ぼちぼちいこか 麻布十番の更科蕎麦(続) PDF
伴 勇貴(1997年04月)
更科蕎麦を調べ始めたらきりがない。次々と疑問がわき出てくる。新一の橋の交差点にある「麻布永坂更科本店」の裏手に港区立麻布図書館があるので、行ってみた。各店のパンフレットだけでは心許なく、江戸時代まで遡って資料を調べないと気が済まなくなったからだ。そこに行けば郷土史のようなものがあるはずで、前々から行ってみようと思っていた。調子がすぐれず家に閉じこもりがちの日々が続いていたけれど、少し調子も良くなったので、気分転換を兼ねて出かけた。
本を読むのが唯一の楽しみになってみると、本代もバカにならない。何から何まで目に付くものを買いあさっていては家計が破産する。図書館に行くのは20年ぶりぐらいのことである。
小ぢんまりとした図書館で応対も親切でなかなか感じがよい。平日は午前9時から午後8時まで開いている。開架式で最高6冊までを2週間借り出せるのも嬉しい。そこで江戸から昭和までの地図をまとめた「東京都港区 近代沿革図集」(東京都港区立三田図書館 1977年)、港区にからむ古代からの関連資料をまとめた労作の「港区史」(東京都港区役所 1960年)と「新修港区史」(東京都港区役所 1979年)、それと「麻布の名所今昔」(永坂更科 1965年)という豪華本を見つけた。
なかでも各巻の厚さが十センチほどで上下、新旧あわせて4冊の「区史」は中身が濃くて驚かされる。「近代沿革図集」もそうである。港区内を細かく分け、それぞれの地域について、江戸から昭和51年(1976年)までの地図を時系列に整理したもので、巻末の「町名・地名・坂名・橋名の起源と変遷」と突き合わせて地域の変遷を知るのにきわめて便利である。
「区史」には慶應義塾大学などが、また「沿革図集」には三田図書館の人たちが編纂に関わったとある。世の中には実にコツコツと膨大な資料を整理分析するなどの地味な作業をしてくれている人たちがいるものである。ほとほと感心すると同時に、お陰でいろいろなことが分かってきた。
麻布と麻布十番
まず「麻布十番」という名前の所以である。「麻布」―― 今の元麻布1~3丁目あたりの高台は、古くは「阿佐布」とか「阿左布」と書かれていた。「麻布十番」の商店街を横切って奥に入ると中世以前から門前町が発達していた善福寺(浄土真宗)がある。そこには永禄9年(1566年)の北条氏朱印状、天正18年(1590年)の豊臣氏朱印状があり、それにはいずれも「阿佐布善福寺」と書かれているという。それが正徳3年(1690年)、町奉行の支配下に入ることになったころ、付近で百姓が副業に麻を作って布に織っていたことから「麻布」の文字に書き改められたそうだ。
いまの麻布十番商店街(麻布十番1丁目)付近の発展は、善福寺付近より遙かに後のことである。このあたり一帯は、長らく原野と「古川」の水が溢れる湿地だったらしい。それが発展することになったのは、延宝3年(1675年)、幕府が直営事業として行った「古川」の改修の以降だという。この工事の時、「将監橋」から「一の橋」までが10の工区にわけられ、この付近がその「十番目」に当たり、その表示杭が後まで残って、十番の地名の起こりになったらしい。それ以外にもいくつかの説があるけれど、これがもっとも有力なようである。
宝永六年(1709年)ごろには市街の体裁を整えてきたという。享保14年(1729年)には、いまの麻布十番1丁目の端から東麻布3丁目にかけて東西に長い馬場ができた。「十番馬場」と呼ばれ、そこで行われる仙台駒の市は有名で、付近の仕立屋が考案した馬乗り袴は「十番仕立」と言って珍重されたという。
幕末の状況は「御府内往還其外沿革図書」(文久2年 1862年)に描かれている。古川(新堀川)は「二の橋」方向からきて「一の橋」で直角に流れの向きを変えて、「中の橋」、「赤羽橋」へと向かう。「一の橋」付近は、掘留と呼ばれ、炭や薪の集積場になっている。流れに並行して東西に細長い馬場もある。麻布十番商店街あたりは、麻布新網町一丁目、飯倉新町などと呼ばれていた。武家屋敷が大半を占めていた麻布地域では例外的に町屋の比率が高い地域だった。すでに今の麻布十番商店街の素地が出来上がっていた。
「善福寺」には幕末、アメリカ公使館が置かれる。安政3年(1865年)から下田にいた総領事タウンゼント・ハリスは安政6年(1859年)に公使に昇格。ハリスは直ちに老中に「自分はアメリカ政府の公使に昇格した。大統領よりの親書を将軍に手渡したので、そのさい江戸に留まる住居を設けて欲しい」と手紙を書いた。これを受けて幕府があてがったのが善福寺であった。安政6年6月8日、ハリスは善福寺に入った。「本堂南間脇の間を居所に、次の間を応接室に、下陣の南縁側を食堂として不便な生活を忍んでいた」(善福寺略史)。昭和11年(1936年)にはハリスの肖像と記念碑が建てられた。これを善福寺住職は太平洋戦争中、反米熱が高まる中で守り通した。いまこのあたりには諸外国の大使館や公使館が集中している。地理的条件だけではなく、こうした歴史や気風が影響しているのかもしれない。
