ぼちぼちいこか  都心もニュータウンも壊れていく  PDF 

伴 勇貴1998年05月  

赤と緑のセブンイレブンの看板

「だいたい、赤と緑のけばけばしいセブンイレブンの看板は不愉快だ。あいつが日本の田舎の風景をどんどん破壊している」友人の作家、杉田望が吐き捨てるように言った。東京暮しが長いとは言っても高校時代まで山形で過ごした杉田の日本の田舎に対する思いは、僕よりは遙かに強い。

気分は分かる。心に浮かんでくる「日本の田舎」の風景――心象(イメージ)の中に、あの赤と緑の看板を置けば、間違いなく場違いな感じになるだろう。東京生まれで東京育ちの僕でも、日本の田舎と言えば、「坊や――、いい子だ、ねんねしな――」という歌で始まった、長寿テレビ番組「日本昔ばなし」から流れてくるような光景を想い浮かべる。

戦後の食糧難時代には茨城や福島の親類の農家に食料を買い出しに行った。そこで小中学校時代には夏休みを過ごした。高校時代や大学時代にも山歩きでなどには立ち寄った。僕の農村経験は、実際にはこの程度に過ぎない。それでも山や丘、それと藁葺き屋根の農家と、たんぼや畑などで構成される風景を見ると、「日本の田舎」だと納得し、心が癒され、それらが描かれた淡い水彩画を見るとホッとする。

しかし、僕らが目にする風景は絶えず変化しているのが現実である。風景を作っている風物は絶えず姿を変えている。東京も様変わりした。三宅坂の急カーブで架線から電気をとる長いポールがよく外れ、その度に車掌が降りてロープを操って架線にポールをはめ直していたチンチン電車はもう走ってはいない。

新宿の西口には、広大な浄水場と飲屋街の代わりに高層ビルが林立している。赤線の名残が漂い、やかんでコップにあつかん熱燗をついでくれた居酒屋があった南口一帯は、巨大なデパートの出現で一変した。

新宿などの繁華街ばかりではない。身の回りからは万屋よろずやが姿を消し、豆腐や納豆の売り声も聞かれなくなった。当時の東京の情景に、セブンイレブンの赤と緑の看板をダブらせれば、やっぱり違和感がある。

だから、杉田の言い分は、自分の都合や好みで、田舎に対してだけ「時間よ止まれ!」と叫ぶようなものに思えた。それで「気持ちは分かるけれど、そりゃー、虫のいい話だよ」「風景など時間と共に変化するものだ」と反射的に言い返した。

杉田、それと30年を超える付き合いになる浅井の3人で、よく集まる麻布十番の定食屋でのことだ。「酔鯨」とか「浦霞」などの日本酒をコップ酒で楽しんでいた。受け皿代わり使っている桝に、今日はたくさんこぼしてもらったなどと喜びながら酔えば、話はいつも支離滅裂になる。

「お前たちは東京っ子だからな。どうせ俺は田舎ものさ――」と、杉田は開き直るし、浅井は「やっぱり年をとったら故郷へもどって生活するのがいいよ。親父は静岡の田舎の出身で、俺だって田舎者だ」と叫ぶ。

そして話題は、男の悲哀から日本経済の先行き、さらにはアジアの経済情勢へと飛んで行ってしまった。

脳が作り出す視覚情報が内部から触発する

でも、杉田が切り出したセブンイレブン云々の言葉は心に引っ掛かった。僕が麻布十番に惹かれるのも、なんとなく古い東京を呼び起こすような懐かしさを感じるからだし、それでいて、その懐かしさがいったいどこから来ているのかと真面目に問われると答えに窮するからだ。

よく麻布十番は「東京最後の秘境」と呼ばれるが、とんでもない。昔の風物がそのまま残っているようなところ ―― それが秘境の定義だとすれば、嘘である。麻布十番の風景を形作る個々の風物は昔の東京とはまったく違う。

