時空の漂白 19 PDF (2005年10月5日)

鉄路を蒸気機関車に乗って:芥川編       谷 弘一   

今年3月に発表した鉄路を蒸気機関車に乗って」(「時空の漂泊」第9号)について読者から冒頭に出てくる「蜜柑みかん」の作者は夏目漱石ではなくて芥川龍之介ではないかという指摘を受けた。

しかし、負け惜しみではないけれど、芥川が漱石に入れ替わるようなところが、まさに「記憶空間」の中で「連鎖」の糸が頼りの「時空の漂泊」の醍醐味の一つのように思う。だが、確かに間違いは間違いなので、夏目漱石を芥川竜之介に変更して書き直した。3月の「時空の漂泊」第九号を「鉄路を蒸気機関車に乗って --- 漱石編 ---」とし、今回のものは「鉄路を蒸気機関車にのって --- 芥川編---」ということにして頂きたい。

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今回は、鉄路を蒸気機関車に乗って時空の漂泊に出かけよう。鉄路は連想の糸を伝って、記憶の宇宙に伸びている。機関車の車窓には、現実の時間の前後関係とは何の脈絡もなく景色が飛び交うだろう。時間の軸を整理しながら地道に漂泊をしていくことにしよう。 

芥川竜之介に「蜜柑みかん」という小品があった。小学生か中学生の頃、国語の教科書で読んだ覚えがある。私は、その頃にはとうに鎌倉に引っ越しており、「蜜柑」の舞台が横須賀線だったので、国語の教科書を身近に感じたことを覚えている。

芥川自身が横須賀線に乗っている。「或曇った冬の日暮れである。私は横須賀線二等車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発射の笛を待ってゐた。とうに電灯のついた客車の中には、珍しく私の外に一人も客はゐなかった。」という書き出しである。そこへ「日和下駄ひよりげた>の音を響かせ」「13、4の小娘が1人慌ただしく」同じ車両に乗り込んできた。

芥川は、前の座席を占めた女の子を観察する。「ひびだらけの両頬りょうほおを気持ち悪いほど火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だった。」「膝の上には大きな風呂敷包みがあった。その又包みを抱いた霜焼しもやけの手の中には、3等の赤切符が大事そうにしっかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかった。」

しばらくすると、女の子は立ち上がって重い窓硝子を開けて勢一杯外を見守っている。もちろん、芥川の存在は眼中にない。

私も信州に行く時に新宿から汽車に乗った記憶がある。汽車はトンネルに差しかかると、大きく汽笛をボーボーと鳴らして、窓を閉めないと煙が一杯になると乗客に注意を促す。それでなくとも客車のあちこちの隙間すきまから黒煙が立ちこめて全身がすすけるのだ。そんな汽車の中で、窓を開け放しにされたんだからたまったものでない。それに季節は冬である。神経質の極みといった芥川の顔、怒りがこみ上げてくる芥川のしかめっつらが目に見えるようである。

女の子は煙を胸一杯吸い込んで、トンネルを出ると窓から大きく身を乗り出した。女の子の顔はすすけて、ほおは赤い地に黒い貫乳かんにゅうが入った磁器のように見えたかも知れない。そして、汽車が踏切に差しかかると、大事に抱えて風呂敷委包みから黄色い実を両手に一杯つかみだして、窓の外へバラバラッと投げた。下には小さな子供達が、喊声かんせいを上げながら手を一杯に拡げて蜜柑に飛びついている。

芥川にとってはけむいだけの汽車が、これから奉公に出る女の子には、弟や妹に蜜柑を投げ与える晴れのお立ち台だった。もくもくと煙を吐いて走る蒸気機関車は、女の子にとって新しい世界に旅立たせてくれる変身の装置だった。女の子は、故郷残った兄弟に疾走する蒸気機関車から黄色い蜜柑をばら撒いて、新しい世界に旅立って行った。

横須賀線の車中のこれだけの出来事を書いた「蜜柑みかん」が、私の「記憶の空間」の中でくっきりと見えてくるのだから、時空を漂泊する脳内作業は不思議である。それに、私の記憶の空間の中では、同じ鉄路を蒸気機関車に続いて電車が走ってくる。石炭をいて水を湧かす真っ黒な巨大な釜が走る蒸気機関車に比べると、送電線から電気を取って走る電車は実に軽快である。

なんで電車が軽快になったかと言えば、機関車の巨大な釜を山奥の発電所に移してしまい、電車は、そこで発電された電気を送電線から受け取って回転する電気モーターを装備するだけになったからだ。

そう思ったら、石炭や石油をいて蒸気タービンを回している火力発電所が目に浮かんできた。発電所から眺めると、送電線網とその末端にモーターをくっつけて無数の電車が走り回る壮大な光景が見えてくる。今、電車に乗っていて発電所の煙を思い浮かべる人は皆無かいむだろう。

