ぼちぼちいこか 「占領下の日本2」軍事物質と慰安施設 PDF

伴 勇貴 1997年12月

「隠密裡に膨大な軍事物資を処分する」

確かに一般の人たちの対応は今ではなかなか理解しにくい奇妙なものだった。でも、日本政府や軍部の要職にあった人たちや、その人たちと組んだ特権階級の人たちの行動はもっとメチャクチャだった。大金や権力が絡んでいただけにタチははるかに悪かった。その一つが隠密裡おんみつりに行われた膨大な軍事物資の緊急処分 ―― 仲間内での横領だ。

おおよそは聞いていたが、詳細を知ると、驚くことばかりだった。遅すぎたが、占領下時代の資料公開が進み、最近、いろいろな事実が明らかにされてきている。研究論文に加えて、先に紹介した「昭和20年/1945年」(小学館)など、一般の人にも読みやすい本も出版されてきている。無我夢中で過ごしてきた過去を、ふと振り返りたくなった者には助かる。同書では次のように説明されていた。

昭和20年8月14日午前10時50分から12時に御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受託が最終的に決定された。そのあと直ちに記者会見でポツダム宣言の受諾が伝えられ、翌日の紙面の作りに各紙がとりかかった。ところが、その間、鈴木貫太郎内閣は軍事物資の緊急処分を決定し、備蓄していた膨大な軍事物資を処分することを軍に命じた(「軍事物資の放出」宮崎章・筑波大学付属駒場中・高等学校教諭)。総辞職する前日で、どさくさ紛れにやったとしか思えない。

翌8月15日、国民は茫然として玉音放送を聞いた。ところが、陸海軍の一部の人たちは、前日に出された処分命令を実施に移し、同時に関係書類を次々と焼却していたのである。今となっては、詳細は知るすべはない。しかし、米戦略爆撃調査団の調査報告によると、自動車・ガソリン・アルミニウム・銅など当時の金額にして2400億円、その時の日本経済の1年半分を支えられる物資を日本軍は持っていたという。「M資金」の話が生まれてくる根源である。その膨大な資産が隠密裡おんみつりに好き勝手に処分されてしまった。

いまの貨幣価値に換算したら10兆円を下ることはあるまい。これが軍とつるんだ一部の資本家や個人などにより隠匿おんみつされた。合法的な形をとったのだろうが、横領以外の何ものでもない。8月15日に総辞職した鈴木貫太郎(1868〜1948)を継いで8月17日に組閣された東久邇宮稔彦王ひがしくにのみやなるひこおう(1887〜1990)内閣は、この軍事物資の緊急処分命令を、わずか2週間あまりで、8月28日には取り消した。でも、時すでに遅かった。合法化されていたわずかの間に、日本復興に重要な役割を果たすはずだった貴重な物資が特権階級の仲間内で分配されてしまった。しかも関係書類が破棄されてしまい、その詳細を立証することも、不可能となってしまった。

その直後の9月4日に開会された第88帝国議会で、これを問題として取り上げたのはただ1人、水平社の中心的指導者で戦後部落解放同盟を結成した松本次一郎(1887〜1966)だけだった。松本は「戦災者救済に関する質問」を書面で提出し、敗戦直後に隠密裡に行われた軍事物資の緊急処分を問題にし、その回収と戦災者への分配を求めた。ところが、その質問は黙殺されてしまった(前出「軍事物資の放出」)。  

この時の国会議員たちが軍事物資の放出の恩恵にあずかったかどうかは知らない。しかし、この時の国会議員全員が放出に直接に関わった人たちに負けず劣らず大きな罪を負っている。なにしろ軍事物資を国民の手に戻す機会を永遠に抹殺まっさつしてしまったのだから ―― 。軍事物資の放出で、うまく立ち回ったのは、個人では小佐野賢治と児玉誉志男の2人だと言われている。広く知られていることだが、念のために、その概略を紹介する。

小佐野賢治おさのけんじ(1917〜1986)は昭和15年に上京し、自動車部品の販売で海軍などとの関係を深め、そのツテで敗戦の混乱期の軍事物資の放出で財をなしたとして知られる。どのくらいのあぶく銭を手にしたのかは分からないが、昭和20年に強羅ごうらホテル・熱海ホテル・山中湖ホテルなどを相次いで買収し、昭和22年には国際興業を設立しているのだから半端な金額でないことは確かだ。政商として君臨し、その後、ロッキード事件で田中角栄との密接な関係が問題にもなった。

