ぼちぼちいこか 「上海・香港4」上海蟹と桂魚 PDF

伴 勇貴(1997年11月)

圧倒する人の群れと上海蟹と桂魚

ガッガッガッガッ。急に大きな振動が体に伝わってきて現実に引き戻された。「MD―11」が高度を下げ始めた。後ろから押されて落ちるような感覚に襲われた。やっぱり3発エンジンの機体だ。着陸体勢に入ると、なんとなく居心地が悪くなる。

それでなくても着陸は嫌なものである。雲海に突っ込んで視界がゼロになり、水滴が猛烈な勢いで窓を叩き、窓ガラスを伝って斜め下から上に移動していくのを目にすると、いつも不安な気持ちになる。地面に車輪が着いてドスンという響きで大地の感触を感じるまの時間は、何度、経験しても落ち着かない。決して気分の良いものではない。

厚い雲海をくぐり抜けると、一面に広がる田園風景が目に飛び込んできた。一区画が日本の何十倍もあるような水田が延々と続き、縦横に水路が走り、樹木と野菜畑などに囲まれた集落が点在している。家屋はだいたい3階建ての煉瓦作りのちょっと瀟洒な集合住宅だ。思っていたよりはるかに豊かそうだ。

だんだん建物が多い風景に変わり、林立する高層ビル群が視界に入ってきた。アナウンスが間もなく上海空港に着陸すると伝える。窓にへばりついて初めての上海に見入っている間に機はドスンと音を立てて着陸した。初めてのエアライン「中国東方航空」で、しかも初めての機体「MD―11」のフライトだったもので、思わずフーと安堵あんどのため息が漏れた。

でも、喜ぶのは早すぎた。キャスター付きの手荷物一つなので、すぐに入国審査を済ませて、何時間も待たせている寅さんと会えると思ったら大間違いだった。まず機から降りたところの通路で延々と待機させられた。最前列のアメリカ人らしい中年男性が「待っていろ!」とジェスチャーで制止する中国人の男性に理由を聞いている。しかし、要領を得ないようだ。英語が分からないのかもしれない。係員がオロオロしている様子だ。ようやく列が動き出し、ホッとしたのも束の間つかのまのことで、少し動いたら、またストップがかかった。この繰り返しだった。どうも誘導する経路が定まらないようで、「あっちだ!」「こっちだ!」と空港関係者が言い合っている雰囲気だった。

あちらこちら引きずり回され、ようやく入国審査の窓口に辿り着いたときには僕はもうフラフラだった。それに外国人用の窓口はたった2つしかなく、すでに長い行列ができていた。審査に時間がかかる。行列はどんどん長くなる。ついに僕は気分が悪くなってしゃがみ込んでしまった。低血糖になったようだった。でも列を離れることもできず、持っていた黒砂糖をめながら血糖が正常範囲になるまでの辛さを我慢した。

そんな状態だったもので、余計に何もかもにもイライラした。だいたい、これだけの人たちが行列を作っているのに窓口が2つしかないのはおかしい。審査もダラダラやっている。団体客には別の窓口が用意されていて、ツアーコンダクターらしい中国人の男性が一言二言いうだけで済んでしまう。後からきた団体客がどんどん入国手続きを済ませて出ていく。不愉快きわまりなかった。先ほどまで僕たちを誘導していた人たちの1人の女性が態度を豹変させ、声高に命令口調で叫ぶのも気に入らなかった。スタイルが良い、ややきつめの好みのタイプのルックだっただけに、無性に癇に触った。

黒砂糖の効果で気分が落ち着いてきた頃になって、ようやく僕の番になった。ところが審査はあっけないくらい簡単だった。サッと書類とパスポートに目を通しただけだった。先ほどまで時間がかかっていたのはいったいなんだったのだろう。狐にかされたような気分だった。中国通の友人の作家、杉田望に、最近、中国の空港の役人は日本人に対して妙に威張っている、ふんぞり返ってカバンを開けろと指示する ─── こんなことをいろいろ聞かされていただけに意外というか、拍子抜けしてしまった。

キャスターをゴロゴロさせながら手荷物を引っ張ってドアの外へ出ると、分厚い人垣が待っていた。中国語が入り乱れる中で、聞き覚えのある声の日本語が飛び込んできた。寅さんだった。手を高く上げて分かったと合図する。この時くらい寅さんが頼もしく思えたことはなかった。一抹いちまつの不安も消え、「ついに中国に来たんだ」という感慨が全身をつらぬいた。

