ぼちぼちいこか 北京の夕焼け小焼け PDF
伴 勇貴 1998年10月
「メニューにないけど、銀鱈が美味いよ」
「よし、それにした。それとお酒をもう一本」
野菜の炊き合わせ、若芽とキュウリの酢の物、それとカツ丼を酒の肴に、すでに1本を空にして、ほろ酔い加減だった。それでも頭だけが妙に冴て、無性に自分自身を酔わせたかった。どう見ても日本人としか思えない和服姿の小柄な女性の笑顔に惹かれて入った北京のホテルの日本料理屋でのことである。
耳慣れない抑揚の「ラシャマセ!」という「イ」が一つ足りない言葉で、やっぱり日本じゃないと思いしらされたものの、吸い込まれるように暖簾をくぐっていた。それもこれもドッと疲れを感じていたからだった。上海で打ち合わせを行い、工場見学をしたあと、北京に飛んで休日を利用し、万里長城や紫禁城(故宮博物館)に行った日の夜のことだ。上海料理、広東料理、そして四川料理と連日連夜の中華料理にさすがに参った。持って来たインスタントの若芽の味噌汁がやけに美味いと感じるようになっていた。
万里長城を始め驚きの連続だった
振り返ると、この2日あまりの間に、実にいろいろ体験した。万里長城には圧倒された。北方騎馬民族に対する防御のために築かれた長大な城壁。現存するものは主として明代(1368〜1644)に築造されたもの。中国の北辺を西に向かって走る総延長約3000キロメートルの人類史上最大の建造物。長城の外面は焼いて作った煉瓦、内部は突き固めた粘土。高さは約10メートル、上部で人馬が擦れ違える幅で、所々に見張り台がある。起源は紀元前2世紀、中国を統一を果たした後、49歳で他界した秦の始皇帝(紀元前259〜紀元前210)に遡る ─── 正確さはともかく、その程度の知識は持っていた。
だが、こうした知識は実物を目の前にすると、まったく無力だった。万里長城を見せられると、それだけで中国には敵わないと参ってしまう人が多いと聞いていたけれど、僕もそうだった。
現代的な言い方をすれば、とてもコスト・パフォーマンスは合わないと思うし、少なくとも僕の知っている中国の歴史では、これが大きな効果を発揮した様子はない。それだけに、こういうものを造らせ、造る人たちのエネルギーの凄さというか恐ろしさを想像し、降参してしまった。紫禁城を見ても、天安門を見て同じような思いを抱いた。
カンボジアでアンコール・ワットなどを始めて見たときにも、同じような思いを持ったけれど、その比ではなかった。見ていると、だんだん恐ろしくなってきた。そして、多分、そう感じさせることが狙いだったろうと確信した。
同時に「民度」─― ある地域に住む人々の生活水準や文化水準の程度(大辞林)─― という言葉の意味を改めて考えさせられた。「民度」が高ければ、こうしたものの建造は難しかったに違いないと思う一方、それは、あくまでも欧米流の価値基準に従った見方で、そもそも「民度」は普遍的な概念なのかと考えさせられてしまった。
価値基準が違えば、いわゆるコスト・パフォーマンスの評価も変わる。その違いが分からなかったことが、アメリカがベトナム戦争で勝てなかった大きな理由の一つだろうという思いを強く持した。
さらに、いまアメリカがイラン・イラクに手を焼いているのも同じだろうとも思った。「ジハード」(聖戦)ということで徹底抗戦し、喜んで死んでいく。だからコスト・パフォーマンスを前提とする物量作戦でダメッジを与えても期待する効果が得られず、泥沼にはまり込み、ついには核兵器使用の誘惑に魅せられるような危険な状態に陥ってしまうのではないだろうか。
戦前の日本にも似たような雰囲気が支配していた時期があった。それがアメリカの原爆投下を促す一つの要因にもなったのだろう。しかし、振り返ると、そんな雰囲気が日本を支配したのは、ほんの一瞬のことだった。歴史上、後にも先にもない。だから鬼畜米英、一億総玉砕と叫びながらも、敗戦と決まった瞬間、驚くほどスムーズに武装解除が行われ、レジスタンスとか内戦とか呼べるものはほとんど起こらなかったのだろう。この点では欧州とも異なる。