児玉誉士夫(1911〜1984)昭和16年に海軍航空本部嘱託となり、上海に「児玉機関」を設立し、物資調達や宣撫せんぶ工作に奔走していた。「宣撫せんぶ」とは、「占領地区の住民に自国の本意を理解させて人心を安定させる」ことである。敗戦後、A級戦犯として巣鴨刑務所に拘束されるが、12月に拘束されるまでの間に、「児玉機関」の軍事物資を処分し隠匿した。

小佐野と児玉の話はあまりにも有名だ。だが、児玉が巣鴨刑務所に拘束される前、東久邇宮内閣の参与であったとは知らなかった。知って唖然あぜんとした。軍事物資の緊急処分でたっぷりとふところを肥やした人物が、その処分命令の取り消しを行った内閣の一員であったのである。八百長もいいところで、取り消し命令がいかに無意味な茶番劇だったか、推して知るべしだ。松本次一郎の軍事物資の処分を問題にする国会質問が黙殺されたのも当然である。

なにしろ児玉は参与になる時に「今度はマッカーサー元帥の指揮に従い、お互いに要領よくやろう」と言った。そして獄中でも検察に積極的に協力し、出獄後に備えたという。そして出獄すると、手にしたあぶく銭で鳩山一郎(1883〜1959)や河野一郎(1898〜1965)の保守党再建を支援する一方、青年思想研究会を主催するなど右翼の重鎮として政財界に隠然たる影響力を行使したのである。

日本政府が率先して性的慰安施設の開設に奔走する

日本政府のメチャクチャぶりはまだある。敗戦と同時に、国の資産を使い、占領軍から命じられたわけでもないのに、率先して占領軍専用の性的慰安施設の設置に乗り出したという。発案者は東久邇宮内閣の副総理格の国務大臣・近衛文麿(1891〜1945)、彼が、その実現を警視総監・坂信彌さかのぶよし(1898〜1991)に命じた。その命令は無線で秘密通達として全国の警察に伝えられ、一斉に動き出したのである。敗戦の玉音放送からわずか3日後のことであった。最近、何かと話題になっている従軍慰安婦問題どころではない。それ以上のことを国内でやっていた。忘れたいことなのだろうが、証拠はしっかりとある。同じ敗戦国の中で、政府が率先して、こんなことをやった国があるのだろうか。僕は知らない。

日本政府の主導で「特殊慰安施設協会」(RAA)という組織が、敗戦から半月ぐらいの間に設立され、性サービスの提供を開始した。しかし、半年もしないうちにアメリカからクレームがついた。「デモクラシーの理想に違反する」から公娼は廃止せよというメモランダムをGHQから送りつけられた。性病が蔓延(まんえん)したこともあって、この2ヶ月あまり後にはGHQは占領軍の将兵に立ち入りを禁止した。完全に締め出しを喰らってしまった。5万人以上の娼婦を金や太鼓で集めてしまった後のことである。

でも協力し、短期間でも甘い汁を吸った連中が黙って引き下がるわけがない。公娼はなくなったが、それが「パンパン」という米兵相手の娼婦を増やすきっかけにもなったし、大騒動を繰り返し、昭和33年3月31日をもって、ようやく姿を消した「赤線」を生み出すきっかけにもなった ―― こういった事実も僕は不勉強で知らなかった。

最近、「歴史認識」をめぐって関係者が賑やかに論争しているが、そのなかでも、まだ奇妙なことが言われている。秦郁彦(1932〜 )千葉大学教授は月刊誌「諸君」(1997年9月号)の「政治のオモチャにされる歴史認識」と題する論文のなかで、1996年12月にアメリカ司法省特別調査部が731部隊と慰安所に関与した日本人16人を入国禁止処分にしたことに異議を唱えている。「731部隊幹部の免責と引き替えにノウハウをすべて召し上げ、RAAという日本内務省の外郭組織が提供する日本人慰安婦の性サービスを享受したアメリカ」に、そんなことが言えるのか ―― こういう論拠である。731部隊についてはわからないけれど、こと慰安婦に関しては、言いがかりとしか思えない。