戦前、麻布十番は神楽坂と並ぶ山の手の代表的な繁華街に発展し、今はもうないけれども、花街や映画館や寄席までもあった。もっとも麻布十番というのは、こうした発展を遂げている間も、ずっと俗称だった。「十番通り」という名前は、すでに大正年間の東京逓信局「東京市麻布区図」に出てくるけれども、これが町名として正式に採用されたのは、ずっと後の昭和37年(1962年)のことである。この年に行われた区画整理の時であった。それまで新網町2丁目、網代町、山元町と呼ばれていた一帯が、それぞれだいたい、いまの麻布十番1丁目、麻布十番2丁目、麻布十番3丁目と定められたのである。
「信州更科蕎麦処」
すっかり脱線してしまった。馴染みのない人には興味が湧かないだろう。話を本筋に戻す。「御府内往還其外沿革図書」(文久2年 1862年)には、更科蕎麦の生みの親である「信州の布屋太兵衛」を反物商として招いて住まわせたという「領主・保科の江戸屋敷」が確かに描かれていた。「二の橋」から「一の橋」にかけての「古川」に面した一角で、いまの麻布十番3丁目当たりである。善福寺に対して通りを境に反対側に位置している。
布屋太兵衛が、領主・保科にそば打ちの腕を見込まれ、その勧めもあって、麻布永坂に「信州更科蕎麦処」の看板を掲げて開業したのは寛永元年(1798年)のことだと店の小冊子には書かれている。保科家は関ヶ原の武勲で大名になった、いわゆる譜代大名で、元禄3年(1690年)には将軍秀忠の第三子をようしし養嗣子(家督相続人たるべき養子)に迎え入れた。そのくらい将軍家とは近い。その保科家の後ろ盾がものを言ったと想像するのは易い。領地の特産の蕎麦を売り込むという狙いもあったのであろう。徳川家のぼだいじ菩提寺である増上寺と深い関わりを持っていたというのもうなずける。ちなみに「永坂更科」が発行した「麻布の名所今昔」(昭和40年 1965年)には、当時の店の状況が次のように書かれている。
永坂更科は代々信仰篤く高祖供養のため、増上寺托鉢僧その他宗門を問わず、門前に立つ僧があると、これを請じ入れて蕎麦を御馳走し、祖先への供養としたので、僧侶達はこれを徳としてその味を忘れず、後年諸国に住職となるに及び、江湖の話題としたので、永坂更科の名声は期せずして全国に喧伝されるようになった。
永坂更科は寛政の初め麻布永坂に「信州更科蕎麦処、布屋太兵衛」の看板を掲げて開業したのが始めで、爾来、江戸名物として江湖(世の中)に知られ現在に至る。その蕎麦は独特の風味を持ち、将軍大奥の御用を承るに及び「御前そば」の名を許された。 ・・・・・・・・・・
江戸時代蕎麦は庶民に好まれ、町民のみならず、武家、大名、僧侶の間にも大いに愛好され、永坂更科のいわゆる「御前そば」は将軍大奥の御用を承るに及んだ。
永坂更科は代々信仰篤く高祖供養のため、増上寺托鉢僧その他宗門を問わず、門前に立つ僧があると、これを請じ入れて蕎麦を御馳走し、祖先への供養としたので、僧侶達はこれを徳としてその味を忘れず、後年諸国に住職となるに及び、江湖の話題としたので、永坂更科の名声は期せずして全国に喧伝されるようになった。
でも、本当にそんなに有名だったのだろうか。手前味噌ということはないのだろうか。気になり出すと止まらない。「新修港区史」に「江戸買物独案内」(文政7年 1824年)や「江戸名物酒飯手引草」(嘉永元年 1848年)などからの抜粋が載っていた。で、その中から蕎麦屋を拾ってみた。
場所 | 種類 | 店名 |
---|---|---|
兼房町 | 御膳生蕎麦 | 砂場安兵エ |
備前町 | 信州更科そば | 増田 |
芝口三丁目 | 御膳生蕎麦 白菊そば |
大阪屋市五郎 出世庵市五郎 |
宇田川町 | 御膳生蕎麦 | 大村松五郎 |
浜松町一丁目 | 御膳生蕎麦 | 千秋庵 |
天徳寺門前町 | 御膳手打生蕎麦所 | 小倉平兵エ |
神谷町 | 御膳生蕎麦 | 加賀屋 |
金杉通一丁目 | 御膳生蕎麦 | 竹島長蔵 |
本芝二丁目 | 御膳生蕎麦 | 三河屋仁三郎 |
本芝四丁目 | 御膳生蕎麦 | 清好庵小兵エ |
田町四丁目 | 白菊そば | 上総屋 |
同朋町 | 末広そば | 越後屋庄之助 |
松本町 | 御膳生蕎麦 御膳生蕎麦 |
丸屋 松屋 |
三田二丁目 | 更科そば | 春日野 |
車町 | 浦しまそば 御膳生蕎麦 |
