ぼちぼちいこか 「自発的治癒1」東洋医学 鍼灸治療PDF

伴 勇貴 1998年04月

本棚には和綴じの東洋医学書がたくさん詰まっている。本棚の横には「ボーズ」のスピーカーがある。そこから鯨の息づかいや鳴き声、あるいはバッハのブランデンブルグ交響曲などが静かに流れてくる。おきゅうの香りも充満している。その部屋のベッドに横になる。白いシーツに覆われた幅70センチほどの細長いベッドの上で神妙にする。待っていましたというように「ポポ」がどこからともなく現れる。ふわふわとした長い真っ白な毛の猫である。大きな欠伸あくびをしてから、おもむろにベッドの下にもぐり込み、そこにゴロンと寝そべる。都心にあるはり治療室の一室である。

「今日はじんきょで、肝も心も虚で、みんな弱いですね」

最初にやられるのが「脈診みゃくしん」である。脈診 ―― 患者の脈に触れて疾病しっぺいの状態を把握するもので、たぶん一度は聞いたことがあるだろう。東洋医学の四つの診察法、つまり望診(視診)、聞診(聴診)、問診、切診(触診)の「四診ししん」の一つ、腹診などとともに患者に触れて行う「切診せっしん」に分類されている。

この脈診みゃくしんの結果を参考に、どこに枇杷びわの葉と直径2センチぐらいの太い「棒灸ぼうきゅう」を使う「枇杷灸びわきゅう」―― 枇杷びわの葉には抗炎症作用などの薬効がある ―― を行い、どこに鍼を打つといった、その日の基本的な治療方針が決められる。脈診みゃくしんで得られた脈拍のパターン、それに対する処置、その処置を行った後の脈拍のパターンの変化などの記録が克明にとられる。

ところで、「脈診みゃくしん」で、いったいどのくらいのことまでが分かるのだろうか。誰もが関心を持つところだ。中国には脈診で、それこそ何十という疾病を診察できる人がいると言う。しかし、残念ながら、理論的には本場の中国でもまだ解明されてはいないようだ。

ある大手家電メーカーは、創業者が大変な興味を持ち、中国の大家を招聘しょうへいして研究を進めている。もう10年近くやっているはずだが、まだ、その成果は聞こえてこない。また数年前、あるソフトハウスがカオス理論を応用して脈拍から疾病を診察するソフトを開発したというニュースも流れたが、その後は音沙汰おとさたがない。

しかし、だからと言って脈診は馬鹿にはできない。これだけで、かなりのことが脈診で分かるという脈診の可能性を否定できないと言う。心臓理論で著名な知人の大学教授に質問したことがある。

彼によれば、いろいろ研究されているが、現状ではまだよく分からない。たとえば脈拍の測定方法、この一つをとっても問題が多い。理論的な解明の前に、センサーの技術革新などまだ多くの障害が横たわっている。しかし、脈診が重要な意味を持っていることは想像に難くないと言う。

 だいたい、昔の医者は聴診器一つで、いろいろ診察できた。ところが、いまの医者は患者を診ずに診断装置のデータで判断する。教育に問題があると思い、イギリスの心臓専門医を招待し、診断装置に頼らなくても相当のことが分かることを学生の前でやってもらったことがあるという。イギリスの心臓専門医は、患者の瞳孔を診たり、ベッドの傾きを変えて脈をとったり、とくに頸動脈の微妙な動きを念入りに調べた。その結果に基づき、1時間あまりにわたり患者の疾病について説明した。診察結果は、最新の診断装置を駆使したものとほとんど一致していた。それで学生たちは大きなショックを受けたという。

こんな実例を紹介しながら、昔ながらの問診、視診、聴診、触診を再評価する時期にきていると思うと、その知人の心臓理論専門の大学教授は語った。

また内科臨床医として誉れの高い別の知人の大学教授も触診 ―― 腹診の重要性を僕にらした。たくさんの人の腹を触ってきて、いまは触った感じで、X線やCTも必要だが、それ以上のことが分かるようになっている。時間をかけて丁寧ていねいに触診を行う。経験を積んで、これがやっぱり基本だと思うようになった。なかなか人に教えるのも難しく、大声では言いにくいことだが ―― と語った。

僕や親父の手術を執刀した著名な外科医も同じだった。「ともかく腹を切って、内臓を手で触れる。そうすれば癌かどうか分かる。転移しているかも分かる」じかに手でさわってみる、なんと言ってもこれが一番だ ―― それが口癖くちぐせだった。「神の手」を持つと言われ、世界で屈指の手術例を誇る教授の話だ。

