ぼちぼちいこか 「占領下の日本4」草の根ファシズムPDF 

伴 勇貴 1998年04月

極東裁判と草の根ファシズム
「南京1937」と「プライド」

相変わらず南京事件を扱った映画「南京1937」の上映をめぐるトラブルが続いている。つい先日も10月の上映予定で申請されている施設の使用許可で川崎市は苦慮していると報じられた。右翼団体が上映中止を求め、抗議文を配ったり、<街宣車がいせんしゃを出したりしているからだ。

1997年11月から日本各地で上映されているが、妨害が絶えない。たとえば、横浜市の映画館では上映中に自称右翼の男によってスクリーンが切り裂かれる事件が起きた。そのため2週間の予定だった上映が9日間でうち切られた。福岡市の映画館でも不測の事態が懸念され、上映期間が3週間から2週間に短縮されたという。

「南京1937」――ベルリン映画祭で受賞した経歴のある呉子牛ウーツーニウ氏が監督した作品だ。中国人医師と日本人妻の一家を中心にして、日中戦争に翻弄ほんろうされた家族の運命を描いたもので、その中には日本軍による中国人捕虜の集団銃殺の虐殺シーンがあるという。

この対極に位置するのが、たとえば元内閣総理大臣・東條英機 (1884~1948)を通して極東国際軍事裁判(東京裁判)を描いた「プライド 運命の瞬間とき」だろう。津川雅彦 (1940~  )演技は東條英機がのりうつったとしか思えないとか、よくぞタブー視されてきたテーマを真っ正面から取り上げたとか、何かと話題を呼んだ映画だ。

公開前の今年4月、映画や演劇関係の労組や、いわゆる「文化人」らが「映画『プライド』を批判する会」を作って「客観的事実によって判定されている日本の侵略戦争を真正面から否定し、美化している」などと批判し、製作・配給元の東映に公開中止を要求。5月上旬には、中国外務省も「侵略戦争を美化し、第2次世界大戦のA級戦犯・東条英機の功績をたたえる映画製作に衝撃を受け、憤りを感じている」との談話を発表した曰く付きの作品である。

いずれの映画も僕は見ていないし、まして、これが「真実」だとか、「事実」はこうだとか、そう強弁する知見も持ち合わせていない。でも右翼団体や労組や、そしていわゆる「文化人」の、いつもながら「お定まり」の反応が目立つのは寂しい。

すでに敗戦から50年以上も経ち、戦争を知らない世代が大多数を占めている。もう少し冷静に受け止めていいように思う。ちなみに映画評論家の佐藤忠雄(1930~ )も「冷静に鑑賞すれば、ここが違うとか、ここが反省点とかの議論に使える映画なのに、どちらも見る前から、そういう映画があってはならないという動きになったのが残念だ」だと語っていた。

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「南京1937」がつくられた背景には、南京事件は、言われるほどのことはなかったという議論に対するリアクションがあると思う。殺害された数が30万人だったかどうかは証明できないが、この映画では、すべての日本人が悪かったとは言っていないようだ。もし、そうだとすれば中国側にも自制が見られるということで、事実に対して日本人も謙虚であるべきだと思う。

「プライド」も同様だ。

「私は東条元首相を特に英雄化しているとは思わない。映画では、アメリカが余りに中国からの撤兵てっぺいの条件を押し付けてきたので、やむを得ず戦ったという筋を展開しているが、撤兵は当然のこと。むしろ歴史教育で日米開戦の状況が正確に教えられていれば、そんな泣き言、言い訳しかできない人物を首相に持ったことが不幸だと感じるはずだ。南京」も「プライド」も、冷静に観賞すれば、ここが違うとか、ここが反省点とかの議論に使える映画なのに、どちらも見る前から、そういう映画があってはならないという動きになったのが残念だ」(『事実に対して謙虚であるべき』映画評論家・佐藤忠雄 ―― 「サタデーわいど」戦争検証二つの視点 波紋広げた2本の映画」読売新聞 1998年8月15日夕刊)という言葉が心に響く。

