時空の漂白10  PDF (2005年4月1日)

川蒸気 ---- 浮かぶホテル ---- に乗って       谷 弘一   

 

今からほぼ200年前、19世紀初頭のアメリカ、夏のニューオルリーンズが見える。帆もなければオールもない川蒸気船がミシシッピー川を遡航そこうしている。大きな煙突から煙をもくもくと吐き出している。大きな水車で濁った川の水を豪勢ごうせいにかき回している。外輪船がいりんせんである。 

船内は、サロン、ボール・ルーム、ダイニング・ルーム、カクテル・ラウンジ、客室、どれも実に豪華な造りになっている。

蒸し暑いのを我慢し、ブラック・タイを締め、山高帽やまたかぼうかぶり、ステッキを小脇にカクテル・ラウンジに行く。仮装パーティーである。ジャズの喧騒なリズムが外輪が水を巻き上げる音と一緒に沸きあがっている。マティーニやマンハッタンやホーシズ・ネック(馬の首)、マルガリータを片手に、着飾った紳士、淑女がにぎやかに談笑している。集まっている人々の底抜けに明るい顔を別にすれば、豪華なホテルのたたずまいである。豪華ホテルが豪勢に水を跳ね上げて走っている。

川蒸気はアメリカ人のヨーロッパへのあこがれをのせて走る船上ホテルである。同時代、イギリスで馬車の延長線上で鉄道が走り始めたのとは全く違う形で蒸気機関がアメリカでは普及し始めた。 

イギリスのストックトンとダーリントンの間を初めて蒸気機関車は走ったが、同じ線路上を、当初は車輪を付けた馬車も走っていたそうだ。ちなみに列車の客車を指すコーチ(coach)という言葉は大型四輪馬車―――語源はハンガリーのコーチ(Kocs)という村名。同村で作られた四輪大型馬車が優れており、四輪大型馬車そのものを指すようになった―――からきている。蒸気機関を使った交通手段が、イギリスでは馬車の延長線上で発達したのに対し、新大陸のアメリカでは、鉄道よりもまず川蒸気という形で発達したことは興味深い。

鉄道に先行した蒸気船

実は調べると、イギリスでも蒸気機関車よりも外輪船の歴史の方が古かった。1788年、イギリスの湖で外輪船がいりんせんの走行実験が行なわれた記録がある。トレビシックがロンドンの広場でレールに乗せた蒸気機関車を走らせたのが1809年だったから、それよりも20年以上も前のことである。ワットがニューコメン蒸気機関を改良し、さらに蒸気機関の上下運動を回転運動に変える改良に成功したのは1781年のことだったから、その7年後には蒸気船の走行実験が行なわれていたことになる。

この外輪船がいりんせんは新大陸のアメリカでいち早く導入された。1807年にロバート・フルトンのクラモント号が登場し、1815年までにはアメリカの河川の運搬手段の主力は蒸気船に取って代わられた。そして1819年には蒸気船による大西洋横断も行われた。アメリカでは鉄道よりも、まず蒸気船という形で蒸気機関は普及していったのである。イギリスでストックトンとダーリントンの間で蒸気機関車の営業運転が開始されたのは1830年のことだから、それよりもアメリカでの蒸気船の普及は実に20年あまりも先行していたことになる。

ニューオルリーンズで豪華な川蒸気に乗り込み、デッキで心地よい風を受けながら考え込んでしまった。

アメリカでは、何故、豪華な蒸気船が河川や湖沼こしょうを我がもの顔に走り回っているのだろう。遥か彼方の日本の島は徳川家斉とくがわいえなり(1771〜1814)の治世である。杉田玄白は「蘭学事始らんがくことはじめを1815年に書きあげた。家斉の治世後、外国船が日本沿岸に来航して騒がせるようになったのに音を上げ、幕府は1825年、異国船打ち払令を出した。

しかし、当時の日本の舟運の主役はまだ帆掛ほかけ船だった。長崎の出島でじまで細々と幕府直轄貿易が営まれていたが、そこで見かける貿易船もオランダの帆船か清のジャンクだった。

