ぼちぼちいこか  幸福感と鈍麻する人たち PDX 
 

伴 勇貴(1997年12月)

ほかのことも勉強しろよ 神の摂理は至る所にある

殺害した死体をバラバラにして遺棄するとか、気分がムシャクシャしていたので思わず通りすがりの人を襲って殺害してしまったとか、常人には理解しがたい事件が相次いで起こっている。識者と称する人たちがマスコミに登場し、したり顔で、あれこれと論評する。そんな論評を聞きながら、内村祐之うちむらゆうしの語る父、内村鑑三うちむらぞうの話を思い出した。内村鑑三なら何と言うのだろうかと思った。

キリスト教徒で明治・大正期の代表的な思想家、内村鑑三(1861~1930)の息子で、東京大学で精神医学を専攻し、松沢病院長、東大教授などを歴任した内村裕之(1897〜1980)が、その著書「わが歩みし精神医学の道」(みすず書房)の中で書いていた。

内村鑑三について語る人は、当然のことながら、そのキリスト教の信仰、無教会主義、非戦論、警世論、文学論などを中心として描き、また彼の人柄としては、その鋭い顔つきとか、きびしさとか、激情、雄弁、影響力などを説く。こうした描写から浮かび上がる鑑三の面影は、まじめ一方の大先生であり、著作物を通してするイメージも同様だ。

それゆえ、初めて鑑三に接した青年たちの中には、先生が笑ったり、菓子を頬ばったりしたことにびっくり仰天したと書いている人もあるほどで、完全無欠の大先生というイメージを抱いて鑑三のもとに来て、それを裏切られ、幻滅を感じ、鑑三のもとを去った人も少なくない。

庶民的な事柄を愛し、表面をつくろう権威主義をきらった。

特色として、彼の自然科学的趣味と、天然に対する限りない憧憬の心とを挙げたい。これは彼が札幌農学校で自然科学(水産学)を修めたことにもよるが、また天成のものでもあった。そしてこれが彼の宗教を、乾燥した律法的なものよりも、より純朴なものとし、何人の心にも訴えるものとしたのではあるまいか。

途方もなく強い自然への感動、これを見ずして鑑三を正しく理解することはできない。彼はここに神を見、また造物主の偉大さに触れたのであって、このことは、天然が彼の世界観と宗教観とに密接につながっていることの最も明らかな証である。

鑑三が、彼の死後盛んに行われている無教会論を知ったら、いつもの口癖くちぐせで、おそらくこんな風に言うことだろう。「もうその辺でいいだろう。それより、もっとほかのことも勉強しろよ。花を見よ。鳥を見よ。森を見よ。星を見よ。神の摂理せつりは至る所にあるじゃないか」と。

昨今の一連の事件発生の背景として、人の心を問題にする見方が多い。伝統的な家庭や地域社会が荒廃し、社会が不安定化し、従来の枠組みが曖昧になり、安心感、幸福感が得られなくなっているからだという。

その意味では、東京大学医学部卒の医師、春山茂雄(1940〜 )の著作「脳内革命」が大ヒットしたのも、服用すれば幸福感を感じて人とうまくやれるようになるし、やる気も出てくるという「脳内ドラッグ」が脚光を浴びているのも、あるいは宗教に没入する人たちが増えているのも、さらにはインターネット上でのチャタリングに熱中する人が増えているのも、すべて無関係なことではないだろう。

 心のやまいにかかる人が増えているのは何よりの証拠だろう。1980年後半からアメリカで急増した正常と異常の境界線をさまよう「ボーダーライン」と呼ばれる人たちが日本でも増えている――こういった議論も盛んになっている。

過剰情報社会の中で、たちまち風化してしまう

でも、こうしたやり取りも過剰情報社会の中で、実態はほとんど変わらないまま、たちまち色あせて風化してしまう。「こんな事件は昔からあった。いまに始まった特異なものでも何でもない」――得意そうに、こう指摘した識者がいた。

