ぼちぼちいこか 「占領下の日本3」一億総懺悔で曖昧化PDF
伴 勇貴 1998年04月
大蔵省の指導で日本勧業銀行が開業資金を貸し付ける
性的慰安施設の開業資金は、内務省から大蔵省に話が行き、日本勧業銀行が業者の振り出す手形を割り引くという流れで提供された。担保もろくに取らず、手形を割り引くといっても形式だけのもので、くれてやるのに等しかった。いま総会屋との癒着が大きな問題となっている第一勧業銀行の前身である。この頃から、胡散臭い話とつながりのある銀行である。日本勧業銀行は、明治29年(1896年)に制定された日本勧業銀行法に基づいて、翌明治30年(1897年)に長期資金供給の専門金融機関として開業した特殊銀行である。戦後の昭和23年(1948年)にGHQが特殊銀行廃止の方針を打ち出したため、昭和25年(1950年)に普通銀行に転換し、さらに1971年、第一銀行と合併して第一勧業銀行となり、現在に至る。
大蔵省の中心人物は後に首相になった池田勇人で、主税局長だった。業界代表者と会ったとき、開口一番「金はいくらぐらいかかる?」と単刀直入に聞いてきて、それで「200万円もあれば……」としどろもどろになって答えたところ、「なにたった200万円かね。たとえ1億円かかっても、それで大和(やまと)撫子(なでしこ)の純血が守られれば、安いもんだ」と無造作(むぞうさ)に言った。当時の物価水準からすれば、今はその千倍ぐらいにはなる金額である。最終的に5000万円(今に換算すれば500億円ぐらい)を限度に、貸付が行われることになった。
特殊慰安施設協会(RAA)―― 後に、なんと国際親善協会という偽善的な名称に変更される―― の設立宣言式は、第二次世界大戦の「終戦の日」、昭和20年8月15日のわずか2週間後、玉音放送から2週間も経っていない、昭和20年8月28日、皇居前広場で役人も出席して行われた。しかも、その時には、もう第1号店が営業を開始していた。ベッドは国立病院から運び込まれ、商店から姿を消して久しい化粧クリームもドラム缶で運び込まれ、官民一体となって、8月27日には、第1号店が大井で営業を開始した。
吉原、千住、玉ノ井などから娼妓(売春婦)が集められた。疎開していた者は地元警察を通じて帰京を促された。さらに新聞広告や大きな看板などを通じて女性の募集が大々的に行われた。
●新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む
●女事務員募集。年齢18歳以上25歳まで。宿舎・被服・食糧など全部支給
●衣食住高給支給 前借りにも応ず、地方よりの応募者には旅費支給
こうした広告で人を集めた。東京では1000人の募集に対して4000人も集まるというほど応募者が殺到した。「食うためには何でもする」という厳しい時代であった。仕事の中身を慰安婦だと告げられるとほとんどが躊躇したけれど、それで立ち去る女性もほとんどいなかったのが実態だった。「国のために」という文句も、彼女らが自分自身を納得させるのにかなり役だったようだという。
昭和20年10月には、東京だけで、立川、福生、調布、三田など10ヶ所で営業が行われていた。東京以外でも相次いで特殊慰安施設が設けられた。第1号店の開店は、横浜9月3日、京都9月11日、そして大阪では9月18日であった。
各店とも盛況をきわめた。若い、性に飢え、慰安に飢え、しかも戦時特別給与で懐が暖かかったから、激戦地から集結してくる連合軍の将兵は、湯水のように乱費したという。そうなることは想像に難くはなかった。儲かるなら何でもやる――日頃唱えている主義主張など、すぐに変えて儲け話には飛びつく。そういう類の人物はいつの時代にもいる。その後「人類みな兄弟」などといい、道徳の大切さをもっともらしく説いた右翼の大物、笹川良一もそうだった。
笹川は、昭和6年に国粋大衆党を結成し、飛行機20数機を陸軍に献納するなど積極的に軍に協力していた。笹川も、小佐野や児玉のように軍需物資の放出の恩恵にあずかったのではないだろうか。笹川は資本百数十万円を投じて特殊慰安施設を作った。9月に大阪で店開きした特殊慰安施設の第1号店、アメリカン倶楽部は、笹川が作って右翼団体の国粋同盟に運営させたものだという。