改めてアメリカの川蒸気の盛大な運行の背景を調べたら、アメリカ開拓の歴史にまつわる錯誤に気付いた。インデアン、騎兵隊、銀行強盗、大陸横断鉄道などが主役の西部劇映画のイメージなどが刷り込まれ、それにすっかり引きずられていた。アメリカ大陸の開拓の歴史は、先ず、ヨーロッパと船で直接につながる大西洋沿岸から始まり、その延長で船が入ることのできる河川と湖沼に沿って進んでいったのが真相のようだった。決して馬と幌馬車ではなかった。アメリカ大陸は船舶が航行できる大河川と大湖沼に恵まれていた。

建国時代のアメリカ人の生活圏は川や湖沼こしょうとピッタリ結び付いていた。だから蒸気船の導入が蒸気機関車に先行したのは当然だろう。ミシシッピーの華麗な賭博師でもあったバット・マスターソンがアメリカ開拓をいろどるスターだった。アメリカ映画は、未知の人、馴染みのないビリー・ザ・キッドを起用して興行成績を稼いだ。お陰で、アメリカ開拓の名誉まで馬とカウボーイがさらっていってしまったようだ。もっとも、これは私がただアメリカの開拓とアメリカの西部開拓を混同していただけのことかも知れないのだが ……… 。

海を渡る蒸気船艦隊の登場

蒸気機関はアメリカで船に載せられ、アメリカ開拓とアメリカン・ライフの形成の大きな牽引力けんいんりょくとなった。さらにアメリカの河川や湖沼こしょうで育った蒸気船は帆船に代わって世界の海に出て行くことになった。その先兵となったのは軍艦だった。アメリカは1814年、イギリスに先駆けて蒸気機関を搭載し、それを推進力とする軍艦を建造した。

蒸気機関を発明したイギリスで、蒸気機関で推進する軍艦が進水したのは、アメリカより一九年も後の1833年のことである。当時、イギリスはすでに世界の七つの海に展開する大帆船艦隊をようしていた。多分、それが足枷あしかせになって、これらを蒸気機関推進に切り替えることを決定するのに19年間も逡巡しゅんじゅんする結果になってしまったのだろう。

同時代の江戸に目を移すと、18世紀後半にはロシア船が蝦夷地えぞちに来航し通商を求め、19世紀に入ると薪炭しんたんや通商を求め、アメリカやイギリスの船も来航するようになっていた。1818年にはイギリス人ゴルドンが浦賀にやってきて貿易を求めた。こうした諸外国の帆船が来航して騒然となり始めたなか、1825年、幕府は異国船打払い令を出した。しかし、まだ帆船が主役の時代だった。

 日本に蒸気機関で推進する船舶が初めて出現したのは、有名なアメリカのペリー提督率いる黒船で、賀沖に来航したのは1853年のことである。

この時、アメリカはすでに40年近い蒸気機関推進の軍艦の運用実績を持っていた。この黒船を目の当たりにした徳川幕府の首脳は、アヘン戦争に中国清朝が敗れ、それを契機に中国が植民地化されることになった事態を思い浮かべたに違いない。それに徳川幕府の将来を重ね合わせただろう。

阿片あへん戦争が始まったのは1840年だが、1842年に、イギリスが軍艦十余隻を派遣して沿岸域を攻撃し、さらに揚子江をさかのぼって南京に迫ったために、清朝は和を請うこととなったと歴史書にある。広大な大陸国家の清朝が大敗し、和を請うことになった決定的な要因は、揚子江を遡行そこうして南京に迫った英国艦隊だったようだ。

ところでアヘン戦争に参戦したイギリス軍艦が、いったい帆船だったのか蒸気船だったのかだが、アヘン戦争が勃発した1840年という年は、イギリスが初めて蒸気機関を軍艦に採用してから7年後に過ぎないこと、イギリス艦隊が揚子江を南京まで溯航そこうしたのは1842年になってからのことなどから推測すると、多分、まだイギリス艦隊の主力は帆船であって、蒸気機関推進の軍艦は艦隊のごく一部を占める存在でしかなかっただろう。それも後から艦隊に加わったものだったような気がする。

