ぼちぼちいこか プラシーボ効果(偽薬効果)
伴 勇貴(1997年11月)
ある教団の豪華な建物の中に、同じような表情をした大勢の人たちが整然と吸い込まれていく。周囲の歩道に同じような表情の人たちが溢れている。その様子を見ていたら、いろいろな映像がダブり、浮かんでは消えた。眺めている間、それは絶えることはなかった。
日本の大手メーカーの一昔前の工場前の出勤風景 ―― 一様に満足そうな表情で遅れることを気にしながら急ぐ人また人の波。襷かけの姿で皇居広場の清掃にいそ勤しむ全国各地からやってきた人たち。金日成(1921~1994)の前で整然とマスゲームを演じる目をキラキラさせた北朝鮮の若者たち。ホメイニ万歳、アラー万歳と叫びながら嬉々としてイラク軍に突撃する若いイラン兵士。ベルリンの壁に歓喜の声をあげながら殺到する大群衆。
どの教団も立派な教義を掲げている。それぞれが独自性を強調しているようだけれど、第三者には大同小異としか映らない。基本的に同じような目標を掲げる大勢の人たちがいて、その実現を心の底から信じ、日々、精進している。それが効き目があるならば、世の中、とっくの昔に、もっと良くなっていてよさそうなものなのに、なぜか、そうでもない。まだお祈りやお布施(ふせ)が不足しているのだろうか。人々はますます宗教にのめりこんでいくように見える。
頭痛薬は幸いそれほど効かない、それが社会を破滅から救っている
日頃から頭痛に悩まされているらしく、作家の五木寛之(1932~ )の頭痛に対する関心は異常である。いろいろ蘊蓄を傾け、頭痛について書いている。大学教授の高須俊明の書いた「頭痛」(岩波新書)に深く共感し、次に紹介する締めくくりの下りが素晴らしいと述べている(「こころ・と・からだ」集英社)。
頭痛薬には、もちろんそれなりの効用はある。何とか悩む者を和らげようという熱意が、新しい薬を開発し、これを普及せしめる最大のモメントになっていることも、素直に認めたいと思う。しかし、その善意とうらはらに、頭痛薬の使い過ぎとか、あまりにも多種類の薬が処方されている多剤投与の現実がそこそこに見出されるのはなぜか。…… すぐに薬に頼る傾向や安易な多剤投与を支え、この不気味な現実を何とか変更しようとする動きに抗う、新たなる陰の魔王は誰か。それをはっきり見破り、見据え、これに歯止めをかける必要がある。幸い、頭痛薬というものは、それほど劇的には効かないことが多い。このためわれわれの社会は二重三重の自壊を免れているのだ。
「頭痛」の著者は哲学を語っている ―― 頭痛薬というものはそれほど効かない。しかし、それが幸いしている。だから、人々が頭痛薬に溺(おぼ)れることがない。それでわれわれの社会は破滅から免れている。頭痛はその人の人生に対する警告で、その警告の意味するとこを考えるべきだ、と著者は語っている。
こう五木寛之は解説し、この考え方に痛く共鳴している。ここまで読んだところで、僕は「頭痛薬」を「宗教」という言葉に置き換えても同じだろう、不謹慎と怒られそうだけど、ふと、そう思った。妙に、しっくりするし、宗教の本質に鋭く迫っている気がする。
宗教を「頭痛薬」のようなものと思うと、宗教とくに教団に対するもやもやとした気持ちもかなりスッキリしてくる。お祈りし、お布施をし、その対価として心の安定や幸せが得られるならば、それはそれで良いではないか。もともと主観的なものを求めているのだから、本人が良いと感じるのであれば、他人がとやかくいう筋合いのものではあるまい。合法的である限り、ストイックな要求や幻想を宗教や教団に抱いて批判しても仕方あるまい。そう思えてくるのである。
A頭痛薬は自分にはあまり効かない。それで儲けているA社はけしからん。そう叫んでA社の不買運動を大々的に展開する人がいるだろうか。だいたい薬なんてものは、効く人もいれば、効かない人もいる、人それぞれ、ケースバイケースだ。そういう事実を経験的に知っており、僕たちは、それを暗黙のうちに承認している。だからA頭痛薬が自分に効かないといって、A社を訴えることもしなければ、A頭痛薬が効くといって買う人を止めることもしない。せいぜい「A頭痛薬は僕にはあんまり効かないよ」こういうぐらいだろう。