12月、笹川はA級戦犯として巣鴨に拘束された。しかし、獄中では、児玉と同じように検察に積極的に協力し、出獄後に備えたという。出獄後、競艇を始め、その胴元におさまり、豊富な寺銭をバックに政界や右翼の黒幕として権勢を誇ったことは記憶に新しい。小佐野、児玉、笹川――共通するものがたくさんあるように見える。
日本の公娼制度はデモクラシーの理想に違反する
もっとも、日本政府が肩入れし、大急ぎで作らせた特殊慰安施設に対するアメリカの反応は必ずしも芳しくはなかった。多くの将兵で盛況をきわめたというが、ダンスホール止まりで、まったく利用しない将兵もたくさんいたという。選りすぐりを用意した日本側のもてなしに、「据え膳」を食わない人たちもたくさんいたという。
日本勧業銀行の手形割引という形での業者に対する貸し出しはGHQの監査に引っ掛かって中止させられてしまった。担保も不確かな、こんないい加減な貸し出しは認められないという指摘だった。それに対して大蔵省などが「ごもっともであるが、実はこれはあなた方の将兵を慰安するという特殊目的から、例外的扱いとして貸し付けているのだ」と弁解したところ、「その配慮はまったく無用。今後は一切このような特別貸付けは停止すべきである」と逆に厳しく叱責(しっせき)された。昭和21年1月10日付けの300万円の貸し出しが最期であった。実際に貸し出された金額は5000万円の枠に対して3300万円に止まったという。
この日本勧業銀行の監査の日付は定かではないが、最期の貸し出しの日付から判断すれば、昭和21年1月のことではないだろうか。それが一つのきっかけとなって、昭和21年1月21日にGHQから「公娼(こうしょう)制度廃止に関する覚書」が出されたのではないだろうか。米国の婦人団体からも圧力があったらしいという。
覚書は「日本の公娼制度はデモクラシーの理想に違反するから、日本政府は直ちに従来公娼を許容した一切の法律及び法令を廃棄して、その諸法律の下に売春を業務に契約した一切を破棄せしめよ」というもので、マッカーサー元帥代理のアレン中佐から日本政府に渡された。日本政府はその指令に基づいて、昭和21年2月20日までに「娼妓取締規則」および関連規則を廃止した。
形式上、これで日本からは公娼が消えたことになった。でも、本当に利いたのは、昭和21年3月10日、GHQが占領軍の将兵に特殊慰安施設の利用を禁止したことであった。性病が蔓延したためであった。全施設にVP(梅毒地帯)と付記された「オフ・リミット」の黄色い看板が掲げられた。
時の政府は「一億総懺悔」を繰り返す
こんなメチャクチャをやりながら、当時の東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)首相は口を開けば「一億総ざんげ懺悔」を繰り返していた。「みんなでいっしょにやったことだけど、みんな間違っていた。だからみんな悔い改めよう。済んでしまったことなのだから、誰が悪かったとか、何が悪かったなどと細かいことをつべこべ言うことはやめよう。同じ日本人なのだから、力を合わせて、これから頑張ろう」
こういうニュアンスである。しかも、何度も言うけれど、その内閣には児玉誉士夫のような人物も入っていたにもかかわらずである。こんなわけのわからない呪文のようなことを唱えて、いい影響を与えるはずはない。
この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔(ざんげ)しなければならぬと思ふ。全国民総懺悔(そうざんげ)することが、我が国再建第一歩で、わが国内団結の第一歩であると信ずる(昭和20年8月28日の記者会見 「朝日新聞」昭和20年8月30日) 我々がいたずらに過去に遡(さかのぼ)って、誰を責め、何を咎(とが)むることもないのでありますが、前線も銃後も軍も官も民も国民ことごとく静かに反省する所がなければなりませぬ。我々は今こそ総懺悔(そうざんげ)をして神の前に一切の邪心(じゃしん)を洗い浄め(中略)帝国将来の進運を開くべきであると思います。