時空の漂白 13  PDF (2005年5月20日) 

身近な春の薔薇から    谷 弘一

今回は、春の「時空の漂泊」をしよう。それも身近な春から始めよう。春といえば花。花といえば桜である。が、今年の春は薔薇ばらつぼみにハマったので、先ず、薔薇ばらから始めよう。それに、桜も薔薇ばら科に仕分けられているから、薔薇ばらは名主格である。

我が家には、一番上の娘がかなり以前に植えた薔薇ばらが一株ある。ずっと放ってあったが、毎年、3つか4つは大輪の花を付けていた。2年前に支柱を添えてやったら、みきが3メーターくらいに伸びた。それに、放っておいても毎年花を付けるのに目をつけて、一昨年1本、昨年は2本、黄と赤の大輪の薔薇ばら買い足して庭に植えた。母の観賞用にもと考えてのことである。

薔薇の蕾

今年になって、鎌倉の桜が満開になった4月上旬、この4本の薔薇からすっくと新芽が伸び始めた。ぴくぴくと伸びる新芽の間から小さな羽飾りをつけた緑の結晶のような花芽が出た。5月に入って、はちきれんばかりに膨らんだつぼみに、ぽちぽちと赤や黄色や紅色の火が灯った。まだつぼみに守られて身を固くした花弁の先にだ。

我が家の薔薇ばらの花は、朝、花弁が開き始めると、夕方にはバーっと開いて、次の日には花芯を開く。花の命は短いなんてものではない。サッサとしげもなく花弁を開く。花が開き始めると卒然そつぜん羞恥心しゅうちしんをかなぐり捨てる。それは桜だけではない。しかし、そのつぼみはまったく違う。1ヶ月くらいかけて、ゆっくりと膨らんで行く。今年の春は、実に沢山のつぼみが付いたので、じっくりと薔薇ばらつぼみを楽しんでいる。

新しい防虫剤

天候が加勢してくれたのだろう、今年は、蔓薔薇つるばらに変わってしまったのかと見紛うように伸びた枝に新芽がぼんぼん立ち上がり、そこに数え切れないつぼみがついた。長女が置いて行った薔薇ばらは、長く伸びた幹の先の方まで、100個近くのつぼみをつけている。一昨年、私が植えた、我が家に引っ越してきて来て2年になる薔薇ばらも40個以上のつぼみを付けている。

それもこれも、何と言っても、新しい防虫剤を入手したお陰である。明け方に来襲すると聞いたバラクキバチを撃退することができたようだ(バラクキバチは若い茎の中に産卵する。その時、茎の表皮を産卵管で切断するため、先端がしおれて枯れてしまう)。今年は、首を垂れた新芽を見ない。つぼみが全部膨らんでいるんだから豪勢である。

薔薇丹精元年

今年は、先ず、薔薇ばらが沢山のつぼみを付けたことに驚かされた。天候が薔薇ばらの生育に合っていたこと、それと仲間が増えて競い合うようになったからかもしれない。沢山の薔薇ばらの蕾を見て、それではと、初めて防虫剤を買いに出掛けた。すると、今年、素晴らしい薬が出たと花屋さんが言う。勧められるままに、この防虫剤を購入して散布したら、いつもなら垂れる新芽の首が垂れなくなった。

それからである。薔薇ばらを育てようという気持ちになった。骨粉も買う。それを薔薇ばらの根本にくだけではない。食後の煮魚の骨や米の磨ぎ水やくさった糠床ぬかどこまでご馳走した。

新しい防虫剤の効果を目の当たりにし、それを契機に、丹精たんせいという言葉がぴったりする育て方をしたところ、芽吹いたつぼみは全部勢いよく立ち上がり、日々膨らみ続けている。

薔薇ばらの蕾には、西欧の童話に出てくる小さな王子さまやお姫さまや妖精を髣髴ほうふつとさせる清清すがすがしさが溢れている。瑞々みずみずしいつぼみの立ち姿を見ていると、アフロディーテ(ヴィーナス)の涙が薔薇ばらの花になったというギリシア神話の見解は正しいと納得した。同時に、花は放っておくものと思い込んでいたが、丹精たんせいして育てると、それに花はきちんと応えるものだという大発見もした。

