時空の漂白 11 PDF (2005年4月15日)
広島便り2:自分で家を建てるということ 高橋 滋
手元に20年あまり前の「ウッディライフ」という雑誌(ムック)の19号(「山と渓谷社」1968年3月)がある。山と渓谷社は、1982、1983年ごろからログハウスの作り方や「アリス・ファーム」のカントリーライフの紹介に力をいれてきた。この号では、木工や田舎暮らしはもとより、井戸掘り、アマゴの育て方から、バイオマスを先取りする「おが屑」からのガス化発電など幅広いテーマが取り上げられていた。
この20年程前の1968年にはアメリカで「ホールアースカタログ」という記念碑的な出版物が発行された。白黒の写真で埋め尽くされた、電話帳のように分厚く重たいもので、「生きて行くための情報が何でも載っている」という印象のものだった。購入できなかったが、丸善の売り場に平積みされていた様子が記憶に残っている。
「ホールアースカタログ」に代表される1960年代に現れた自然に忠実であろうとするヒッピーの生き方は、1970年代に入ってまとめられた「地球の上に生きる」(アリシアベイローレル著、草思社、1972年)という本に結晶しているように思われる。この本は強い支持を得ていまでも継続して発行されている。
「この本は、生活費をかせぐためにせっせと机で事務をとったりするより、森で木を切っていたいという人のために書きました」という書き出し始まり、大地のリズムに従って生活する術が記述されている。アリス・ファームの出発もこの頃であり、私の世代の田舎暮らしの原点もこの辺りにある。
「ウッディライフ」の19号が出た1986年は、建築基準法が緩和されて、ログハウスが一般住宅として普及する起点になった年である。それまでは特殊構造物ということで建設には建築大臣の許可が必要だったが、この年に一般的な基準が出されて、誰でも建設することが可能になった。
その流れに乗って「ウッディライフ」は「夢の丸太小屋に暮らす」(夢丸)というログハウスの専門誌に発展した。「夢丸」は、一貫して「手作り」をサポートしてきている。丸太から作る場合は、皮むきやノッチの加工など組み立てる前の手作業が多くあり、「手作り」という言葉がふさわしい。
もともと、ログハウスは自分で建てることから始まったものである。アメリカの西部開拓史の児童書、ワイルダー著「大きな森の小さな家」などには、森林地帯での開拓は、まず木を切り、丸太で家を建て、そして耕作地を開墾して行くという過程が分かりやすく描かれている。
そうした伝統が、大きな丸太を組み上げて作るログハウスには受け継がれており、カントリーライフの夢をかきたてる。
1985年に山と渓谷社から発行された「ログハウスのつくり方」(ダン・ミルン:三浦亮三郎共著)は、ログワークの基礎からの手ほどきが細かく書かれており、ログハウス作りのバイブル的な本となった。ログハウス作りのスクールが開催され、チェーンソーなどの周辺機器も普及した。
建築基準法はその後も徐々に緩和され、ログ工法も普及し、「マシンカット方式」という、下ごしらえした材料を工務店などが建てる方式が一般的になり、さらに進んで組立だけで済むキット商品も出てきている。
丸太という、大きくて寸法も一定していない扱いにくい材料の調達から加工・組立までを自分一人でやるのは並大抵のことではなかった。しかし、マシンカット方式やキット商品の普及によって、自分で家を建てるという「セルフビルド」が市民権を得るようになったと思う。
今は雑誌やカタログも多くあり、その中から好みのものを選んで、注文すれば、後は、それを自分のペースに併せて組み立てることができる環境が出来上がっている。ちなみに「セルフビルド」をyahooで検索したら、1万件以上のヒットがあった。関心のない人にはまったく無縁の世界だろうが、すでに日本語としても定着しているようである。
ツーバイフォー
「セルフビルド」というと、まずログハウスを思い浮かべるが、それとは別の流れも育ってきている。「ツーバイフォー工法(枠組壁工法)」と呼ばれるものである。ちなみに「日曜大工で建てる夢の手作りマイホーム」(藤岡等著、山海堂:2000年)とか、「キットでつくる2×4住宅マニュアル」(越澤治著、山海堂:2004年)など一般的な本が数多く出版されている。
「ツーバイフォー工法」で使用される材料は通常「SPF」と呼ばれるものである。これは単一の樹種を指すものではない。北米などの森林地帯に生育する針葉樹(モミやマツなど)を乾燥した後、規格に従って製材、加工(表面カンナがけ、面取りなど)したものである。
2インチ×4インチ(乾燥・加工後の実寸は38ミリ×89ミリ)で、長さ8フィートのものが、ホームセンターで、400円程度で販売されている。1立米で5万円以下。これは町の材木屋でスギやヒノキを購入した感覚からすると驚異的に廉価である。
