ぼちぼちいこか 「自発的治癒 2」膵炎の痛みPDF
伴 勇貴 1998年04月
東北大学インド哲学科を卒業し、同大学助教授、国立歴史民族博物館教授などを歴任した宗教学者の山折哲雄(1931〜 )が「日本人の宗教感覚」(NHK出版)という本の中で、「痛みの森羅万象」と題し、自分自身の経験を踏まえて、「痛み」が人間の意識にどのような変化をもたらすかを書いていた。
山折氏は30代のころ十二指腸潰瘍に病み、1年以上も「鈍痛」のため暗い穴の底に落ち込んで過ごした。また顔面ヘルペスで、キリでもむような「疼痛」(ずきずきする痛み)で苦しんだ。左眼の上のほうに疱疹が吹き出し、皮膚の表面を突き抜ける痛みに襲われ、アッという間に左眼の視力が失われ、失明の恐怖に脅えたという。
何よりも凄かったのは膵炎だったという。「激痛」が全身をめった打ちしてくるのをほとんど絶息寸前の状態で耐えているしかなかった。その時まといつかれた絶望感は表現しようがない。激痛の中では、この世もあの世もなかった。膵炎の激痛は、その世界では誰も知らぬものないものだと知らされたという。
そして、山折氏は、今はそんな痛みから免れてはいるが、癌にかかると、それが末期癌だとすると、いままで経験してきたような「鈍痛」、「疼痛」、「激痛」が一気に襲ってくるのだろうか、と考えてしまうという。絶え間なく、三つ巴で襲われれば、その痛みの総体は途方もない、死の側からの総攻撃だ。モルヒネの厄介になるしかなくなるかもしれない。意識喪失に近い状態で生ずる痛みが、いったいどんな形で自分の体に襲いかかるのか ―― できることなら知りたいと述べていた。
僕も山折氏とほとんど同じ経験をしている。どちらが凄いかを自慢するのは、あまり好きではないのだが ――― 。
ヘルペス、十二指腸潰瘍、そして膵炎
まず17歳になった直後に顔面ヘルペスで、左側の視力、聴力、味覚を失った。同時に三半規管もやられ、立つのにも支障をきたした。高校2年生をほぼ休んでしまった。その後遺症との戦いが始まった。電気マッサージなどのリハビリに、ほぼ毎日、4年以上通った。
27歳の時には、出張先で猛烈な激痛に襲われ、息も絶え絶えに戻ってきた。検査したら直径2センチ弱の十二指腸潰瘍だった。酒とタバコの飲み過ぎと過労だと言われた。しかし、これは幸いにも「酒とタバコを控えて、できる限り睡眠時間を取れ!」―― その指示に従っただけで、薬も飲まず、手術もしなかったが、2ヶ月もしないで完治した。
極めつきは山折氏と同じ膵炎だ。38歳だった。12月末に倒れ、痛くて何も食べられず医学書と首っ引きで正月を唸って過ごした後、「十二指腸潰瘍は昔やったので知っている。その時の痛みとは違う。どうも膵臓が悪いように思う」と言って人間ドックを訪ねたら、ドンピシャリだった。
膵臓がおかしいと思う理由を説明した。半信半疑で医者は「それでは ―― 」と、バリウムを飲んで胃を撮影する前に、腹部のレントゲン撮影をやった。そうしたら膵臓のところに直径1センチ以上の白い丸がポツンと抜けた写真がとれた。医者はビックリし、角度を変え、こんどは何枚も撮影した。どれにもハッキリと白い丸が写っていた。バリウムを飲むと、その影に入ってしまうため、今まで気がつかなかったのだ。
結石が膵臓の中心を通る膵管の中にできていた。それが膵液の流れを塞いでいるらしかった。食事をとると、条件反射で膵液が分泌されるが、それが十二指腸に出ていけない。それで膵臓が腫れあがり、いくつも膿疱ができた。大きいのは野球のボールぐらいだった。強力なタンパク質と脂肪の分解酵素がたっぷり含まれた膵液で、膵臓そのものが自壊しているらしかった。膵臓の裏側の脾臓も炎症で腫れ上がっていた。
「これじゃ痛くてたまらないはずだ」
「よく我慢できたものだ」