枇杷灸びわきゅう」を受けている間に、あちこちの別のツボに30本あまりのはりが手際よくツンツンと打たれ、そしてグッグーと挿入される。自分の名前の書かれた試験管に納められている専用の直径が0.5ミリもない極細の長さ6センチほどの金鍼きんばりが使われる。

極細の長いはりが体に深く刺されるのだから、体はあまり動かせない。金鍼きんばりは細くて軟らかい。筋肉の中で簡単に曲がってしまうからだ。でも、ジッと我慢しているのも容易でない。必死で体の動きを抑えているつもりでも、しびれや圧迫を伴う強烈なはりの刺激で、気がつくと体がエビ反りになったりしている。うめき声をみ殺しながらあえいでいる。頭皮や首筋や反り返った背中などからは汗が噴き出し、うっすらと涙もにじむ。

「ウッ、ウウッ――」
 「ムッ、ムッ――」
 「クッ、ククッ、フッ――」
 「フッ、フッ、フッ――」
 「 ………  」
 「ウウウッ、クッ、ウッ、ウッ――」
 「ククッ、ウウッ、フゥ――」

ある日の午後のことだ。鍼をツンツンと足の裏の「蘇生そせいのツボ」と呼ばれるツボに打たれ、グッグーと押し込まれた。その昔、拷問ごうもんで釘を刺したところだという。ここにはりを打てば、それこそ死人も痛くて、びっくりして生き返るというツボだ。

とがった焼け火箸ひばしが刺されたような激痛がズズーンと走る。足の裏から足の甲に向けて針が通り抜けるような痛みが体の中にも侵入してきた。腸や胃を揺さぶって肺も襲う。呼吸も圧迫される。はりを細かく振動させているらしく、それが繰り返し襲ってくる。熱いかたまりが体の芯を襲う。はりは刺されたままで、ズキズキとうずいているところに、さらに別のツボにはりが打ち込まれる。淡々というか、遠慮会釈なくやられる。

さすがにまいった。「もう、そこまで! そ、そ、そこで、やめて下さい」何度も、そう叫びそうになった。でも、「反応があるのは、良くなっている証拠なんじゃない」「せっかく、やってもらっているのに駄目じゃない」などとなだめすかす声が何度も頭に響いて、踏み止まった。

「陰陽五行説」――― マックスウェルの予言から新時代の幕開け

余談だが、脈診も鍼灸しんきゅうも本当に不可解なものである。その歴史はきわめて古く、中国古代の帝王、黄帝こうていの徳をしのんで、なんと紀元前後、今から2000年ほど前に、全30巻の「黄帝内経こうていだいけい」として、春秋戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)以来の理論と療法が集大成されたという。これが現存するまとまった中国最古の医学書で、日本には奈良時代に伝えられている。

「陰陽説」と「五行ごぎょう説」という2つの理論の組み合わせに基づいている。「陰陽説」とは、すべての事物・現象を「陰」と「陽」とに分けて考えるものである。「陰」と「陽」と言っても互いに対立するものではない。それぞれの存在があって、それぞれが意味を持つ ―― これが陰陽の関係だという。しかも、それは一定ではない。比率や度合いは変化(消長しょうちょう)し、関係も変化(転化)する。万物は互いに依存し、時間とともに消長と転化を繰り返しながら運行する。こういう考え方である。

「五行説」とは、すべての事物・現象を「もくごんすい」の5つに分けて考えるものである。それぞれにプラス方向に働く相生そうしょう関係とマイナス方向に働く相克そうこく関係があり、それぞれが活かし、活かされ、抑え、抑えられ、それでバランスが保たれるという。木は燃えて火を生み、火は灰となって土となり、土の中から金がとれ、水は金の表面に集まり、水のあるところに木は育つ。木は土の養分を吸収し、土は水をせき止め、水は火を消し、火は金を溶かし、金は木を切り倒す力をもつ ―― こういった具合である。

もっとも、こうした考え方は中国に固有のものとも思われない。たとえば、同じころギリシャの哲学者、エンペドクレス(紀元前493年~433年)は、世界は「火・水・空気・土」の4元素で構成され、それらが「愛」と「憎」によって動かされると説いていた。詩的である。

中国がユニークなのは、たぶんこうした考え方を人の身体の状態にまで積極的に広げたことだろう。身体の機能や部位が「陰陽五行」で考えられ、その平衡が保たれた状態が健康、何らかの原因で平衡が崩れた状態が病気で、診察とは平衡の崩れを察知することで、治療とは平衡を回復させる――「きょ」(弱った機能)を増強し、「じつ」(異常に高まった機能)を抑制するということになる。