マルコ・ポーロからアヘン戦争へ

ヨーロッパ世界のアジア進出では、イタリア人コロンブス(1451〜1506)が大きく浮かび上がってくる。コロンブスは、1492年、黄金の国ジパングないしチパングを目指して大西洋を渡って、アメリカ新大陸を発見したことになっている。当時のヨーロッパ世界にかんたるイスパニアのイザベラ一世女王(1451〜1504)の後援があったといってもコロンブスが乗ったサンタ・マリ号は木っ端こっぱ帆船だった。今でも、そのレプリカが、バルセロナの港に係留されて観光客を待っている。

コロンブスを動かした黄金の国、ジパングの出所はマルコ・ポーロ(1254〜1324)の「東方見聞録」である。ベニスの商人マルコ・ポーロがジェノバの獄中で口述したという、三百代言を書き写した「東方見聞録」である。コロンブスはイタリア人だったから、「東方見聞録」熱心に読み、それに書き込みまでしていた。ジパングへの夢を繰り返し確認していたのだろう。

マルコ・ポーロが、元王朝の中国を後にして父親と叔父の3人で、25年振りにベニスに戻ってきたのは1292年だった。コロンブスがポルトガルの港を発ったのは、しくもマルコ・ポーロがベニスに戻った時から200年後の1492年だった。数多くの写本・異本があった東方見聞録がラムージオによって集大成されて編集刊行されたのは1559年だから、コロンブスはそれ以前のどれかの写本の一冊をふところにしてジパングへの夢を膨らませていったのだろう。

マルコ・ポーロの「新大陸発見」から100年近く経った1588年、日の没することのないと言われたスペインの海上覇権は、その無敵艦隊の壊滅と共にイギリスとオランダに簒奪さんだつされた。1600年には、イギリス商人がエリザベス女王の特許を得て東インド会社を設立。東インド会社は大英帝国の植民地獲得の先兵としてアジア各国の臨海部に商圏を拡大し、インド・ムガール帝国の領土も侵食していった。そして中国からの紅茶輸入が大幅の貿易赤字を生んだことに端を発し、それを購入する銀を得るためインドからケシから作られる麻薬、阿片あへんを中国に持ち込んだため、前述の阿片あへん戦争が引き起こされることになったのである。

ペリーの艦隊が黒船でなかったら

今、北朝鮮が、麻薬や偽札やミサイルなどを輸出して外貨取得に躍起になっているが、200年近く前に、イギリスが赤字減らしの商業活動として同じことをやっていたのだ。イギリスがスペインから制海権を簒奪した先兵が、イギリスの海賊だったことを考えると、今の北朝鮮の行為も分からなくはない。北朝鮮の非は、国家の存立は正義をもって飾り立てなければならないという基本を危うくしていることにあるのかも知れない。

話を戻そう。1840年に始まった阿片戦争の現場に目を移すと、前述の通り開戦時にはイギリス艦隊は帆船が中心だったはずである。清朝の軍首脳は、帆船艦隊なら攻められても沿岸部に限られると多分、多寡たかを食っていたのだと思う。

ところが、そこに蒸気機関で動く軍艦が現れた。それが風向きなどをもろともせずに揚子江を溯航そこうしてくる姿を見て驚愕きょうがくしたに違いない。それで清朝は戦意を喪失したのだろう。中華思想に縛られた清朝は、清国に恭順の意を表して外国人が運んでくる新式の技術は珍重したが、その文明の利器を持って攻めてくる外国があるなどとは想定してはいなかっただろう。

あくまでも想像だけれど、徳川幕府も、すでにいろいろ世界情勢に関する情報は入ってはいたけれど、大部分の人たちの意識は、阿片あへん戦争当時の清朝の人たちと似たり寄ったりではなかったのはないだろうか。

しかし、時代が幸いした。浦賀沖に四隻の蒸気船の黒船艦隊が現れたのは、阿片戦争の後、約10年、1853年のことである。当時、幕府には対抗して出撃できる軍艦がなかったことは中国清朝と大同小異だった。その事実は清朝での出来事を通じて伝わっているはずであり、うでに日本では彼我の戦力の違いを疑う者はいなかったと思う。

