ぼちぼちいこか 「自発的治癒4」癒す心、治る力 PDF
伴 勇貴 1998年04月
この冬、久しぶりに酷い風邪でダウンした。39度前後の高熱が続いて下がらない。肺炎が怖いので、いろいろ自己チェックしたが、その兆候はない。喉が赤く腫れているが、扁桃腺は大丈夫で膿疱ができている様子もない。ただの風邪だが、体力がないために熱がなかなか下がらないらしかった。
とりあえず風邪薬は飲んだ。でも気休めにしかならない。栄養をつけ、休養をとり、自分自身の治癒力を高めるしかない。ジタバタしてもはじまらない。観念するしかない。加湿器で乾燥を防ぎ、部屋を暖め、葛湯と生姜湯を混ぜたものを飲み、擦ったリンゴを食べ、レモン汁でビタミンCを補い、水分を十二分にとる。それでベッドにもぐり込む。昼夜の区別なくひたすら寝た。本を読む気にもならなければ、テレビも見たくなかった。
ともかく僕は30代の中頃までは、年に1、2回は高熱を出して寝込んだ。無理を続け、疲労が限界に達すると、風邪をひいて扁桃腺を腫らして倒れた。そんな時に、よく通った近所の町医者から言われたのが「メロンを食べて暖かくして寝ているのが一番」という言葉だ。
メロンは栄養があって旨いものの代名詞で、メロンである必然性はない。「ともかく栄養をつけ、仕事なんか忘れて休養することが大切だ」――― 風邪をひいたら自分の力で治癒する。自分の力で治るしかない。風邪薬は症状を緩和するだけで風邪そのものは治せない。抗生物質は百害あって一利なし、と風邪で倒れると必ず説教されたものだった。
看護婦も事務員も置かず、1人で飄々とやっていた町医者だ。東北大学医学部を卒業後、米国に留学 ……… その後、何があって大学病院を辞め、開業医になったのか、詳しくは語らなかったが、僕とは妙に気があった。模型飛行機の製作に熱中し、「食べられるだけの収入があればいいんだ」と言って、最小限の薬しか処方しなかった。
ともかく熱を出してフラフラしているのに、行ったら最後、診察が終わってもなんだかんだと話しかけてきて離さない。「風邪の患者ぐらいしか来ない」と呟きながらも、欠かさず医学の専門誌に目を通していて、その話や飛行機の話を、僕を相手にするのが楽しみだったようだ。
よく「往診中」の札が掛かっていた。もちろん呼び鈴を押しても返事はない。でも、ドアが開くときは、構わず上がって「失礼します」と診察室に入る。すると、だいたい模型飛行機をいじくっている。その手を休めずに、「どうしました?」と背中で聞く。「風邪をひいたようです」と言うと、初めて振り返って、「じゃあ、口を開けて」とのぞき込み、聴診器を胸と背中にあて、「気管支は大丈夫。効かないと思うけど、薬を飲みます?」と訊ねる。
そう言われても辛いものだから、とりあえず薬は欲しいと答えると、「メロンを食べて ……… 」という決まり文句を唱え、「はい、薬の説明書。読めば分かるでしょう。効かないようなら飲むのは止めて下さい」と続ける。そのあとは、待ってましたとばかり雑談になってしまうのが常だった。
ゴム管を抜き、糸を摘まみ上げる
「治療」と「治癒」―― しかし、昔は、いくら風邪に効く薬はない、自分の力で治るしかないと言われても、あまりピントはこなかった。「治療する」は「病気やけがなどを治すこと」、「治癒する」は「病気やけがなどが治ること」、つまり自動詞と他動詞の違いぐらいにしか考えていなかったが、大病を患って大手術をやって、そこで初めて「治療」と「治癒」とはまったく異なることを実感した。
腹を縦に大きく切り開き、脾臓を摘出し、膵臓の大部分を切除して残りを小腸と吻合する。それから10本近くのゴム管の一方の端を腹の中の切って縫った付近に置き、もう一方の端を体外に出し、浸出液を排出する経路を確保し、その上で切り開いた腹の皮を縫い合わせる。そして縫い合わせた傷口が付くまで化膿しないように定期的にアルコールで消毒する。「治療」はこれだけだった。抗生物質を点滴したけれど、感染症の予防のためで傷を治すためではない。「治癒」はあくまでも自力だった。
腹の中の切って縫った部分から浸出液が出なくなったらゴム管を抜かれた。ちょっと怖かったけれど、引っ張られたら、くすぐったい感じがしただけで、背中の側にまで回っている何十センチものゴム管がズルズルと抜けた。