鎌倉の新しい桜の名所

さて、春のシンボルの桜に移ろう。薔薇ばらは6月の花である。鎌倉では、昔から、鎌倉山の山桜と八幡様の参道の染井吉野が有名である。しかし、最近、新しい桜の名所が誕生した。あの堤義明氏縁の桜である。西部が、鎌倉と逗子の二つの市にまたがる山並み―――逗子市につながる鎌倉の里山の山並みを開発して造成した大規模な住宅地の桜並木である。

若宮大路と八幡様を取り巻く鎌倉の里山一帯は古都保存法が適用されて開発行為は一切出来ないはずである。しかし、西部は、この古都保存法の適用を上手に免れて、住宅地開発事業を行ったようである。さすが、義明殿である。

鎌倉の新しい桜の名所

さて、春のシンボルの桜に移ろう。薔薇ばらは6月の花である。鎌倉では、昔から、鎌倉山の山桜と八幡様の参道の染井吉野が有名である。しかし、最近、新しい桜の名所が誕生した。あの堤義明氏縁の桜である。西部が、鎌倉と逗子の二つの市にまたがる山並み―――逗子市につながる鎌倉の里山の山並みを開発して造成した大規模な住宅地の桜並木である。

若宮大路と八幡様を取り巻く鎌倉の里山一帯は古都保存法が適用されて開発行為は一切出来ないはずである。しかし、西部は、この古都保存法の適用を上手に免れて、住宅地開発事業を行ったようである。さすが、義明殿である。

ここは鎌倉の造成住宅地では珍しく、最初から歩道が整備され、並木として数百本の染井吉野の苗木が植えられた。それが35年経って、今、満開の花を付けるようになっている。私の二番目の娘と同じ歳になる。この娘には、たまたま桜子という名を贈ってある。

鎌倉の山桜

この樹齢35年の染井吉野の並木は、我が家から歩いて15分ぐらいのところにある。まだ人だかりにはならないのが嬉しい。花のトンネルが山の起伏に沿って続く。満開の時は圧巻である。樹が若く、古木にはない華やぎがある。無邪気とも言える美しさだ。

この桜絵巻の画竜点睛がりょうてんせいは、この住宅地に隣接する山に咲く山桜の眺めである。
鎌倉の山間に昔から植えている山桜が目に飛び込んでくる。この山桜は、昔の人が植えたのかもしれないが、地味が合って、鎌倉の山地に自然に生え広がったんだと思いたい。

造成された住宅地の端に設けられた緑地帯に出ると、開発されなかった山地の山桜が無造作に花森を作っている様子が眺められる。息を呑むほどの春の美である。そう言えば、西行法師が、自らの死を得心したのは、満月の下に輝く山桜であったと聞く。

願はくは花の下にて春死なむ
その如月きさらぎ望月もちづきの頃

里桜と里山桜の競演

山桜と言えば、かつては山道を分け入って木立の間に見え隠れするものだった。それが、今は、見事に段差をつけて造成された緑地帯から一望できる。どうやって古都保存法をすり抜けて造成された住宅地に作られた桜並木と、古都保存法によって自然のままに残された山間の山桜とが一緒になって、ここだけでしか見ることの出来そうにもない、特異な桜の里が造り出されている。

古都保存法下の開発区と古都保存法下の自然解放区の双方にまたがる、開発と自然の桜絵巻である。開発当初から、こうした現在の光景を堤氏がイメージしていたとは想像しにくい。しかし、いずれにしても往時の西部くらいの力がなかったら、これだけ見事な染井吉野と山桜のコントラストの景観を堪能することはできなかったろう。

なみに、今でも、新芽が一斉に伸び出すこの季節には、「ハイランド」と称するこの造成された住宅地では、里山との境界に繁茂する木立の手入れや雑草の刈り取りが行なわれている。それが、住宅地側から里山を一望できる景観を保全している。