未だ、咸臨丸かんりんまるは購入されてはいない。江戸幕府は、当時、江戸防衛のために台場に砲台を築くだけの防戦一方である。

これは仮定だが、もし、ペリーが黒船ではなくて帆船で来航していたら、幕府の対応は全く違ったのではなかろうか。江戸の防衛のために開国に踏み切る大英断は出来なかったろう。相手が帆船だったら、江戸の幕閣は威信を誇示するためにも、アメリカ艦艇を撃滅する主戦論に傾いたかもしれない。

「歴史技術説」

浦賀沖に出現した艦隊が全艦蒸気船であったことが、ペリーの奉呈ほうていしたアメリカ大統領親書を受け入れ、開国に踏み切った幕閣の最大の判断材料になったように思われる。ともかくイギリスに二十年近く先行して戦闘艦隊の蒸気船化に着手したのがアメリカだった。アメリカは、蒸気機関車より前に蒸気船の実用化を促進した国だったのである。

イギリスが鉄道によって陸上の時間距離を短縮し、内陸に向かって「市場化」と「標準化」を推進した。ほとんど同時期、それに対してアメリカは蒸気機関を船に搭載することで、海洋を越えて世界の「市場化」と「標準化」を主導する道を歩み始めたのである。

もちろん、アメリカが世界を主導するという意識を明確に持っていた痕跡こんせきはない。独立以来、「孤立主義」が息づいており、その延長線上で、1823年には有名なモンロー・ドクトリンを打ち出したし、20世紀に入っても第一次世界大戦に参戦したのは開戦から3年後であり、大戦後の国際連盟にも加盟しなかったのである。

アメリカが世界に先駆けて蒸気船を普及させることになったのは、アメリカの開拓が、その地勢から河川と湖沼を利用して進められたことに起因している。そして、その延長線上で、世界に先駆けて蒸気機関駆動の軍艦を導入することになったのである。建国から日も浅く、イギリスのように大きな帆船艦隊もなく、身軽に新技術の導入を進めることができたという要因も無視できないだろう。

繰り返しになるが、こうしたアメリカの蒸気船の発達の歴史には、アメリカが世界の主導権を握るという意図や選択が働いていたという痕跡こんせき微塵みじんもない。

しかし、当時のアメリカの政治的な意図とは別に、蒸気船を軍艦に採用した時から、アメリカは海を隔てた国々に門戸開放を迫り、世界を「市場化」し、「標準化」する主役となり、その役を演じ続けてきたことは歴史的事実である。その先駆けが欧州の帝国主義と植民地主義で、それをアメリカが引き継いだ形だが、そこに政治的な意図や選択が働いていたとは思えない。蒸気機関を船に搭載したことからくる歴史の必然としか思えない。

こんなことを考えていたら、技術が地下茎のように延び拡がり、それが地上に現れて芽を吹いて、歴史を動かして行くというような仕組みが目に浮かんできた。

それを「歴史技術説」と呼ぶことにしたい。人類が太古から育ててきた技術の地下茎が歴史を決定的に動かしているという仮説である。今や、この技術の地下茎は地球をおおい、大気圏外にまで届くようになっている。

地下茎が素朴だった時代は、それを剪定せんていするなど人が積極的に地下茎を制御することも可能だったろう。しかし、それが網細血管のように地球全体をカバーするようになった現代では、ますますこの地下茎の自律的な動きに、技術のおもむきによって歴史が動かされるようになっているような気がする。

アメリカは、イギリスとは違って蒸気機関を馬車にではなく、まず船舶に適用することによって、陸ではなく海を制覇せいはする技術を発展させた。そのため建国以来の「孤立主義」にもかかわらず世界を主導する役割を担うことになってしまった―――蒸気機関の発達を眺めていたら、この歴史的事実に直面し、そこから「歴史技術説」という仮説が頭に浮かび上がり、今回の「時空の漂泊」のモチーフになってしまった。

