ぼちぼちいこか 「上海・香港1」成田で3時間以上待たされる  PDF

   

伴 勇貴(1997年11月)

オーバーブッキングで3時間以上も待たされる

社会主義の崩壊から伊能忠敬の50歳からの我がまま人生まで  

事故に遭うんじゃないか、具合が悪くなってぶっ倒れるじゃないか ―― 出かけるとなると、体調を崩してからというもの、いつもこんな気持ちに襲われる。とくに海外へ出かけるとなるとひどい。迷惑をかけてしまう、悪いなあ、悪いなあ、本当に悪いなあ、こう思いながら、土壇場になってキャンセルしてしまうことが少なくない。「ドタキャン」の常習犯になっている。この間も約束しておきながら、平謝りして内蒙古と北京行きを直前に中止してしまった。

 

今回も上海・香港・台北行きを決めると、不吉なことばかりが次から次へと浮かんできて、それが頭にこびりついて離れない。相変わらず体調がいま一つのためだろう。出発の日が迫るに連れて、不安は確信に近いものに変わった。万が一に備えて、遺言代わりにメモは書いてあるし、日頃から身の回りの整理にも心がけているけれど、それにも手抜かりがあるように思えて仕方がない。

 

今回の目的地の上海・香港・台北は、なんだかんだで、行きそこねてきた所ばかりだ。前回、内蒙古と北京を味わいそこねたことも、今となっては口惜しい限りである。今度も中止すると、もう上海・香港・台北には一生行けないのではないかという不安に襲われた。この方が旅に出る不安よりも大きくなった。それで遺言代わりのメモを見直し、身の回りの整理もできる範囲でやり直した。体調を心配していても意味がない。所詮しょせんなるようにしかならないのだから、今回はともかく出かけようと決意した。タイ・シンガポール・カンボジアと回ってきた時から、半年ぶりの東南アジアへの旅である。

 

だが、旅への不安はすぐに現実のものになってしまった。そもそも2時間を見込めば十分だろうと8時ごろに出たのが間違いの初めだった。高速道路の流れに乗り切れない週一ドライバーが繰り出してくる日曜日だったからだ。成田に向かう湾岸道路には千葉北付近から渋滞中の標識がでていた。「何てことだ!」と、京葉道路経由に変えた。でも湾岸道路ほどでないが、やっぱり混んでいた。しかも狭い2車線でスピードを出しにくいときている。

 

出発は10時だから、この渋滞の中を1時間あまりで潜り抜け、空港に着かなければならない。「事故をやらかすかも知れない」と覚悟して、車線を右に左に変えて懸命に先を急いだ。息せき切って日本航空のカウンターの前に立ったのは出発の30分ほど前だった。小さな手荷物一つの身軽な姿である。欠かしたことのなかったパソコンも持っていない。「やったね」心の中で叫んだ。間に合ったと安心した。

 

食事券と差額をもらってちょっと得した気分? 

 

ところがだ。ビジネスクラスなのにオーバーブッキングのため、もう席がないという。いったいどうなっているのか。やっぱり今度の旅行は中止すれば良かった。うらんでのろって心の中で舌打ちしたものの、いまさら中止もできない。

 

左隣のカウンターでは、予約は取ってあるし、少し遅いと言ってもキャンセル待ちの人を呼ぶ声もなかったのに席がなくて乗れないというのはどういうことだ、とキャリアウーマン風の中年女性が日航の女性職員を相手にみついている。もうヒステリックを通り越してエキセントリックになっていた。右隣のカウンターでは米国人らしいビジネスマンに男性職員が喧騒の中で馬鹿丁寧に理由を説明している。いつもキャンセルがたくさんでるので大目に予約を受けたところ、今回はキャンセルがなく、それで席が足りなくなってしまった。迷惑をかけて申し訳ない。次に上海に行く午後1時40分発の中国東方航空の席を確保したので、それで行って欲しい。こう説明して、「申し訳ない」を連発していた。

 