たしかに、豆腐屋、魚屋、肉屋、八百屋、パン屋、和菓子屋、煎餅屋、惣菜屋、瀬戸物屋、金物屋、家具屋、靴屋、洋品店など、いまだに個人商店が元気だし、内科はもちろん歯科や耳鼻科などの町医者も多い。おまけに麻布十番温泉という銭湯まであるのだから、今の東京には珍しい街には違いない。だが、ビルばかりで店構えなどは昔の商店とは違うし、それに住人だって外国人が多くて昔の東京の風景とは似ても似つかない。

それでいて、なぜか東京最後の秘境という言葉には妙に納得させられてしまう。そして昔の雰囲気を感じ、懐かしく思ってしまう。いったい風景とは何なのだろうと改めて考えさせられてしまう。

フランス人の地理学者オギュスタン・ベルク(1942〜 )が風景についていろいろ書いていた。「日本の風景・西欧の景観――そして造景の時代」(講談社現代新書1990年6月第1刷発行)という本で、翻訳が悪いのか、それとも僕の頭が惚けたのか、読みやすくはないが、なかなか興味深い。

風景は、現実の事物に関する情報と、もっぱら人間の脳によって練り上げられる情報の両方で構成される。ところが脳が作り出す視覚情報は現実よりはるかに単純化されている。それは文化の影響を受けて作り上げられた形態の「類型」あるいは「図式」であって、ある「象徴」とか「記号」とか「言葉」とかによって、触発され浮かんでくる。こうした内部から触発する視覚情報を持っていないと、事物を見ても、人は、それを意味のある風景としては受け取れない。

明治以前の日本人は基本的に中国渡来の美的図式を通じて風景を眺めていた。だから白樺林や雑木林の風景には関心を示さなかった。西欧文学の影響を受け、白樺林や雑木林は美しいという認識が持つようになって、つまり、そういう一つの図式が定着してきたので、国木田独歩(1871〜1908)の「武蔵野」が好評を博したのだという。

杉田がセブンイレブンの赤と緑の看板を呪うのも、僕が麻布十番を懐かしく思うのも、ベルクが説明するメカニズムに基づいているような気がする。読んだり、聞いたりして、後から獲得した情報と、うる覚えの記憶をたよりに都合の良い心象(イメージ)を作り上げ、それとの比較で、現実の風景を見て、憤慨したり酔ったりしているのかもしれない。

田舎は都市の住民によって知覚され存在する

だいたい人の記憶とか認識ぐらい、あやふやなものはなさそうだ。最新の研究によると、人は無意識に記憶を作り変えながら生きており、本当に信頼できる記憶など存在しないらしい。心理学者のジョン・コントールが著書「記憶は嘘をつく」(講談社 1997年7月)で、豊富な実験結果を紹介しながら、いかに簡単に記憶とか認識を人為的に作り変えられるか詳しく述べている。

まして、その人が潜在的にしても作り変えられることを望んでいる場合には、いともたわいないらしい。「あやつられる心」(トーマスWカイザー&ジャクリーヌLカイザー著 福村出版 1995年9月)も、さもありなんと改めて思ってしまう。

インド哲学者の中村はじめ (1912〜 )・東京大学名誉教授は「絶対のもの、偉大なものの奉じ方、言葉を換えれば、信仰の形は人によって違っていて構わないと思います。自分が納得しやすい形で理解すればいいわけで、極端にいってしまうと、人の数だけ宗教があってもいいのです」(「生老病死の旅路」読売新聞社編 1998年2月)と、サラッと語っていた。

これに対して、司馬遼太郎(1923〜1996)、まったく別の視点から「信仰には不思議な秘密の鍵穴がある」と語っていた。

歎異抄たんにしょうをまとめた親鸞しんらんの弟子の唯円が阿弥陀如来が救ってくれるというけれど本当でしょうか、と師匠の親鸞に質問すると、実は私も分からないと平気で答える。しかし親鸞は、いい人(親鸞の師匠の法然など)がみな言ったから私は信じているんだという。これは信仰というものの不思議な鍵穴を表しています。私は信仰をもっていませんが、信仰には不思議な秘密の鍵穴がある。カチッと開く人には開く鍵穴ですね」(「臓器移植と宗教」―司馬遼太郎が語る日本・未公開講演録 朝日新聞社 1997年7月)