白系露西亜人の一家

堤義明氏は、この「ハイランド」にほぼ隣接する同じ山間に、広大な霊園も造成している。緑の山並みの中に整然と小さな墓石が並んでいる霊園が「ハイランド」からも一望できる。元旦の日に国土の社員が集合するという霊園である。堤氏は「ハイランド」の造成の以前にも、西の稲村ガ崎の先、江ノ島に近い七里が浜に沿って、巨大な住宅地を造成している。それに続いて大規模な「ハイランド」の造成事業を、堤氏は選りに選って鎌倉で始めたのである。古都保存法がある上に、住民も地域開発には殊のほかやかましいのが鎌倉である。

堤氏が、何故、鎌倉で大規模な造成事業を推進したのか。何故、鎌倉を選んだのか―――それについては、面白い話を聞いたことがある。義明氏の青春の蹉跌に発するという話である。

鎌倉の稲村ガ崎の近くに住んでいた白系ロシア人の家族のお嬢さんに、義明氏は、若かった頃、懸想けそうしたという。

そして義明氏は、社員を派遣し、お嬢さんに義明氏の心情を伝えさせたという。ところが、お嬢さんの答えは「ニエット」(nyet)―――「ノー」だったそうだ。

私自身、このお嬢さんが新人女優としてデビューした当時、もう四十年以上も昔のことだが、江ノ電に乗っていて見かけたような気がする。

堤氏がどうのこうのという話は、ずっと後になって友人から聞いたものである。それを聞いた後、数年前になるが、改めて、この家族の一員に、事の事実関係を私自身が直接確かめたことがある。家族の一員というのは、かの麗人の一番下の弟さんで、奇しくも私の若い友人となっていたからである。そして事実であったことを確認した。

さて、ここから先は、最初にこの話を私にしてくれた旧い友人の話である。義明氏は、かの白系ロシアの若い麗人に振られた後、この麗人の住む鎌倉の開発に異常な執念を燃やすようになったのだという。昭和、それも戦後、経済成長華やかりし時代の「お宮と貫一」の戯作の一席である。

この話をしてくれた友人は、義明氏は、まず、この麗人の住んでいた稲村ガ崎の西の後背地を大々的に住宅開発し、ついで「ハイランド」を造成し、つまり鎌倉を占領し、片思いの恋人を見返そうとしたんだと想像を膨らませていた。

エリアナ・パブロバの登場

私の若い友人の白系ロシア人家族の一員に、義明氏との出会いの経緯を確かめた時に、この友人が足してくれたエリアナ・パブロバにまつわる話から、私の空想の風船はさらに膨んだ。

確かに、稲村ガ崎には、エリアナ・パブロバのバレーのスタジオが残っていた。日露戦争とロシア革命の狭間の時代に、日本に亡命して来て日本のバレー界を引っ張っていくことになる人々を育てた、エリアナ・パブロバという白系ロシア人の女性がいたことは知っていた。

このパブロバを助けたのが、私の若い友人の白系ロシア人の両親だったそうだ。かの麗人の両親でもある。彼によれば、両親は子供たちにロシア語は全く教えなかったし、ロシアに戻ることも考えていなかったという。それに引き換え、帝政ロシアの栄華にも親しんだであろうパブロバは、最後までロシア人としての矜持きょうじを持って、日本人にも日本の生活にも馴染めないところがあったそうだ。

歴史の飛び石

私の白系ロシア人の友人によると、パブロバの面倒を見ていた彼の両親は、パブロバは何も直裁に表現しない日本人生徒達に何時も苛立っていたと話していたそうだ。日本人の生徒達にとっては、ロシア人であることの誇りと、華やかだった帝政ロシアのバレー界の想い出に固執する、我が儘で世話の焼けるパブロバ先生だったようだ。身近に接してきた人々には、語り継がれてきたエリアナ・パブロバ像とは違った姿が焼き付いているようだった。