こんな話を聞きながら様子がだんだん飲み込めてきた。いろいろ言い訳しているが、本当のところは予約システムにトラブルがあったらしい。そんなことを考えていたところに、先ほどオーバーブッキングのため席がないと言った後、僕の切符を持って姿を消した女性職員が戻ってきた。

 

そして再び申し訳なさそうに同じ説明を繰り返したのだが、様子が少し違っていた。心持ち小声で、中国東方航空に代わることに伴う差額を返す、昼食の食事券も出すという。これにサインして欲しいと受領書を差し出した。

 

妙に思ったけれど、いくらやり合っても席がないのなら仕方ない。コックピット内の補助席に座らせろというウルトラCもあるかもしれないが、そこまですることはあるまい。上海で落ち合うことにしているのは寅さんだし、分かってくれるだろう。申し訳ないけれど、到着が遅れると連絡さえしてくれれば良いだろう。寅さんとは、以前も東南アジアを一緒に旅した、ある大手メーカーの幹部社員である。同年輩だし、数ヶ月だが僕が年上だし、長いつき合いで気心も知れている。甘えさせてもらうことにした。

 

何にもまして、ここに来るまででかなり疲れてしまったし、僕としては一刻も早く、この狂った喧噪けんそうから抜け出したかった。それで即決した。延々と続いている両隣のやりとりを聞きながら、サッとサインして、チケットと食事券と現金の入った封筒を黙って受け取って内ポケットに収めた。

 

そして関西国際空港から日本航空で上海に向かう寅さんの本名と搭乗便名を書いた紙を手渡し、フライトが変わる旨を伝えてくれるように頼み、カウンターを取り囲む人の群から抜け出し、ちょっと離れた中国東方航空のカウンターに直行した。中国東方航空 ─── まだ乗ったことのないエアラインである。「なんでまた、よりによって!」と不安が増す。でもあきらめるしかない。早々にチックインを済ませて、気休めに返してもらった差額を使って事故保険を限度一杯まで追加した。そして「これでよし!」と自分に言い聞かせた。

 

すると急に腹が減ってきた。朝飯を食べていなかったことに気がついた。出発まで3時間以上ある。もらった1500円の食事券を目一杯に利用して、豪快で華麗なジャンボやエアバスの離着陸を楽しみながらのブランチと込んだ。気分は落ち着き、それになんだかすっかり得をしたような気持ちになった。

 

しかし、考えると本当に妙な話だった。あれだけ多くの人が、席がなくて乗りそこねるなんて信じられない。しかも別のエアラインに変えられたことは何度も経験したけれど、それで差額を貰ったことなど一度もなかった。寅さんに話したら「そりゃあ、絶対に、その筋の人に見られたんだよ」「ごちそうさまで~す。それで何か旨いものを食べましょう」とでも言うに違いない、と思わず苦笑した。

 

案の定、上海でしびれを切らして待っていた寅さんと合った時に、事の顛末てんまつを話したら、やっぱりそう言われた。(なお、戻ってきてから馴染なじみの旅行社から聞いたらところ、やっぱり日本航空の予約システムのトラブルで、なんとまるまる2倍の予約を受けてしまったという前代未聞の出来事だったそうだ)

 

一番大きな原因は社会主義の文化が崩壊したこと

 

食事を済ませてビジネス客用の待合室に入った。そして僕の上海到着が遅れるという伝言が寅さんに伝わったかどうか確認を頼んだ。間もなく「間違いなく関西国際空港で伝言をお伝えしました。その確認が取れました」と、喫煙席でくつろいでいる僕に知らせにきた。人騒がせだが、これで、ともかく一安心である。出発まで時間はたっぷりある。まだ誰もいなかったので壁際かべぎわの邪魔されにくい場所に陣取って、置いてある新聞や雑誌に片っ端から目を通すことにした。こんな贅沢な時間は普段はとても持てない。椅子は快適だし、コーヒーはお代わり自由で静かだし、言うことはない。

 