「膿胞が破裂すれば終わりで、いつ逝ってもおかしくない」
「膵臓癌の疑いも濃いし、癌研を紹介するから、このまま直ぐに入院しなさい」
医者は焦っていた。しかし、奇妙なくらい僕は冷静だった。たぶん正月に医学書を読んで、だいたいの見当をつけていたからだろう。知り合いの医者がいる東京女子医大に連絡をとった。人間ドックで撮影したレントゲン写真を全部もらい、その足で東京女子医大の消化器病センターに行った。そこでもビックリされて、そのまま入院となった。1月中旬のことで、東京には珍しい大雪が降った。今年も大雪が降ったが、それ以上だった。
入院してホッとしたのは束の間だった。水を飲んだだけでも激痛が左肩から脇腹にかけて走る。飲まず食わずで、じっとしていても左肩から脇腹にかけての疼痛や鈍痛が走る。しかも周期的に激痛の発作が襲ってくる。検査もままならない。それに膿胞が腫れあがっている状態では、そもそも手の打ちようがない。膿胞が破裂すれば直ちに生命の危機で、膵臓の全摘だけではすまない。ともかく様子を見るだけで、積極的な治療はできなかった。
「膵臓癌の可能性も大きいが、膵臓癌ならもう手遅れだ。手術しても意味がない。膵臓癌だったら、2ヶ月もすれば結論が出てしまうから、このまま様子を見ることにしよう」―― それが信頼している知り合いの医者の発言だった。僕にはすべてを話すからウソではなかった。点滴を受けながら、癌でないことを願いつつ、膵臓の炎症がおさまり、膿胞が縮小するのを待つ以外になかった。
入院してから2ヶ月たっても生きていた。癌ではないようだ。第一関門は突破できた。しかし、日々の疼痛と鈍痛、そして激痛の発作から解放されたわけではない。それからが、いつ終わるとも知れない、疼痛と鈍痛、そして激痛の発作との戦いの始まりだった。
「激痛が全身をめった打ちしてくるのをほとんど絶息寸前の状態で耐えているしかなかった。そのときまといつかれた絶望感は表現しようがない。激痛の中では、この世もあの世もなかった。膵炎の激痛は、その世界では誰も知らぬものないものだと知らされた」―― このように山折哲雄は書いているが、決して誇張ではない。
炎症はなかなかおさまらなかった。分泌抑制剤も消炎酵素剤も抗生物質も効かなかった。インドメタシンのような普通の鎮痛薬では歯が立たなかった。それでまず麻薬性鎮痛薬のソセゴンやレペタンをやったが、それが効くのはほんのいっときだった。モルヒネもやったがそうだ。しかも、だんだん効かなくなる。そして代償として麻薬中毒に陥った。意識は混濁し、幻覚や幻聴に悩まされる。いまは痛みの治療方法も向上しているが、当時は試行錯誤だった。
突然、身体が真っ青な空中高く放り上げられたかと思うと、地中深く暗い穴の中に突き落とされる。色鮮やかな満開の花畑に漂っていたかと思うと、崩れてくるビルの下敷きになる。急に四方の壁の一部が飛び出して人の顔になり、口を大きく開けて笑い声を上げ、叫ぶ。支離滅裂で何でもありだ。人と話している間にも、スッとそんな状況に陥ってしまう。
いわゆる「トリップ」というヤツだ。時間にして数十秒間のことなのだが、長く感じる。「トリップ」をしては戻る ――― 1日はその繰り返しになった。それが痛みよりも辛くなった。で、麻薬性鎮痛剤を使わず普通の鎮痛薬で痛みに立ち向かうことにした。痛くても正気で居たかった。
発作が襲うのは、なぜか夜が多かった。薄暗い個室のベッドの上で身体を丸めて、身体を揺すりながら激痛に耐える。じっとしていることなどできない。思わず手を強く握るものだから、爪が手のひらに食い込み出血する。激痛が少しおさまって、フッと顔を上げると、うっすらと夜が明けている。新宿の高層ビルの輪郭がくっきりと浮き上がってくる。「ああ、もう朝か――」そんな日の繰り返しだった。