(昭和20年9月5日 施政方針演説) 「戦争責任を問うものでもなければ、敗戦責任を問うものでもなかった。国民全体に懺悔(ざんげ)を求めるなかで、かえって軍指導部などの一部の強行論者により招かれたことで、迷惑を被ったのは国民だ ―― こういう被害者意識だけを強める結果となってしまった。「国民は『なぜ負けたのか』という敗戦責任はもちろんのこと、『なぜ戦争を止めることができなかったのか』という戦争責任についても、これを自分の問題として考えようとする態度に欠けていた」 こういう批判が出てもやむを得ないであろう。(「一億総懺悔論の波紋」川島高峰・早稲田大学非常勤講師) GHQの民主化指令にも対応できず、10月には早くも総辞職に追い込まれてしまった。2ヶ月あまりの短い命の内閣であった。東久邇(ひがしくに)に、多くを期待すること自体が、もともと無理な話であった。東条英機内閣潰しに奔走し、ポツダム宣言を受諾し、これからは国体(こくたい)護持(ごじ)(天皇制擁護(ようご))を絶対の課題にしなかればならないとする近衛(このえ)文(ふみ)麻呂(まろ)を中心とする宮廷グループなどの日本の支配層により担(かつ)ぎ出された人物である。陸軍大将だったから陸軍を統制できるであろう、皇室だからその権威を利用して国民の動揺も抑えることができるだろう ―― そういう狙いで生まれた傀儡(かいらい)の終戦処理内閣だったからである。 「総懺悔(そうざんげ)をして神の前に一切の邪心(じゃしん)を洗い清め……」などと訴えるだけで、有能な人材を見分ける術にも、有能な人材を登用する器量にも欠けていたという。皇族として担がれてきた者の限界であろう。その後、皇族の身分を失ってから、新興宗教「ひがしくに教」を興し、その教祖として終わる運命が垣間見(かいまみ)られるような気がする。東久邇(ひがしくに)は、所詮(しょせん)、政争の道具として使われた被害者なのだろう。 東久邇(ひがしくに)を担ぎ出し、操(あやつ)った、近衛文麿(このえふみまろ)も考えてみれば哀れである。学習院初等科・中等科から第一高等学校へて京都帝国大学法科大学を卒業。貴族院議長、枢密院議長、そして首相と華々しい経歴を持つ宮廷政治家であった。華族界のホープであった。昭和20年2月、いわゆる近衛上奏(じょうそう)文(ぶん)を皇に奉呈したのも、その背景からだろう。敗戦は避けられない、でも敗戦より恐ろしいのは共産革命で、国体(こくたい)護持(ごじ)(天皇制擁護(ようご))を絶対の課題にしなければならないと主張し、その延長線上で東久邇(ひがしくに)内閣を作り、その副総理格の国務大臣におさまったところまでは良かった。でも、状況は彼の思惑を許さなかった。 若いころ、河上(かわかみ)肇(はじめ)の教えを受け、イギリスの作家オスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』を翻訳・発表し、発売禁止処分を受けた経歴のある人物も、結局は、華族界のホープにして老獪(ろうかい)な宮廷政治家の域を出られなかったのだろう。そうでなければ占領軍専用の慰安施設などという発想が生まれてくるわけがない。 戦犯に指名され、昭和20年12月16日、服毒自殺した。彼が総辞職に追い込んだ東条英機も昭和23年12月、戦犯として処刑されてしまった。 そして残ったのは、激しい内部での権力闘争の狭間で、風見鶏(かざみどり)よろしく振る舞ったような人たちである。A級戦犯に指名されて巣鴨に拘束されると、すぐに恭順(きょうじゅん)の意を示して出獄に備え、その後、政財界で活躍した人たちが少なくない。それを思うと、近衛に対しても複雑な気持ちを禁じ得ない。 それと、降伏条件を聞きに行くという気の重い任務も潔(いさぎよ)く引き受け、戻ってきては、近衛の占領軍兵士の慰安という提案に対して、閣議でただ1人反対の意見を述べた、陸軍参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将である。一連の資料を読んでいて、ただ1人、清々しく感じられた人物である。どのような人物であったのか、もっと知りたくなった。折を見て資料を探したいと思う。 (1998年春 つづく)