しばらくすると、カウンターのところで文句を言っていたスキンヘッドの米国人らしいビジネスマンも入ってきた。僕の右手前方10メートルぐらい離れた喫煙席に座り、テーブルの上に書類とノートパソコンを目一杯に広げて仕事を始めた。ピンクと黒の縞模様の派手なシャツの大男がかがみ込んでパチパチと叩くキーボードの音が静かなサロンに軽快に響きだした。

 

続いて、服装は黒のニットスーツとベージュのロング・カーデガンと地味だが、ひときわ目立つ女性が入ってきた。僕の左側で怒鳴っていただった。スキンヘッドの男と僕の間のコーナーの椅子に座った。タイト・スカートにくるまれた腰と、そこから延びる長いすらっとした足がしい。おもむろにバックを開け、シガレットケースを取り出し、煙草に火を付け、文庫本を読み始めた。視線を意識した仕草なのだろうが、ややきつめの顔と似合ってになっている。エキセントリックな姿を見てしまったのを残念に思った。

 

成田空港にいることも忘れて新聞や雑誌の記事に没頭した。これから出かける東南アジア諸国に端を発する世界の株式市場や為替市場の混乱が大きく報じられている。日本の政治や経済の混迷に関する記事も多い。年功序列や丸抱えの福利厚生など、いわゆる日本が誇ってきた体系の崩壊が加速化し、社宅や住宅補助の廃止などサラリーマンの既得権を脅かす制度改革が本格化している――こんな内容の特集を日本経済新聞が載せていた。

 

日経が得意とする後追いの「あおり」というか「盛り上げ」である。分かり切ったことだが、大金持ちと貧乏人に2極分化し、中産階級が衰亡した米国社会を思い浮かべ、改めて日本も同じ道を辿ることになるのだろうかと暗澹たる気持ちになった。「平等」の意味を深く問いつめないまま「平等」な社会の実現という大儀を眩く感じ、それに大きな期待を寄せて行動し、そして挫折した経験を持つ世代としては、こうした逆戻りの流れを見ると複雑でほろ苦い思いに駆られる。

 

今また若くして処刑された革命家ゲバラがブームで、ゲバラ・グッズが売れている。ベレー帽をかぶった髭面のゲバラの顔をプリントしたTシャツを若者たちが喜んで着ているという。ファッションに過ぎないと言い切る人たちがいるが、それだけでは説明し切れないものを感じる。

 

そう言えば小説家で評論家の堺屋太一は、元外務官僚で評論家の岡本行夫との対談で「東西陣営が崩壊したのはなぜか。一番大きな原因は軍事的なものでも政治的なものでもなくて、社会主義の文化の崩壊したこと」だと語っていた(「ニッポン再生最前線」岡本行夫 都市出版)。堺屋太一や岡本行夫をはじめ、僕らの世代にはなかなか重い言葉であろう。社会主義を事実上駆逐し、結果として対立軸を失ってしまった資本主義の将来はいったいどうなるのだろうか。

 

福祉国家の見本とされたスウェーデンも行き詰まり、ソ連崩壊の時、ソ連は崩壊したが社会主義は日本で生きているなどとプラウダに揶揄されたほどの修正資本主義を掲げてきた日本もご覧の有り様である。EUの実験も厳しい試練に直面している。繁栄を続けるアメリカも内部歪みの圧力は高まる一方である。「資本主義の未来」(レスター・C・サロー TBSブリタニカ)、「進歩を超えて 相互主義論序説」(ヒュー・ディ・サントス 文藝春秋)、「新世界無秩序」(ピエール・ルーシュ NHK出版)、「不機嫌な時代」(ピーター・タスカ 講談社)、「知の大潮流」(ネイサン・ガーデルズ編 徳間書店)など百家争鳴である。ちょっとやそっとでは、羅針盤をどうすれば良いのか決められそうもない。

 

蘇る伊能忠敬――50歳からのわがまま人生 

 

もやもやとした気分を吹っ切ってくれたのは、伊能忠敬が1800年から1816年にかけ日本全国を実測して完成させた、縮尺3万6000分の1の「大日本沿海実測全図(伊能大図)」の模写の一部が発見されたという記事だった。伊能大図は214枚で構成されるが、火災で焼失し、数枚しか残っていなかった。ところが、そのうちの43枚の模写が気象庁の図書館から発見されたという。各紙がかなりの紙面を割いて報じていた。