激痛の発作から解放さる時はあっても、左肩から脇腹にかけての疼痛と鈍痛から解放されることは片時もなかった。意識的に別のことに気持ちを逸らせたり、温湿布や冷湿布で緩和させたりするしかなかった。本当に痛みを忘れることができたのは、断続的な眠りの中での一瞬だけだった。
膵臓の膿疱が縮小し、ようやく手術ができる状況になった。リスクは大きいが、手術に活路を求めた。もう秋だった。「このままなら、あと2年ぐらいは生きることができるが、手術したら、まず助からない」―― こう主張する著名な内科医の教授の制止を振り切って手術に賭けた。
「オイ、いったいこの状態で、あと2年ぐらい生きるのと、たとえ半年でも1年でもベッドと点滴から解放されるのと、どっちがいい。」
「そりゃ、言うまでもないでしょう。この状態だったら生きていても仕方がない。でも、手術後を調べたら本当に生存率は低いんですね ―― 」
「そうか調べたのか ―― 。俺はその理由を考えて、やり方を変えたいと思う。やり方を変えて手術してみたい。絶対、それで上手く行くと思う」
こんなやりとりを知人だった外科の教授と2人だけで何度もやった。今まで生存率が低かった理由、そして今度は手術方法をどう変えるかなどを詳しく聞いた。もちろん議論の連続だった。そして条件付きで賭けることにした。麻酔から醒めた時に、どうしようもなかったので膵臓を全摘したなどと説明を受けるのでは堪らない。もし、腹を切り開いた結果、それしかないというのだったら、せめて一度、麻酔から覚まして僕に伝えて欲しい。これが条件だった。
「ウーン。まいったな ―――。よし、分かった。そうする!」
彼はいろいろ議論をやった末に、了解した。それが現実的かどうかはともかく、彼が了解したことで手術に賭けることにした。
十二指腸につながる膵臓の頭部を残して膵臓を切除し、別に切り取った小腸を使って残った膵臓から出る膵液を小腸に流す通路を作り、さらに自壊した脾臓を摘出する ─── 概略を言えば、そういう手術だ。それで僕は一命を取り留めることができた。
「オイ、上手くいった。2、3年はまっとうな社会生活ができることを保証する!」集中治療室で僕を麻酔から覚ますと同時に教授は僕にそう叫んだ。その予想をはるかに上回って僕は生きている。多分、記録更新中のはずである。「できるなら、おまえの腹の中がどうなっているのか見てみたいなあ ―― 」酔っぱらうと教授は僕に向かって、本当に切って見たそうな顔で、必ず一度は呟くようになっている。
「怖がって手術は嫌だという。俺は手術で治せると思う。でも、どうしても当人も周りも承諾しない。頼むから、手術をしても死なない、元気になれるということを話してくれないか」妙な話だけれど、術後、僕は、この教授に懇願されて、同じような症状の何人もの患者やその家族と会った。
幸い、みんな元気になって退院した。数年後、「いや ―― 、この間、あのときの1人の患者から招待されて旅行に行ってきた。ものすごい歓待だった」酔っぱらって真っ赤な顔で、教授は嬉しそうに言った。
この知人の教授は、もう東京女子医大にはいない。第一線を退いた。僕の手術の時でも、何時間も立ったままで腰をかがめ、腹の奥の膵臓を切除し、小腸と縫合するのは辛かったという。「腰が痛くて、最後の縫合は助教授にやってもらった」と漏らした。僕の手術の数年後に親父の手術をやってもらったが、そのころが一線に立てる最後だった。何時間にもおよぶ親父の手術を終えた後、「オイ、俺も年だ。もう駄目だ。外科医なんて職人で、体力が勝負だ。いま詳しく説明するから、その前に、ちょっと休ませてくれ」こう叫ぶなり、血だらけの手術着のまま長椅子に横になり、目の前で、いびきをかいて寝込んでしまった。