薬とはそんなものだ。もともと薬には「プラシーボ効果」(placebo effect)というものが知られている。心理効果(暗示作用)だけで、薬理学的にまったく不活性な薬物「プラシーボ」(偽薬)でも有効な作用が現れることだ。そのため、新薬開発では、その薬と形や色や味がそっくりの偽薬を乳糖やデンプンなどで作り、それを服用した人々との差異を客観的に調査することが義務づけられている。
30~40%もの人に偽薬が効くというのだから驚きだ。人間の持つ心理とか精神の作用の深淵をのぞいたような気がする。
「Public Goodのため、おれが助かることにするよ」
人間は、頭痛からなかなか解放されないのと同じように、宗教との関係も断ち切ることはできない。なにしろネアンデルタール人も宗教らしきものを持っていたという。かなりわかっているところでも数千年の歴史がある。近代科学の歴史と比べようもない。しかも、その歴史も一皮むけば、外部との衝突、内部での教義論争、新勢力と旧勢力の抗争───そんな歴史の繰り返しで、人間や人間の集団のドロドロした情念の歴史でもあることが浮かび上がってくる。歴史の解釈そのものも後世の人たちの思い入れがあって、グチャグチャになっている。
仏教が成立する土壌となったインド思想がまとめられた古典「ウパニシャッド」の解釈が良い例で、あまりにも多くの洋の東西の学者が文脈を無視して自分の意見を原文の中に読み込んでいるという。原典にさかのぼって定説となっている解釈が吟味され、軒並みおかしいと批判されている(「ウパニシャッド哲学」湯田豊 平楽寺書店)。原典を読む能力はないので定かではないけれど、その批判は詳細で迫力がある。
ヒンドゥー教の背景にあり、仏教にも大きな影響を与えた「ヴェーダーンタ」の解釈もあいまい曖昧である。「定説では ……… である」の連続である。「ウパニシャッド」の場合と同じで、多くの学者が自己のあらかじめ抱いている意見を原文の中に読み込んでいるという問題を抱えているらしい(「ヴェーダーンタ哲学」前田専學 平楽寺書店)。
ともかく仏教は大きく変容した。釈迦の説いた原始仏教の精神は、いまの仏教からはあまり感じ取れない。多くの人たちの解釈が付加され、原始仏教の基本精神とは、まったく相容れない教義が大手を振ってまかり通っているようだ。似て非なるものに変わっているようだ。
「諦」は「諦める」と訓読され、「あきらめる、見切りをつける」という意味だけが使われているけれど、本来は「つまびらかにする、明らかにする」という意味で、このような言葉の転訛は仏教が日本人によって次第に誤解あるいは曲解されてきたことを物語っている(「ブッダを語る」前田専學 NHK出版)―― こんな婉曲的な説明で済まされる程度の違いではない。
こんな差異を生んでしまうのが教義論争の実態なのだろう。まるで戦前で言えば「統帥権」、戦後で言えば「自衛権」をめぐる解釈論議のようなものだ。別に原理主義者ではないけれど、開祖の目には堕落の一途を辿っていると映るのではないか、それでいいのだろうか。そういう思いを強くしてきていた。そんな時に出会ったのが「頭痛薬」の話で、これで目から鱗が落ちたような気がした。宗教は「頭痛薬」のようなもの ―ー― こう考えれば、それほど生真面目に受け取って、思い悩むこともないからだ。
でも、僕みたいに、中途半端な形で宗教に妥協することを許さない人もいた。教義論争に明け暮れ、豪華絢爛な建物を建てるため、布施集めに奔走するなどは本末転倒だと、キリスト教のあり方を激しく糾弾したキリスト教徒がいた。明治・大正時代を通じて活躍した、日本でも屈指の宗教家の内村鑑三(1861~1930)だ。敬虔なキリスト教徒で、しかも指導的な立場にあった。
しかし教派主義の弊害を知り、彼は「無教会主義」を唱えた。教会の建物はもちろん、教師の資格も洗礼や聖餐などの儀礼もキリスト教に不可欠なものでない、と主張した。表面をつくろ繕う権威主義を嫌い、建物や儀礼的なものを排した。教条的な論争を行うことにも関心を示さなかった。
