ぼちぼちいこか 「上海・香港3」ジェット・ストリーム PDF

伴 勇貴(1997年11月) 

見えないジェット・ストリームに思う

「MD―11」は瀬戸内海経由で九州上空を通過し、日本の領空を離れ、一路、上海へ向かっていた。ニュースも終わっていた。成田からの飛行時間はおおよそ3時間だから、あと1時間半あまりで上海に到着する。上海で待たされてイライラしている寅さんの顔が浮かんできた。でも、いかんともしがたい。ただ謝るしかない。もらった差額を使って「ご馳走するからご勘弁を!」………とやるしかない。ブスッとしていた寅さんの顔が浮かんできた。しかし、それもすぐに消えてしまい、僕の関心はまた「MD ― 11」の飛行に戻っていた。

やかましい管制空域を離れた大洋上で、すでに経済性を重視した飛行に入っていた。飛行高度は1000メートルほど下がって、8500メートルと表示されていた。向かい風になる「ジェット気流」を避けるためだろう。「ジェット気流」、そうFMラジオのオールド・ファンなら、きっと一度は耳にしたことのある「ジェット・ストリーム」である。響く低い声の城卓矢(1935〜1989)の語りと音楽で綴るシャレた番組だった。大学時代は、これを聞きながら、机に向かう日々を送っていた。遠い昔のことだ。その城卓矢も他界してしまった。

あの頃は、何にでも興味が湧いて気象学までも受講していた。地球の大気圏の構造や大気の流れも知りたかったからだ。そうしたら、ラジオから流れる東経いくら、北緯いくら、気圧いくら、風力いくら …… こんな情報を聞いて、天気図を描くことまでやらされた。少ない情報から日本付近の天気図を描き出すのはまるで謎解きをやるようなもので、推理と直感の勝負で、慣れるまではなかなか大変だった。

このとき「ジェット・ストリーム」のことを知った。この存在を見つけたのは空の要塞と呼ばれた「B─29」で、米軍が日本本土の高高度爆撃を繰り返したときのことだったという。日本は「風船爆弾」を作って、風に乗せて米国本土の爆撃を狙ったが、こうした高層気象についてはあまり分かっていなかったようだ。第二次世界大戦の末期、いまから50年以上も前のことだ。以来、軍事情報として米軍を中心に実態の解明が進められた。それが、いまでは大陸間を往来する民間航空輸送でもっとも生かされている。(注 その後、この風船爆弾に関する本が出版された。「風船爆弾」(吉野興一著 朝日新聞社 2000年11月発行)である)

「ジェット・ストリーム」の現れる場所や範囲、その向きや強さは季節や日時などによって大きく変動する。しかも速度はなんと時速300キロメートルを超えることがあるという。だから飛行に大きな影響を与える。追い風で飛行すれば、早く着けるし、燃料も得をする。逆に向かい風で飛行すれば、時間はかかるし、燃料もロスするというわけだ。

さいわい北半球の中緯度地方の「ジェット・ストリーム」の風向きはだいたい西風で、出現する高度も成層圏の下端である対流圏界面の付近に限られている。高度1万メートル前後のところだ。だから、飛行高度を変えれば、その影響を避けることはそんなに難しいことではない。成田から上海への飛行では「ジェット・ストリーム」は向かい風になる。その影響を避けるため、「MD ― 11」は飛行高度を1000メートルあまり落とし、「ジェット・ストリーム」の下にもぐり込み、やり過ごしているのだろう。

一方、飛行速度は140キロメートルあまり上がり780キロメートルになっていた。外気温は高度が下がったためだろう、6度上昇し摂氏マイナス28度と表示されていた。飛行速度が変わればもちろんのこと、気温が変わっても音速が変わるため「マッハ数」も変わる。マッハ数は飛行速度と音速の比(飛行速度/音速)だからだ。暗算は苦手なので、愛用のモンブランのボールペンを取り出し、新聞紙の余白の部分を使ってマッハ数を計算し直した。先ほどの0.6から0.7に上がっていた。「こうでなくっちゃ――」予想通りの結果で、一人悦に入った。高速飛行する機体が受ける空気抵抗はマッハ数で大きく変化する。つまりマッハ数が経済飛行に関係し、いま飛んでいるほとんどのジェット旅客機の巡航速度はだいたいマッハ0.7だからだ。