しかし、そんなことぐらいは分かっている。それは事実だろうし、そう考えた方が気楽で救われるだろう。だいたい精神的な側面に注目する限り、人類の歴史を振り返ると、繰り返しが目立つ。時間の経過とともに進歩・前進しているとは言いにくい。でも、今を生きている者としては、無駄だ、無理だと言われても何とかならないかと考えてしまう。だから、一層、むなしさを、寂しさを感じてしまう。

 作家の村上龍(1952~ )が「寂しい国の殺人」(「文藝春秋」 1997年9月号)で、日本は現在、近代化という国家的な大目標が消失したのに、次にくるべき価値観が見出せない時期にある。日本人の中心的感情も敗戦や貧しさに由来する「悲しみ」から目標喪失による「寂しさ」に変わった。若者や中高年を含めた現代の日本人の内面に迫り、その中で、とくに多感な思春期の少年が将来に希望を持てず寂しさを内に抱えたときに、異常な想像にとらわれたとしても不思議ではない、と指摘している。

まして情報の発信者として渦中にいたのだから、どれだけ辺見庸が悩んだか想像にかたくない。1944年生まれで、早稲田大学文学部を卒業したあと、共同通信の記者になり、昨年末に退社、フリーになった作家である(「21世紀への視座」東京読売新聞 夕刊 1997年6月27日)。

「ニュースは日替わりでないと許されないぐらいの速度になっている。あっという間に情報が商品化され、登場したと思ったら即退場。阪神大震災ですらオウムに超えられ、オウムもまた、神戸の小学生殺害事件が超える。十分に解釈も分析もしないうちに新しいニュースを追いかけてゆく」

「興味ある話を聞き、『はい、さようなら』という取材に罪悪を感じたからです。午前中に書いたものが午後には体から消えている。情報が自分の体をさっぱり彫琢(ちょうたく)しない。それで退社し、一度、一つの風景にどっぷり体ごとつかろうと思った」

「ぼくとしては、メディアというフィルターから見た抗菌性のビニール幕に覆われたような人工的な空調の世界を破り、たとえ生臭く、時に異臭にみちみちたものであっても、もっとまっとうな風を身体に浴びたい」

「南千住に住み、ホームレスと話したりしています。公園で賭事している彼らの横に座ったり、雨が降ると、山谷の福祉センターにホームレスが駆け込み、むせるような汗のにおいに満ちた光景に身を浸したり。ミイラ取りがミイラになったみたいで、昼間からぶらぶらしています」

山谷さんやで肉体労働をした経験を踏まえて「大きい俺が、小さい人の足元にも及ばない。労働に適さない身体に、何が言えるか、という恥じらいがある」とも辺見庸はいう。

同じ世代なのかもしれない。僕も、どこか似た負い目を持っている。高校時代にはアルバイトを続けながら大学に進学すべきか否かを真剣に悩み、大学時代には、汗がすぐに白い粉に変わる酷暑の鋳造現場で背の2倍以上もの高さの大きな砂型の解体作業に精を出した。粗塩あらじおめながらやった。立ちん坊になって、沖仲仕おきなかしとか工事現場作業員とか化学工場の廃液処理作業員などもやった。

そんなことに時間を費やすことにいったいどれだけの意味があるのか、もっとやらなければならないことがたくさんあるだろうと思いながらも、若い頃の僕は、汗の臭いにむせぶ肉体労働の世界に飛び込む自分を抑えられなかった。

組織への麻痺した悪意なき勤勉さと誠実さ

身体をこわした今では、すべてが遠いほろ苦い想い出に過ぎない。そして改めて辺見庸の行動の意味を考えてしまう。辺見庸の個人的心情は別にして、彼が山谷さんやにどっぷりと浸かることにどれだけの意味があるのだろうか。いくらどっぷり浸かっても、多分、彼は決して作家という立場を捨てることは出来ないだろう。

そこが辺見庸の限界と言えば限界だろう。同じ作家の村上龍も、何らかの「システム」に寂しさの中和を期待するのではなく、個人的に充足感が得られる仕事や目標を持つことが大切だと指摘するだけである。それが、どのようなものであるかは示唆しない。そこから感じられるのは、その是非はともかくとして、何らかの「システム」にすがっている人たち、「システム」に頼ろうとしている人たちに対する暗黙の厳しい視線だ。そうしたところに安心感や幸福感を見出そうとしている多くの人たちに対する批判的な視点だ。