「極東国際軍事裁判」

敗戦の翌年の1946年5月から2年半を費やしてA級戦犯28人に対する裁判が行われた。途中死亡の外交官、満鉄総裁、外務大臣の松岡洋右まつおかようすけ(1980~1946)、連合艦隊司令長官、海軍大臣の永野修身ながのおさみ(1980~1947)、精神に異常をきたした社会運動家、満鉄調査部、拓殖大学教授の大川周明(1886~1957)の3人を除く全員に有罪が言い渡された。いわゆる「東京裁判」だ。それについて映画「プライド」の監督、伊藤俊也(1837~ )は次のように語っていた。

「日本人は東条が悪いやつと最初から思い込んでいる。一種の思考停止だ」と問題を提起。そして、次のような見解を述べている。

東京裁判の目的は日本人に、戦争について罪悪感をとことん植え付けることだったと思う。それで日本人は自律的に国家、国民を考えていく意識を突き崩された。東京裁判で南京事件は日本を断罪する材料に利用された面がある。そういう点を踏まえた上で事件を相対化し、検証すべきだ。そうすれば、世界にも自信を持って1つの教訓として提示できると思う。

日本は確かに加害者としての負荷を背負う。しかし、検証する者にこれまでとは違った態度がないと、日中間の新しい関係は生まれない。映画で東条元首相を中心に置いたのは刺激的で、同首相は軍官僚と結び付いた財界、教育、文化人らの支えの中で号令をとった、もっと言えば帝国主義国家の歯車の一つとして動いた人物にすぎず、その点を把握すれば、まともに歴史を見据える視点が養えると思う。

戦後、すべての責任を一握りの軍閥政治家に負わせた。たしかに彼らはそれに値する責任を持っていたとは思うが、彼らに責任を負わせることで免罪されたという意識が、今もって無責任な日本人をつくっているような気がする。

映画が上映されてから、たくさんの手紙をもらった。それらを読むと、戦後50年余の間に「何となくアメリカに仕切られた」「日本にも多少の言い分があるだろうに」という、鬱屈うっくつした気分が日本人の心の底辺に澱のようにたまっているのではないかという気持ちにさせられた。

観客には若い人が予想以上に多かった。戦争について少し異なった意見を言うと、戦争を美化しているとか、反動呼ばわりされる。何かおかしいという思いに、映画が火をつけたのではないか。ヒットした裏にそうした背景があったのは確かだと思う(『教訓として生かしたい』映画監督・伊藤俊也――「サタデーわいど」戦争検証2つの視点 波紋広げた2本の映画」読売新聞 1998年8月15日夕刊)。

僕自身、幼い頃に、日本を戦争に駆り立てた悪者の軍人などが裁かれた。その張本人が東条英機だ。そんな認識を無批判に植え付けられたように思う。しかし、高校生の頃だったと思う。本当に勝者が敗者を公正に裁くことができるのだろうか、無理があったのではないかなどと疑問を持つようになった。

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事実、「東京裁判」でも、その最終結論はともかく、以下の基本的な、それでいて重要な意味を持つ問題が大きな争点になったという。

(1)戦勝国が平和に対する罪を裁けるのか。それは平等原理に反しないか。
(2)戦争は国家の行為であり、個人に責任を帰属できるのか。
(3)戦争遂行過程での殺害行為を違法と言えるのか。
(4)部下の行為について上官に刑事責任を問えるのか。  

日本側弁護団副団長と東條英機の主任弁護士を務めた清瀬一郎(1884~1967)弁護人が「この法廷には平和と人道に対する罪を裁く権利がない」と動議を提出。それに対して「戦争は国際法上どんな戦争であれ犯罪ではない。検事側はあたかも戦勝国の殺人は合法的だが敗戦国の殺人は非合法だと言うに等しい」とアメリカ人のブレイクニー(1908~1963)弁護人も発言。インド代表のパール(1886~1967)判事は勝利者による復讐だとして、全被告人の無罪を主張。オランダ代表のレーリング(1906~1985)判事も、元外務大臣・総理大臣の広田弘毅(1878~1948)、元大臣で東條英機首相誕生に一役買ったと言われる木戸幸一(1889~1977)、元外務大臣の重光葵しげみつまもる(1887~1957)は無罪だと述べたという。