地球は虚空に浮いている球体だった

パイロットは離陸から続いていた緊張から解放され、自動操縦に切り替えて茶でも飲んでいるだろう。何回か特別許可をもらって運行中のコックピット(操縦室)に入り、副操縦士の後ろの補助椅子で操縦の実際を見せてもらったことがある。その経験に照らすと、ちょうど張りつめていたコックピット内の緊張感が緩むころのはずである。補助椅子に陣取り、スチュアーデスが運んできてくれたコーヒーを飲みながら、パイロットやメカニックの人たちから苦労話などを聞いたことを思い出した。

何百もの計器やスイッチに囲まれたコックピットからの眺めは雲海の上を飛行中でも視界が180度を上回って別物だった。海に突き出した岬の先端に立っている気分だった。

しかし、離着陸となるとまったく違う。コックピットに緊張感がみなぎる。離陸から着陸までをコックピットで過ごした経験もある。機体は貨物専用の「B─727」、そしてパイロットは生命は保証しないという書類にサインさせられてベトナム戦争に参加した経験を持つ強者である。巡航中は軽口を叩いて陽気だった彼らも離着陸のときは人がまったく変わる。この豹変の経験は忘れられない。

窓の外を眺めると、ゆるやかな起伏の雲海がどこまでも広がっている。くっきりと見えていた地面や海面はもうすっかり雲海の下である。その雲海の上、数千メートルのところを飛行していた。周囲の大気からエネルギーを吸収し、上へ上へと力強く盛り上がっていく積乱雲。その積乱雲の頂点の、そのまたはるか上に、いま僕はいる。眼下の雲海に目を凝らすと、ところどころに雲が湧きだしている部分が見える。積乱雲の頂点である。それが陽を浴びて、まるで樹氷のように輝いている。

遠く水平方向に目をやると、一面に広がるやや青みを帯びた虚空と白い雲海。大海原の「水平線」のようである。しかも「水平線」が直線ではなく、湾曲し円弧の一部の「線」であることがわかる。もっとも「線」といっても細い線ではない。

白い雲と青い空の間は霞んでいる。白色が青色に少しずつ置き換えられている。「線」というよりもかなりの幅の「帯」といった方が正確であろう。この「帯」の外側には何も見えない。十分に見慣れた光景なのに、改めて地球は本当に虚空に浮いている球体なのだと見入ってしまった。

「筋斗雲」より凄い物に乗っている!

こんなことに改めて感激するのも長い交流の歴史を持つ中国 ―― 行きたいと思いながら行きそびれてきた中国に、ついに向かっているためだろう。快適なシートにゆったりと身を沈め、コーヒーを片手に煙草をくゆらしていれば、あと2時間もしないで上海に着いてしまう。

こんな近い距離にある中国に渡るため、なんと多くの先人たちが想像を絶する苦労をしたことか。どれだけ多くの先人たちが向かう途中、雲海のはるか下の海原で命を落としたことか。どれだけ多くの先人たちが帰る途中、雲海のはるか下の海原で無念の涙を飲んだことか 。

それを思うと、花果山の石から生まれての術を身につけ、一つとんぼ返りすると10万8000里も飛ぶという孫悟空の「筋斗雲」に乗って、ヒョイとひと飛びという気分だった。

余談だが、「筋斗雲」はとてつもなく速い乗り物だったようである。なんでそんなに速く飛べるのか、飛ぶのになんで孫悟空がとんぼ返りをしなければならないのか。それは定かではないが、ともかく「筋斗雲」はジェット旅客機の15万倍から20倍ぐらいの速度で飛行することができたらしい。

 

いま1里というと、だいたい4キロメートルだが、これは明治になって決められたことで、その昔は300、400メートルぐらいだったという。つまり、一つとんぼ返りする間に「筋斗雲」が飛行する距離は、10万8000里×0.3〜0.4キロメートル=3〜4万キロメートルということになる。

