ぼちぼちいこか 「占領下の日本1」民衆の態度は豹変 PDF 

伴 勇貴(1997年12月) 

「一瞬にして正反対の極に走るのが精神分裂病の特徴である」

日本人の精神構造は、1853年にペリーに開国を強要された。そこで頭ではアメリカを崇拝するものの、潜在意識としてはアメリカを憎悪するようになった。それ以来、外的自己と内的自己とが分裂し、そのそうこくで日本人はどこか気持ちがすっきりせず、極端から極端に走る一種の精神分裂病に陥っている。心理学者で和光大学人間関係学部教授の岸田秀(1933年〜 )が、あちらこちらで主張している持論である。

第二次世界大戦で負けた途端とたんに、戦前の皇国史観、猛威を振るった本土決戦、一億玉砕、神州不滅しんしゅうふめつなどの形で現れた内的自己の反動が出た。無謀で愚かな侵略戦争と断定し、戦争遂行に力を貸した日本のあらゆる要素を断罪し、それまで歴史と絶縁した新しい民主主義日本を建設しようとした。全面的にアメリカを崇拝し、急激にアメリカ化に向かって動き出した。昨日まで鬼畜米英を口にしていた人がだ。岸田秀は、こんなことを繰り返して言っている。そして、その一つの例として、占領軍への日本人の対応を紹介している。

総司令官マッカーサー元帥への日本国民の大量の手紙に表れている。日本をアメリカ合衆国の第49番目の州にして欲しいと頼んでいるのや、元帥の子供を産みたいので、どこそこで待っているから来て欲しいと誘いなど、昨日までの敵の大将に対してよくもこのようなことを考えつくものだと驚かざるを得ないようなものが多数あるが、なかでも目立ったのは、誰それは連合軍捕虜を虐待したとか殺害したとかの密告の手紙であった。なかには根も葉もない中傷もあったが、事実をありのままに通報しているものも多く、占領軍はそれらの密告を手掛かりに大勢の戦犯を処刑することができた。占領軍は日本人の「協力ぶり」に感謝するというより驚いたとのことである。(日本人はなぜ不機嫌か………「二十世紀を精神分析する」 文藝春秋社)

こんな事実があったとは知らなかった。とても信じられなかった。ところが、最新資料をもとに徹底検証する、と銘打った「昭和20年/1945年」(小学館)にはもっと詳しく書いてあった。恥ずかしいが、あまり知らなかった敗戦前後の混乱した様子がわかりやすくまとめられている。書かれていることは驚くことばかりである。それを鵜呑うのみにするわけではないけれども、以下、同書からの引用が多くなるのをご容赦願いたい(出版社の名前がないものはすべて同書に収録されている論文である)

日本人の128人に1人がマッカーサーに投書する

占領期にGHQ(総司令部 General Headquarters)に寄せられた日本人からの投書はなんと約54万通にも及んだ。当時の総人口7810万人で識字率90パーセントとすると日本人128人に1人が書いた計算になる。昭和20年末までの投書は総数で約1000通、週平均50通前後だった。ところが昭和21年前半には週平均約300通に増え、後半には2000通を超え、翌昭和22年には週1万通に迫る投書がきたという(「占領軍への日本人の投書」川島高峰・早稲田大学非常勤講師)

昭和21年7月以降は復員問題に関する投書が7割以上を占めるようになったらしいけれど、政治・経済・社会のあらゆる問題にわたって提案・陳情・請願・告発・声明などさまざまな見解が占領軍に寄せられたという。

私共は日本の古くさい官吏、現在の官吏の基に働くことは嫌いです。元帥さん日本をアメリカの国にしてよく治めて下さい。天皇も入りません。アメリカ人の手で日本お国が治められたら私共は幸福です。(昭和21年10月24日 大阪 豊臣秀吉)

拝啓 マッカーサー元帥様  ああ我ら国民を愛す君主マッカーサー大元帥陛下を君としたことこそ国民の一糸乱れぬ明るい清らかな身体となり生まれ変わって米国民と日本国民と手結して行きたく平和米日建設を心底より国民一人一人々々マッカーサー元帥に尚々念願するのみです。(昭和20年11月10日 埼玉県自由党支部部員)