この司馬遼太郎「象徴」や「記号」や「言葉」で、頭の中に作り上げられた心象が触発されるというベルクの説明につながる気がする。そうだとすると、「不思議な鍵穴」や「秘密の鍵穴」を持っているのは、なにも信仰だけではなく、それは、人の脳の機能や働きに係わる本質的な問題のようにも思えてくる。

またまた僕の悪い癖が出てきた。書いていると、どんどん話が横道にそれてしまう。このまま行くと、執拗に過去・現在・未来などの時間の概念と意識の虚構性の問題に取り組み、昨年亡くなった哲学者、大森荘蔵(1921〜1997)元東京大学教授・元放送大学副学長の最期の著作「時は流れず」(青土社 1996年9月第1刷発行)へと、思いを馳せらせてしまいそうである。

話を元に戻そう。ベルクは、杉田がセブンイレブンの赤と緑の看板で壊されていると嘆(なげ)いた田舎の風景の問題にも言及している。

農業は都市よりも古くから存在した。その農業が営まれるところが、都市の発展に伴い、都市の住民によって田舎として知覚され、田舎として存在するようになった。田舎が美意識の対象になり、田舎が田園風景になった。しかも先進国の田舎では、実際に田畑で働いている人は限られ、住居を構えていること以外は、まったく都市生活者のような人たちが増えている。彼らにとって田舎はまず何よりも風景である。だから彼らは田舎らしさの記号を、農家風の建築や手動ポンプの井戸などを保存したいと熱烈に思う。
そして高圧線や野外公告等、風景を損なう近代経済の記号が拡がることに反対する。すなわち農業には無縁な新参者がきわめて忠実な農村風景の守護者になっているのだ。こうした田園に住む都市生活者の趣味趣向が社会の大きな潮流になり、彼らの風景に対する主張が優位に立つようになっている。かつて都市生活者によって発見された田園風景が田舎に対しても押しつけられるようになっている。

なかなか説得的な話だ。ちなみに、かつての日本では農業就業者は50%を超えていたけれど、いまでは5%にも満たないという。

ニュータウンから子供たちが消える

かつての風景というか情景が失われることに対する嘆きの声 ――― 抱いてきた心象が損なわれることに対する不安の声は、田舎や都心に限らず、都市の周辺、郊外からも上がっている。都会が田舎のなかに少しずつ溶解していった郊外は、いままで膨張と拡大しか経験してこなかった。それだけに少子化・高齢化の影響が、とくに深刻なようだ。その模様は評論家、小田光雄(1951〜 )著「郊外の誕生と死」(青弓社 1997年9月第1版発行)などに詳しい。

多摩ニュータウン。東西約14キロ、南北約4キロ。多摩、八王子、町田、稲城の四市にまたがる計画人口約30万人の日本最大のニュータウンである。開発前は、面積の3分の2は山林、残りは農地だった。1963年ごろから調査が行われ、1968年ごろに造成が開始され、1971年には最初の住民が入居。1974~1975年には、その中央の多摩センター駅まで、京王電鉄相模原線と小田急電鉄多摩線が開通し、発展に拍車がかかった。

さらに多摩ニュータウンを中心に開発は周辺地域にも及んだ。僕の子供の頃、遠足などで歩き回った、武蔵野の面影を残す、見渡す限りの丘陵地帯は姿を消し、「見ざる・聞かざる・言わざる」の「三猿」のお土産を買った野猿峠辺りも、立派な舗装道路と戸建住宅が並ぶ地域に変貌した。

多摩ニュータウンは、ゆたかな緑と完備した都市施設で、団塊の世代を中心とする、いわゆるニューファミリーのあこがれの街となった。荒井由美の作詞作曲の「中央フリーウェイ」が大ヒットしたのも、その頃である。左にビール工場、右には競馬場、夜空に続く滑走路などと口ずさみながら、僕もよく中央高速を走ったものである。懐かしい想い出である。