とんぼ返りにかかる時間を1秒とすれば、秒速3~4万キロ、1秒で、だいたい地球を1回りできたという勘定になる。光は秒速約30万キロメートルだから光の10分の1以上の速さだ。そう言ってもピントこないかもしれないだろうが、ジェット旅客機と比べればいかに速いかが分かる。ジェット旅客機の速度は、だいたい時速700キロメートル、秒速0.2キロメートルぐらいだから「筋斗雲」はその15~20万倍の速度ということになる。

最新技術の粋であるジェット旅客機も速さの点では「西遊記」に出てくる「筋斗雲」には及びもつかない。でも飛行高度と快適性では負けてはいない。いま僕は「觔斗雲」きんとうんを下に見ながら、風雨にも暑さ寒さにも無縁で、快適に移動している。「筋斗雲」では、こうもいくまい。しかも、下手をすれば、踏み外して落下するかもしれない。風雨もまともに受けるだろうし、寒くて凍え死ぬかもしれない。

觔斗雲きんとうんよりすごい物に乗っている!」

笑われるだろうが、眼下の雲海を眺めながら妙な優越感にひたってしまった。

当時の人たちを乗せたら、いったいどう思うだろうか

「西遊記」に出てくる三蔵法師は実在の人物だった。唐の二代皇帝の太宗(600〜649年)のとき、玄裝三蔵は国禁を犯して出国し、多くの困難を克服してインドから仏教の経典を持ち帰った。この史実はたちまちのうちに伝説化し、それを明代(1570年頃)に呉承恩が全100巻にも及ぶ長編小説にまとめた。

変化の術を身につけ、筋斗雲に乗り、伸縮自在の如意棒を駆使する乱暴者の悟空。食物と女に目のない豚の化物の猪八戒。むっつり屋の河童の化け物の沙悟浄。1人で旅立った三蔵法師は途中で彼らを従者にする。彼らの獅子奮迅の活躍で多くの妖怪を退治し、一行はインドに達し、仏教の経典を持ち帰る。

いまで言えば「スターウォーズ」のようなたわいない話だ。でも、それが受けたことは、とりもなおさず、いま僕らが宇宙の彼方に出かけるのと同じくらい、当時の人たちにとっては中国からインドに行くことは想像を絶することだったに違いない。何が出てきても、何が起きても不思議ではないと思っていたのだろう。

ちょうど玄奘三蔵が経典を求めて中国からインドに行ったころ、日本は国をあげて使節団を中国に送り、その文化や文明の導入に励んでいた。遣隋使・遣唐使である。600年から894年までの約300年間に計22回、使節団が派遣された。最後の頃は船も大型化し、4隻編成で乗組員を含めると一度に500人ぐらいが出かけたという。

でも、いくら大型化したとはいっても、いまから見れば小型で、それも木造の船だった。それで大海原を越えて中国に行くことは、玄奘三蔵が中国から陸路でインドに行ったことに負けず劣らず大変な旅行だったことは想像に難くない。船酔いに苦しみ、糒(蒸米を乾かした携帯・保存食)と生水で飢えをしのぎ、風雨と高波と戦わねばならなかった。船中で病死する人や中国で客死する人も少なくなかった。難破や漂流は珍しいことではなかった。

どこまでも続く雲海を眺めていたら、その雲海の下の地上で繰り広げられたきたこと、いま繰り広げられていること -------- そのすべてが幻想のように思えてきた。いま風に言えば、「仮想現実」(バーチャルリアリティ)のように思えた。

そして、フッと、当時の人たち、一般の人たちはもちろんのこと、その当時の最新の文化と文明そのものであった仏教に殉じた最澄や空海や法然や親鸞などの思想家を、この現代の「筋斗雲」に乗せて、世界一周をさせたら、いったい何と言うだろうか。さらにハップル望遠鏡で見える宇宙の最深部までの写真を見せたり、素粒子論や遺伝子論を教えたりしたら、一体どういう反応をするのだろうか。そんなことを思ってしまった。