この「歴史技術説」に従えば、アメリカは多くの分野で最先端の技術を持っており、それを持っていることがアメリカの意思決定を否応なしに左右して行くということになる。大量の原水爆弾を保有し、最先端のロケット技術を開発し、監視衛星を巡らし続けているアメリカは、その意志とは無関係に世界政治の主導権を放棄することはできないということである。もっと言えば、アメリカは最短でも今世紀一杯は世界の政治経済のヘゲモニーを保持するだろうという推論に辿り着くことになる。

パンドラの箱に尋ねたい

もちろん、アメリカの現在の政治の中枢部にいる人たちが、ここで披露したような「歴史技術説」に対して、どのような見解を示すのかは定かではない。余りに単純で決定論的な仮説であることは十分に承知している。様々な力が、時として無関係に作用し、その結果として今後とも歴史が積み重ねられていくのだろう。しかし、私は、歴史の基本的な潮流は「歴史技術説」に軍配を上げることになるに違いないと思うようになっている。

ともかく18世紀後半のイギリスの蒸気機関の発明と開発と導入の現場では、その膨大な波及効果を含め、それによって歴史が動くとは微塵みじんも思われていなかったはずである。文献をいくら調べても、歴史に対する明確な見識や見通しあったとは思われない。

蒸気機関車に先行して蒸気船が普及したアメリカも同じことで、ミシシッピーを上下する豪華な外輪船がいりんせんでカクテルを楽しみながら賭博とばくに興ずる人たちのうちのいったい誰が、それが、ペリーが艦隊を率いて日本の門戸開放を迫ることにまでつながると予想しただろうか。

18世紀の蒸気機関の誕生から、その後を追いながら「時空を漂泊」したら、偶然が十重二十重とえはたえ、上下左右、東西南北に重なり合って流れてきたと考えていた歴史が、実は偶然ではなく、歴史の必然のわだちはまって動いてきているような、これまでとは違う一つの姿が浮かび上がってきたように思う。まさに「時空の漂泊」の醍醐味だいごみである。

アメリカは、旧大陸に対する反発と自立から「孤立主義」が建国以来、その根底にあって、かつては不干渉主義を世界向かって標榜ひょうぼうした。そのアメリカが、最近では、「人道主義」の確保・維持・普及という御旗を掲げて、世界に向かって主張している。

そうしたアメリカの姿勢に異論がないわけではないが、その明快さには、技術の明快さに極めて近いものを感じる。この明快さが、多くのアメリカ人の共感を得て、多くの問題を抱えながらも、アメリカ人であるという一体感の意識を生み出しているのだろう。それは、多分、多民族国家あるいは多民族社会―――歴史的に眺めれば、現存する多くの国が何百年、何千年も前にすでに経験してきていることなのだが―――という意識が新しい国だけに色濃く残っているアメリカにあっては、必要不可欠なことなのかもしれない。

そうだとすれば、現在、アメリカは技術に対しても相性あいしょうの良い国であり、社会であるということになる。諸々の価値判断に左右される「美しさ」をもって多様性を統合するのではなくて、分かりやすい「機能」の優劣をもって多様性を統合して行こうとする。それ以外ではなかなかアメリカというものを統合することが難しいということが、実は、価値観の問題ではなく、現在の世界にあってアメリカが担えると同時にアメリカに期待される真骨頂しんこっちょうのように思えてくる。

もっとも私個人が、技術進歩が歴史を動かしているとする単純な「歴史技術説」という私自身が提唱する仮説を、自分の価値観に照らして全面的に肯定しているわけではない。ギリシャ神話のプロメテウスが天界から火を盗んで人に与えた結果、パンドラの箱が開いて災いと悲劇をき散らしたという話は今でも生きていると思っているからである。

今回は、何やら禍禍まがまがしい物言いで締めくくることになってしまったが、これも、「時空の漂泊」のなせるわざというか功徳くどくということにさせて頂きたい。連想の糸がギリシャ神話につながることがあれば、「時空の漂泊」の場を借りてプロメテウスと言葉を交わし、プロメテウスの所業しょぎょうに怒ってパンドラを造り、それに開けられるということを予想しながら、人間の「不幸」の元になるもを詰めた小箱を持たせたゼウスの恣意しいについて問い掛けてみたいと思っている。

(壺宙計画)