ただただ唖然あぜんとする。この人たちは戦争中、いったいどのような行動をとっていた人たちなのだろうか。こうも直ちに諸手を上げて賛辞を述べられるものなのだろうか。投書者層でとくに多かったのは、教員、中央省庁ならびに地方自治体の官公吏、町村会などの組織の役員といった庶民指導層もしくはインテリ層だった。

その人たちが「貴国の兵隊さんを目のあたりにすれば、この私のごとき頑固な国粋主義者でも帰国の方々が大部分神のごとき立派な方々であると本当に涙を持って感激」(昭和20年10月23日 Y・S)とか、「最も重要で是非アメリカ人たちに知ってもらいたいことは、日本大衆の99%までは、少なくとも現在まで絶対的に神懸かりであり軍国主義的であると言うことだ」(昭和20年10~11月 A・T)などと訴えたという。

いろいろ知り得る立場にあった人たちも多いはずである。具体的に紹介されてはいなかったが、投書の中には密告がたくさんあったとしてもまったく不思議ではない。正義のためという信念で、密告という行為に何らやましいものなどを感じなかった人たちがいても当然という雰囲気が伝わってくる。  それでいて、「自らの過去を主体的に問い直し真摯に反省するという投書はほとんど見られなかった」という。せいぜい「軍が悪かった、それに騙された自分も悪かった。だから、これからは……」というぐらいの気持ちの切り替えで済んでしまったらしい。 岸田秀ではないが、僕も日本人は本当に精神分裂病に病んでいるのではないかと思いたくなる。

「日米会話手帳」が360万部の大ヒットになる

でも、それは一部の者だけではなかったのか。大多数は、それまでの価値観とか信念の崩壊に遭遇し、複雑な気持ちに苛まされていたのではないか ―― 初めは僕はそう思った。しかし、その気持ちは打ち砕かれた。玉音放送を聞いた、その日のうちに企画され、敗戦のわずか1ヶ月後の9月15日に発行された「日米会話手帳」(科学教材社)がわずか数ヶ月間に360万部という日本出版史上に残る大記録を達成したと知ったからだ。

ちなみに、この記録を破ったのは、10ヶ月で400万部を売った黒柳徹子「窓際のトットちゃん」(1981年)だけだそうだ(「出版界の盛況」高岡浩之・相愛大学非常勤講師)

占領軍への投書総数の6倍以上で、当時の日本人のおよそ20人に1人が「日米会話手帳」を手にした勘定になる。それだけではない。英会話に関するものは、何でも飛ぶように売れたらしい。作家の高見順が日記に書いている。昭和20年10月29日のことである。「英会話の紙を売っている。紙である。……… それで1円くらいの価値だ。こういう紙がいろいろ出ている。至るところで売っている。飛ぶように売れている」(「敗戦日記」高見順 文春文庫)

対照的に時局本・戦争本の価値は消滅した。敗戦を挟んで出版されるという皮肉な運命をたどった火野葦平の「陸軍」(朝日新聞社 昭和20年8月15日印刷 20日発行 定価五円)は、どこの書店も扱わないのでお茶の水駅前で山積みされて10銭か20銭で投げ売りされる有り様であったという(「日本出版文化史」岡野他家夫 春歩堂)

「ライフ」や「リーダーズ・ダイジェスト」の発売日になると長蛇の行列ができ、若い人たちの間では、これらの雑誌を小わきに抱えて歩くのが一つのファッションだったという。

歓迎会が開かれ、交歓野球試合も行われる

ほとんどの日本人が、敗戦後、あっという間に、過去と決別し、親米派に転向してしまったようである。婦女子が暴行を受けるなどの流言が飛び交い、避難するといった事態はすぐに静まってしまった。占領軍兵士による犯罪は数多くあったけれども、厳重な報道統制で、その全容は多くの日本人には知らされなかった。それもあって、進駐軍という言葉に言い換えられた占領軍は、日本各地で好意的に迎えられた。「鬼畜米英きちくべいえい」から「やさしいアメリカ人」へと劇的に、日本人は認識を変えることになった。市長などの主催で「進駐軍の歓迎会」が開かれ、「土産品バザー」も開催された。昭和20年11月には出雲で交歓野球試合も行われている(「占領軍がやってきた」伊藤悟・成蹊中学・高等学校教諭)

