ぼちぼちいこか 「大宗教国家」日本 PDF
伴 勇貴(1997年11月)
「僕の前に道はある・僕の後ろに道は出来ない」
市井の哲学者の長谷川宏(1940~ )と妻で絵本作家の長谷川摂子(1944~ )は対話のなかで、今の子供の置かれた状況について、高校、大学とあらかじめ用意された道を進み、世間的なものさしで固めたような人生を送ると言っているという(「しあわせのヒント」河出書房新社)。最近ジンワリと読まれているやさしい哲学書の1つだそうだ。自身で読んでいないので、脈絡などもわからず真意が伝わっていないのかもしれないが、どうも僕にはピンとこない。あまりにも杓子定規な見方で、現実は逆だと思う。
たしかに高村光太郎(1883~1956)は「僕の前に道はない」と言った。でも、それは1人で果敢に古い体質に囚われた日本美術界に挑戦し、1952年(昭和27年)、日本芸術院会員に推挙されても固辞するという権威に逆らった生き方を貫いた高村光太郎ならではの言葉である。
他人には道は見えなかったけれど、高村光太郎には切り開かれるべき道が見えていた。だから、なんと言われようとそこを進むこと以外には考えられなかったのだろう。精神病に病む妻の智恵子を慈しみつつ、彫刻でも文学でも旧来の権威に挑戦し続けた壮絶な人生である。だから、その戦いの記録が人々の胸を打ち、1つの人間の理想像として心に刻まれている。
でも、多くの人たちにとっては、どう考えても「僕の前に道はある」ほうが良いに決まっている。先まで見えていて、迷ったりするトラブルも少なそうに見える道を選ぶのが普通の人の本能というものだろう。自分で作りださなければならず、悪戦苦闘することが目に見えている道を、あえて選択する必要はない。
高村光太郎的な生き方に憧れを持つことと、その生き方を自分も真似て実践するかどうかはまったく別の問題である。現世的な利益に照らせば、ともかく見通しのある(正確には見通しのあると思われる)道があるのなら、その道を選ぶ方が得策というものだろう。理想はあくまでも理想であって、ほとんどの人たちが現実にはもっと平易な道を歩むことを選ぶだろう。
ところが、時代は大きく変わった。この10年あまりの間に、敗戦後に作られた道筋が音を立てて崩れ始めた。初めは社会の片隅でポツリ、ポツリと起こった。それで、その兆しに気のつく人たちは少なかった。いくらその危険性を叫んでも、ほとんどの人が「まさか」と言った。
誰もが、いまの状況がいつまでも続くとは思いはしなかった。でも、その変化の影響を自分は被ることはあるまい。こう信じる人たちがほとんどだった。根拠など脆弱だった。それでも信じていた。それは学歴とか年齢とかには関係がなかった。でも、一度、崩れ出すと、勢いは本当に速かった。まだ安定して見える巨大な組織に組み込まれている人でも実感しているのではないだろうか。頭では理解していたものの、その状況を目の前にすると僕自身も驚かざるをえない。
見通しのある道を欲するのが人の本能であるにもかかわらず、かなりの人が「僕の前に道はない」と不安を感じる状況になってきている。不安が不安を呼び、ますます社会の変化が加速しそうな雰囲気である。これまで歩んできた伝統的な道は残ってはいる。でも、期待しにくくなっている。それは何も高校・大学・就職といった道を辿ろうとする子供だけではない。就職した大人も退職した大人も同じある。とりあえずやってはいるものの、先が見えないものだから、だんだん不安が人々の心に広がっている。
「9割の人がやることはやったほうがいいよ」
そうなると面白いもので、不安を煽りながら、こうすれば大丈夫だといった論調の人生論や経営論から将来予測などの本が目立ってくる。もちろん宗教関係の本も増えている。共通するキーワードとしては、たとえば「霊的覚醒の体験により自己変容あるいは自己実現をはかる」、「自己変容が癒しと周囲の環境を変化させる」、「近代西欧の合理主義と輪廻転生の東洋思想の統合をはかる」など、心に関するものが並んでくる。平ったく言えば、人間の及ばない大きな力で治められていることを自覚し、自分自身の修養に励み、全体の調和を大切にしなければならないといった、普通の日本人には受け入れやすいというか口当たりの良い考え方が、あらためて強調されるようになっている。
過激な発言で売り出した吉本隆明(1924~ )までが、将来が不安だから子供を産まないという考えに対して、「9割の人がやることはやったほうがいいよ」、そうでなければ民衆の生活なんてわかるはずがない、と語っているという(「僕ならこう考える」青春出版社)。このところ吉本隆明の保守化が目立っていたけれど、ここまで言うか、とただただ驚いてしまった。
この思考を停止させる、簡単で明瞭な論法は何にでも使える。とくに「僕の前に道はない」と不安を感じている多くの人たちには心地よく響くに違いない。こうした割り切りも一つの方法だろう。でも、それをみんなが受け入れたらどうなるだろうか。それが支配的な雰囲気の社会になったらどうなるだろうか。やや薄気味悪い。