息を切りながら登った万里長城の上から、延々と続く光景を眺めていたら、もろもろの思いが次から次へと湧き上がってきた。そして、やはり日本の文化の根底には、長らく師と仰いできた中国とも、文明開化以来、懸命に追いかけてきている欧米とも違うものが流れているという思いを強くした。
絶品だった雲南省の「過橋麺」
同時に、考えてみれば当たり前のことだが、一口に中国と言っても場所によって何もかもまったく違い、アメリカと同じだと痛感した。数日前にいた上海とは、言葉にも、全体として醸し出す雰囲気にも共通点を見出すことは難しかった。余談だが、暇を見つけ、以前、上海から高速道路で蘇州の「寒山寺」に行ったことがある。
月落烏啼霜満天 月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘声到客船 夜半の鐘声 客船に到る
月が沈み、烏が啼いて、霜の気が天に満ちわたる。
岸の楓と漁火が、うつらうつらとする旅愁の目に映る。
そこへ、蘇州郊外の寒山寺から、
夜半を告げる鐘の音が、わが乗る小舟にも聞こえてきた。
僕が高校時代に漢文の授業で覚えた有名な唐中頃の張継(712〜779)の「楓橋夜泊」だ。この舞台が「寒山寺」で、出来れば行きたいと思っていた。それで、一緒の渋る寅さんを口説き落とし、初めて上海に来た時、寸暇を惜しんで行った。興奮し、僕の頭は混乱していた。「寒山」という言葉が使われていた漢詩を、もう一つ覚えていた。同じ秋の詩、杜牧(803〜853)の「山行」という唐末期のものだ。
遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば、石径斜なり
白雲生処有人家 白雲生ずる
停車座愛楓林晩 車を停めて座に愛す 楓林の晩
霜葉紅於二月花 霜葉は二月の花よりも紅なり
遠く、もの寂しい山に登っていくと、石ころの多い小道が斜めに続いている。
そして、そのはるか上の白雲が生じるあたりに、人家が見える。
車を止めさせて、気の向くままに夕暮れの楓の林の景色をで眺めた。
霜のために紅葉したの葉は、春の二月頃に咲く花よりも赤かった。
この詩での「寒山」は固有名詞ではない。しかし、僕は、それを固有名詞の「寒山寺」と結びつけ、勝手に想像を膨らませていた。「楓」という言葉が両方に使われているもので、恥ずかしながら、この歳になるまで、舞台は同じところと思っていた。つまり、簡単に言えば、水があって、その近くに急峻な山があって、その山の上に寺がある ─── そういった構図の場所を思い描いていた。
ところが、行ったら、まったく想像とは違っていた。たしかに水(湖)はあり、橋もあったが、「山」はない。あくまでも平坦な土地だった。それは地図で「蘇州」の場所を見れば、直ちに了解できた。そして「……… 山」という名称は一種の「屋号」のようなものと了解してはいたのだが、実際に「寒山寺」に着いて、周囲の風景を眺め、愕然とした。
頭の中が一瞬、真っ白になった。浜名湖の湖畔の観光地のようだった。繊維産業の本拠地だと言う。たしかに密集する土産物屋のほとんどは繊維製品を扱うものだったし、衣服などの通販で伸びている日本の「ニッセン」などの看板があちらこちらで目に付いた。すべてが僕の誤解だったということに気が付いた。
そんな体験があるので、北京は初めてであり、今回は失敗しないように頻繁に北京に行っている友人のMに頼り、「良いホテル」も紹介してもらった。ところが、値段感覚がずれているのか、僕には滅茶苦茶に値段が高く、とんでもない。北京駐在の知人のNさんに、美味いものを食べさせてやると言われても疑心暗鬼になってしまった。
ところが、Nさんに連れて行ってもらった店はたしかに美味かった。事務所近くのみすぼらしい店の餃子 ─── すべて蒸し餃子だけれど、ともかく美味くて安かった。1人当たり約500円で、いろいろなの餃子とキャベツなどの漬け物をたらふく食べ、そしてビールも飲めた。友人の作家、杉田望の十八番が蒸し餃子で、何回か馳走になったけれど、比較にならない。そのNさんに「絶対だ!」ということで連れて行かれたのが、雲南省経営の会館の中の食堂だ。そこには雲南省には珍しいキノコ料理などいろいろあったけれど、まずこれを食べなくてはということで食べさせられたのが「過橋麺」だった。