まるで映画で見た、パリを解放したアメリカ軍に対するフランス人たちのようである。これまで自分は軍に騙(だま)されていたとか、自分は生まれ変わったのだとか、あるいは生きるためには仕方がなかったとか、人によっていろいろな「口実」があったのだろうけれど、正直言って驚きである。別に、徹底抗戦するべきだったと言うつもりはない。ただ、その変わり身の、そのあまりの速さに舌を巻いているのである。同時に、もし、占領軍がアメリカ軍ではなくて、ソ連軍だったら、いったい、どう反応したのだろうかと思うのである。

警察官で昭和24年から米憲兵、いわゆるMP(Military Police)のジープに同乗する通称「MPライダー」となった人物が興味深い回想録を出している。昭和2年生まれというから、敗戦時で18歳。もっとも多感な時期を占領軍の人たちと身近に過ごした人で、その人が「MPジープから見た占領下の東京」(原田弘 草思社)――「同乗警察官の観察記」という副題のついた本を出している。

昭和20年10月4日に出したGHQの覚書で警察署の特高係員など676人が10月12日に公職追放になった。彼らの多くは「その日から無収入者として敗戦の路頭に投げ出され、悲惨な生活を送らなければならなかった。―― 戦前ゾル下事件の摘発をはじめ輝かしい功績をあげた特高が、共産党の弾圧ばかりが強調され、ソ連のゲーペーウーやナチスのゲシュタポあたりと同一視されて悪の根元のように言われ、その功績がまったく忘れられているのは、実に不公平なことだと思う。

こう語ってはいるけれど、占領軍に対しては親近感を随所に示していて、反発らしいものは感じられない。でも、これは著者だけではないようである。進駐軍将兵と話ができる警察官を養成するための英会話の研修コースは大変な人気で、その受講は狭き門だった。それに受かって米憲兵、MPのジープに同乗することは「特権」だった、と述懐されている。

マッカーサーは日本人警察官にもビシッと敬礼した

MPライダーになる前の交番勤務時代の出来事である。台湾人が渋谷署を襲撃した、小石川の富坂警察署は朝鮮人の暴徒に襲われた。「台湾人や朝鮮人などのいわゆる三国人は、戦後、戦勝国民ということで、各地で統制品、禁制品をおおっぴらに販売するなど、無法の限りを尽くしていた」。ソ連の兵士が秩父宮の庭園に馬で入り込んで乗り回していたのを目撃した。日本に戦前に亡命していた白ロシア人に交番で勤務中に「大馬鹿野郎」「こんどは俺が威張る番だ」などと言われた。「ソ連兵が乃木邸を焼き討ちするという情報があるので警戒するように」という指令で駆けつけたとか書かれている。

一方、「日本の将官連中は、下級の人間に対しては、欠礼し、敬礼するのにしても崩れた『招き猫』のような敬礼をした」のに対し、「マッカーサーは、誰に対してもビシッと正式の敬礼をした」「米兵だけだはなく、日本人警察官に対しても同じであった」だから霊南坂の「公邸を出ると、ずっと自動車のなかで敬礼のしっぱなしである」、ともかく「向こうの将官はどの(日本人)警察官に対してもきちんと敬礼を返すのには感心した。それもピシッとした敬礼だ」と進駐軍の幹部の態度には感激している。

だからだろうか、多くの警察官が、進駐軍と一緒に仕事をしたがる雰囲気が漂っていたらしい。一緒に仕事をすることは選ばれた者の証であったらしい。警察官が昭和21年8月、進駐軍将兵と会話のできる警察官を養成するため外務省と警察庁によって設立されたポリス・インターナショナル・トレイニング・スクール、通称PITスクールの受講希望者は非常に多く、狭き門であって、「辞令を受け取ったとき私は飛び上がらんばかりの喜びだった」という。

