時空の漂白 17 PDF (2005年8月5日)
広島便り6:ガーデンライフ 高橋 滋
小屋作りは着実に進んでいるが、今回は、その小屋造り日誌を離れ、私が小屋造りに至るまでの個人的な想いや背景について、これまでに書いたことと重複する点もあると思うが、少し詳しく触れたい。
イギリスの田園地帯(コッツウゥルド)を訪ねるツアーに参加したことがある。コッツウゥルドは、地理的にもイギリスの中心にあり、ハート・オブ・イングランドと呼ばれ、イギリス人の心の故郷として愛されている。
緑の丘陵と緩やかに波打つ牧草地に囲まれた小さな集落には、蜂蜜色のライムストーンで作られたお店や住宅がつながり、どの家もきれいに庭を手入れしている。ナショナルトラストに寄託された多くの歴史的な庭園があり、また、ナショナル・ガーデン・スキームとよばれる財団のもとで、日時を定めて一般公開されている個人の庭もある。
イギリス人の老後の夢は田園への回帰だという。田舎に移住して、あくせくしたビジネス生活から離れ、ゆったりとガーデンの手入れをし、散歩を楽しむ。人生の最終目標としてカントリーライフを描き、それを手に入れるために働くのだという。
アメリカに「Town and Country」という雑誌がある。住宅、ファッション、社交、旅行、料理など、高級感を訴えるライフスタイル雑誌なかでも、また発行元ハースト社のなかでも格別の地位をもっている。
この「Country」とは、もともとはイギリスの貴族が地方に持っている領地(での生活)をさす。そしてマナーハウス(manor house:荘園領主の邸宅)と呼ばれる大きな邸宅を週末の生活の拠点としながら、都会(ロンドン)で社会活動をするというライフスタイルは、普通の人にはとても実現できそうもない憧れである。
イングリッシュ・ガーデン
だから今のビジネスマンには、都会の生活を始末し、田舎に移住するということが一つの目標になっている。コテージと呼ばれる田舎の家を、それ自体が風景の一部となるように美しくしつらえる。綿密にガーデンを計画し、毎日手入れを欠かさない。ガーデンは「見せるためのもの」で、そのプランと達成にいたる努力が賞賛される。その声がガーデンのオーナーへのご褒美となる―――そんな生活を実現することが大きな目標になっている。
このイングリッシュ・ガーデンのポイントは、背丈や色彩のことなった「宿根植物」(毎年種をまいて育てる一年草と対比される)をうまく取り混ぜて、一つの風景を作り出すところにある。
しかし、日本では(少なくとも本州では)、その風情を実現し、維持することは不可能に近い。五月初めまではさわやかだった気温が、中旬になると二十五度を越え、植物は急に成長し、虫も増える。そして高温多湿の梅雨の季節を植物は耐えなければならない。その後の三十度を越す雨の少ない盛夏は、植物にとっては焦熱地獄である。日本では、花が美しく咲いてくれる期間が実に短い。
それでも多くの人がカタログ雑誌で新しい品種を探し、難しい植物を育成し、「見て楽しむ庭」の実現に挑んでいる。ひところのガーデニング・ブームは去ったが、それでもイギリス型のガーデンライフは一つの憧れとして日本人の心に生き続けているように思う。
クライン・ガルテンとダーチャ
こうした英国のイングリッシュ・ガーデンと、ドイツのクライン・ガルテン(Kleingarten:小さな庭)やロシアのダーチャ(dacha:菜園付き別荘)は、まったく趣を異にする。新鮮な野菜や果樹を育てるという実利的な目的が優先されているようだ。
いずれも都市住民のための園地を意味する長い歴史を持つ言葉のようなのだが、その背景がまったく違う。ドイツでは「生鮮野菜の30%がクライン・ガルテンから供給されている」、そして「ロシア国民の6割ぐらいの人々がダーチャを持っている」という記述を見たことがある。数字は動くものだが、実質的な意味で生活にかなりの影響を持っている存在であることに間違いなさそうである。
インターネット上で「Kleingarten」で検索すると実に多くのページが出てくる(「Google」では10万以上ある)。本来の言葉そのものの意味ではなく、「簡易宿泊施設のついた滞在型市民農園」などとも訳されるように、その実際の姿は、多くは家が付いており、整然と「公園」のように整備されている。
日本でも第二次大戦末期、農産物の自作が奨励された。そして敗戦後も、東京でも誰もがちょっとした空き地でジャガイモなどを作っていた。しかし、昭和27年に制定された「農地法」により、農地の転用や貸借、農地の農業以外の利用について厳しく制約されてしまった。都市住民が農地を自由に利用する道が閉ざされてしまった。そして、その状況が基本的には今日まで続いている。