圧倒する解き放された熱気と勢い

しかし、そんな感慨に酔っている余裕はなかった。色とりどりの服装でキラキラと目を輝かせている人また人の群。それとチンプンカンプンの中国語と「ピジョン・イングリッシュ」の大洪水である。バンコックも凄いけれど、その比ではない。いきなりカウンターパンチを食らい、ちょっと不安に襲われた。

新しい中国に関する情報が新聞やテレビや雑誌などに溢れているが、若い頃に刷り込まれた中国に対するイメージを払拭ふっしょくできていなかったことを思い知らされた。濃紺やカーキ色の人民服を着て同じような表情をした人たち。大きな赤い字で書かれた共産党のポスター。共産党の指導者たちの大きな写真 ――― 今で言うと北朝鮮に対するようなイメージが残っていた。いくら近代化路線を歩み出したと言っても、そう簡単に何もかも、まして人の心までは変えることはできまい。そう思っていた。

毛沢東を神のようにめ、日々、毛沢東もうたくとう語録を学習し、それを陶酔とうすいした表情で復唱し、何を聞かれても語録を引用して判で押したように答え、文化革命と称して魔女狩りのように大勢の人たちを血祭りに上げた。それも必ずしも強制されたのではなく、多くの老若男女が率先して嬉々ききとして行った。多くの日本のマスコミや知識人たちも、そういう中国を賛美していた。

つい先頃のことだ。ところ が、この揚子江の河口デルタに位置する中国産業の中心地 ──人口約1200万人、全人口の約1%で国民総生産の2割近くをにない、1日300万人ぐらいが出入りする上海では、そんな雰囲気は微塵みじんも残っていなかった。

新中国になってから、上海は中国の有力な工業地帯となり、鉄鋼業を基幹工業として各種機械、造船、化学、紡績、印刷などの各部門にわたって高水準の製品を生産するようになった。さらに近年は電子計算機、電子顕微鏡、工作機械、大型発電機、プラスチック製品、窒素肥料など、生産財、消費財のほとんどすべてにわたる生産が行われている。(「日本大百科全書」小学館)

たしかに上海は先進的な土地なのだろう。しかし、そうは言っても上海は中国共産党の発祥はっしょう(1921年)の地である。25年には反帝国主義運動の5.30事件、32年、37年には日本との間で上海事件が起こった土地でもある。そして、江沢民主席の出身地でもある。こんな歴史を背負っているのだから、どこかに共産主義や共産党の「臭い」が残っているに違いないと思っていた。

ところが、上海の街ではもちろんのこと、たくさんの市政府や公司の幹部の人たちと会い、工場も見たが、まるで共産主義と共産党のから解き放されたような熱気と勢いに満ち溢れていた。異口同音に文化革命で何十年も損をしたと語っていた。一転して「市場経済化」という言葉にうなされ、酔っているようだった。

「今日のソ連邦」とか「人民中国」などの雑誌に囲まれて僕は育った。小学生の頃はコルホーズや人民公社などの記事をあこがれて読んだ。疑いもせずメーデーに参加して「聞け、万国の労働者 ─── 」と大声で歌った。

中学生の時にはストを指導して日教組を弾圧する校長をつるし上げた。高校や大学では安保闘争などに加わった。周囲の何人かが自殺した。行方知れずになった者も少なくない。自分自身が社会主義や共産主義に対して批判的になってからも、自分の心の底には、のように社会主義や共産主義に対する「思い入れ」が消えずに残っていた。だから、とても無理だとは思いながらも、共産主義と市場経済を両立させるという中国の掲げるスローガンにはかれた。

しかし、僕のこんな感傷じみた気持ちは、上海に着いて、木っ端微塵こっぱみじんにうちくだかれた。北京ではいざ知らず少なくとも上海では、スローガンはあくまでも建前のようだった。猛烈な勢いで市場経済化が進んでいた。ここまで人間や人間の集団が過去の価値観を捨てて、一気に変われば変われるもだと、はかなさと無常さを思い知らされた。改めて人間や人間の集団の持つ底知れぬ不気味さを見せつけられた。

また敗戦後の日本人の豹変ぶりも思い出した。鬼畜米英を叫んでいた日本人が、敗戦後は一転して「拝啓 マッカーサー元帥様 ああ我ら国民を愛すマッカーサー大元帥陛下を君とし、一糸乱れぬ明るい清らかな身体となって生まれ変わり、米国民と日本国民とが協力して平和のため建設を進めることを心底より念願するのみです」といった投書を50万通以上もGHQ(総司令部)に寄せたという。それだけではない。高見順の「敗戦日記」には、従軍作家として人気のあった火野葦平の本がクズのように扱われる一方で、英会話を学ぶための紙切れが高値で取引されている様子なども克明に描かれている。