もはや吉本隆明は思想家というより世の風潮を察知するのが巧みな詩人と思えばいい ―― これは友人の言葉だけれど、そう言われるとますます不気味に思えてくる。
ちなみに、よく日本人は無宗教だと言われるけれど、統計を見ると、そんなことはない。すでに十分に宗教的である。消費支出の3%もが宗教に支出される「大宗教国家」になっているという(「せぬがよき 文化の黄昏」竹内弘 東洋経済新報社)。
調べてみて驚いた。なんと日本には宗教団体が約23万もあり、信者数の合計は、公称1700万人とうそぶく創価学会を含めると約2億4000万人にも達していた。信者数の合計が総人口の約2倍にもなっていた。信者数50万人以上の巨大な「新宗教」だけでも16団体を数えるという。会社で言えば、税金と不況知らずの超優良巨大企業である。その一つの創価学会を除く「新宗教」15団体の信者数は合計で2340万人(「宗教年鑑」平成六年版 文化庁編)。 それに信者数、公称1700万人の創価学会を加えると、16団体だけで信者数は約4000万人に達する計算になる。日本の各世帯に必ず「新宗教」16団体に所属する者がいる勘定になる。
教団名 信者数 万人(1994年) 教師数 人(うち女性) 系 統
創価学会 (不 明) (不 明)
立正校正会 655 19198(不 明) 仏教(日蓮宗)
霊友会 321 3889( 1157) 仏教(日蓮宗)
仏所護念会 224 4239( 801) 仏教(日蓮宗)
天理教 189 197243( 120258) 諸教
出雲大社教 124 7844( 1876) 神道
PL教団 123 22823( 17238) 諸教
妙智会教団 103 4219( 3077) 仏教(日蓮宗)
成長の家 87 15591( 10257) 諸教
世界救世教 84 4211( 2030) 諸教
霊波之光教会 83 1685( 39) 諸教
卍教団 82 723( 293) 仏教(真言宗)
石槌本教 73 1695( 1025) 神道
真如苑 72 25709( 19994) 仏教(真言宗)
念法真教 61 5172( 3876) 仏教(天台宗)
御嵩教 58 2677( 917) 神道
小計 #2339 #316918(#*182838) *除く立正校正会
計 #21972 #680683(#*305116) #除く創価学会
教団の教師総数は小学校から大学までの教員総数に匹敵する
評論家の故大宅壮一だったら「一億総白痴化」に続いて「一億総宗教化」とでも揶揄するかもしれない。とんでもない数字が出ている。信者のうち教師資格を持つ者が創価学会を含めると百万人前後に達する。それは、ほぼ全国の小学校、中学校、高等学校、短大、大学の教員の総数に匹敵する。しかも、その半数以上が先に紹介した信者数50万人以上の16教団に所属している。こう説明されれば、改めて驚くに違いない。よく問題にする学閥や閨閥の比ではない。
目的なり目標は、難解すぎてはいけない。しかも基本的に常識に反するものであってはならない。といって、それだけではありがたみが薄れるので、やや難解な部分や神秘的な部分を持った教義なり儀式がなければならない。また、参加者に達成感や充実感を生むような修行とか儀式を、適当な間隔で実施しなければならない。それも厳しすぎてはいけない。日常生活で少し頑張れば多くの人たちが付いていける程度のものでなければならない。そして、その結果が評価され、参加者の励みになるように、参加者の組織内でのランク付けを行わなければならない。さらに参加者の脱落を防ぐのと同時に、参加者の寂しさや孤独感を癒す効果もある、集団心理療法的な要素も取り入れなければならない。
信じている人たちからは怒鳴られそうだけれども、「新宗教事典」(弘文堂)を参考に、組織上、運営上の性格などに注目し、主な新宗教の特徴を平ったくまとめると、こんな具合になる。全体では信者約300人当たり教師1人という比率なのに、主な新宗教では平均で約70人に1人、その5倍近い教師を抱えている。そのことが、何よりも如実に「新宗教」での「教師」という資格と、その存在の特殊性を表していると言ってよいだろう。
この教師に注目すると、主な「新宗教」は大きく、教師の比重が高いグループと、教師の比重が低いグループに2分できそうである。最も教師の比重が高いのは天理教(約10人に1人)で、これを真如苑(約30人に1人)が追い、以下、PL教団(約50人に1人)、成長の家(約60人に1人)と続いている。この4教団が突出し、1つのグループを形成している。