しかも驚いたことに、腹の中で内臓の吻合などに使われた糸が不要になると、自然に体外に押し出されてきた。体内から表面に浮き上がってきた。糸の端が腹の皮膚を突き破って飛び出してくる。それをピンセットで摘み上げるとスポッと取れる。結ばれて輪になった糸が十本ちかく傷口から出てきた。身体の中を何十センチも移動してきた勘定になる。魔法のようだった。
「先生、人間の身体って本当に不思議ですね」
「消毒するだけで、こんな傷が治ってしまうんですね」
「そう、ちゃんと縫って消毒すれば、あとは放っておいても治るよ」
「身体が丈夫なら、なんてことはない」
「お前の膵臓以外の臓器はどれも立派! 生命力が強い、保証するよ」
「癒す心、治る力」
こんな体験をしたものだから、「身体には治る力が備わっている。治癒というのは内在的なプロセスである。治療が好結果をもたらすのも、内部の治癒系が活性化されたからである。健康でいられるのは治癒系の働きのお陰であり、治癒系に関する知識があればより健康になることが可能である。治癒志向の医学は現在の医学よりも安全で、確実で、経済的である。そんな医学を現実のものとしたい」といった説明には引き込まれてしまう。
健康医学の医学博士アンドルー・ワイル(1942〜 )が、全米ベストセラーになった「癒す心、治る力――自発的治癒とはなにか(Spontaneous Healing)」(角川書店 1995年9月初版)の巻頭で、このように書いている。
著者のアンドルー・ワイルは、ハーバード大学言語学科に入り、心理学科に転入し、さらに好きだった植物学科に転入し、最後に心身相関の医学を学ぶためハーバード大学医学校に進み、卒業後、国立精神衛生研究所・研究員、ハーバード大学植物学博物館・民族精神薬理学研究員などになり、実践的研究を通じて代替医学、薬用植物、治癒論の第一人者になるという経歴。現在、米アリゾナ大学社会医学部副部長・統合医学プログラム部長。米議会「癌代替療法研究委員会」の評議委員などを務めるかたわら、自宅で自然医学や予防医学の診療にあたっているという。
ワイル博士に好感を持ったのは、いわゆるニュー・サイエンス(ニュー・エイジ)の信奉者たちとはひと味違う立場をとっているからだ。ニュー・サイエンスとは近代科学に対する反省と批判から、近代科学では把握できない非合理的なものに焦点を当てる考え方である。それ自体は納得できる面が多いものの、反動なのかも知れないが、霊的なものとか宗教的なものをあまりも強調する人たちが少なくない。それに対して、ワイル博士は著書「癒す心、治る力――自発的治癒とはなにか」の中で次のように釘を刺している。
いま多くのアメリカ人が心身相関の神秘に魅了され、自助関連の本がベストセラーの上位に並び、ニューエイジの思想が人気を集めている。そのお陰で、病気に対する個人の責任という考えが強調されるようになった。そうした考えを普及させている人たちは善意でそれを行っている。自分の健康にもっと責任をもって欲しい、心の力で治癒力が高まることを知って欲しい。そう願う彼らの善意は大いに評価できる。
だが、意図しなかったこととは言え、彼らのメッセージが患者の心の中に罪悪感を生み出しているのだ。「癌になったのは、私が悪い」「治らなかったら、私が悪い」病気に対する罪の意識は破壊的である。それは治癒系の活動を低下させてしまうのだ。
治らないことがその人の精神性または霊性の状態に対する何らかの審判を表しているというような考えには、まったく同意できない。祈りと治癒との関係について調べている数少ない研究者の一人であるラリー・ドッシー博士は、癌で死んだ東西の聖人たちの興味深い目録を作っているが、その事例があまりに多いので、癌はほとんど聖人御用達の災厄かと思われるほどである。治癒が悟りや否定的感情の超越によって起こるものだと考えたくなったときには、どうかそのことを思い出していただきたいものだ。
「猿の道」と「猫の道」
分野は違うけれど、ワイル博士の真摯に治癒力の向上を追求する実証的な姿勢には、インド哲学者の中村元(1912〜 )・東京大学名誉教授の宗教や宗派を超えて人間のあり方を追求する清々しさに通じるものがあるように思う。