こうした発言があったという事実を聞くと、もっと早い時期に「東京裁判」での事実関係、そのやり取りがもっと公にされても良かったのではないかとやまれる。

「草の根のファシズム」と「民衆の側の戦争責任」

冷静に考えれば「東京裁判」は確かに問題の多い裁判だったと思う。そこで死刑になった東条英機などの評価もさることながら、A級戦犯となった人たちのその後の処遇とか社会的な復権を見ると、ご都合主義というそしりは免れないだろう。そういうくすぶった感情が日本人の奥底によどんでいることを思えば、映画「プライド」は製作されるべくして製作されたと言えなくもない。

しかも、その前兆は、すでにいろいろ出ていた。藤岡信勝(1943〜 )東京大学教育学部教授の「教科書が教えない歴史」(藤岡信勝・自由主義史観研究会著 産経新聞ニュースサービス)シリーズが大きな話題を呼び、その第2巻で「東京裁判」(1996年12月)が取り上げられたし、東条英機を悪く言うだけでは済まないという声が次第に大きくなり、ノンフィクション作家・佐藤早苗(1934〜 )著の東条英機 封印された事実」(講談社 1995年8月)などという本も出始めていた。

ともかく「東京裁判」によって戦争責任はごく一部のものという認識が流布し、それによって「一般国民」は免罪符を与えられたようになってしまったという雰囲気が出来たのが気に入らない。そのことの方が、現在との関わりでは、僕には、はるかに問題のように思えてならない。いまの日本社会の本質に関わる重大な問題のように思えてならない。

敗戦の翌月、1945年9月の議会で、東久邇宮首相は、誰を責め、何をとがめることもないのであって、軍も、官も、民も、静かに反省し、総懺悔しようではないかという、いわゆ「一億総懺悔いちおくそうざんげ」論を展開した。その根底にあるのは「戦争責任=敗戦責任」という考え方であった。

この「総懺悔そうざんげ」が責任の所在を曖昧にしてしまう、いい加減なものだ。そこに「東京裁判」によって「戦争責任=開戦責任そして戦時中に残虐行為」という構図が持ち込まれた。そして、「一般国民」には戦争責任はないという意識が日本社会に定着してしまった。「開戦責任」や「残虐行為」であれば、一般国民は合法的に国家の命令に従っただけであるし、すべての国民の問題ではない ―― そういう納得になってしまったように思う。

いったい「一般国民」は、戦時中、何をやっていたんだ。洗脳(教育)されていたのだから、情報を遮断されていたのだから仕方がない。政府が悪い、政府にだまされていたのだ――そんなような言い訳をいくら聞かされても納得できなかい。もし、だまされていたというのであれば、だまさされたことに責任はないのか。いま流に言えば、「一般国民」の「自己責任」はどうなっているのかということである。ずっと、もやもやとしていた。

それを部分的にせよ、晴らしてくれたのが歴史学者、中央大学商学部教授の吉見義明(1946〜 )著の「草の根のファシズム」(東京大学出版会 1987年7月発行)と政治学者、法政大学社科学部教授の高橋彦博(1931〜 )著の「民衆の側の戦争責任」(青木書店 1989年4月発行)の2冊の本だった。それには想像していた通り、少なくとも戦況が悪化するまでは、戦争に積極的に協力し、底辺から支えていた「一般国民」の姿が生々しく描き出されていた。

ちなみに「草の根のファシズム」の中では、学歴の有無を問わず、ほとんどの「一般国民」が戦争に肯定的だった。それぞれのレベルで、戦争を正当化し、肯定していた。農村の生活より軍隊の生活の方が恵まれ、楽であるとか、在郷軍人になると村の有力者になれるとか、口減らしになるし兵役義援金が貰えて助かるとか、進んで兵役に赴いた状況が描かれていた。みんながみんな、赤紙がきて悲嘆したわけではなかった。そんなことが「一般国民」自身の記録で明らかにされていた。

文部省社会教育局編「昭和15年度(1940年度)壮丁思想調査概況」によれば、壮丁そうてい(成年男子)の8割近くが対中国戦争を「どんなに苦しくても戦争の目的を達するまで頑張らなければならない」と答えていた。中でも師範学校卒がもっとも戦争に対して協力的で同調的だった。戦争の長期化に伴うインフレ・物資不足で国民の不満はうっせき鬱積したが、勝てる戦争・正義の戦争なのだから耐えなければならないという戦争観などから不満の爆発は抑えられていた。

