時空の漂白 14  PDF (2005年5月27日) 

ウィーンの年始年末             吉田嘉太郎 

昨年9月、ウィーンに出かけた時のことを「時空の漂泊」(第3号)で「会議は踊るウィーン」と題して書いた。

その時に、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝、ヨーゼフ二世(1741〜1790)が、娼館を出てきた後、居酒屋(バイスル)に入ろうとしたところ、不潔だからと追い出されたという逸話を聞いたこと、しかも、その居酒屋は今でも残っていること、そして、それを聞いて、その居酒屋のある古いウィーンの雰囲気を残したシュピッテルベルグ小路に出掛けたことなどを紹介した。

そのあと、もう半年あまり経ったが、年末年始の休みを利用し、家族5人で冬のウィーンに出掛けた。現在のウィーンの年末年始の雰囲気を楽しむのが目的だが、同時に、今度こそはバイスル(居酒屋)に入って、どんな雰囲気なのかをじかに味わいたいという秘めたる目的もあった。

今回は、後日談として、ウィーンの年末年始の様子と共に、バイスル(居酒屋)について補足したい。

シュテファン寺院の年末ミサに参加し、恒例のベートーベンの第九(学友協会のウィーンフィルは満席で、予約出来たのはコンチェルトハウスのウィーン交響楽団だった)を聴く。

この年の新酒ワインを年の暮れにホイリゲ――もともとは新酒ワインのことだが、転じてウィーン北部グリンチングにあるホイリゲなどを飲ませる居酒屋そのものをホイリゲと言うよにもなった――で堪能する。1700年代から続く歴史を持つ、くだんのバイスル(居酒屋)も訪ねる。

さらにハプスブルグ最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の妃、エリザベート(愛称シシィ)をテーマとしたミュージカルも鑑賞する。

短期間だったが、現在のウィーンの年始年末の雰囲気と歴史とを垣間見ることの出来た、盛りだくさんの内容の楽しい旅だった。

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シュテファン寺院のミサの中では、クリスマスイヴに行われるクリスマスミサが最も楽しいと思う。いわゆる音楽ミサで、管弦楽団、合唱団(聖歌隊)そして1人の牧師との掛け合いによるミサである。ある時は同時に、ある時は順番に演奏(牧師は実に朗々と説教)するのである。これが非常に優雅であり、荘厳であり、本当に素晴らしいものだった。

元旦恒例のウィーンフィルのニューイヤーコンサートの切符は手に入れることが出来なかったが、市中の数カ所に大スクリーンが設置されており、それでコンサートを楽しむことができように配慮されていた。

私たちは、市庁舎前に設置された大スクリーンの前に陣取り、長時間、立ったままで、しかも雨に降られながらだったが、その演奏を楽しんだ。

それから子供達は、年始恒例の「コーモリ」を鑑賞しに国立オペラ座に行ったが、やはり立ち見席しかなく、手すりにハンケチを巻いて自分達の予約場所を確保するという昔からの方法で鑑賞したという。すっかり疲れたようだったが、楽しかったという。

シュピッテルベルグの「バイスル」

我々夫婦は、その間に、さっそく例のバイスル(居酒屋)に出かけた。現在、ヴィトヴェ ボルテ(Witwe Bolte)という名前になっている、その居酒屋は、ウィーン東南、リンク(城壁)外のフォルクス劇場の脇から上った小高い丘にある。

この一帯は、シュピッテルベルグ小径とグーテンベルグ小径に挟まれた一角にあり、シュピッテルベルグ(Spittelberg)と言われる。

居酒屋の入口はこの両小径にある。ガッセ(Gasse)と言われる小径は、車1台がやっと通れる程の幅である。グーテンベルグ小径側の居酒屋の入口は、直接ガッセに面しており、そこから入って、中のいくつかの部屋を過ぎると反対側、シュピッテルベルグ小径側の入口に達する。途中に地下室もある、こぢんまりした店である。シュピッテルベルグ小径側の入口は、クリスマスマーケットも行われる、こんもりとした木々に囲まれた場所にある。