その意味では、辺見庸は村上龍よりも血が通っているように思える。この感覚を激しい言葉で表現している。「反商品的なものですら、周到に、アリ地獄のように商品化してゆく」消費資本主義のメカニズムが恐ろしい。消費資本主義は甘くない、と断定する。反商品的という言葉の中には、人間の精神に関わるもの、たとえば宗教のようなものも含めているようである。

そして辺見庸は続ける。しかも、何より手に負えないのは、それ自体に「悪意も殺意も善意もない」ことで、そのことが地下鉄サリン事件で思い知らされた。それを地下鉄神谷町の現場で感じた。忠実に取材し報道することしか頭にない記者。苦しむ被害者をまたいで職場に急ぐサラリーマン。それと明確な殺意を持っていたか定かではない下手人のオウム信者 ――「共通するのは組織の指示への麻痺したような誠実さ」。度を超えた勤勉さと、誠実さで、それが悪意のないものだけにタチが悪いと言う。

僕も同じことを感じ続けてきた。「悪気はないけれど、その行動なり判断が結果として、どうしようもない事態を招く。そういう人が善魔で、悪い人ではないだけに悪魔よりタチが悪い」などと言っていた。そういう人たちをたくさん見てきたからだ。総じて生真面目で組織や規則に忠実な人たちだった。だから変化の中で問題を察知できず、結果として傷口を広げる行動をしてしまったのだろう。最近の一連の経済犯罪などに関与した人たちの多くも、そんな人たちに思えてならない。

その背景には、村上龍が指摘するように国家的な大目標の喪失と目標喪失による「寂しさ」が貼り付いるのかも知れない。だからと言って、一概に、そうした人たちを単純に批判することは僕には出来ない。集団主義、横並び意識から脱却することが日本人の課題だと指摘できるだけで、それらが日本人の意識から抜けた跡のことを総体として考えられない。すべて1人1人に委ねられてきていたからだ。

佐伯啓思(1949〜 )京都大学教授は「戦後思想はA少年に対抗できるか」(「正論」1997年9月号)で、次のように述べている。社会のルールや法、約束事など、さらに言えば目の前の現実でさえも自らの想像力で解釈しているという意味で「虚構」である。ただ、それが、人々が納得する共通の「物語」で支えられていることで「信頼できる虚構」となっているのだ。しかし、共通の「物語」という支えを失った時、それは「つかの間の虚構」や「自分だけの虚構」に変容し解体してしまう。「物語」とは、歴史の知恵や生活実感や常識で、具体的には伝承や神話や自国の歴史や未来への理想などがあると言い、戦後、「物語」は「科学」に、「共有された価値」は「それぞれの自由」に置き換えられた。後に残った「人権」や「平等」などの聞こえの良い言葉だけでは納得できる「物語」は構成できない。こう主張している。

生活に満足し、幸福だと自己報告する人たち

なかなか説得力がある。しかし、村上龍と同じく、これから必要な「物語」は何かという肝心のことには答えていない。その意味では、言い方が裏腹であるだけであって、辺見庸も結局は同じだと思う。辺見庸は「組織の指示への麻痺したような、度を超えた勤勉さと誠実さ」と苛立いらだつっているが、それはあくまでも辺見庸の立場からであって、当の本人には「麻痺まひ」したとか、「度を超えた」などという意識はない。あったとしても薄いのではないだろうか。現状に満足しているか、満足していると信じている人たちなのではないだろうか。それを非難することが本当にできるのだろうか。

多くの人にとっては、内容はともかく枠組みがしっかりしていることが大切で、それが安心感をもたらし、もっと言えば幸福感をもたらすと思われる。安心感とか幸福感というのはあくまでも、1人1人の価値観あるいはその人たちの属する、もしくは信ずる集団の価値観に基づく主観的なものだと思うからだ。─── 劇作家の山崎正和(1934〜 )は、政治学者、学習院大学教授の坂本多加雄(1950〜 )との対談で、ボーダレス化が進み、国家が相対化されている中で、一国内でみんなが同じ言葉をしゃべり、同じ宗教を信じ、同じ記憶を有する、つまり「共同の物語」を持つことができた時代は過ぎつつあると言っている(「歴史教科書 これだけは言いたい」This is 読売 1997年9月号)