1941年12月の真珠湾攻撃や1942年2月のシンガポール占領に国民は熱狂した。「この戦争は明るい」という見方が強かった。「国民は戦果に興奮しており、このため挙国一致体制はますます強化されたる感深し」「何ら異常認められず、治安上不安なし」(内務省警保局保安課「開戦に伴う治安情勢――その二」)

こんな公的報告が残っている。こうした国民の間に厭戦えんせん気分が高まるのは、戦況が悪化し、生活が窮乏してからだ。1944年7月、サイパン島が陥落し、そこから飛び立ったB29による本土爆撃が始まった1944年11月以降、一気に表面化した。1945年に入ってからの焼夷弾を使った都市の無差別絨毯爆撃じゅうたんばくげき)のもたらした影響がなかでも大きかったという。

「戦局の前途に対する不安感ないしは食糧不足、闇物価の横行に基づく生活困難などにより不用意の間に厭戦的えんせんてき気分ないしは和平的言動を漏らす者少なからず」「ことに最近における敵の比島および硫黄島、沖縄などに対する侵冦しんこうならびに本土空襲の激化など戦局の急展開に伴い、一般民心は著しく悲観的、敗戦的感情を濃化しつつある」(内務省警保局保安課「最近における民心の動向」1945年4月)、1945年6月の沖縄失陥の発表を聞いても、もはや民衆はただ敗戦感を極度に深めただけだった(内務省警保局保安課「沖縄失陥に伴う民心の動向」)。  

こうした公的報告だけならまだ良い。つい先頃、1990〜1993年のルワンダ紛争のテレビ報道特集番組で見たのと大差ない人間模様が日本でも繰り広げられたようだ。「草の根のファシズム」と「民衆の側の戦争責任」に書かれていた第2次世界大戦の戦中戦後の日本の模様と、アフリカ中央部のルアンダの内戦に関するテレビの報道とがダブり、改めて人間は難しい生き物だと思った。

紛争が紛争に止まらず、大量虐殺という悲惨な事態に発展したことについては、ルアンダのかつての宗主国、ベルギーの植民地政策にも責任がある、その根底には農耕民のフツ族と牧畜民のツチ族の民族問題があるなどと解説されるが、扇動と疑心暗鬼で、仲良く暮らしていた隣人たち、数の上では圧倒的に普通の「良い人」たちが殺し合う虐殺の主役となってしまったことは忘れてはならない。ユーゴスラビア、バルカン半島南部で、この1998年2月に発生したコソボ紛争も同じようなものだと聞かされると、程度の差こそあれ、とても人ごとのようには思えなかった。

隣人の変身と積極的な戦争協力

突然、多くの「良い人」たちが怖い存在に変わる。それも、その当人が良いと信じてである―――あり得ないことのようだが、振り返ると、この日本でもあった。第2次世界大戦中にあった。「一般国民」を戦争に協力的にする上で直接的に大きな役割を果たしたのは、身近にいる誰もが「良い人」と認める人だった。その「良い人」たちが、軍部などが主張する「ファシズムの媒介者・受容者」として積極的に動いた。

身近にいる普通の人たちが戦争に最も協力的な「ファシズムの媒介者・受容者」に変貌した。条件さえ整えれば、人間を変えるのは容易だと読み、そのために当時の権力構造の中枢とその周辺の人たちは、それを意図的、組織的に画策して行った。その事例が「草の根のファシズム」に紹介されている。

例えば、「兵隊バカ」とまで呼ばれた岩手県の帝国在郷軍人会分会長。若者に軍人になることを勧め、出兵した兵士には、こまめに故郷の様子を知らせる会報を送る。そんな日常活動が評価され、県知事に表彰までされる。

しかし、彼の行動は県知事から表彰されることが目的ではなかった。それが目的だったのならば、まだタチが良かったのかもしれない。単なる軍国主義者以上に、児童にしたわれる教育熱心な小学校教員だった。郷土を愛し、青年学校指導員、青年訓練所指導員あるいは少年教護委員などとして献身的に活動していた。