ちなみに「歎異抄」(真宗教団連合編 朝日新聞社 1973年2月第1刷)の中で、各界の人々が「歎異抄とわたし」と題し熱烈に親鸞に対する想いを寄せているところ、一人、中村元氏は、「信」によってのみ救われるという「歎異抄」に書かれている親鸞の思想はとくに目新しいものではない、古くから西洋でもインドでも議論されてきていることで、より広い世界思想史の流れという視野からも考察する必要があろう、と淡々と書いている。
恩寵と信仰については、もろもろの宗教で論争が起こった。西洋では新約聖書にも出てくるし、神学者の間では、恩寵が行為とともにはたらいて救われるという立場と、恩寵のみによって救われるもので行為や儀式によってよって救われるものではないという立場とが対立した。これは日本の浄土教に翻訳すると、人が仏によって救われるためには「信」と「行」がともに必要とされるのか、あるいは「信」のみでよいかという問題である。
インドのヴィシヌ教でも二派が対立した。一つの派は、信仰にもとづいた行を実践して功徳を積めば、それに応じて神は恩寵の手をさしのべると説いた。これに対し、もう一つの派は、人が救われるのは神の恩寵によるもので、努力とか功徳を積むことには関わりない、献身帰依が大切だと説いた。
この両派の相違は「猿の道」と「猫の道」という比喩で示されている。小猿を連れている母猿が危険に陥ると、小猿はすぐさま母猿にしがみつき、母猿は安全なところに跳び去る。小猿は母親に協力することによって救われる。ところが子猫を連れている母猫の場合には、危険が迫ると母猫はすぐさま子猫を口にくわえて逃げる。子猫はただ受身で、救われるために何もしない。子猫と母猫の間には協力関係は全くないという。
こんなことを紹介した上で、中村元氏は「今後『歎異抄』の思想を広い視野から考察するための参考として、ここに他の国々における若干の類例を挙げてみた次第である」と結んでいる。
「夫婦の一日」 ――― 情
もっとも、いくらワイル博士に実証的に「治癒力」について説明されても、またいくら中村元氏に、古くから人間は救われるためには「信」と「行」が必要である、いや「信」のみでよいという論議を繰り返してきているなどと説明されても、現実に病気などで苦しんでいる人には役立たないだろう。
間違っていようがなかろうが、妥当であろうがなかろうが、何かにすがらずにはいられないのが人情だろう。たとえ第三者から見れば、迷信にすぎず馬鹿馬鹿しいと思えるものであってでもある。それを真剣に信じてすがっている人の様子を見てしまうと、ましてその人が身近な人であれば、それで少しでもその人の気持ちが救われるのなら、それはそれで良いのではないかと受け入れてしまうのではないだろうか。
どんな主義や主張や信念でもいい、理論も理屈もない、人の情とは比べようもない ―― そんな気持ちにカトリックである遠藤周作の自伝的小説「夫婦の一日」(新潮社)を読んで襲われた。
主人公の私は熱心なカトリックで、その妻も結婚後に洗礼を受けた。25年間、一緒に教会へ行ったり、知人の冠婚葬祭に出たりして、彼女はすっかり信者になりきっているように見えた。私は何度も本当の宗教とは、それを信じれば病気が治るとか、世俗的な運が開けるとか ……… そういうこととは関係ないことを強調し、妻も私の考えに同意したと思っていた。
ところが、その妻が、よくないことや悲しいことばかりが続いていたら、私から見るとインチキ占師の、でたらめな予言に引っ掛かってしまった。3年間も働いてくれた若いお手伝いさんが突然、血液の癌で倒れ、大学病院で2ヶ月半の命と宣告され、入院したけれども、それより1ヶ月だけ生き延びただけで死んでしまった。悪いことは続くもので、長い間、蓄膿症だった私の鼻から出血が続き、お手伝いさんの入院している大学病院で診てもらうと癌になる怖れがあるから手術しろと奨められ、手術する羽目になった。私の手術から3日目に、お手伝いさんは息を引きとった。
