ぼちぼちいこか  いい加減に生きること PDF

伴 勇貴(1997年12月)

大病の後の作家、五木寛之(1932〜 )の話には共感するところが多い。若い頃から好きな作家の1人だが、最近は、彼の小説より随筆や談話に興味をひかれる。歳をとったからだと言われれば、そうかもしれないと思う。しかし、それ以上に世代が近いうえに、同じように病気を抱えながらやっているので共鳴するのだと思う。「私は最近、自分に残された時間はそう長くはないのではないか、とふっと感じることがある」という言葉で始まる随筆「こころ・と・からだ」(集英社)の「告白的まえがき」も抵抗なく読める。

若い頃だったら、その内容のいかんにかかわらず、その言葉だけで、何か嘘っぽい、キザっぽい、と感じてしまったと思う。この本の中で五木寛之は「いい加減」の大事さを訴えている。

本来、「いい加減」というのは、足したり引いたりしながら、ちょうどいいバランスのところを探すこと、言うなれば中庸ちゅうようで、非常に成熟した文化やデリケートな感覚によって成立する知性のようなものだった。それがいつの間にか、「無責任なさま」という意味が広く使われるようになってしまった。振り返ると、僕たちの日常は、与えられた数値や常識といったものを無条件に頼りにし、個人一人一人の「いい加減」をおろそかにして生きている気がする。

自分はこの世でたった1人の自分なのだ。ブロイラーのニワトリじゃあるまいし、「人間一般」であつかわれるのは嫌だ。もっとちゃんと「いい加減」に大事にあつかってほしい。でも、これを社会に要求するのは甘えすぎで、自分の「いい加減」は自分で見つけ、それを「体」に覚え込ませておく必要がある。一人一人の生き方があって、一人一人の感じ方があって、その人にとっての最も心地よい「いい加減」が決まってくる。

これを発見することは、お手本がないので非常に難しいが、二者択一ではなく、バランスのとれたところに自分にとっての「いい加減」を発見したい。その「いい加減」の度合いを発見していく過程にこそ人生の真実はあるのではないだろうか。  こう五木寛之は主張している。そして、大事なことは、一言ではいえない。何が正しくて、何が正しくないかは、そう簡単には決められない。現実のなかで出会う問題は、黒でも白でもない灰色がほとんどである。40パーセント白で60パーセント黒だとか、中途半端な領域に揺れながら存在する。「黒白をつける」「すっきりと割り切る」ことは、現実では不可能だと語る。

「ごちゃごちゃした、雑然と入り混じった不透明ななかに真実はあるのではないか。ですから本当に大切なことは、簡単ではない。その厄介さを切り捨ててしまえば、物事はうまくいきません」

「まことに支離滅裂しりめつれつな立場が真の現代人の立場です」 とも書いている。

あきらかに究めて、しなやかな心を持つ

「いい加減」に加えて「あきらめる」ということが五木寛之の生き方の基本にあるらしい。

「あきらめる」というのは、実は「あきらかにきわめる」ことで物事を明らかにし、その本質をきわめること、勇気を持って真実を見つめ、認めることである ―― 人間はどんなに頑張っても100年前後で死ぬ。残酷な言い方ですが、体型は崩れ、視力は衰え、歯も、皮膚も、すべてのものが老化の一途をたどっていく。みんながそうである。人間の命は有限であると、まずしっかり「あきらめる」ことが大切で、そして、いま生きていることに感謝し、生きているこの瞬間を十分に味わうことに専心する。

こういう「しなやかな心」を持つことが大切である。「しなやかな心」は、死と対決してそれを否定することからは生まれない。死を見つめることを通して生を見つめ、それを迎え入れるなかから生まれてくる。それが「あきらめる」ことで、投げやりになることとはまったく違う。