友人の白系ロシア人から彼の家族の話を聞いていたら、明治から大正、昭和と、日本、ロシア、中国を押し流してきた歴史の潮流と、その中に飛び石のように連なる歴史の島が浮かんできた。

日露戦争、樺太からふと、ロシア革命と白系ロシア人。シベリア、満州、中国の租界、大東亜戦争。帝政ロシア時代の華やかな生活が忘れられないままにロシア極東のさらに果ての日本に流れ着いたロシア・バレリーナ。ロシア語の根を絶って日本人になるべく子供達を育てながら、そのバレリーナ、パブロバを助けた同じ白系ロシア人一家―――私の脳内に歴史の飛び石を渡ってくる人々の姿が浮かび上がり、足音や話し声までもが響いてきた。

鎌倉バレー・アカデミーか桜の苑か

そして、時代が下ってこの飛び石伝いに義明氏が現れる。しかし、義明氏は、恋に破れて、それで鎌倉開発の執念に取りかれたという友人の想像の上に、私はさらに一人勝手な空想の風船を膨らませた。

「ハイランド」の染井吉野と里山の山桜が織りなす春爛漫はるらんまんの見事な景観を目の前に、もし、義明氏の恋が成就していたら稲村ガ崎に、エリアナ・パブロバの遺志を受け継いだバレー・アカデミーが、義明氏率いる西部の手で建設されていたかもしれないと想像した。

義明氏の恋が成就していたら、この染井吉野と山桜が織りなす見事な景観は楽しむことができなかったろうと思った。

現実は、白系ロシアの麗人への恋は実らなかった。この麗人への義明氏の執着が、義明氏にハイランドを開発させ、そこに染井吉野と山桜が競演する見事な桜の苑をのこさせた。この櫻の苑は、バレーの殿堂に代わって、バレーの華と競い合っているのだと私は一人確信した。

歴史の飛び石伝いに桜の苑へ

二組の白系ロシアの異人(STRANGER)が、祖国帝政ロシアを出て極東の日本まで渡ってきた歴史の飛び石が浮かんできて、その飛び石が桜の苑につながった。矜持と挫折と、喜びと怒りと、同情と忌避とが、歴史の飛び石を伝って、義明氏の登場で爛漫らんまんの桜の苑にまでつながっていった流れが、一瞬のことだったが、鮮明に浮かんだ。

革命によって祖国ロシアから放擲ほうてきされた貴族の恨み、流浪の身を日本に託した二組の白系ロシア人の執念、これらが義明氏の憧れと恋の挫折が合流し、古都保存法というせきにぶつかって、西部の開発事業の一端に作り出されたのが、「ハイランド」の春を飾る桜の花森だった。

これは、もちろん、すべて私の脳内の創作活動の産物ではあるのだが………。

魔神山桜

爛漫らんまんの染井吉野と山桜を眺めていたら、私には桜のいとなみ―――営為えいいが見えてきた。歴史の有為転変ういてんぺんと、途切れることのない人々の心の葛藤かっとうを包み込んで、桜の苑を見事に開花させた桜の営為である。義明氏は、これに手を貸したことは確かだが、歴史の飛び石を飾った桜の営為にまでは気付いていなかったろう。

私が、こんな勝手な思い込みの世界にひたれたのは、山桜のなせる技であろう。もちろん、数々の山桜の血を引いている染井吉野にも山桜の魔力は備わっているだろう。出家遁世して歌を友に漂泊を続けた北面の武士―――院御所の北面で警衛にあたった武士は満月と満開の山桜に最上の死を予感したようだ。今年は、満開の時期が新月に近かったので、私は、幸い死を予感はしなかった。しかし、人さまの歴史の飛び石まで想いを巡らせたのだから、山桜の霊験は新たかだ。

舞台は南麻布光林寺へ

ここで、舞台は一転。桜と異人さんと書かれた短冊は、花吹雪に紛れて麻布の光林寺に飛んでいった。

5、6年前に、南麻布(広尾)の光林寺の桜を何度か訪ねたのを思い出した。この門前の二本の桜は、幹も黒々とどっしりした、歳を経た古木だった。おどろおどろしく這うように、枝を広げた桜だった。