彼の死後も論争が延々と行われていることを知ったら、「もうその辺でいいだろう。それより、もっとほかのことも勉強しろよ。花を見よ。鳥を見よ。森を見よ。星を見よ。神の摂理は至る所にあるじゃないか」と、言ったはずだ、と息子の東京大学医学部精神科教授でもあった精神科医の故内村祐之(1897~1990)は書いていた。
たしかに内村鑑三の活動は宗教家という範疇を飛び出していた。自分と自分の妻の2人のうちの1人しか助からないという場合には、「Public Goodのため、おれが助かることにするよ」というのが口癖だった。そう公言して憚らない使命感に生きた人物であった。新聞や雑誌を発行し、反戦運動、足尾銅山鉱毒反対運動、社会改良運動などを積極的に行った。日本の宗教、教育、思想、文学、社会その他多方面に深い影響を及ぼし、その門下から藤井武、矢内原忠雄、三谷隆正ら多数の人材を輩出させた。
同時に自分の母が精神障害者になったことから、農商務省を辞し、自費で渡米し、精神薄弱児施設で看護人として働き、その経験を紹介し、まだ黎明期にあった日本の精神医療に多大な影響を与えた。内村鑑三の薫陶を受け、篤志家により相次いで精神医療施設が設けられた。それが、さらに精神医学を専攻する息子の内村祐之氏に引き継がれ、私財を投じての日本初の民間の精神医学研究所への設立へと結実した。昭和26年、財団法人神経研究所と、50床ほどの病室を持つ財団法人神経研究所付属清和病院とが誕生した。
人を助けるとか、救うということは本当に難しい
ある土曜日の午後だった。完成したばかりの「多目的ハウス」の中にある「談話室」の片隅でギターの演奏を聴いた。18番だという「禁じられた遊び」から始まって、「花はどこに行ったの」とか「500マイル」など懐かしのフォークソング特集となった。僕も学生時代に戻って歌った。コーヒーなどを飲んで談笑していた人たちも加わって10人ぐらいの合唱になった。
ギターを弾いたのは精神分裂病を患っている僕と同世代のAさんだ。精神疾患に病む人たちの社会復帰を支援している、ある社会福祉法人での出来事だった。
この社会福祉法人の施設では、施設に入っている人たちを「寮生」という。その「寮生」の相談相手になり、日常生活を手伝い、気晴らしのため催し物を行い、病院にも付き添っていくのが、その施設の職員の人たちの役割だ。広い敷地内には、畑もあれば、ちょっとした作業場もあり、賃加工の内職に精を出している人もいる。食事はビュッフェ・スタイルで、なかなか旨いものを食べさせる。各部屋は全室南向きの10畳ぐらいで、原則2人で使用する。ベッドではなく布団なので、結構ひろびろとしている。外出もまったく自由である。約70人の人たちがいるが、みんな明るい。僕は、時々、全員にわたるだけの量のケーキなどを持って訪問するので、僕が行くと声をかけてくる人が多い。本当に「寮」という雰囲気が漂っている。
この「多目的ハウス」は、もっと地域の人たちと自由に触れ合える場が欲しいという理事長の年来の願いがかなって、この初夏に公的助成を得て完成した。こけら落としは、理事長の強い意向で内輪だけで行われた。僕も「来て下さいよ」と理事長から招待されたので出かけた。
彼とは同年輩だし、世の中は狭いもので、共通の知人も少なくない。日本の精神医寮のあり方から始まって経営上の悩みなど話し出すと尽きることがない。あるとき、理想を追求し、網走郊外に精神医療施設を作った人について話が及んだ。その人に共鳴する知人の精神科医の勧めがあって、僕も会って話をしたことがある医者である。もう10年以上も前のことだ。その熱意と理想とには胸を打たれた。でも、それから数年後、経営に行き詰まって、自殺したとを聞いた。悲しい出来事だった。
その想い出をひとしきり語ったあと、「10年以上やってきて、こういう施設の運営の難しさを実感するようになりました。無我夢中でやってきたけれど、この年になって、あの人の気持ちが本当にわかるようになりました」「やってみると、信念だけではどうにもならないことが本当にたくさんあるんですよね」こう理事長はポツリと漏らした。