 

1989年の創刊以来の愛読雑誌「サライ」(小学館)の数年前の伊能いのうただたかの特集を思い出した。「伊能忠敬流 50歳からのわがまま人生」(1992年11月19日発行)というヤツである。なお、「サライ」とはペルシャ語で「宿」という意味だそうで、中高年を中心に根強い人気があり、創刊号からのバックナンバーなどを収録した「サライのさらい」というホームページまで作っている好事家こうずかもいる。

 

「伊能忠敬が江戸時代末に正確無比な日本地図を作成したのは、齢50を超えてからのこと。夢断ち難く、家業を捨てて第2の人生を突っ走ったからこその偉業であった。人生半ばを過ぎて、不要な我慢をすることはない。『わがまま』でいい。忠敬の自在な生き方を学んでみたい」、「一身にして二生を経る生き方に関心をもった」ということで、伊能忠敬を主人公に小説「4000万歩の男」を書き上げた井上ひさしが、次の「小見出し」に分け、伊能忠敬を解剖していた。

 

●歩  ―― 行きたい道だけを歩き続ける

●好悪 ―― イヤな人間とは付き合わない

●女  ―― 歳を考えずに恋をする

●食  ―― おいしいものだけを食べる

●地図 ―― こだわれば結果は自然についてくる

●道  ―― 道楽のためなら金を惜しまない

●先見 ―― 時流を見極めて流行に乗る

 

伊能いのうただたかは10歳で、いまの千葉県佐原市の名主の伊能家に奉公人として引き取られ、17歳で子持ちの未亡人だった4歳年上の伊能ミチの婿養子になる。名主時代にめきめきと才覚を現す。酒造りで成功を納め、たきぎや炭まで商売の幅を広げる。財テクにも長け、伊能家を佐原一の豪農に盛り立てる。忠敬との間に1男2女をもうけたあとミチは、忠敬39歳の時に亡くなる。その2年後から、名前は残っていないが、めかけを持ち、そこで2男1女をもうける。さらに仙台藩医の娘ノブを正妻に迎える。数年後にこのノブも失った忠敬は、現在の金額にして数億円の資産を残して隠居し、江戸に出て学問を始める。実に忠敬50歳の時だ。

その江戸で学問を学ぶかたわら若い娘エイをめかけにする。4人目の女性である。このエイという女性は不思議な女性で、学があり、書に長け、絵心もあった。エイがいなければ地図は完成しなかったろうという。忠敬が測量に連れていたのは妾の子の秀蔵など内弟子の3人で、忠敬から送られてくる資料をもとにエイが指揮を取って「大図」や「中図」などを完成させたという。

ともかく50歳で隠居してから勉強を始め、72歳ぐらいまでの間に日本中を14回ぐらいかけまわり、約3万5000キロメートルを踏破とうはし、「大日本沿海実測図」を完成させたものすごいエネルギーにはただただ感服してしまう。その私生活の発展ぶりにも目を見張る。伊能忠敬に限らず、日本で言えば「養生訓」を著した貝原かいばら益軒、民族学をうち立てた柳田国男、海外で言えばトロイ発掘を行ったシュリーマン、スエズ運河を掘削したレセップス、画家のアンリ・ルソーなども似たり寄ったりで、人生を2度生きた人々だという。

こんな話しを思い出し、妙に明るい気持ちになってきた。やはり「サライ」は中高年にやる気を起こさせてくれる雑誌である。まだ僕だってやれるチャンスが十分にある ―― そう思ったら一刻も早く上海に旅立ちたくなった。旅への不安も陰をひそめた。「もう隠居だけれど、僕だってもう一頑張りしてみるぞ!」針治療の効果が出てきているようだ。体調もどん底から抜け出し始めている。

気を取り直して大きな伸びをしたところに、上海行きの中国東方航空の搭乗を急がせるアナウンスの声が耳に入ってきた。いよいよ出発である。