ともかく上海滞在のインパクトは強烈だった。驚きと戸惑とまどいの日々だった。しかし、仕事は予想していた以上に進展した。顧さんの計らいで、直接、関係有力者と接触したのが良かった。当初は少し身構えていたが、間もなく、寅さんも僕も、いつものように単刀直入に話しを進めていた。

こうしたい、でも条件はこうだ、それではできない ――― それが良かったようで、初めはいろいろ難しいことを言っていた人たちも最後には僕たちの提案を受け入れてくれた。

すっかりうち解け、「何と言っても、お互い千年以上もの長い交流の歴史があるのだから ―― 」とか「目先の利益だけに目を奪われることなく、向こう十年を考えて協力してやろう」などという言葉が期せずして双方の口から出るようになった。抱いていた一抹いちまつの不安は薄れ、腰を据えて日中が協力すれば、次世代には大きな成果が得られるに違いないと明るい気分になった。

もっとも、具体化となると、総論賛成・各論反対といったたぐいの問題が噴出するだろう。中央からの横槍も入るだろう。考え方の違いにとし、止めた方が良いと思うこともあるだろう。しかし、冷静に考えると、そんなことは日本国内でも日常にちじょう茶飯事である。驚くに値しない。協力関係を作るのに王道はない。主張を率直にぶつけ合い、諦めずに根気よく話し合い、折り合いを見出す努力を惜しまない。それしかあるまい。これはできるはずで、そうすれば間違いなく新しい日中の道を開くことができる ―― そんな力強い手応えを感じ取った。それも今からやらなければ手遅れになるとの思いを強くした。

工場の社員食堂で上海蟹に夢中でかぶりつく

ところで上海は、なんと言っても中華料理の本場である。仕事もさることながら、これにありつけることをすごく楽しみにしていた。でも、上海について早々、もう2年以上駐在している日本の人に連れていかれた中華料理店にはうんざりした。

「値段は高くても良いから美味しいところ ―― 」こう頼んでいたのに味はいまひとつで値段だけは目の飛び出るほど請求され、おまけに僕は眼鏡を忘れるなど、ともかく散々だった。上海に2年以上も住んでいながら、いったい何をやっているのだという怒りを表に出さないのが精一杯だった。美味い、不味いは感性の問題で、とやかく言えないことは分かっている。それだけにいっそう情けなかった。

対して上海の人たちと一緒にとった食事は、いつも味は最高で、それでいて圧倒的に値段は安かった。その一つが訪問先の工場の社員食堂で食べた素朴な野菜炒め、小籠包、それとちょうど旬だからということで出てきたで立ての上海蟹という食事。上海蟹は9月後半から12月末ぐらいまで食べられるが、10月、11月がとくに美味いという。ラッキーの一言に尽きた。「良いものは日本に輸出されていて上海にはない」などと聞いていたが、とんでもなかった。

殺風景な工場の社員食堂の丸テーブルの真ん中に甲羅の大きさが5~6センチぐらいのでたての上海蟹が山盛りに出され、みんなで夢中になって食らいついた。で立ての上海蟹をタレにつけて食べるだけの素朴な料理である。「タレをつけると良い」と言われたけれど、タレを付けない方が自然の味で美味しかった。絶品だった。

甲羅をはがし、エラを取り、大きく2つに割り、手足を持って、ガブッとみつく。すると、まろやかな汁と濃厚なウニのような「ミソ」と淡泊な白身が一体となって口の中に広がる。それを味覚、歯覚、舌覚を総動員して味わった後、おもむろに飲み込む。夢中で声も出なかった。

思い切ってかぶりつくことが大切だ。貴重品のように扱って「汁」と「ミソ」と「身」をバラバラに食べるのでは駄目だ。いっぱいあるので細い手足なんかは無視し、「ミソ」と「身」がたくさんあるヤツを豪快にむさぼる。この醍醐味だいごみがたまらない。それでも食べきれなかった。

賑やかだった会話も途絶えがちになった。「バリバリ」「チュウチュウ」「バリバリ」「チュウチュウ」 ―― かぶりつく音がガランとした社員食堂に響く。至福の時だった。上海の中華料理屋でも上海蟹を注文して食べたが、工場の社員食堂で食べたものが、素朴で一番美味しかった。