作業場の隅に小さな十字架がある。それを見て、「ここで、お祈りをするのですか」と聞いた。初めて、ここを訪れたときのことである。「いや --―、しません。何かあればと思って作ったのですが ―― 。宗教はいろいろあって難しいものですし――」それが理事長の答えだった。やや照れくさそうにも見えた。だから、僕は彼が牧師だなんて思っても見たことがなかった。「多目的ハウス」のこけらおとしの席で、彼が自分は牧師で、まだ日曜日には教会でお祈りをあげていると言い、精神疾患に病む人たちの社会復帰に取り組むことになった経緯から苦しかったこと、悲しかったことなど静かに話し出したときには驚いた。
自分が全力を尽くしても、自殺を止めることができなかった人がいた。ここに入寮していた人で、具合も良くなり、本人が独立して生活したいというので、心配し反対する家族を説得し、本人の希望を叶えてやった。ところが、それが裏目に出てしまった。連絡を絶やさないように努力していたのだけれど。そう言って彼は声を詰まらせた。
こんな出来事があってから2~3週間後のことである。話が宗教と精神医療に及んだ。精神医療施設を経営したり、そこで働いている人たちには、内村鑑三もそうだったが、キリスト教の洗礼を受けた人が少なくない。でも理事長は、僕に言葉を選びながら語った。
「宗教は自分自身の問題であって、それでもって人を助けるとか、救うということは本当に難しい。ものすごく大変なことを自分は始めてしまったと最近はよく思います。お金も人手も足らない。それに、そんなことばかりではない。どうにも解決できないことが実に多い――本当に、そう思うようになりました」
という。重い言葉である。
「そう思いません?」と言われて、
「そうですね――」と声を出すのが僕にはやっとだった。
いま日本の精神病入院患者は約35万人で、そのうち10万人は社会的支援が得られれば退院できるという。医師の蜂矢英彦が「心の病と社会復帰」(岩波新書)で、現場から報告している。一昔前に比べれば格段の進歩だけれど、まだまだ遅れている。ここで紹介した社会福祉法人は別格中の別格で、そのお陰で台所事情は火の車だ。人も足らない。それを理事長や若い人たちが支えている。中途半端なボランティアでは勤まらない。僕よりも年輩の婦人が、理事長の評判を聞いたといって、ボランティアで飛び込んできたことがあった。
僕に関心を示し、根ほり葉ほり詮索してくるかと思えば、聞きもしないのに、いま社会貢献が自分には張り合いなっている、お金など問題ではない、などと綺麗ごとを言う。「話なんかいいから、やることをやったら」。よっぽど、そう言ってやろうかと思ったけれど、すぐに辞めるに違いないと思ったので相手にしなかった。案の定、2週間ももたなかった。
抗精神薬を服用しながら、普通に社会で仕事をしている人たちもたくさんいる。「ボーダーライン」と呼ばれる人たちを含めれば、さらにその数は増えるだろう。おそらく入院患者よりはるかに多いだろう。それだけ「心の病」を抱えている人たちがいる。そういう人たち、あるいは、そういう人を抱える家族たちには、それこそわら藁をもすがる気持ちで「新宗教」に足を運ぶ人たちが少なくないと聞いた。なかには、それで良くなった人もいるという。精神状態に影響を受けやすい人の30~40%には「偽薬」が効くというのだから、事実、良くなることもあるのだろう。
でも、長期間にわたって観察していると、結局は病院に逆戻りする人たちが少なくない。そのため社会復帰を支援する施設にくる人たちが高齢化し、このままでは老人ホーム化しかねない状況になっているという。一般社会からも「新宗教」からも見放された人たちが、社会の 澱のように精神医療施設に集まってきている。
精神医療施設に入っている人たちの表情には共通したものがある。抗精神薬を服用しながら社会生活をしている人も注意深く見るとわかる。薬の副作用ばかりではない。どうも「心の病」に冒されている人たちの考え方 ―― 多分、病的なまでのこだわりとか思考の柔軟性に欠けることが、表情に出てしまうらしい。「もう表情から見分ける能力は医者以上ですよ」―― 知人の精神科医に太鼓判を押されている。その僕が眺めると、この人たちと、宗教にどっぷりと浸かっている人たちの表情には、何か共通点が感じられる。心とは本当に不思議なものである。