日本の木材の価格は伝統的に高く、乾燥も不十分だったが、この「SPF」の普及で、ウッドワークの世界は大きく変わった。(ちなみに材木の自由化は、平成元年、1989年の「包括貿易法」、いわゆる「スーパー301条」の優先慣行認定に基づくものだと聞く。ブッシュ来日のイベントがきっかけだったのかと思うと、ちょっと複雑な気持ちに襲われるのだが………)。
キット自作住宅
さらに部材寸法やジョイントなどを標準化してキット化した自作住宅もある。建築という分野は工学の中でもアートに近い性質を持っていて、建築家という「個人」が表面に出て主張できる世界でもある。
その一つが「Be-h@us」というシステムハウスである。主唱する建築家は自分とほぼ同世代の1942年生まれ。前述の「ホールアースカタログ」に感銘し、マッキントシュの自在性に感化され、道具にこだわり、おもちゃを愛する人物だという。その感性の延長線に実現した「Be-h@us」には、レゴでお城を作るような遊戯性がある。その著書「Be-h@usの本」(秋山東一、九天社)は、「セルフビルドする木の家、インターネット時代の自立知的住宅」を謳っており、独特な提案である。
「ホールアースカタログ」を起点としながらも、コンピュータ・システムの洗礼を受け、他とは違ったフレーバーの「セルフビルド」の世界の構築を提唱している。
まだ、他にもある。ともかく「セルフビルド」の世界はのめり込んでみると、実に奥が深い。欧米流の台頭に対しては、仕口(継ぎ手)の手ほどきから始まって、伝統的な軸組み工法を勧める本もある(「100万円の家づくり」小笠原昌憲、自然通信社)。地元の材料を利用するなら、やはり伝統工法ということなのだろうか。
結局、「ツーバイフォー工法」を選択
以上のように、「セルフビルド」を決意したものの、それをどのように行うかということでは、どれもが魅力的に見える様々な選択肢があった。しかし、狙いとする仕上がり、使える時間とエネルギー、仲間、力量、それに好みなどを勘案し、どれかに決めないことには先に進まない。
私は、壁材や建具まですべてをキットで購入することには抵抗があった。「もの作り」の楽しみのかなりの部分は、限られた寸法(間取り)を前提に、部品や材料を探しながらプランを練り、道具を探して加工法を検討するプロセスに宿ると思っているからだ。
と言って、それらを最も楽しめそうな自由度の大きい伝統軸組み工法に挑むには、年を取りすぎている。柱材一つ一つ墨付けし、「ほぞ」や穴を穿つのには大変なエネルギーが必要だろうし、重たい梁を目の高さ以上にあげる作業も想像すると恐ろしかった。
いろいろ検討した挙句に、結局、「ツーバイフォー工法」を選択することにした。森林ボランティアで森の整備もやっているので、間伐材の活用も検討した。たくさん放置されているからだ。しかし、それを建築資材として使うためにまとめて取り出すことは個人では不可能な作業だと悟った。
直径25センチの生木は、1メートルの長さでも40キロ以上の重さがある。家を建てるために必要な量の間伐材を林内から搬出するには、大型の装置がなければ不可能である。運び出したとしても、その乾燥(保管)と加工に、さらにコストがかかる。農業は小さいスケールでもそれなりに可能だが、林業は個人のスケールでは実現性がないと改めて思い知らされた。
「ツーバイフォー工法」は北米の住宅では標準工法である。枠を組んで構造用の合板を貼り付ければ、垂直方向も水平方向も強度が出る。枠を組む基準ピッチに従えば、外壁や内装材も無駄なく標準品が使える。ホームセンターには、材木だけでなく、窓やドアなどの建具も電気や水周りの設備なども、取りあえず揃えられている。
日本の伝統的な軸組工法は、ジョイント部分で強度を出すもので、ここがしっかり加工できなければ家ができない。畳や建具も本体に合わせて調整しなければならない。いずれも素人には手が出しにくい世界である。
欲しいものがすべて手に入るという状況ではないものの、「ツーバイフォー工法」であれば、なんとか希望に沿った建物を作ることができそうだと判断した。
ちなみにインターネットで調べたら「ツーバイフォーを一人で建てる」というホームページがいくつかあった。ログハウスも軸組み工法も1人では建て方(上棟)はできない。どうしてもチーム仕事になってしまう。それに対して「ツーバイフォー工法」であれば、なんとか1人で建てられそうだと再確認した。
設計しながら、どうやって組み立てるか頭の中でシミュレーションした。壁面を立ててみる。仮止めして、ほかの壁を立ち上げ、つなぐ。その上に小屋組みを持ち上げる。屋根根太をはる。そうしたら、どうやら最小の手助けで作れそうな見通しが得られた。
私が、これから作るのは小さな小屋だが、家を自分で建てるという行為は、時空を超えて、何ものかに回帰するものをはらんでいるように思う。