1970年代に入り、都市郊外の農業の維持が難しくなり、「レクリエーション農園」とか「市民菜園」という形で農地を一般に開放する流れが出来たが、1年契約とか果樹植栽の制限など納得できない規制が多い。あくまでも土地保有者の権利が優先され、その都合で整備した「農園」や「菜園」の閉鎖を迫られる事例が少なくない。
ちなみにドイツでは、都市計画の中に「ガーデン」が位置付けられ、契約期間は25年で、その権利も相続可能という仕組みが出来ている。
もっとも、日本でも規制緩和は進んでいる。平成2年(1990年)に「市民農園整備促進法」という法律が制定され、広島市でも立派な市立(/ruby>の市民農園ができた。
最近は「構造改革特区」でさらに規制緩和が進み、一般の人でも運営ができるようになった。まだ利用期間や構造物の建築、生産物の販売などに対する規制はあるものの、「市民農園」は日本に定着するようになっている。
ただ、本家のクライン・ガルテンもそうだけれど、まったく好きなよう使うことはできない。仲間との語らいや先輩農家からの指導を享受するなど「クラブライフ」の場としての意味合いが強い。地方自治体の作る○○クライン・ガルテンも増えてきたが、まだまだ滞在型の「市民農園」の数は限られており、誰でも楽しめるようにはなってはいない。
世田谷区の外れの東玉川
私は東京の世田谷区の東玉川というところで育った。世田谷という言葉を聞くと、多分、テレビドラマ「金妻」で有名になった二子玉川辺りだろうと思う人が多いかもしれないが、まったく違う。世田谷区がこぶのように東京湾側の大田区に入り込んでいる地域で、少し歩けば京浜工業地帯の中核の大田区になる。第二次世界大戦では京浜工業地帯への空襲で、家のすぐ側まで焼け野原になった。
この辺りは東京都と神奈川県の県境の多摩川の流れに沿った東京側の台地の端に位置する。大正末期から昭和初期にかけて造成開発され、今や高級住宅地の代名詞になっている「田園調布」に隣接し、その拡大に伴って発展したところで、多摩ニュータウンのハシリのような地域だった。
ちなみに「田園調布」の街は大正12年(1923年)の田園都市株式会社の土地分譲からスタートし、昭和の初めに頃までに骨格が出来上がったという。開発に当たり渋沢秀雄(田園都市株式会社の設立者・渋沢栄一の子)は欧米の街を視察し、イギリスで田園都市を提唱したハワードのコンセプトなどを取り入れたのだという。それが、丁度、日本に新しい中流階層が出現した頃で、その彼らの環境の良い郊外に家を持ちたいというニーズにマッチし、大きな発展を遂げることになったなどと解説されている。
ともかく開発に併せて目蒲線と大井町線とか東横線が相次いで開通し、新駅も作られ、一方、六間道路と呼んでいた域間幹線道路(現在の環状八号線)に加えて街路、細街路なども整然と整備されるなど、画期的なプロジェクトだったことは間違いない。
住宅に対する原体験
ところで敗戦で東京は壊滅的な被害を被った。しかし、その中心は人口が密集していた、いわゆる下町と文字通りの都心であった。私が生まれ育った一帯は、当時は、まだ東京の郊外であって大きな被災は免れた。周囲には畑やケヤキの屋敷林も残り、都心と郊外という棲み分けの中で、「庭いじり」を楽しむなど戦前の中流階層の生活の仕組みが残っていた。
食べることで精一杯だったという昭和20年代でも、駅前の商店街には花屋(種苗店)があり、珍しい花々や苗木を売っていた。母は花が好きで、戦前の婦人雑誌の切抜きを大切に持っていて、それを見ながら花を育てていた。それで私もたくさんの花の名前を覚えた。
そんな私の子供の頃、バスで日本橋のデパートなどへ行くことを「東京へ行く」と言っていた。私が生まれ育った一帯は、当時は、まだ「東京」ではなかったのである。
だから自宅の敷地は借地だったが広く、庭には柿の木や葡萄棚があった。その庭を私は小学校の頃に整備した。レンガで庭を楕円や直線で区切り、「洋風の庭」を造った。実際のところは定かではないのだが、私の記憶の中では、この作業を計画し、レンガを積んだのは私だということになっている。今でもこの時に造った「庭」の形をハッキリと覚えている。
東京生まれの東京育ちとはいうものの、こうした子供時代の生活が私の原体験として、しっかりと残っている。多分、そのためだろう。地価の暴騰や相続制度などから宅地は細分化され、「庭いじり」を楽しむなどのゆとりを持つことはほとんど不可能になったにもかかわらず、庭で花や野菜を育てながら暮らすというのが住まいの理想形であるという思いが、私を支配し続けることになったようだ。