「陰陽説」での「陰」と「陽」、そして「五行説」での「木・火・土・金・水」――は世界を構成する「元素」のようなもので、「」と総称されている。この「」が身体をめぐる通路が「経絡けいらく」、その「経絡けいらく」の要所が「経穴けいけつ」つまり「ツボ」と呼ばれている。そして「ツボ」を刺激すれば、「経絡けいらく」を通じて五臓六腑ごぞうろっぷに達し、全身にわたる治療ができるというわけである。ちなみに「広辞苑」(岩波書店)では、「経絡とは人体における血管系・リンパ系・神経系とは別の特異な循環・反応系統。漢方では人体に12経脈・15絡脈があるという。経は動脈の意で、動脈の一部を含む主脈、絡は静脈の意で、静脈の一部を含む支脈といわれる」と説明されている。

こんなことがいろいろの本に書かれている。「」については、1989年に東京大学で公開講座も開かれている(「気の世界」東京大学出版会)。不可解なことばかりだけれど、ともかく僕は自分自身で鍼灸しんきゅうなどによって身体の具合が良くなることを確認してきている。

それにギリシャの哲学者、デモクリトス(紀元前460年~紀元前370年)の原子論 ―― 不変不滅の原子が無数に存在し、それが運動する無限で空虚な空間があり、その両者によって万物は生成・変化・消滅する ―― などに端を発する素粒子理論の最新の状況を知ると驚くことばかりで、「陰陽五行説」はともかく、いずれ「経絡けいらく」とか「経穴けいけつ」とか「」のメカニズムも究明されるように思えてならない。

たとえば、僕らがいまやテレビや携帯電話などですっかりお世話になっている電磁波 ―― この存在を英国の物理学者、マクスウェルが理論的に予言したのは1864年で、ドイツの物理学者、ヘルツが実験的に発見したのは、それから20年以上も後の1888年のことである。それから、まだ100年ちょっとしか経っていない。ヘルツ以前には、電磁波は存在しているにもかかわらず認識することはできなかった。だから、もちろんそれを積極的に利用することもできなかった。

「物質」や「存在」などに関する僕らの常識というか感覚的経験に合わないようなことが素粒子理論の最前線では次々に浮上してきている。1988年に素粒子の研究でノーベル物理学賞を受賞した現在イリノイ工科大学教授のレオン・レーダーマン(1922〜 )の最新著書「神が作った究極の素粒子」(草思社 1997年10月刊)を読むと、現在、僕らは、かつてのマクスウェルの予言とヘルツの発見の間の時期に相当する時代に生きているように思えてくる。新時代の幕開けを待っているのかもしれない。

週2回の生半可ではない鍼治療

僕の愛読雑誌「GEO」(同朋舎出版)が1997年2月号で「東洋医学は気持ちがいい」という特集を組んでいた。でも、それはケース・バイ・ケースのことで、治療に本腰を入れると、「気持ちがいい」なんて生半可なまはんかなものではない。これまで鍼灸しんきゅうの他にも指圧とかいろいろやったが、いずれもなかなかのものだった。

「やめて下さい」などという泣き言は、何時だってどこかで見られているようで、とても口にできない。「先生、もう全部打ち終わりました?」とくぐらいが精一杯である。「ハイ」という返事があって、初めて少しホッとする。「少し」というのも、それで終わりではないからだ。

はりの刺さったままでツボを「棒灸ぼうきゅう」で温められる。枇杷灸びわきゅう<.ruby>で使う「棒灸ぼうきゅう」は枇杷びわの葉の上から体に押しつけるので硬いヤツだが、ここで使うのは体から離して赤外線を利用して温めるので、太さは同じくらいだが軟らかいヤツだ。それではりを中心にまわりの皮膚がほんのりピンク色に変わるまで、根気よく温められる。不思議なもので、具合が悪いと、まったく熱さを感じない。いくら温められても熱く感じない。うっかりすると火傷やけどになる。もう手も足も火傷だらけである。

 一通り終わると、はりを抜いて、また脈診をする。その結果に先生が納得すれば、その日の治療は終わりで、解放される。もっとも、最近は、それでは収まらないことが多い。さらに別のツボにはりをうったり、ものすごい力でツボなどをまれたり押されたりする。それでも思わず「ギャー」と叫ぶことも少なくない。

 

こんな調子だから、2人がかりでやってもらっているのに、2時間以上もかかってしまうこと多い。あまり感じかたが鈍いので、ツボを温めるのに普通の人の3、4倍も「棒灸ぼうきゅう」を消費してしまうからだ。こんなことを、週2回、いま僕は都心の鍼治療室でやっている。