スープと麺と具とが別々に出てくる。スープは、鶏がら、などから煮出したやや白濁した薄塩のもので、その表面にはたっぷりと油が張られている。これが熱や蒸気の逃げるのを防いでいる。この中に具を入れる。まず薄切りの豚肉などを入れ、それから香菜、ネギ、椎茸などを入れる。表面にこってりと油が張られているのだが、スープ、麺、それと程良く火の通った具とが絡みあい、歯ごたえも良い上に、意外にあっさりとしている。絶品だった。夢中になって食べている僕たちを見て、Nさんはおもむろに「過橋麺」の由来について話し始めた。この間合いの取り方が絶妙で、箸を止め、思わず聞きれた。
「昔、現在の雲南省の省都、昆明に科挙(中国、隋初から実施された高等官資格試験制度。唐代では秀才・明経・進士などの6科からなり、科ごとに古典的教養・文才・政論などを試験した。宋代には進士科のみとなり,試験も解試・省試・殿試の3段階となり、明・清代は郷試・会試・殿試として行われ、過当な競争を生むなどの弊害を生じた。清末の1905年廃止───大辞林)のために必至に勉強している男がいた」と切り出した。
「彼の部屋は母屋から川を隔て、橋を渡ったところにあった。そのため食事を持っていっても途中で冷めてくなり、残しがちだった。息子の身を案じた母親は、そこで知恵を絞り、アツアツのスープの表面に油を張って熱が逃げないようにし、それと麺と具とを別に盛り付けて運び、その場で、アツアツのスープに浸して食べるようにしたところ、大喜びして食べた」
そこから「過橋麺」と呼ばれるようになったという。そんな説明の後、「ね、美味いだろう」と駄目押しするように、ニッと笑った。しかも、値段はと言えば、これまた500円もしなかった。
北京ダックもクソ食らえ
Nさんがご馳走してくれた餃子と「過橋麺」は、あの得意げな顔を思い浮かべると悔しくなるが、本当に美味しかった。それに比べると、Sさんの部下の中国人が紹介してくれた天安門近くの北京ダックの「総本家」と言われるところで食べた北京ダックは冴えなかった。
決して美味くなかったわけではないが、何かが欠けている味で、量もあまりにも多過ぎた。頼んだ紹興酒も容器は立派だが、味は外れだったのが、この思いに拍車をかけた。
そして、その思いが、ほとんど徹夜の状況で成田を立ってきたのがまずかったという思いにつながった。友人たちと寿司屋で一杯やり、それから旅行の準備などをやっていたら4時を過ぎ、寝る間もなく、車を走らせ、そのまま成田から上海に飛んだ。このところ体調が良いもので、つい油断したのがいけなかった。
そのツケが回ってきた感じだった。体調を崩すと、いつものことだが、どうしても気持ちが沈みがちになってしまう。心の底に澱のように溜まっている自分の体への不安が噴き出してくるのを止めることができなくなってしまう。
「1日、4回も注射を打つんですか」
「何でも食べられるのですか」
「それで体は大丈夫なんですか」
「悪くはならないんですか」
「普通の生活ができるんですか」
初めて僕の体のことを知った人は、ほとんど例外なく驚いて、そしてお気の毒に、大変ですね、という雰囲気で、こんなことを聞いてくる。でも、何でも食べているし、海外にも足を伸ばすし、そんな生活を10年近くもやっていると、だんだん緊張感も薄れ、人が思うほど苦痛ではなくなっている。いろいろ聞かれても、気楽に「自己管理を怠らなければ大丈夫ですよ。普通の人と変わりませんよ」などと答えられるようになっている。
それに、元気だった同世代の友人や知人たちが、このところ相次いで亡くなっている。僕に「体は大丈夫ですか」などと心配そうに聞いていた、一緒に仕事をやっていた意気軒昂で元気溌剌だった友人は、ちょっと調子を崩したと言い出してから、2ヶ月あまりで逝ってしまった。別の知人は、具合が変で病院に行って検査したら、もう癌がかなり進行していて、とりあえず手術はしたが、余命は長くはないと宣告されたという。本当に人の寿命は分からない。初めからの長さは決まっているのかもしれない。そして、ひょっとすると僕は普通の人よりも元気でやれるのかもしれない、蝋燭が長いのかもしれい ――― 不遜にも、そんな思いを抱くようにもなっている。
