ぼちぼちいこか  女性三人三様 強いと思わせるもの    PDX
 

伴 勇貴(1997年07月)

文藝春秋8月号に、「サラダ記念日」で一世を風靡ふうびした歌人の俵万智たわらまち(1962〜 )と音楽評論家の湯川れい子(1936〜 )がちょっとうならせる随筆を書いていた。

俵万智は、この5月に10年ぶりに歌集「チョコレート革命」を出した。それにまつわる話を「サラダ記念日から十年」と題して書いている。恋愛の歌が多いことに変わりはないが、30代前半に入って、その恋愛の質は少し変わったかもしれない。ストレートやシンプルからだんだん遠ざかってゆくのが、青春後期の恋愛ではないかと思うという。

人間関係も複雑になってくるし、結婚のことも視野に入ったり(入らなかったり)するし、社会的な立場とか、過去の恋愛の記憶とか、さまざまなものを背負って、二人は出会う。そういった、ややこみいった状況のなかでの恋愛というものが、今回の歌集のテーマになっている。

  • 携帯電話にしかかけられぬ恋をしてせめてルールは決めないでおく
  • 家族にはアルバムがあるということのだからなんなのといえない重み
  • 焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き

青春後期、もしくはそれ以降の男性からは「けっこうドキドキした」という感想を聞く。こうたわらは書いている。そして出版前に見せたら「サラダ記念日ぐらいでハラハラしていた10年前がなつかしいわ」とため息つく母に、「たぶんまた十年たったら、チョコレート革命も、なつかしくなるって」となぐさめたという。

書店の目立つ場所に置いてあったので、思わず買ってしまった。「だあれもいない」から始まって「ポン・ヌフに風」まで一気に読んでしまった。「あとがきに」は次のように書かれていた。

この歌集のなかの何首かを読んだ友人が、ぽつりと言った。「会いたいときに会えないような、辛い恋をするもんじゃない」。彼は結婚して二年になる。「でも、会いたくなくても、会えちゃうんでしょう? 結婚って」と、私は返した。ついでに「どっちが、愛を育てるかしら」という強がりも添えて。

もう一つ強がりを言うと、私は出会いというものを、この上なく大切に思っている。あと何年早く出会っていたら、とか、タイミングがもう少し遅ければ、とか、人は言うけれど、そんなのは贅沢なわがままだ。ないものねだりでしかない。出会えたこと、そのことに私は感謝したいし、感動もする。だって、ほんの100年ずれていたら、2人は会えなかったのだから。

タイトルは次の一首から言葉を選んだ。

男ではなく大人の返事をする君にチョコレート革命を起こす

恋には、大人の返事など、いらない。君に向かってひるがえした、甘く苦い反旗。チョコレート革命とは、そんな気分をとらえた言葉だった。

大人の言葉には、摩擦を避けるための知恵や、自分を守るための方便や、相手を傷つけないための曖昧さが、たっぷり含まれている。そういった言葉は、いきてゆくために必要なこともあるけれど、恋愛のなかでは、使いたくない種類のものだ。そしてまた、短歌を作るときにも。言葉が大人の顔をしはじめたら、チョコレート革命を起こさなくては、と思う。

ただただ感心するばかりである。若さの特権なのかもしれないけれども、彼女と同じくらいの精神力を持って相手に対応できる男性は、年齢を問わず、そうはいるとは思えない。「サラダ記念日から十年」――もう、そんなに経ったのか、と感慨を新たにすると同時に、また多くの若い女性の気持ちが「チョコレート革命」のとりこになるのかと思って、ちょっと恐ろしくもなった。

音楽評論家の湯川れい子は自分自身の体験に基づいて「クォリティ・オブ・ライフ」を訴えている。2年前の夏にアメリカに向かう飛行機の中で背中が痛くなって、到着したところで病院に行ったら膵臓すいぞうガンの疑いがあると言われた。

「もしも十二指腸側の頭部にガンが見つかったら、切っても100パーセント助かりません。また尾部なら50パーセント助かる見込みがありますが、その場合は切りますか、どうしますか」

でも、MRIから内視鏡までいろいろ検査したけれど、血液検査以外には異常は見つからず、それで日本に帰ったらさらによく調べるように言われた。その時、彼女は自分の死についてとことん考えて、仮に五十パーセントの生存確率があるにしても、手術は受けず、クォリティ・オブ・ライフを選択することにした。

それで戻って予定通りに南インドにでかけたところ、赤痢せきりにかかってしまった。四十度以上もの熱が五日間も続いた。それも治って、そうこうしている間に、ガンの疑いが消えてしまった。自然のうちに温熱療法をやったらしい、医者にも高熱を出したことが一番良かったかもしれないと言われたという。

こうした出来事を通じて、改めて、その前からひどく体調が悪くなっていて、それもこれも四年前に受けたストレスに端を発したものであることに気がついたという。「悲しみとか喪失感ほど人の免疫力を奪うものは無い」ということを、身をもって体験した。こう彼女は言う。それもあって、以来、悲しみやこだわりを捨てる方法を、少しずつ身につけてきているという。