寺門も本堂も昔の面影おもかげをよく残している。門構えも瓦と漆喰しっくいの堂々とした土塀を見事に残している。寺門の上にしかかるように、桜の古木が満開の絵巻を展開していた。まさに、芝居の書割かきわり―――木枠に布や紙を張り、舞台の背景を描いたもの―――である。本堂の裏に広がった古色蒼然こしょくそうぜんとした墓も桜の古木におおわれていた。

ヒュースケンとDENTUKUの墓

光林寺は臨済宗の寺で、天現寺橋から古川橋につながる、その上を高速道路が走る、古川沿いの広い明治通りに面している。対岸の川向こうには慶応義塾、北里病院や旧朝香の宮邸がある。江戸地図を見ると、江戸の町は西を古川で仕切られている。光林寺も、多分、江戸時代に、この西の果てに遷されたものだろう。

広い墓地の南奥に、一区画が小さくて新しいお墓の団地のようなところがあり、その一番奥まった所に二つの古い墓石があった。幕末の安政三年(1856年)、米国の初代駐日総領事のハリスとともに来日し、日米修好通商条約締結(1858年)などに活躍した通訳のヒュースケンと英国駐日公使オルコックの通訳だった日本人の墓である。

ハリスは1859年に公使に昇任し、麻布の善福寺に米国駐日公使館を置いた。ちょうど1860年に桜田門外の変で井伊大老が暗殺されるなど攘夷の嵐が吹き荒れる物騒な時代だった。

1861年1月15日夜、ヒュースケンは赤羽橋にあった接遇所から公使館のあった善福寺への帰り道、攘夷派の薩摩藩士に襲撃され、翌日死去した。アムステルダム生まれのオランダ人で米国に帰化し、ハリスの通訳になった人で、享年二八歳だった。葬儀は善福寺において行われ、善福寺は御府内で土葬が認められないため、光林寺に埋葬されたという。

日本人に殺された日本人の通訳

もっともヒュースケンが光林寺に埋葬されたのは、それだけの理由ではなさそうである。そこには、前年の1860年1月七日に刺殺された英国駐日公使オルコックの通訳だった日本人が埋葬されていたことと無関係だとは思えない。

ヒュースケンの墓碑銘ははっきり読めるが、一方の墓石の文字はかなりかすれている。それでも目でなぞるように辿ると、英語でDENTUKUと彫られているのがわかる。

DENTUKUとは、江戸と大阪間の物資輸送を行っていた廻船の食事係だった伝吉という人物のことらしい。

1850年10月、江戸からの帰路、伝吉の乗っていた船は暴風に遭遇して漂流していたところ、乗員17人全員が米国の帆船に発見・救助され、1851年3月、サンフランシスコに入港した。

1年後、帰国が許され、1852年5月、途中で病死した者を除く16人は米軍艦で香港に到着した。その軍艦を拠点に生活していたが、米軍艦で日本に帰国すると米軍艦の手先になったとして咎められることを恐れ、うち12人は下船し、別の船を探して帰国する道を選んだ。そしてで、ついに1854年8月、11人は中国船で長崎に戻ったという。

この時に帰国しなかったのが伝吉だったという。帰国を待ち続けている不自由な生活に耐えられず、置き手紙を残し、1人仲間から離れたのだという。

それからどうしていたのか定かではないが、結局、香港でペリー率いる米軍艦への乗船を許され、ペリーに可愛がられ、再度、米国に渡った。米国に渡った後のことは定かではない。だか、ともかく伝吉は1859年、英国籍を手に入れ、英国駐日公使オルコックの通訳として、10年ぶりに江戸に戻ってきたのだという。

ところが日本人から嫌われた。短気で高慢で自分は英国人だと風潮する一方、日本の素人娘を外国人に斡旋するなどしたため私怨しえんをかい、挙げ句の果てに日本人によって斬殺されということらしい。日本に戻って、わずか7ヶ月あまりの出来事だった。DENTUKUの墓石には、英語で日本人刺客―JAPANESE ASSASINに殺されたと彫られている。