こう語ったあと、この「あきらめる」ことに最も強く到達した1人が親鸞しんらんである、と五木寛之は続ける。

親鸞はどんなに修行しても自分の中の邪心や欲望の火が燃えあがるのを抑えられなかった。なかにはできる人がいるのかもしれないが、自分にはできない。自分がこんなに修行しても駄目なのだから、一般の世間の人にできるわけがない。人間は解脱げだつとは縁遠い存在であると「あきらめる」。つまり「自力ではさとれないものとさとりたり」とさとった。

親鸞は煩悩ぼんのうを捨てろとは決して教えず、煩悩ぼんのうをかかえて生きるからこそ、仏に出会うのだと説いた。親鸞は「歎異抄たんにしょう」の中で、目に見えない大きな力で、自分ではどうにもならないのが「業縁」で、人間は、その「業縁」に逆らわず、「業縁」に身をゆだねて生きることが大事だと説いている。

五木寛之は、こう言って、さらに次のように書いていた。

ともあれ、人は嘘をつこうと思ってもつけないときもあれば、死んでも嘘をつくまいと思いながらも思わずついてしまうときもある。タバコをやめようと強く決心しなくとも、喫煙と縁が切れるときは自然と切れるものだし、四苦八苦して、あらゆる努力を繰り返してもやめられないものはやめられない。人と会ったり、別れたりするのも、きっとそうかもしれない。

そうだとすれば、これまで何度も禁煙に挫折している人は、自分にとってタバコはやめられない「ごう」なのだと寛大に受け入れたほうがいい。そして自分はタバコを吸いながら深呼吸していると、プラスの面に意識を向けて、気持ちよく吸えばいいのです。  世間にはチェーンスモーカーで大酒のみながら長生きする人もいれば、タバコもやらず酒もやらず、健康な生活をしながら早く死ぬ人もいます。そもそも、一人一人すべてが異なっている人間に、こうしなければならない、ああしたほうがいい、という常識やモラルを押しつけること自体が、ナンセンスではないでしょうか。

ところで五木寛之は自分自身が大病になったばかりか肉親、家族が比較的早く亡くなったこともあるのだろう、親鸞の生命力にも痛く感動している。「親鸞は鎌倉時代の僧で90歳まで生きた。当時の平均寿命やその苦難の生涯からすれば驚くべきことで、その子孫にも長寿が多い。なかでも蓮如は84歳で最期の子供を産ませた超人として有名だ。たぶん長寿の遺伝子を持つ一族なのだろう。私はそうではない」とも書いている。

「念仏を称えれば誰でも往生できる」―― 法然

五木寛之に限らず作家には親鸞が好きな人が多い。有名なのは司馬遼太郎で、あっちこっちに親鸞について書いたり、語ったりしている。それらを読んでいることもあって、自然に親鸞に関心が向いてしまう。脇道に入るけれど、少し親鸞について触れたいと思う。

親鸞(1173~1262年)は鎌倉初期の僧で、浄土真宗の開祖として知られる。下級貴族であった日野有範の子で、9歳の春、出家して天台宗の僧となり、29歳のとき、救いを求めて聖徳太子ゆかりの六角堂にさんろう参籠する。その時「行者が宿報(前世でなした善悪業のむくい)によって女犯の罪を犯すときは、わたしが妻となって犯されよう。一生の間、行者の身の飾りとなり、臨終には極楽に導こう」という夢を見る。

親鸞はこの夢の意味を問い尋ね歩き、法然と出会う。そして念仏を称えれば誰でも「あみだにょらい)」のいる「極楽浄土ごくらくじょうど」に生まれかわる、「往生おうじょう阿弥陀如来」できる、それは阿弥陀如来の「本願ほんがん」であるという教えに心酔し、弟子となる。1201年のことである。親鸞を知ろうとすれば、まず、この師の浄土宗の開祖である法然から入らなければなるまい。

それこそ「釈迦に説法」かもしれないけれど、先に進むにあたって、とりあえず若干の仏教用語を再確認しておこう。

阿弥陀如来あみだにょらい」───西方にある極楽浄土を主宰するという仏。菩薩ぼさつとして修行していたとき、衆生救済しゅじょうきゅうさいため「48願」を誓い、成就して阿弥陀仏あみだぶつ/になったという。