岡田屋寅吉 亀屋 |
元赤坂町 | 御膳生蕎麦 | 福寿庵宇兵エ |
永坂町 | 御膳信州更科蕎麦処 | 布屋太兵エ |
1848年刊の「江戸名物酒飯手引草」には、いまの港区地域だけで、なんと20軒以上もの蕎麦屋が載っていた。でも、その20年以上前の1824年に出された「江戸買物独案内」にも載っていたのは、布屋太兵衛の「信州更科蕎麦処」1軒だけだった。
それ以外の蕎麦屋が、その20年あまりの間に開業したものなのか、あるいは、その前から開業していたものなのか ―― それは定かではないけれど、「信州更科蕎麦処」が、江戸時代において、すでに、一際、有名な存在だったことは間違いなさそうである
江戸から東京へ
明治時代の東京の有名店約四十店を収録した「商人名家東京買物独案内」(明治23年 1890年)というものもあるけれど、この地域の有名店として取り上げられている蕎麦屋はただ一店、「信州更科蕎麦処」である。しかも、ここで収録されている約40店のうち1824年刊の「江戸買物独案内」にもあるのはわずか5店にすぎない。江戸から東京への激しい時代の変化の流れに翻弄され、多くの名店が姿を消したなか「信州更科蕎麦処」は生き残ったのである。
更科のそばはよけれどたかいなり(高稲荷)
もり(森)をながめて二度とコンコン
永坂高稲荷(三田稲荷)下に店があったころ、ここを訪れた蜀山人がよ 詠んだ狂歌である。その当時から、旨いこともさることながら値段が高いことでも有名であったらしい。もっとも、蜀山人が二度と来なかったかどうかは、定かではない。多分、また食べに行ったに違いないと思う。ところで先に紹介した明治23年(1890年)刊の「商人名家東京買物独案内」には次のように書かれていた。
堀井太兵衛 ―― 聞いた記憶のある名前である。そう「総本家 更科堀井」の小冊子で次のように説明されていた名前である。
明治8年(1975年)名字必称の令により、職業にちなんだ屋号「布屋」改め「堀井」を名のり、5代目より堀井太兵衛として伝統の更科そばを今日に伝えております。―― 創業200年、変わらぬ老舗の美味を今、直系8代目、堀井太兵衛の総本家更科堀井でお楽しみいただけます。
「更科堀井」の説明は間違ってはいなかった。やはり「信州更科蕎麦処」の直系は「永坂更科」ではなく、「更科堀井」だった。でも、いつから「更科堀井」と「永坂更科」が対立するようになったのであろうか。
推測の域を出ないけれども、それは少なくとも「永坂更科」が「麻布の名所今昔」という豪華本を発刊した昭和40年(1965年)以降のことのようである。この時には、発行者として「総本家 永坂更科」と書かれている。「総本家」という、いまは「更科堀井」しか使っていない呼称を使っている。それに麻布十番に2店舗を持っていたようである。どうも、この頃「永坂更科別館」というのが、いまの「更科堀井」のようである。
大東亜戦争で永坂の店は焼失。戦後(昭和24年10月)麻布十番に再開し、同35年11月現在の店が新築された。瀟洒な和風座敷もある。この本店の他に現在新丸ビル、渋谷、新海上ビル、溜池、日本橋、自由が丘、青山、川崎、新宿に支店を持ち、新たに十番通りに面して永坂更科別館、スナック・サラシナも開店し、尚旧地「永坂」に此の程本社及び工場が出来た。
ここに書かれていることは僕の記憶と一致する。初めて麻布に「更科蕎麦」を食べに来た昭和40年代の初めのころ、今の「永坂更科」を本店と呼び、近くに別館が出来たけれど、やっぱりここの方が良いといった類の話を連れていってくれた友人Hから聞かされた。
ここに書かれている支店や工場は、いまも「永坂更科」のものである。今の「飯倉片町」の交差点から「一の橋」の交差点に向かう下り坂の途中の小道に「永坂」という標識があるが、その標識とは大通りを反対側にあるビル屋上に「永坂更科」という大きな看板がかかっている。高速道路の陰になって見づらいけれど、これが発祥の地で、そこに今でも「永坂更科」の工場があるらしい。見当たらないのは麻布十番通りに面したところにあるという永坂更科別館とスナック・サラシナである。永坂更科別館というのが、今の「更科堀井」なのかもしれないけれど、「スナック・サラシナ」などというものは見当たらない。
余談だけれど、「永坂更科」が発行した「麻布の名所今昔」(昭和40年 1965年)という豪華本の序には「永坂更科 小林 勇」と書かれている。堀井姓ではなく小林姓である。そして、いまの「永坂更科」の経営者も小林姓で、「更科堀井」の経営者は堀井姓である。なんだか「永坂更科」と「更科堀井」とに分かれた仲違いの原因は、週刊誌のゴシップ欄を賑わすようなことであったような気がしてくる。こういうのを下種のかんぐ勘繰りというのかもしれないが――。