伝吉とDENTUKU

ところで、「伝吉」が英語でどうして「DENTUKU」と表記されたのかは定かではない。ペルーには「Dan-Ketch」と呼ばれて伝吉は可愛がられたという話もあるが、それも定かではない。もしかすると、「伝吉」というのがDENTUKUと太鼓を叩いたような音に英国人には聞こえたのかもしれない。

イギリスの鶏が、何故、コッカドゥードゥルドゥーと国家発揚のような鳴き方をするのか。あの韓流ブームの発端となったぺ・ヨンジュンの名前に、韓国ではBAE YONG JOONというアルファベットを振るのだろうか。

DENTUKUという表記から、言葉と音声と文字という、鶏と卵と親子丼のような問題が湧き起こり、それがさらに私の脳内活動を勝手に促し始めた。

アメリカ大統領リチャード・ニクソンを呼ぶ時に、表記は英語と同根のアルハベットを使っているフランス人が、リシャール・ニクソンというフランス流の発音にこだわるのだろうか。

これも、私の脳内では同じ問題の箱に入っている。言葉の親子丼のようなこの問題の箱は、かなり前から蓋がされたまま私の記憶の空間を漂っているので、機会があったら一度蓋を開け放って虫干ししてやりたいと思っている。

光林寺は困ったことだろう

話をDENTUKUに戻す。この英国駐日公使の通訳として一生を終えた、数奇な人生を辿った船乗りだった伝吉の墓。名前はDENTUKUとアルファベットで彫られ、続けて日本人に殺されたという説明の英語が刻まれている、日本では破天荒はてんこうな墓。この墓石が寺に持ち込まれた時、光林寺の住職は困惑したことだろう。仏さんが死に到った事情を殺されたんだと刻んだ墓石を寺にほうむるということは論外のことだったと思う。

住職にすれば、寺にほうむるということは、僧侶たる者が死者をとむらったあかしのはずである。とむらった後は、生前の諸行を消し去り、墓石に戒名かいみょうを刻む。これが日本人の生と死の仕分け方である。

殺されたのではないにしても、労咳ろうがいで死んだ、流行はやり病で死んだ、火災や地震で死んだ、溺れて死んだなどと記した墓石を、私は寡聞かぶんにしてしらない。もし、そうしたことが墓石にきざまれていたら、歴史を研究する専門家には、墓石が資料の宝の山になっただろう。

成仏できないDENNUKU

日本の墓は、仏になった死者に与える戒名と、俗名某が何時何時に死去と、墓石の裏や墓誌銘に刻むだけの実にあっさりしたものである。仏さんの在世の事情を書き込むのは、故人を顕彰する場合だけである。

英語で名前と死亡の経緯が刻まれた墓石を持ち込まれただけで、戒名もない墓石を持ち込まれた光林寺はさぞかし困惑したことだろう。多分、幕府は、英国公使館の意向を全面的に飲み込んで、光林寺に墓を押しつけたのだろう。ちなみに、伝吉の葬儀は各国公使館員と幕府の外国奉行らが会葬して、光林寺で行われたという。

そして、伝吉の埋葬をごり押しされて受け入れた光林寺は、それから1年あまり後、もう1人の刺殺された通訳、ヒュースケンの埋葬も受け入れざるを得なくなったのだろう。

しかし、いずれにしても、ヒュースケンはともかく、伝吉については、日本流に考えれば、死に到る経緯が墓に仔細に刻まれているだけで、戒名もないのでは浮かばれないだろう。DENTUKUは成仏していないことになる。

この伝吉の怨念おんねんを封印しているのが、2本の桜の古木のように思えてくる。

青山墓地の中国人の墓

日本では、昔から、寺社で死者を葬れば万人が仏か神に変身することになっている。確かに、極楽と地獄があり、地獄には生前の諸行を裁く閻魔えんま大王がいるという思想も日本には伝わっている。