 この問題の解決を考える糸口として、ミシガン州のホープカレッジの心理学教授デビッド・マイヤーズ(1942〜 )と、イリノイ大学の心理学教授エド・ディーナー(1946〜 )の2人がまとめた「どんな人が幸福と感じているか」という論文はきわめて興味深い(「日経サイエンス」1996年7月号)。世界各国で行われた、幸福感や生活の満足度、つまり心理学者がいう「主観的幸福」に関する合計100万人以上もの調査データを再検討したところ、驚くべき結果が得られたという。

「人間は私たちが考えているよりも幸福なのである。そして幸福は、外的環境によって決まるものではないらしい。人生は悲劇であると見られてきているが、世界中から無作為に抽出された人々の人生はもっとバラ色であった」

年齢、性別、経済的地位、教育レベル、人種などと、主観的幸福との間に有意な関係はない。約8割の男女が生活に満足し、約2割もがとても幸福だと感じている。幸福と自己報告した者は、他人にもそう見えるし、内省的になることが少なく、他人に敵意を持ったり、罵倒したりすることも少なく、病気にもなりにくい。さらに、幸福だと自己報告した人たちに共通する特徴を調べたところ、次の4つの特徴が浮かび上がってきたという。微妙なニュアンスの表現なので、誤解のないように翻訳文をそのまま引用する。

●第1に、彼らは自分自身が好きである。この傾向は、個人主義の強い西洋文化社会 においてとりわけ顕著である。彼らは、自尊心が高く、自分たちは道徳的で、知性があり、偏見はなく、人とうまくやっていくことができ、普通の人より健康であると常に信じている。

●第2に、幸福な人は、自分は主体的に生きていると思っている。囚人、在宅看護を受 けている患者、全体主義政治のもとで苦しい生活を強いられている集団や市民のように、自分で自分の生き方を決めることができない人は、生きる気力も乏しいし健康とはいえない。

●第3に、幸福な人は普通、楽観的である。

●第4に、幸福な人のほとんどは外向的である。内向的な人は、ストレスのない、1人で静かに思索できる生活で、より幸福を感じていると人は思うかもしれないが、外向的な人は、1人でも他の人と一緒でも、内向的な人より幸福なのである。

もっとも、こうした特徴と幸福との間の論理的な道筋は解明されはいない。例えば、幸福だから外向的になるのか、それとも外向的だから幸福になるのか。もし、外向的なら幸福になるのであれば、人は外向的に振る舞うことで幸福になろうとするだろう。同じ理由で、自尊心が高いフリをする人も出てくるだろう。  いずれにしても、この両教授の説明に従えば、どうも「鍵」を握っているのは、あくまでも主観的なもので、当人が、思い込むこと、信じることが重要なようである。そうだとすれば、それを手助けすることを標榜ひょうぼうする組織――宗教などが、いま注目を浴びているのも不思議ではない。それなりの信者数を誇っている日本の新宗教とか新々宗教と呼ばれているものを見ると、いや)しや現世での運命改善が重視され、満足感とか幸福感を得たいという多くの人たちの欲求を充足するように巧みに構築されているように思われる。

幸福感に関する論文をまとめた米国の両教授も、ギャロップ社の調査と、16カ国の共同研究を紹介し、信仰を持っている人の方が幸福だと自己報告する比率が高いと述べている。

そして「幸福を研究している専門家たちは今、幸福な人たちの世界観、人生の目的、行動傾向について調査を進めている。その調査で明らかになったいくつかのパターンから、幸福の行く手を阻んでいる環境や行動をどのように変えれば、人間は幸福になれるかを示す手がかりが得られるかもしれない。最終的には幸福に関する科学的研究から、どのようにしたら人間の幸福感を高める世界を作り出し、どのようにしたら人間が環境から最高の満足を得られる手助けができるかがわかるであろう」と結んでいる。