ところで、僕の手術の最後の縫合をやってくれた当時の助教授だが、聞けば数年前に亡くなったという。人の運命とは本当に皮肉なものだ。
10ヶ月あまり「中心静脈点滴法」
「病気になっていつも思うのは、病状がともなう痛みが意識のうえでは死と隣り合わせになっているということである。痛みに耐えるということは私にあってはほとんど死の意識に耐えるということと同義である。その痛みがしだいに激しさを加えるようになると、私の神経はいつのまにかこのまま死ぬのかもしれないという意識と格闘しているのである」―― 山折哲雄は、このようにも書いていた。
僕の場合は、「死と隣り合わせ」という意識は、痛みに加えて10ヶ月あまり食べ物はもちろん水も口から入れられず、すべてを点滴でまかなったことからを嫌が上にも強められた。
ちょうどこのころ普及しはじめた末期癌の患者に対する「中心静脈点滴法」というものが使われた。手術で胸部の太い静脈から心臓にを通し、そこに高濃度のブドウ糖溶液などを注入するという方法である。腕や足の血管に高濃度の溶液を入れると、浸透圧で血管がやられてしまう。といって腕や足の血管に低濃度の溶液を大量に入れることもできない。それでは点滴だけでは長くは生きられない。ということで考案されたのが、高濃度の溶液を心臓に入れ、一気に血液とし、全身に送り出してしまうという方法だった。食べる力を失った末期癌の患者の延命などに使い始めたところだった。
10ヶ月あまりも、この中心静脈点滴法の世話になった。ブドウ糖、アミノ酸、ナトリウム、カリウム、カルシウム、そして微少金属。血液の分析結果を見ながら、じつにいろいろなものを入れられた。まったくの「水栽培」だ。しかし、空腹感は我慢できても食事の臭いはたまらなかった。これだけで生きた最長記録だと聞かされたけれど、嬉しくもなかった。約90キロもあった体重が退院時には65キロを切っていた。
僕の膵炎の直接的な原因はアルコールだった。体質にもよるが、毎日、日本酒で2合に相当するアルコールを飲み、それを20年あまり続ければ、アルコール性膵炎になるという。さもなければ肝臓がやられるという。そういう説明を聞かされれば、自業自得としか言いようがないけれど、1年近い闘病生活の記憶は凄まじい。あまりにも強烈で忘れられない。
だいたい手術の傷はえて退院したものの、相変わらず「闘病生活」を続けているのだから無理もあるまい。それも、とっくに10年を超えている。
1日数回、血糖を測定し、その値によっては補食をとらなければならない。食事の前にはインシュリンを注射し、食中・食後にはたくさんの消化酵素も服用しなければならない。うっかりして「低血糖」や「高血糖」になると、酷い気分に襲われる。少なくとも年に1回の膵臓の残存機能の検査 ―― これがなかなかハードであるけれど ―― も欠かせない。しかも膵臓機能が風前の灯火になったものだから内分泌障害なのだろう。訳の分からない症状が出はじめている。
一方、「鈍痛」や「疼痛」は消えず、痛みの意識は常に頭の片隅に漂っている。それで痛みが少しでも緩和される可能性があると聞けば、何でも試す。衝撃波で膵臓結石の破砕を試みるという話を聞けば、進んで実験台になるし、ひところ話題になった心霊手術もやった。そして、いろいろやってみた結果、辿り着いたが、鍼灸と指圧、それと温泉であった。
山折氏のいう「死との隣り合わせの感覚」とか「死の意識との格闘」といったものは、僕の中では、決して大げさなものではない。すっかり日常茶飯事化している。末期癌だとするとモルヒネの厄介になるかもしれないし、意識喪失に近い状況の中で生じる痛みが、いったいどんな形で自分の体に襲いかかってくるか、できることなら知りたい ―― こうも山折氏は述べていたが、そんなことは聞くまでもなく僕には想像できる。