しかも、私は手術のあとも体調は悪かった。50数歳の体には1時間程度の鼻の手術でもこたえたようで、4ヶ月たっても衰弱が回復しなかった。体重がめっきり減り、頬がげっそりこけただけでなく、夏だというのに下肢に異常な冷たさを感じたり、関節に痛みを感じたりした。医者に糖尿病が悪化し、ホルモンのバランスが崩れたのだと言われた。
夕食をとっている時、いつになく様子が変なので訝しく思い、問いただしたら、妻は女友だちに連れられて占師のところに行ったと言った。カソリックなのになんでそんなところに行くのかと怒ったら、妻は私から目をそらして弁解した。
「でも、色々と悪いことがあるし ……… それにあなたの体が心配だったから」
「だって、次々と悪いことが続くでしょう。だからAさんがよくあたる占師のところで見てもらおうって ……… 」
ともかく、そこで「放っておくと、あんたの御主人に11月には大きな不幸が来ますと」と言われたのだという。
「ごめんなさいね」「あんなところへ行って」と妻はその夜やっとあやまった。それで私は不快が少し解けたので、「君の不安な気持ちもわかるさ ……… 」と言ったところ、「わかってくださるなら ……… 私と一緒に鳥取に行ってください」
「11月にあなたに良くない事が起こらないためにはのお水と砂を取ってこなくちゃいけないのです。その水を飲んでもらい、砂を家の庭にまくんです」
突然、妻はとんでもないことを口にした。私は妻を睨みつけた。長年、生活を共にした女が一瞬見知らぬ別の女になったような恐怖を感じた。カソリックなのになんということを言うのだと怒ったけれど、妻はがんとして譲らなかった。こんなことは初めてだった。
鳥取に行ってほしい、そうでなければ悪いことが起きる、私が死ぬと言い張ってきかなかった。2日間、妻は同じ事を繰り返した。私は妻と全く口をきかなかった。それでも妻は折れなかった。半ば涙ぐんで、ほかの事はもう頼まないから鳥取へ行ってほしいと繰りかえした。
それで仕方なく鳥取まで妻について行くことにした。しかし、一緒になって砂をすくったり、杭を打たりするつもりはなかった。ここまでついてくれば十分だと、砂丘の入り口に停まったタクシーの中で待っていた。雨が降りしきる中、妻は砂を包むビニールと木槌と杭を入れた風呂敷を持って歩きにくそうに砂地を登り、松林に消えたあとも私は車の中で動かなかった。
でも、タクシーの運転手が見物に出ない私を不思議がるので仕方なく外に出て、妻のあとを追った。雨の降る中で、ベージュ色のレインコートを着て、しゃがんで、懸命に動いている妻の背中が砂丘の隅に遠くに見えた。
以下、この「夫婦の一日」の最後のくだりである。
私はその方向に向かって歩いた。妻にたいする何とも言えぬ憐憫の気持ちがこみあげ、その気持ちに押されて足が動いた。
うしろに立つと彼女はこちらをふりむいた。雨で髪も顔もぬれ、その髪が額にへばりついていた。不器用な手つきで砂をビニールにいれていたのがよくわかった。そして今彼女は杭をその砂のなかに打ちこもうとしているのだった。
「貸せよ、その木槌を」
私が言うと、妻は怒ったような顔をして私に木槌をさし出した。
「こんなことやたって ……… 無意味じゃないか、え、わかるだろう」
そう言いながら、しかし私は妻が両手で支えた杭の頭を木槌で打った。打ちながらこれが人生だと思った。チエホフが書いた短編でこんな夫婦の愚劣な一日があったような気がする。しかし………しかし、これで良いのだと言う感情が心の半分で生まれ、その感情が少しずつ胸に広がっていく。
「これで ……… 」
打ちこまれ、わずかに頭の残った杭に砂をかけながら私は妻に言った。
「気がすんだろう」
妻はニッと笑って、うなずいた。
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「夫婦の一日」は1981年1月号の「新潮」で発表された作品である。それから15年、遠藤周作は1996年9月、肺炎から呼吸不全で亡くなった。享年73歳であった。その遠藤周作について、文芸評論家の奥野健男は、賑やか好きで派手好きだったが、戦争中の肺結核とその大手術などで体は弱く、ずいぶん無理をしていた、よく努力して、あれだけの小説を書き、73歳まで楽しげな顔を外に見せつつ生き抜いたものだと切ない気持ちにもなる ―― こう追悼文を結んでいた。