事実、種を蒔き、その一粒の種が芽を出し、双葉をつけて、どんどん成長し、姿を変えて野菜になる。半割のジャガイモが、何もしなくても三ヶ月で多量のイモに育つ。神秘としか言いようがなく、素直に感動を覚える。
量は少なくても、姿・形が悪くても、自分で汗を流して作った野菜は、非常に味わい深い。手入れをしないでも実実を結んでくれる果実を収穫する時には素直に自然に対する感謝と畏敬の念を覚える。そして農業ではないが、「収穫を目指す園芸」を身近に楽しむ住み方を、今、私は、東京ではなく、ここ広島の地で味わっている。
広島でのガーデンライフ
30坪あれば、野菜であれ、花であれ、かなりのものを育てられる。(「三十坪の自給菜園」中島康甫、農文協)。しかし、都会では、その広さの土地でも購入しようとすると、現実にはなかなか大変で大きな負担となる。
ここ広島でも、東京とは比べものにはならないが、やはり大変である。山に囲まれており、郊外には平地がほとんどない。都会からの利便性も悪くないところでは、山裾の傾斜地を造成した団地の一戸当たりの敷地は五十坪程度が標準で、この広さでは建物を建てると布団や洗濯物を干す前庭を確保するのがやっとである。
広島に来て40年近くになる。その間、やや交通が不便でも広い庭を確保できる一戸建てがないかと、ずいぶんと探し回った。しかし、無計画・無秩序に、スプロール状に開発されたため、土地は見付かっても、住環境、特に道路状況が悪く、なかなか納得できる物件はなかった。良い物件はすべて地主や地元の人に抑えられていた。その点では新規造成地は良いのだが、広さの点で折り合いが付かない。結局、私が理想とするような物件は見付けることが出来なかった。
どこかで妥協をしなければならないと思うようになった。そして、ついに私が決断して入手したのが、「広島便り1」で説明した市の中心部から25キロほど離れた佐伯という場所の山麓の造成地の一画であった。
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もともと私が目指すガーデンライフは、それ程、大それたものではなかった。憧れはイングリッシュ・ガーデンだが、切花にできる季節の花をたくさん育てられれば、それで良い。それに、ほどほどの広さの「作って楽しむ」畑で、夏野菜、豆類、秋の葉物、それにネギやシソなど香辛野菜を少し収穫することが出来れば十分だと思っている。
リンゴやブドウなどの果樹も植えたかったが、育つと日陰が出来て「菜園」に邪魔になるし、管理の問題も出てくるために諦めた。
その代わり、「庭園」・「菜園」の傍らで、人が集ってバーベキューをするスペースを確保することにしている。焚き火は、何と言っても心を和ませる。小屋の中には、オーブン兼用の薪ストーブか、パンやピザを焼く石窯を置きたいと思っている。こんな想像をするだけで、楽しさがこみ上げてくる。
収穫の喜び
こんな想いを抱いて、現在、小屋造りに励んでいる。それに「佐伯ガーデン」という名前も付けている。
この小屋造りの隣の百平米の広さが花と野菜の「庭園」・「菜園」になっている。開墾を始めてすでに三年目になり、牛糞や堆肥を投入した成果が出てきている。冬場に収穫したミズナと野沢菜はまずまずの出来だった。
5月にはクレマチスやデルフィニウムが豪華に咲いた。イチゴ、エンドウ、タマネギ、ジャガイモなども収穫できた。6月に雨の少なかったため、今一つだったが、夏野菜もできた。
なお、ここは、イノシシの増加と被害がしばしば新聞記事になるくらい野性動物のテリトリーである。「最大の防御は彼らが好きなものを育てないこと」と考えて、イノシシにやられたと聞いたものは作らないことにしている。サツマイモやトウモロコシは好物だというので栽培しない。一度、糠を堆肥に使ったらほじくり返されたので、糠も使っていない。
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周辺には放棄された耕地が多い。それを眺めていたら、さらに余裕が生まれ、「佐伯ガーデン」で過ごす時間が増えたら、畑を借りて、もっと作物を栽培してみようとも考えるようになっている。
そうなると、本格的な「田舎暮らし」になってしまう。「佐伯ガーデン」のコンセプトは、もともとは生活の軸足は都市に置きながら、息抜きとしてガーデンライフをエンジョイするという「都市型」のモノであった。これから先、このコンセプトから外れ、本格的な「田舎暮らし」に気持ちが傾いてゆくのか、自分でも興味を持って見守りたい気分になってきている。