この居酒屋(今はレストランと言っている)の起源はよく分からないが、1778年頃、ヨーゼフ二世(1760~1790)皇帝であるにもかかわらず、私服で良くこの居酒屋を訪れていたという1枚のパンフレットがあった。

注文を取りに来た店の者に、その起源を聞いたところ、約百年前という返事だったが、多分、それはレストランの歴史であって、居酒屋の歴史は、先に示した古い出来事から判断して、はるかに古いに違いない。

帰国してから、この居酒屋のホームページにアクセスしたところ、その起源が詳しく載っていた。それには概略、次のように説明されていた。

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この居酒屋が位置するシュピッテルベルグは、ウィーン郊外の小高い牧場だった。ここに1525年に養老院を建築する計画が始まり、1568年には7戸の家が建てられたのが村の始まりで、その一部が今でも最も古い家として残っているという。

その後、この周辺の土地は農場やワイン畑として整備され、多くの農夫が移り住み、働くようになった。

しかし、このシュッピテルベルグは、ウィーン防衛上の要所にあたったため、陸軍の戦略的拠点となり、その結果、長年にわたるオスマントルコ軍との戦闘で、この一帯は破壊され、焼き尽くされてしまったという

オスマントルコとの戦争が終結した後、この地にいろいろな職業の技能職人、商人などが集まるようになった。そして、それらの人たちを相手にするワイン酒場も相次いでオープンし、酒場の踊り子やらサービス嬢なども大勢いて、歓楽地として賑わうようになったらしい。 

そして1778年頃には、その1つの居酒屋、ヴィトヴェ ボルテにヨーゼフ二世が市民に変装して出入しており、時には、居酒屋から外に乱暴に蹴出されたことあったという。

当時の女帝で、非常に厳格で貞節な母であったマリア・テレジア(1741年~1780年)は、シュピッテルベルグの風紀の改善、売春の禁止などの対策を施したが、遊び好きの息子皇帝にはあまり成功しなかったという。

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こんな話が残っているくらい、この辺りは、昔から楽しい自由な地域として、多くの市民や旅行者などで賑わってきたらしい。

ラデツキー行進曲

歴史的にみると、この町が賑わっていた時代は、内外に争乱が絶えない不穏な時代であった。そんな中、1842年、オーストリア帝国の最後の皇帝、フランツ・ヨーゼフ一世(1830〜1916年)が即位した。

その時代の国内外の争乱の危機を救ったのは―――歴史的に見れば、一時的なものだったが―――ラデツキー将軍だった。有名なラデツキー行進曲は、この争乱平定で武勲をあげた将軍に送られたものである。将軍の活躍で、やや落ち着きを取り戻したころ、皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世はバイエルン王族の娘、美しいやんちゃなエリザベート(愛称シシィ)と結婚した。

1854年のことである。この皇后シシィはオーストリア帝国の中でもハンガリーが好きで、1866年、ハンガリーが自治権を確立するのに大きな役割を果たしたという。それがオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立につながったのだという。

ミュージカル「エリザベート」

このシシィにまつわるミュージカル「エリザベート」は、アン・デア・ウィーン劇場(Theater an der Wine)で上演中だったので、家族一同で観劇した。仕掛も大掛かりで、楽しいミュージカルだった。

ドイツ語なので、初めは小冊子を見ながら話の筋を追い掛けたのだが、まったく楽しい気分になれない。それで、だいたい話の筋は分かっていたので、そのまま舞台を眺めることにした。すると、自然に舞台に引き込まれ、十分に楽しむことができた。

話は、シシィにまとわる死神と皇帝との鍔迫つばぜり合いに、愛する息子のルドルフ皇太子そして義母ソフィアとの軋轢あつれきが絡み合う。その間に死神がシシィをとらえ、ついには黄泉よみの世界に誘うという筋書きである。死神の取り付かれた皇太子ルドルフが先に自殺し、シシィも暴漢に銃殺されて死神と共に死後の世界に旅立つという筋書きは、基本的には史実に沿ったものだが、改めてミュージカルとしてみると、十分に堪能できるものだった。