如来にょらい」───もともとは「かくのごとく行ける人」、すなわち修行を完成し、さとりを開いた人という意味の梵語ぼんご。それが後に「かくの如く来れる人」、すなわち、この世に救済のために来た人と解され、如来と書かれるようになった。

菩薩ぼさつ」───さとりを求めて修行する人。

極楽浄土ごくらくじょうど」───阿弥陀仏が主宰する西方にある浄土。浄土とは、仏・菩薩が住んでいるところをいい、その一つで、まったく苦しいことのない安楽な世界で、阿弥陀仏がいて、常に説法しているという。

往生おうじょう」───この世を去って他の世界に生れかわること。とくに阿弥陀仏のいる極楽浄土に生れかわることをいう。

本願ほんがん/」───仏・菩薩が過去において立てた衆生救済のため、必ず成しとげようと願い定めた誓い、誓願のことをいう。

この阿弥陀仏の主宰する極楽世界に生まれかわることができる、つまり往生することができるという浄土信仰は、紀元100年ごろインドで成立したものだという。それが漢訳されて中国に伝わったのは179年で、のち多数の浄土信仰の経典が漢訳されて、中国で大きな発展を遂げることになった。日本に伝えられたのは奈良時代で、平安時代に入ってから発展した。

最澄さいちょうが開いた天台宗、その総本山である比叡山を中心に、仏を心に思い浮かべたり(観想)、仏の名前を唱えたり(称名)する念仏によって極楽浄土を求める信仰が広まった。とくに声を出して仏の名前を唱える称名念仏しょうみょうねんぶつは、わかりやすく、一般庶民に普及した。法然(1132~1212年)も比叡山で修行した。そこで浄土思想の新しい教理、浄土宗を開くことを確信したのだという。

法然の前までの浄土信仰では、極楽往生のためには、精進し努力することが大切で、念仏はそれを助けるもの、「助業じょごう」と位置づけられていた。浄土信仰は修行の補助手段だった。これに対し、法然は念仏を唱えれば誰でも往生できると説いた。称名念仏しょうみょうねんぶつを「本願念仏」といい、これが「正業しょうごう」、すなわち正しい修行だとした。それが阿弥陀如来の本願だと言った。「本願念仏」を「正業」として「選択せんちゃく」したことによって、浄土宗の教義が確立された。

しかし、浄土宗の発展は警戒感を招いた。善行をしなくても往生できるという教えが弟子たちの間に誤解を招き、一部の僧が風紀問題を引き起こした。そして、これに端を発し、法然は土佐に流され、弟子2人は死刑になり、親鸞も越後に流された。1207年のことであった。4年後、法然は許されて京都に帰り、翌年80歳の生涯を閉じた。

「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」―― 親鸞

法然亡きあと、その教えは弟子たちによって受け継がれた。なかでも重要なのは親鸞で、法然の思想をもっと厳しく追及し、浄土真宗を開いた。親鸞は流された越後の地で結婚し、在家主義(肉食妻帯を認める)を始め、以来、終生俗人として過ごした。その立場を僧でも俗でもない「非僧非俗」といった。俗世にありながら信仰の生活を守るという、それまでにないものだった。

司馬遼太郎は、「善人をもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄)という親鸞の言葉からはじまって、苦悩のうえに親鸞がたどり着いた思想について講演でいろいろ語っている(臓器移植と宗教 1995年3月5日  三重大学医学部創立50周年記念講演――「司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録愛蔵版Ⅱ」朝日新聞社)。「この国のかたち 1」(文藝春秋)に収録されている「日本と仏教」の中でも同じようなことを書いているけれど、それより講演の方がはるかにおもしろい。

われわれはお釈迦さん以来、仏教が説いてきたさとりが開けない。どうしても欲望があり、怠け者であり、修行もできなければ学問もできない。  めったにいませんね。お釈迦さんの方法で修行ができ、生きたままで悟ることができる。いながらにして体がゼロになり、ゼロが光りだして光明になる。そんな人は私はいないと思うんです。いても何百万人に1人の天才です。われわれは出来が悪くて善人にはなれない。しかし、そんなわれわれでも悟ることができるというのが法然から受け継いだ親鸞の思想でした。