その信者数は約470万人で、創価学会を除く主な新宗教の約2割にとどまっているが、教師数は約26万人で、15教団の合計の実に約8割を占めている。しかも、この4教団の教師の過半を女性が占めているのも特徴だ。真如苑とPL教団では約8割、成長の家で約7割、天理教でも約6割を女性の教師が占めている。 他方、教師の比重が最も低いのは卍教団(約1000人に1人)で、同じ真言宗系の真如苑とはまったく対照的だ。また信者数を誇っている日蓮宗系の立正校正会(約300人に1人)、霊友会(約800人に1人)、仏所護念会(約500人に1人)も低い。霊波之光教会(約500人に1人)、石槌本教(約400人に1人)も低い。これらの教団では総じて女性の教師が占める比率が低いのも前述の4教団とは対照的だ。
人は「神話」を壊されることを嫌う
ここで名前の上がった教団は、「新宗教」の中でも、いわば大手の老舗と呼んでいいだろう。それでも批判の声は少なくない。有名なのは創価学会で、政治も絡んで、いざこざが絶えない。それだけではない。どの教団も一度ならず数度は週刊誌や月刊誌を賑わしたのではないだろうか。「怪文書の研究Ⅱ」(六角弘 晩聲社)、「新興宗教 教祖の裏が分かる本」(早川和廣 ぴいぷる社)、「儲かる宗教ビジネス」(田中一京 あいであ・らいふ)、「宗教の火遊び」(溝口敦 小学館)など教団のあり方を糾弾する単行本がたくさん出ている。
それらに書かれていることを鵜呑みにはしないけれど、実体はなかなかのもののようだ。僕自身も、これまで直接にいろいろ見聞きしているだけに、書かれていることを否定する気にはなれない。
票や選挙資金が絡むのだろう、必ずと言っていいほど大手の教団には政治家の名前が出てくる。銀行も証券会社も大手商社も大手建設会社も大手メーカーも、あまり公にはしたがらないけれど深い関係を持っている。専門の組織を持っているところが少なくない。こんな上客はいないからだ。「来るときは必ず黒塗りではない目立たない車で来ること。しかも、近くまで車で来ては行けない。必ず遠くで降りて、歩いてくること。こう言われている」───専門の組織にいた人から、その対応の仕方のコツも聞いた。
それで、なんとなく教団と名の付く存在に面白くない感情を抱いてしまう。でも、考えると、それは日本人に共通する、異常なまでの「形式」へのこだわりに由来しているように思う。ほとんどが教義や教則や教団に固有の問題ではない。人間自身の、そして、とくに人間の集団の問題だからだ。
ところが、日本人には、 「官僚なら公正無私なはずである」 「銀行員なら真面目で信頼できるはずである」 「学校の先生なら変なことはしないはずである」 「大企業の社員なら間違ったことはしないはずである」 「東大卒なら大丈夫なはずである」といった「………なら、………なはずである」という、個々の人間とか人間の集団の行動力学を無視したような「神話」が、まだ溢れている。日本の社会は、こんなたぐいの「神話」によって動かされてきたと言っていいだろう。
「教団、信者なら悪いことはしない」というのも、そんな「神話」の一つだろう。もともと合法的な集団である限り、悪いことを組織の理念や目的や目標に掲げるところはあるまい。だいたい、営利が目的の企業の「社是」や「社訓」を見ても立派なことしか書かれていない。社会に貢献することが強調され、「和」とか「調和」とか、あるいは不断の自己研鑽などが求められている。それこそ「教団」と変わりはない。それでも組織のトップから末端に到るまで不祥事は絶えない。いま「神話」の検証が一つ一つ行われ始めているけれど、人は「神話」を崩されることを嫌う。とくに日本人は嫌う。
まして、宗教とか教団に対しては極めてストイックな要求というか幻想を抱いている。だから、ちょっとでも、その「神話」に反するようなことがあると、ヒステリーのように反応する。マスコミはワンパターンで、煽ることに熱中する。生身の人間の集まりであることをすっかり忘れている。
トップの権力闘争が見苦しいから全日空は利用しない。オーナーに問題が多いから西武で商品は買わない、ライオンズは応援しない。一勧は問題が多いから、宝くじはやめた、預金も借金もやめた。社員が不祥事を起こしたからIBMや日立の製品は買わない。卒業生には問題を起こす人が多いから東大や慶応には行かない。あるいは、トップが問題を起こしたから、社員が不祥事を起こしたので会社を辞める。
いずれもなかなかありそうにない。いろいろ理屈はこねても、つきつめると個人々は、その都度、きっちりと損得を勘定して動いているようである。名誉か、権力か、金か、物か、あるいはサービスか。その際に考慮するものが違うだけだろう。
満足感や幸福感や生き甲斐などを与えるのも立派なサービスと呼べるだろうし、人がそのサービスを求めたとしても不思議ではない。満足感や幸福感や生き甲斐などにかかわるサービスだけを、何も特別視することはあるまい。つまり、いいこともあれば悪いこともある。ケースバイケースであろう。たとえば、富山大学教授の小沢浩は「新宗教の風土」(岩波新書)で、浄土真宗王国の富山県をフィールドに新宗教進出の意味や意義に迫っている。「人が宗教を信じるとはどういうことか」がテーマで、信者の告白やエピソードが豊かに綴られている。読んでいて感動し、考えさせられたことも少なくない。
(1997年冬 )