しかし、そんなちょっとした「自信」も、体調もそうだが、自分でも情けなくなるくらいなことで揺らいでしまう。少しは達観した心境になり、多少のことでは動じなくなってもよさそうなものだが、年を重ねるに連れて、逆にだんだん脆くなっているような気がする。
「嘘ばかりついて――」
「そんな体で夢見たいなことばかり言って――」
「無理ばかりして――」
「馬鹿じゃないの――」
「意地ばかりはって――」
「バカ」の連続だ。あざ笑いが、頭の中に響きわたる。暗雲が立ち込め、足下が音を立ててりを起こす。やり場のない焦燥感と不安感と絶望感が大手を振って闊歩し始める。そして、走馬灯のように、それでいて奇妙にハッキリと、子供のころの出来事が浮かんでくる。いつものパターンだ。
特大の鬼ヤンマを近くの原っぱで捕まえて得意になったこと
プラタナスの大木によじ登ってミンミン蝉を捕まえたこと
家に届いた初めてのテレビに大きな歓声を上げたこと
ムシロ小屋でドサ回りの劇団が演ずる剣劇に熱中したこと
手製のカンテラを下げ、ドキドキしながら旧陸軍の掘った洞窟を探険したこと
野外の布張りのスクリーンに映し出される西部劇に手に汗を握ったこと
鞄を放りだしてはよく釣りに出かけたこと、タナゴを100匹以上も釣ったこと
秋になると寺の境内の銀杏の木に登って実を揺り落としたこと
イナゴ取りの帰りに見上げた空の夕焼けが怖いくらい真っ赤で綺麗だったこと
みんなつい昨日の出来事のようである。ふっと、あの手放しの、何のわだかまりもない感激を、もう一度、味わいたいと思った。それがかなうのなら何もかも放り出したいという衝動に駆られた。
でも、それこそもっとも贅沢な願いに違いない。それに、僕の場合は、何もかも投げ出すといっても、そもそも「命」すらも「そんな死にかけたもの」と一笑されるような危ういものなのだから。手を伸ばせば届いても良さそうなものなのに、のように遠ざかっていく。僕の願うこと、それはいつも、そんなまぼろしのようなものなのかもしれない。
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「ガチャン」という大きな音が響き渡って、いきなり現実に引き戻された。見上げると、和服姿の小柄なポチャとした丸顔の若い女店員が照れ臭そうに盆を拾い上げていた。入ったときは、お客は僕1人だけだったのに、もうテーブルの7割ぐらいはつまっていた。右斜め、3メートルほどの席には、ショートカットの若い美人が座っていた。グレーのワンピースに真珠のネックレスという清楚な装いが、小さな顔と細めの体に良く似合う女だ。好奇心がわいた。観光客の雰囲気ではないし、1人ならまだしもに隣に2人も親父が付いている。親子でも仕事の仲間でもなさそうだ。そんな詮索から始まって、テーブルの下に隠れて見えない彼女の足にまでイメージを膨らませた。
そこに和服姿の女店員が海苔茶漬けを彼女に運んできた。もう、アルコールは十分だということなのだろう。それを眺めながら、「そう、酔っぱらっちゃあダメだ。おにぎりをほう張るのもイメージを壊すし、天丼やカツ丼も似合わない。やっぱり海苔茶漬けが似合っている」と、自分勝手に彼女を「指導」し、その調子、その調子と、1人で悦に入っていた。
ところがである。彼女は、どうしたことか、レンゲで海苔茶漬けを食べだした。「オイ、オイ、待ってくれよ。いくらなんでもレンゲはないだろう。頼むから箸を使ってよ」そういたとたんに、「ハンツーヤン」そんなような音が彼女の口から聞こえた。日本人ではなかった。もちろん意味はさっぱり分からない。でも間違いなく北京語らしい。そのくらいは僕にも分かるようになっている。
「やっぱり北京だ」そう呟いて立ち上がった。足が少しふらついた。「アリガトゴザイマス」今度は「ウ」抜きの舌っ足らずの声に送られて店を出た。とたんに、どこからか夕焼小焼のメロディーが聞こえてきた。
思わず立ち止まって耳を澄ました。でも、ロビーから流れてくる懐かしのポップスと騒がしい北京語の会話にかき消されて二度と聞こえてこなかった。いくら耳を澄ましても聞こえてこなかった。あの時、どこからか分からないけれど、間違いなく「夕焼け小焼けで日が暮れて ――― 」のメロディーが流れてきた。そういまでも僕は信じている。
(1998年秋)