日本政府が率先して「据え膳(すえぜん)」を用意し、それをアメリカが食った、食ったから同罪である ―― こう言っているようなものである。食べることは食べてしまったが、ともかく半年ぐらいの間にクレームをつけて廃止を迫ったアメリカの姿勢の方が、僕にははるかに立派に思えるのだが ―― 。

こうした隠蔽いんぺいされてきた事実にメスが加えられている。前述の「昭和20年/1945年」(RAAの設立――倉敷伸子・立教大学非常勤講師 小学館)や「MPジープから見た占領下の日本」(原田弘 草思社)でも取り上げられているし、最初に、この問題を取り上げた本も復刻されている。1961年(昭和36年)に出版された「みんなは知らない――国家売春命令」(小林大次郎・村瀬明 雄山閣出版)という本で、これが1971年(昭和46年)に再版され、さらに1992年にも再版された。3度も日の目を見ることになったため、お陰で僕も手にすることができた。

「脱ぐな心の防空服 女子は隙なき服装」と題し、「生きる日の限り毅然たる日本女性であってほしい」という防空総本部談が朝日新聞に載ったのは昭和20年8月17日のことだった。ところが、そう叫ぶ陰で、翌8月18日、内務省警保局長から都道府県警察部長に対し、無線で一斉秘密通達が出された。

警察署長は左の営業について、積極的に指導を行い、設備の急速充実をはかるものとする。


                  記

性的慰安施設・飲食施設・娯楽場(カフェー、ダンスホール)等、営業に必要なる婦女子は、芸妓、公娼妓・女給・酌婦・常習的密淫犯者をもって、優先的にこれを充足するものとする。

東久邇宮内閣の副総理格の国務大臣・近衛文麿が時の警視総監・坂信彌を呼んで、「日本の婦女子をぜひ守って下さい。この問題は、部下に委せるのではなく、あなた自身、陣頭に立って指揮してもらいたい」と指示したことに基づいて、行われたものであった。

東京では、警視総監自身が直接、性産業関連業者を召集して、協力を要請した。そこで進駐軍に女をあてがう、「女の肉体一本槍」でいくという案がまとまり、それが、坂信彌の「私の責任において決裁する」という決断で、実施に移された。料理飲食組合、芸妓置屋同盟、待合業組合連合会など7団体が「特殊慰安施設協会」(RAA: Recreation and Amusement Association)を設立し、慰安所の運営にあたることになった。

近衛文麿から坂信彌への指示は、閣議での了解を得て、閣議終了後に行われた。こう「MPジープから見た占領下の日本」には書かれている。でも、永田町の首相官邸で閣議が開かれたのは、警察が動き出した8月18日の3日後の8月21日のことであった。日付は動かしがたい事実で、だとすれば近衛の独断専行で行われ、閣議は、事実上は事後承諾であったにすぎないことになる。当時の生き残りの閣僚は「さァ、昔のことだから忘れてしまった」(前出「みんなは知らない 国家売春命令」)と語ったそうだけれど、閣議は、近衛の主導ですべて進められたとしか思えない。

8月21日の朝、マニラから帰国したばかりの全権委員・軍使の河辺虎四郎陸軍中将から、連合軍の終戦処理に関する諸要求についての説明を受けるために閣議は開かれた。そのときに連合軍兵士のセックス処理が議題として近衛文麻呂から出され、対策を講ずることが了承されたという。その模様は、次のように説明されている。

連合軍将兵のセックス処理が議題にのぼったのは、このときであった。しかし、閣僚たちは顔を見合わせたまま、誰一人、口を開こうとはしなかった。… やがて、ひときわ蒼白な面持ちの近衛文麿国務相が、口火を切った。「婦女子を姓に飢えた兵隊たちから守ること、これが対策は緊急に立てられなくてはならない」。これをきっかけに甲論乙駁、対策について激しい論議が展開された。当の報告者河辺中将は、むしろ楽観論者で「彼らの軍規はきわめて厳しい。沖縄では婦女暴行で10年の刑を言い渡された兵もあるというし、またかって欧州上陸軍の行方不明中、約半数は婦女子を暴行したカドで死刑に処されたものだそうだ」など、さまざまな例を挙げたのち、「おそらく米軍はそのような慰安施設をわが方から申し出しても受け入れることはないであろう」と結んだ。しかし、閣議の結論は、やはり副総理格の近衛国務相の意見に従った(前出「みんなは知らない――国家売春命令」)。