彼は看護兵として従軍した日露戦争の悲惨さから戦争にそなえて子供は強く勇ましく正しく育てなければならないと信念を持ち、少年団やボーイ・スカウトの育成、あるいは青年団の指導に力を注ぐ。「兵隊バカ」は、その延長線にあった。そして、恐れていた戦争が始まった。彼はますます精力的に働く。青年を軍隊に志願させる。入隊兵の送迎や世話をする。入隊兵の家庭を慰問する。また、激励と連絡のため会報を発行する。1942年半ばから戦局が悪化し、村出身の戦死者が急増する中でも、彼は先頭に立って兵士を送り出し、遺族を歩き回っては激励し続ける。地域と濃密な感情でつながっている、このような人物を在郷軍人会などを通じて組織化したことが体制維持に大きな役割を果たしたことは疑いない。

ところで、その彼の敗戦後の行動だけれど、彼が送り出した者が還らなかったことに対する贖罪しょくざいの意識は強く、平和観音を作るなど様々な奉仕活動を続けたという。だが、第二次世界大戦での日本の戦いは「聖戦」であったという認識は彼の中で強固に存続し、戦後の一連の奉仕活動も、それが背景にあってのことだと前掲の「草の根のファシズム」ではまとめている。

私は悔いていない

自己を正当化するには「聖戦」観を維持するしかなかったのだろう。これを第三者が批判するのは難しい。さもなければ、個人的にどれだけ深い悩みの中に放り出されるかは容易に想像できる。「ファシズムの媒介者・受容者」の中には天皇の玉音放送を聞いて、ノイローゼ状態に陥った者が少なくないという。当然だろう。

しかし、それもどちらかと言うと男性に多い。偏見はないけれど、文献を読む限り、女性には受け取り方が違う人たちが多いようだ。「母姉会」や「処女会」を組織し、日曜休日を全部返上し、修養と悩むごとの相談にあてたという女性は今も意気軒昂いきけんこうだ。

戦争末期には、疎開者を迎え入れ、物資欠乏の中で、さくじパン(米糠こめぬかのパン)、カボチャ饅頭まんじゅう、ならの実、とちの実などの食べ方を工夫し、かゆをすすり、岩塩を牛馬とともにわけあって食べるような生活の中で、ひたすら戦争に協力した。その彼女は、次のように回想している。それが、深いところで中国やアジアとの戦争を支えていたといった後悔とか戸惑いとかはまったく感じられない。

私の胸を割って見せたい。滅私奉公めっしほうこう忠君愛国ちゅうくんあいこく、この赤誠せきせいの血潮のみなぎる我が胸を。………その当時を担った私どもは実に真剣だった。滅私奉公 ……… 私ども婦人は現在であってもその家庭においては、夫のため、子のため滅私奉公ではないだろうか。あの当時の私どもは、国を思う心は家庭を思う心と同じだった。小山婦人会員が一つ心になって困難に当たったことを、今でも誇りとさえ思っている。

東京帝国大学英文科卒の作家・高見順(1907〜1965)「敗戦日記」(文春文庫 新装版 1991年)にある、敗戦当日の模様の描写とは、あまりにも対照的である。

8月15日
警報。情報を聞こうとすると、ラジオが正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。「何事だろう」明日、戦争終結について発表があると言ったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜るのだろうか。それとも、――あるいはその逆か。敵機来襲が変だった。
休戦ならもう来ないだろうに………。
12時近くなった。12時、時報。君が代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であった。君が代奏楽。続いて内閣告諭。経過の発表。―― 遂に敗けたのだ。戦いに敗れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。
 仕度をした。駅は、いつもと少しも変わらない。どこかのおかみさんが中学生に向かって、「お昼に何か大変な放送があるって話だが、なんだったの」と尋ねる。中学生は困ったように顔を下に向けて小声で何か言った。「え? え?」とおかみさんは大きな声で聞き返している。
電車の中も平日と変わらなかった。平日よりもいくらかあいている。大船で席があいた。腰かけようとすると、前の男が汚いドタ靴をこっちの席の上にかけている。黙ってその上に尻を向けた。男は靴をひっこめて、私を睨んだ。新田を呼んで横に腰かけさせた。3人掛けにした。前は2人で頑張っている。ドタ靴の男は軍曹だった。