そこに入りたいために当時もてはやされていた小野圭次郎の「英文之解釈」や平川唯一の「カムカム英会話」などを使って猛勉強し、PITスクールでは、みんなが英会話の教科書五冊を往復の電車などの中で夢中で丸暗記した。そこを出て、前々からMPジープに乗って東京の町を走ってみたかったので、MPライダーになった。

「当時は米軍の車に乗ることがひとつの特権だった」だからMPライダーの希望者は多かった。「同じPITスクールの受講生でも要領のいい連中のなかには、卒業と同時にさっさと警視庁を辞し、米軍基地に就職して通訳として働いたりする者もいた。基地で働けば、ヒラ警官の薄給とは給料が違うのである。また貿易関係の仕事をはじめる者もいた。このこと英語ができるということは、世の中を渡っていくうえで絶大な武器だった」こうも述べている。

マッカーサー「あなたは日本の救世主である」

彼の話は延々と続く。

マッカーサーの当時10歳ぐらいだった息子は弱々しい感じで、いつも弁髪べんぱつを背中に長く垂らした年輩の中国人女性が付き添っており、「私たちは『あの女はきっと中国での日本軍の暴行のことなどを、あれこれ元帥夫人に言いつけているにちがいない』などとかんぐった」。「私たちの目には、元帥夫人は素晴らしい教養をそなえた代表的なアメリカ人に見えた。いつも黒系統のドレスを着用しており、カラフルなものを着ているのはついぞ見たことがなかった」

昭和21(1946)年頃、2人の日本人女性が霊南坂の下り口あたりで司令部から帰ってきたマッカーサーの車を止めるという事件があった。1人は車の前に立ちふさがり、「もう1人はドアを開けた元帥の足下にすがりつくように乗り込み、お餅のようなものをうやうやしく捧げ、『貴方は日本の救世主である』などと言ったそうである」当時、有名な相撲の双葉山も熱烈な信者であった、じこうそん女性の教祖に仕える巫女2人が引き起こした事件であったという。

ここに登場してくる璽光尊は本名を長岡良子という女性である。心霊研究団体の菊花会から出て、璽宇じうを昭和20年11月に設立した。熱烈な天皇崇拝者であり、日本の敗戦と天皇の人間宣言は彼女には大きなショックであった。そこで敗戦直後は、まず天皇を補佐して世の中を立て直す「臣下最高の国賓」として自分を位置づけて活動を開始する。しかし、人間宣言の後は、自分が人間天皇に代わって日本を統治すると主張し、東京の杉並に皇居(あとで各地に移動)を作り、「御神示」をうたい、そこへの参拝をマッカーサーに呼びかけるなどしてマスコミの注目を浴びた。いまでも千人ほどの信者がいるという(新宗教の展開――「新宗教事典」弘文堂)

「MPのジープから見た占領下の東京」の著者がとくに以前から親米的だったとは思えない。ソ連や中国や韓国などの人たちに関する記述とアメリカ人に対する記述との微妙なニュアンスの差などは、むしろ当時の普通の日本人の感覚を素直に表しているとしか思えない。それに璽光尊じこうそんや、その巫女たちの奇妙な行動もただ変人だと言って簡単に片づけることはできまい。

岸田秀が言うように、日本人はペリー・ショック以来、アメリカ人に対して特別な感情を持っていた――アメリカを崇拝すると同時に憎悪もしていた、と見るほかないであろう。そのどちらが表に出るかで態度が豹変する、一種の精神分裂病になっていると考えたくなる。「戦後の日本人の多くがもつことに親米意識は、占領開始直後の時期に形成されはじめていた」(前出「占領軍がやってきた」)という説明だけでは、とても理解できない。

占領軍への投書などは、国会図書館憲政資料室に収蔵されているGHQ文書(参謀課民政情報局)で見ることができるという。ともかく、今度、折を見て是非とも自分の目で詳しく調べてみたいと思う。なんらかの手掛かりが新たに得られるかもしれない。