流行のポジティブ・シンキングなんて言ったって、とことん悲しい時には無理である。年をとってくると快楽ホルモンも分泌されにくい。で、役にたったのは、東洋医学の鍼と、散歩と、音楽と、お風呂だったという。鍼で脳内ホルモンが出るように刺激し、音楽と散歩で左脳の働きを中断し右脳を活性化し、クヨクヨ考えさせなくする。そして、お風呂にゆっくり入って声を出す音楽療法をする。これが一番だという。

「結局生きていく限り、最後の瞬間まで生きていなくちゃいけないわけだし、それなら少しでも健康で楽しくいたい、と苦しんで辿りついた、私なりのささやかな方法論なのです」

こう結んでいる。同じような体験をしただけに、彼女の言うことがわからない訳ではないのだが、読んでいて悲しくなった。ブラウン管を通じて知る彼女は、えらく強く突っ張っているタイプに見えた。とくに若い頃の彼女には「いったい何様だ」そんな印象を持った記憶がある。今のたわらにも通ずるものを感じた。でも、本当はもろくて可愛いい女性なのかもしれない。精一杯こらえて頑張っている ―― 僕にはそう思えてきた。頑張って下さい、と声援を送りたくなった。

女性二人の随筆を読み終わったところで、そうだ、もう一人似たタイプの女性がいると、竹内久美子を思い出した。1956年生まれ。京都大学で動物行動学を専攻、博士課程を終了後、作家に転じ、遺伝子や精子の行動などから「男と女の進化論」とか「BC!な話」など話題の本を書いている人だ。竹内久美子は、恩師の京都大学名誉教授の日高敏隆と対談し、次のように述べている(「もっとウソを!」 文藝春秋社)。

社会生物学は遺伝子の淘汰を中心にすえて生物の行動や社会について考えるというもので、要するに現代の進化論、動物行動学の主流とも言えるわけですが、私自身、この学問を学んだおかげで、すごく救われたという気がしているんですよ。

以前は私、この世に生まれてきたからには、何かを成し遂げなければならないと思い込んで、焦っていたんですよ。だけど、本当はそうじゃないんだ、そんなふうにプログラムはされてないんだ、ただ遺伝子がコピーを増やしたいというその理論だけであって、1人の人間が完全なものにするとか、偉大なことを成し遂げるとか、そういう理論にはなってないんだということがわかって、すごく気が楽になりましたね。怠慢とは違うんだけど。

それから、もう一つ言えるのは、人を許すことができるようになりました。たとえば私に対して意地悪する人がいるとしますね。そのときは腹が立つけれども、ちょっと退いて考えてみると、ああ、この人もやっぱり遺伝子のコピーを増やすプログラムに従って、こういう行動をとっているのかもしれない、そう考えるゆとりが生まれるでしょう。こういう応用の仕方は本当はいけないんでしょうけど、少なくとも私は、なーんだそれだけのことじゃないかって、他人をひどく憎んだり恨んだりすることがなくなってきたんですよ。

私は、こういうことをいろんな人に教えたいという動機から、本を書くようになったんです。不遜かもしれませんが。

僕なんかは、こうした考え方のブームを作ったリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」(紀伊国屋書店)を読んでも、それはそれで面白くてハッとさせられることが少なくなかったけれど、百パーセントそれにのめり込むことはできない。待てよ、と引っ掛かってしまう。まして、その伝道師になって、いろんな人に教えるために本を書くなんて気にはならない。竹内久美子は違う。学説を信じきっているようである。でも、どこか無理がある、無理をしているように見えてしまう。

考えてみれば、この竹内久美子にしても、前に触れたたわらや湯川れい子にしても、みんな同じタイプの人なのかもしれない。本質的には、男から見ると思わず手を差し伸べたくなる、もろさとか可愛さを隠し持っている人たちなのかもしれない。ただ、3人ともそれぞれ何かに必死にすがり、それを露出させないように制御することで精一杯やっている ―― そういう人たちのように思えてきた。

でも、その何かにすがって、懸命に自分を制御して生きようとする姿勢には凄いものを感じる。とても真似られない。人間の歴史を振り返るまでもなく、100パーセント真実などというものがあるとは思えない。あると思うほうが楽だし、それを信じ、それを頼りにするほうが強くなるだろう。けれども、とてもできそうにもない。なにも強くなる必要はない、弱さが表に出てしまったとしてもよいではないかと居直ってしまいたくなる。次第に第一線から退き始めたら、とくにそう思うようになっている。だからどうだって言うんだと――。

もしかすると、それは竹内久美子が得意とする精子と卵子との行動を眺めれば一目瞭然となる、男性の根本的な部分でのひ弱さにつながっているものなのかもしれない。それは、どこかでちゅうちょ躊躇し体裁ていさいをつけようとする雰囲気を男性に生み、本当に女性は強いものだと男性に思わせるのかもしれない。