上海蟹 ―― 揚子江沿いの支流や湖沼に生息しているシナモクズガニ(Chinese Mitten Crab)という川蟹である。中国では大閘蟹(ドザハー)と呼ばれている。生きたまま調理しないと、濃厚なウニのような「ミソ」を味わえない。そう聞いていたが、本当だった。取れたての上海蟹の「ミソ」は海の蟹とは違った味わいで最高だった。「菊黄色く蟹肥ゆる」とはよく言ったものである。

ちなみに、シナモクズガニは日本の川でも取れるモクズガニ(藻屑蟹)の仲間で、棘や突起がとがっていて、脚がやや細長いのが特徴だという。モクズガニ(Japanese Mitten Crab)は英語の名前の通り日本列島を中心にサハリン・朝鮮半島東岸から台湾などに生息しているのに対して、シナモクズガニ(ChineseMitten Crab)は朝鮮半島西岸から中国の東北部、黄海沿岸部、シナ海沿岸部に分布している。日本でモクズガニはなんども食べた。同じ仲間で大きさも大差ないのに、こうも味が違うのかよくわからない。

上海の北京ダックと初めての桂魚に大感激

上海蟹よりもさらに感激した、大感激したのは淡水魚の「桂魚けいぎょ」である。初めて食べた。味は言うことなしだし、それに名前も魅惑的である。 桂花 ―─― 金木犀の香りがほのかにするということで、「桂魚けいぎょ」と名付けられたという。英語ではMandarin Fishという。Mandalin ―― 中国原産でスペインなどヨーロッパで栽培されている果肉は黄赤色で香りが高く、甘みが強いミカンで、多分、「桂魚」からMandalinの香りを欧米の人たちは感じ取ったのだろう。

これが揚子江でたくさん捕れるという。生け簀にあったのを見たところ、外見はしまのあるフナといった感じの魚だった。値段は20~25センチぐらいの大きさのものでも5~6センチの上海蟹の半分以下だった。

安くて美味いとさんが太鼓判を押した店で、市や公司の人たちを招待してお別れの夕食会を賑やかにやった。日本人はほとんど知らず、来ない店だという。旬だというので、まず上海蟹を注文した。あとはよくわからないので、グーさんに、ともかく美味しいもの選んで欲しいと頼んだ。

 そこでグーさんが迷わず注文したのが、この「桂魚けいぎょ」の蒸し料理と「北京ダック」だった。「桂魚けいぎょ、食べたことがないな――」そうつぶやいたら、「魚の中では高級魚だが、上海蟹よりもはるかに安くて、それでいてすごく美味いから食べてみて下さい」と言う。出てきた料理は東南アジアで良く食べる「マナガツオ」を蒸したものに似ていた。でも「マナガツオ」よりも淡泊でクセもない。白身は軟らかく、まろやかで、それでいて崩れない。とても口当たりがいい。淡水魚に特有の臭みはない。ほのかに気品のある香りも漂う。

桂魚けいぎょ」について詳しく知りたくなった。帰国してから百科事典などで調べたが、出ていない。それではということで、インターネットの検索エンジンを使って調べたら、数件ヒットした。でも、ただ美味い魚ということぐらいしか分からない。あきらめていたところ、湯船につかりながら読んでいた小冊子(「IMPRESSION GOLD」アメリカン・エキスプレス 1997年12月号)に「桂魚」に関する記事があった。それには次のように書かれていた。

淡水魚の王様と言うべき魚で、杭州市の市花として知られる桂花(けいか・金木犀)の香りがほのかにたつことで珍重宝味され、桂魚の名を冠された白身魚の絶品である。乙女の柔肌に金木犀の臭いが漂うかごときの口当たりである。

「やっぱり」と思うと同時に、先を越されたようで少しくやしくなった。こうなったら、また食べに行って、もっと詳しく調べるしかないと思った。

意外だったけれど「北京ダック」も良かった。「ここの北京ダックは最高だから」とグーさんに言われて食べた「北京ダック」が最高だった。香ばしい皮は固からず柔らかすぎず、裏についた脂身は厚からず薄からず、そのバランスが絶妙だった。これだけで「ミソ」をつけずに食べて美味しかった。たくさん出てきて、心ゆくまで食べた。こんな美味い「北京ダック」にはお目にかかったことはなかった。

「桂魚」と「北京ダック」を食べてくる ―― それだけで、また上海に出かける価値は十分にある。上海蟹が食べられなくても、「桂魚」と「北京ダック」にありつければ言うことはない。