そして、この言葉をつきつめると、結局、人は死んでしまい、死んだら悟っていようと悟っていまいと同じように救われる。そう言ってしまうと身もふた蓋もないことになるけれど、その一歩手前のところまで親鸞はいっている、こう司馬遼太郎は語っている。

変な言い方ですけれど、一生懸命悟ろうとしたことは最期になれば悟れる。われわれはお釈迦さんのように優秀な遺伝子は持っていない。欲望もあってどうやっても善人にはなれない。ところが死ぬとゼロに帰る。ゼロという光明に帰る。つまり死んだら、誰でも悟った人と同じくゼロになる。そのゼロのシンボルが阿弥陀如来だ。

もちろん親鸞はこうは言っていませんよ。言っては身もふたもありませんから。親鸞は一歩手前まで言った。それで浄土真宗は広まった。私は宗教の行き着いたすばらしい世界がここにあると思います。嫌だ嫌だと逃げ回っても阿弥陀如来は救ってくれる。阿弥陀如来の思うつぼにはまって死ぬのですが、それを裏返して、すばらしいと礼賛する。こういう思想をもった民族はいませんね。

だから、親鸞は越後に流された。「比叡山でも高野山でも一生懸命修行して善人になろうとしている。ところが親鸞はそんな修行は要らない、阿弥陀如来を、つまりゼロを賛美すればいいという。坊さんは、みな怒ったでしょう」という。さらに親鸞の凄かったところは、自分は悟れないということを隠さなかった、それをてらいもなく弟子に披露したことだとも司馬遼太郎は語っている。

その後、親鸞は関東に住み、しばらくして京都に戻りました。残された関東の弟子たちはみな親鸞の思想に感激してしまったのですね。そのうちの一人が京都を訪ねて質問し、答えをいただいたのが「歎異抄」でした。

唯円というサムライあがりのインテリの坊さんが聞き書きしたものです。唯円の文章はうまいですね。こう質問しています。

「阿弥陀如来は、嫌だ嫌だと言っても救ってくださる。そうすると、ああすばらしいということで、欣喜雀躍きんきじゃくやくするという。踊りたくなるほど喜びがあると阿弥陀経にはあります。しかし私には、ちっともそれが嬉しくないのです」

唯円坊は本質を知っています。死はそれほど嬉しいのかと。唯円はうれしくなかった。そこでどうしたらいいでしょうかと質問したのです。親鸞は答えた。

「唯円もそうか、私もそうだ」

これを言ったら親鸞は商売あがったりなんです。ところが、欲のない教祖ですから、平気で言った。

このとき親鸞は、あの時代で私よりも年上なのですよ。それが、その年になっても死ぬのは嫌だという。阿弥陀如来を称えても、欣喜雀躍という気分にはなれないんだと言った。偉い人ですね。

「ただお浄土に行く。阿弥陀如来は救ってくださる」

そう答えると、なおも唯円坊は、本当にそうでしょうかと聞いた。親鸞は再び答えます。

「いや、私も実はわからないのだ」

しかし、法然さんはそう言っていた。法然の師匠もそう言った。お釈迦さんもそう言った。本当はお釈迦さんが言ったわけではありません。「阿弥陀経」は釈迦の死後、数百年後に書かれたお経ですからね。しかし親鸞は、いい人がみな言ったから私は信じているんだと言う。

これが信仰というものの不思議な鍵穴を表しています。私は信仰をもっていませんが、信仰には不思議な、秘密の鍵穴がある。カチッと開く人には開く鍵穴ですね。しかし、親鸞以後はどうでしょうか。私はときどき思うのです。極端な言い方ですが、せっかく親鸞がすばらしい思想を残してくれたあと、どうもそれ以降のお坊さんたちは遊んでいたのではないでしょうか。