「サラエボの悲劇」

息子、皇太子ルドルフが1898年に死去したため、フランツ・ヨーゼフ皇帝のおいで軍人としての教育を受けていたフランツ・フェルディナントがオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者になった。35歳の時である。しかし、彼は、1914年6月、軍事演習を視察中、サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都)でセルビアの民族主義者に狙撃そげきされ、妻とともに死亡した。享年51歳だった。そして、この事件が第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)の直接の契機になった。

フランツ・ヨーゼフ一世は、息子、妻、そして甥と相次ぐ死亡で、失意のうちに第一次大戦中の1916年に死去した。86歳だった。そして第一次大戦後、約6世紀半続いたオーストリア・ハンガリー帝国は消滅し、オーストリア帝国以来、その実権を握り続けて生きたハプスブルグ家も表舞台から退場することになった。

ところで事件の起こったサラエボは美しい街だという。1984年に冬期オリンピックが開催されたところでもある。ところが1991年のユーゴスラビア連邦の解体に伴い、民族紛争の中心地になってしまった。まだ記憶にも新しい「ボスニア・ヘルツェゴビナ問題」である。

1995年に取りあえず集結をみたが、その間に、宗教と民族問題が複雑に絡み合い、「民族浄化」などの御旗の下に数十万人が殺害され、何百万人もが難民になったという。

形は違うにしろ「サラエボの悲劇」が振り返されてしまったように思った。同時に、因縁とか怨念としか表現できないようなものを感じた。

「ベルリンの壁の崩壊」

サライエボの現状については、残念ながら知らないが、第1次大戦後、すっかり荒れ果て、過去の賑わいが忘れ去られていたウィーンのシュピッテルベルグ一帯は、昔の面影を取り戻している。

第2次世界大戦後、昔を知っている住民達が戻り始め、そして、いかがわしい雰囲気のない綺麗で安全な街に生まれ変わっている。お陰で、この街の居酒屋に、叩き出されることもなく今回の度でも、2度も通った。

ウィーンは、かつては欧州で君臨したオーストリア帝国の首都であり、列強の権力闘争の調整の場ともなり、それで「会議は踊る」と言われた舞台にもなった欧州のなかでも自由で華やかな都市だった。

ところが第二次大戦後、多くの東欧・中欧諸国がソビエト連邦に組み込まれたため、チェコのプラハ、ハンガリーのブタペストと共に魅惑の中欧三都市と言われたものの、東西ブロックの接点という、やや暗いイメージを持つことになった。

西側にあって、東側の情報を入手する拠点というような位置づけになった。まさに東西ブロックの諜報員が接触するような都市だった。東西の諜報員の暗躍の模様を描いた映画「第三の男」(1949年)の舞台にもなった。

しかし、それから時代はさらに目まぐるしく移り変わった。「ベルリンの壁の崩壊」(1989年11月)の後、ウィーンは再び、その地理的条件、歴史的背景を基に、輝きを取り戻しつつある。前回も触れたことだが、現在、ウィーンには、国連ウィーン本部、UNIDO(国連工業開発機構)、それとIAEAの国連機関のほか、軍事物資・軍事技術の移転などに関するワッセナー条約の本部もある。OPEC(石油産出国機構)の本部もある。

欧州の古い町並みと新しいビル群とが共存する、新生欧州経済圏の重要な都市の一つとして生まれ変わってきている。

そんなウィーンに、私はことのほか愛着を感じている。ウィーンは何度訪れても飽きない町である。また、オーストリアを訪れる機会があったら、やはりウィーンを中心にして計画を立てたい。さらに欲を言えば、ドナウ川の流れも楽しみたいと思っている。

昨年、ウィーンを訪ねた際に、ドナウの雄大な流れを眺めて、感激した。実を言うと、ちょっと会議を抜け出して眺めたもので、その感激にゆっくりと浸ることは出来なかった。

次にウィーンを訪れる機会があれば、今度は、何としても時間を作って、ウィーンからブタペストまで、ゆっくりとドナウ川クルーズを楽しみたいと思っている。

(千葉大学名誉教授)