江戸時代までは、死罪の罪人や敗軍の将やその眷属けんぞくは、さらし首になった者もいるし、衆人環視しゅうじんかんしの下で首を切られたり、釜ででられたり、槍で刺されたりしたが、それらも話に残っているだけで、実物や模型が残っているわけではない。首塚はあるが、これは悲劇の人を慰め祀るという意味合いが濃厚である。

神や仏が誰々に殺されたなんて、神話世界を別にすれば、墓碑に書き残すこともありえない。死者を葬るということは、そういうことである。

ところで、寺社が所管しない共同墓地の代表である青山墓地に行くと、一画に外人墓地があって、欧米人の墓と並んで中国人らしい故人の墓がある。その墓石には、故人の生前の履歴が事細かに書き込まれているものがある。

岳飛廟と閔妃暗殺絵巻

中国人の生死の仕分け方の一端を形にした事例を、最近、新聞で読んだ。読売新聞の4月28日のコラム「編集手帳」に、中国の西湖のほとりにある「岳飛がくひの廟の話が載っていた。

廟には、英雄岳飛を獄死させた売国奴夫妻が、後ろ手に縛られてひざまずいている像があり、廟をもうでた中国人は、今でも、この夫妻の像に唾を吐きかけるのが常だという。

これを読んで、15年前くらいに韓国を訪れた時に見学した旧王宮に展示されたパノラマを思い出した。日本人による閔妃びんび暗殺現場を再現した模型である。これを見学した時、私はひどい違和感を覚えた。そんなに残酷な場面を再現したものではなかったが、「こりゃたまらない」と悪寒が走るような感じがしたことを覚えている。

生死観と歴史観

死者の履歴、死に到った事情を明記し再現する、あるいは死者を死に追い込んだ加害者の縁者をはべらせる。これらは、日本人の生死観からすれば、死者をあばき、強引に冥土めいどから連れ戻す行為だろう。生と死の境がなくなってしまう。日本人の生死観とは、かけ離れているように思う。日本では、斬首されるより死を給う方が名誉であり、人の道にかなうと考えられてもきたようである。自分の手で自分の冥土を切り開く方が良かったようだ。

生死観というと大袈裟おおげさかもしれない。生死のまとめ方、仕分け方と言ってもよい。歴史を語ることは、この生死観に深く係わっているのでないだろうか。語られ考証される歴史の根底に、生死観があると言ってもよい。

私の脳内の連想の糸は、日本の外交を悩ませている歴史認識の問題にも飛んで行った。歴史認識の比較研究という問題設定には問題ある。生死観まで深堀ふかぼりしないと、国境と歴史と文化の相違を超えた相互理解は進まないだろう。そんな思いが湧き上がってきた。

病院にもっと桜の木を

日本にはいさぎよいという美学がある。ここでも桜の花のようにいさぎよく散るというイメージが確立している。日本では、桜が冥土の入り口を飾ってきたような気もする。青山墓地にも立派な並木がある。多くの神社仏閣にも桜が植えられている。遠山の金さんの背中の爛漫らんまんの桜をおがむと、「それはごもっとも」と納得する。桜の魔力、催眠効果である。

しかし、もともとは花が嵐であでやかに散り乱れる様子を表した「落花狼藉らっかろうぜき」と言う言葉が、転じて、物が散り乱れている様子や婦女子に乱暴を働くことを意味するようになったように、桜の持つ意味も、今では様変わりしてしまったようだ。青いビニール・シートを敷いてドンチャン騒ぎの宴会を開く口実に過ぎなくなっているようだ。桜が冥土の幔幕まんまく道標みちしるべになることも少なくなったようである。

今は、お医者さんが閻魔えんま大王のように冥土の入り口に立たされている。医術の病気の治癒力が余りに大きくなったからだろうが、人間には荷が重い。

病院には、もっともっと桜の木を植えて、医者は冥土の入り口を桜にゆずったらどうだろう。そして病人には薔薇ばらを育てさせたらどうだろう。薔薇ばらは、春の自然の美しい生命力を惜しげもなく振りまいてくれるだろう。

(壺宙計画)