると圧倒され、バンテアイ・スレイの女神にはアンドレ・マルローのように引き込まれそうになる。何の変哲もないバンテアイ・クデイの参道を歩いていてもウキウキとしてくる。プレ・ループの頂上で風に当たりながら広大な平原を見ていると太古の世界に迷い込んだような気分になる。

上げだしたら切りがない。でも、一連の遺跡を見たら仕上げは、やっぱりプノン・バケンだろう。高さ約60メートルの自然の丘の上の寺院だ。ここからの眺望と夕日は最高だろう。

「ちょっと大変ですが、上まで行きましょうか」と石澤先生に誘われれば、断る理由などまったくない。人影もまばらな道をのんびりと登った。普段は身軽に登る先生も、今回は僕の体調を気遣ってペースを落としてくれている。それで何とか先生に付いて行くことができた。

ようやく頂上にたどり着いたときには、僕たち2人の姿しかなかった。アンコール・ワットが森の海に浮かび上がって見えた。カバンからペットボトルを取り出し、水を飲んだ。真っ赤な大きな太陽が地平線に沈み始めた。存在は無限の宇宙の営みの一部にすぎないということを自然に思った。体調もいつの間にか見違えるほど回復していた。