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僕にも占領時代の記憶が残っている。初めて口にした英語は「ギブミー・チョコレート」だった。駐屯地のフェンスによじ登って「ギブミー・チョコレート」とみんなで大声で叫んだ。貰ったチョコレートがすごく旨かった――。まだ車が少なく道路で遊ぶのが普通だった。その道をカーキ色のジープがよく走っていた。背が高くて片言の日本語を話す外人が周りにいた。そんな1人が酔っぱらった親父を抱えて家に来てびっくりした。その人は軍服を着ていたが、牧師だった。

そんな記憶が、学校でDDTを頭からかけられたこと、「サツマイモ」、「すいとん」、「電気パン」。磁石を使っての鉄屑ひろい、空き地での野菜作り、パンツ一つでの多摩川での水遊び、水田でのドジョウ取り、ビンを持ってのイナゴ取り、「蜂の子とり」、「木いちご集め」、「イチジク、ビワ、ザクロ、カキの盗み撮り」、ひまわりが群生する空き地での隠れん坊などと交錯する。

満員、鈴なりで、荷物のように網棚に乗せられて蒸気機関車で行った田舎への買い出し ─── すると祖母に必ず白いご飯に生卵をかけて食べさせてくれたこと、好きなだけ取って食べて良いと言われた庭の柿が甘くておいしかったことなどとダブって浮かんでくる。

そして、気がついたら、アメリカのテレビ番組 ーーー 西部劇、探偵ドラマ、刑事ドラマなどに夢中になっていた。人気番組名と日本での放送開始年は次の通り。

●1956年 スーパーマン、ハイウェイ・パトロール
●1957年 ヒチコック劇場、アイ・ラブ・ルーシー
●1958年 ローン・レンジャー、モーガン警部、Gメン、コルト45
●1959年 ローハイド、ガンスモーク、拳銃無宿、ペリー・メイスン
●1960年 サンセット77、ミステリーゾーン、タイトロープ、ライフルマン
●1961年 アンタッチャブル、サーフサイド6、ブロンコ
●1962年 ベン・ケーシー、ルート66

そして、キッチンには大型電気冷蔵庫、中にはミルクやジュースの大きな瓶が入っているアメリカ生活に憧れ、ボーイフレンドのオープンカーにのってダンスパーティに出かけるポニーテイルには心をときめかせていた。

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自分自身がそんな少年時代を過ごしたものだから、なかなか心情に係わることはコメントしにくい。だが、敗戦直後の日本政府の中枢にいた人たち、その人たちに結びついていた一部の企業や特権階級の人たち、それと、いわゆるインテリと称される一般人たち――この人たちの発言や動きを調べていくと、最近の日本の状況に酷似するものが感じられてくる。これだけは間違いなさそうだ。

バブル崩壊がそうだった。国家財政は突然に破綻したわけではない。国債依存度が上昇の一途をたどっていたことは秘密でもなんでもなかった。このまま推移すれば破綻することは明らかだった。それでも政治家や官僚や企業のみならず一般国民も自分に関係する予算の増額を求めた。企業だけではない個人もひと儲けを狙ってマネーゲームに奔走した。マネーゲームをしないのは馬鹿だとでも言わんばかりに煽った評論家もかなりいた。

マスコミも、いかにもマネーゲームが永遠に続くようなことを盛んに書きまくった。でも崩壊が露見しそうになると、住専問題が典型だが、大物関係者はそしらぬ顔をして逃げた。いち早くババをつかませて逃げた。評論家は一転して政府や金融機関を叩く側に向かった。マスコミも一斉に批判の矛先を揃えた。過去の振る舞いは棚上げし、そして最後は金融システムが崩壊すると社会不安が起こるの一点張りで税金の投入だ。

その中で次々と不祥事件が暴露されたが、それとても一部にしかすぎない。大蔵省や通産省の高級官僚との黒い癒着(ゆちゃく)ぶりが連日、マスコミを賑わし、官僚自身が告発文書をマスコミ関係者などにばらまいた。あちらがやるなら、こちらもやる。真摯に反省するという姿勢より、いつの間にか組織内の権力闘争にすり替わってしまった。「目くそ鼻くそ」「五十歩百歩」の議論で、「イザリの蹴(け)り合い」になった。

なんともはやなげかわしい状況だ。やはり敗戦後のドサクサと同じような時代にいまはあるなかもしれない。

(1998年春)