ところがである。まだ建設計画が終わらず、30年も経たないうちに、少子化と高齢化の影響で、いま多摩ニュータウンの小学校は相次いで廃校になり、団地は老朽住宅化し、シャッターを降ろしたままのさびれた商店街、空き室だらけのゴーストタウンになりつつある。そのため、多摩市などでは、若い世代に魅力ある街づくりなど「若者対策」に乗り出しているという(「心細くなる少子化時代」AERA 1998年1月12日号)

「若者に留まってもらう。あるいは外から来てもらうために必要なのは、住宅と仕事の場です。快適で良好な住環境を整備するのに加え、企業の立地を促進する。さらに、市内の全保育所で午後七時までの延長保育をするなど、子育て支援策にも力を入れています。」
 ともかく若者の奪い合いだ。そう多摩市企画課長は語っている。

たしかに多摩市だけを見れば、それでいいのかもしれない。でも、そんな小手先の対応で済む問題なのだろうか。郊外の歴史と発展は、日本全体の人口増、その中での人口の都市への集中、それを背景に生まれた地価は永遠に上昇するという「土地神話」と不可分の関係にあった。その前提が崩れつつある中で、それぞれの市町村が若者の奪い合いをやっても意味はない。もっと本質的なところに立ち返らないと、ゼロサム・ゲームにしかならないだろう。

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少子化・高齢化の進展が良い例だ。14歳以下の子供たちの全人口に占める比率は15%を切った。僕の子供のころの半分以下だ。しかも、出生率は低下する一方だ。「論理的に考えたら子供なんて持てなくなる。なんでも予測できる世の中にしようという今の流れのなかで、出産・育児は予測不可能な冒険のようなものです」こう娘一人の若い夫婦は語り、それで、もう子供は作らないと言っているという。先に紹介したAERAの記事に出ている。

しかし、いくらきちんと予測しても、10年先を言い当てることなんて不可能だと思う。バブル崩壊後は別だ、その前は予測が当たっていた。そう言う人がいるかもしれないが、それこそ「記憶は嘘をつく」である。当たった予測ばかりが強調され、外れた予測については触れられていないだけだ。それで予測が当たった、予測できると錯覚しただけだ。僕の知る限り、予測と名の付くものは半分も当たっていない。半分以下ということは分からないに等しい。

戦争から敗戦の混乱の時代を乗り切ってきた僕たちの両親たち、荒れ狂った文化革命の洗礼をくぐり抜けてきた中国の人たち、あるいは何十年にもわたる戦争をくぐり抜けてきたベトナムやカンボジアの人たち――こういう人たちを思い浮べてみたらどうだろう。

そもそも出産・育児は、人類の誕生以来、予測不可能な冒険だったはずだ。それも生死に関わる冒険だったはずだ。もし、この冒険を僕たちの先祖がしてくれなかったら、いま僕たちは存在しない。それを予測可能だなんて思うのは、それこそ錯覚もいいところである。

ちなみに1946年生まれの哲学者、中島義道・電気通信大学教授は「生きる」ことに関し、次のように語っている(「哲学者のいない国」中島義道著 洋泉社 1997年9月)。  

いろいろ言ったところで自分で実際に生きて納得する回答をつか掴むしかない。自分の人生と別のところに答えはころがっていない。客観的に正しい生き方などどこにもない。自分で決し、たった一度の人生を生きてみて、そこから学びとるしかない。「生きる」ことが人生の目標である。「自分なりの生き方」をはっきり「かたち」にすることこそ人生の目標である。

青臭いけれど、こんな議論を正面からする中で、明日の日本、明日の世界が見えてくるような気がしてならない。教科書で教わったような論理や通り一遍の価値観などをたよりに○×をつけていく――知らず知らずに陥っている、そんな考え方から抜け出す必要があるように思う。