日本で始めて新橋と横浜の間を蒸気機関車が走ったのは1872年、明治5年のことである。当時、アメリカは鉄道全盛時代を迎えようとしていた。11年後の1833年、アメリカ全土が初めて4つの時間帯に分けられたそうだ。それまでは幾つもできた鉄道会社が、各自勝手に本社所在地の時間を全線で使っていたから、バッファロー駅には3つ、ピッツバーグ駅には6つの時計がそれぞれに違った時刻を刻んでいたと言う。

時間帯を設けることも、標準時間を導入することも、鉄道から始まったようだ。鉄路と蒸気機関車が出現して、地域を繋ぐだけではなくて、異なる時間を繋ぐ輸送手段を人間が獲得したことになる。

この鉄道標準時間がアメリカで一般の標準時間として法定されたのは1918年、第一次世界大戦の終わった年である。鉄道の出現が、それまでばらばらな時間感覚の中で生活を刻んでいた地方という地方を同じ時間軸で結びつけるようになった。鉄道が標準時間を持ち込むまで、徒歩や馬や驢馬ろばや牛に頼って人が往き来していた長い期間、それぞれの時間軸に従って地方は独自の文化をはぐくみ生活圏を作ってきていた。

標準時間を持ち込み、生活圏の壁を突き崩し、地方を流動化させたのが鉄道だった。ちなみにベンヤミンは、鉄道の侵入が地方のオーラ(aura)を奪ったと裁定し、マルクスは鉄道が産地から切り離された商品を生み出したと経済の歴史を語っている。

この鉄道網の拡大に、その付属施設として普及した電信技術の革新が重なる。1837年に、アメリカのモールス、それとイギリスのクックとホイートストンが電信の実験が成功し、翌年には後者の技術による電信がイギリスのパディントンとウェスト・ドライデン間の鉄道20キロに敷設されたと記録されている。

そして、現在、この電信技術の後裔こうえいたちのコミュミケーションの技術革新の真っ只中に我々は立っている。

情報化社会に入った日本では、翻訳するひまもないままに片仮名語と記号が氾濫を続けている。漢字、平仮名、片仮名という三つの文字を駆使する日本の豊かな文字世界については、いずれ改めて漂泊したい。平安朝の女流が平仮名世界を発展させたというが、現代では、新しい女流文字が携帯電話という新規メディアの世界に誕生しているようである。

もしユニバーサル情報化社会の博覧会をやることになったら、その会場の入り口には蒸気機関車が電信と標準時間を引っ張って走る力強い展示をして見てはどうだろう。

中世から近世のヨーロッパの町の中央広場には大きな時計が動いていた。しかも距離を隔てた町の大時計はそれぞれ違った時間を刻んでいた。もっともっと時代をさかのぼれば、距離を隔てた地域ではずっと違った言葉が使われていた。土地に時間と言葉にり付いていた。

この土地にり付いて生きてきた時間と言葉を、近代世界に引っ張り込んだのは、黒い煙を吐きながら走しり始めた蒸気機関車だったのである。

ところで、この蒸気機関車による世界最初の鉄道営業運転は1825年のことだった。イギリスのストックトンとダーリントンを結んでジョージ・スティーブンソン(George Stephenson:1781~1848年)のロコモーション号が走った。そして、その息子のロバート・スティーブンソン(Robert Stephenson:1803~1859年)の作ったロケット号が1829年、リバプール・マンチェスター間で使用する蒸気機関車の競作で、30人の乗客を引っ張って時速約50キロで走って優勝し、翌年から営業運転に使用され、これを契機にして蒸気機関車の性能と実用性が大きく加速されることになった

蒸気機関車は、蒸気機関を車輪の付いた台車に載せ、その蒸気機関で車輪を動かしてレール上を走るという、かなり凝った自走機械である。そして、その発展史を紐解ひもとくと、その動力源である蒸気機関はもちろんのこと、それを製作するための工作機械からレールや車輪や材料に到るまで実に広範囲にわたる長い技術革新の連鎖の歴史が現れてくる。

その中から、ここでは産業革命それも動力革命の旗手となり、蒸気機関車を生み出す基になった蒸気機関の発明と実用化の歴史をちょっと振り返ってみよう。

蒸気機関の発明については、天才ジェームス・ワットの功績に独り占めされているようだが、それは違う。グラスゴー大学の機械工だったワットは、1764年、ニューコメン機関という蒸気機関の模型修理を依頼され、これを契機に蒸気機関の世界に首を突っ込んだ。28歳の時である。

ニューコメン機関は、ワット機関が出現するまで、約60年にわたって湧水の排水や採掘した鉱石の巻き上げ用として鉱山などに普及し、イギリスの石炭産業発達に大きな役割を果たした。

ワットは、ニューコメン機関の模型の修理を依頼され、直ちにその弱点に気が付いた。そこが天才の天才たる所以ゆえんなのだろう。水蒸気の凝縮が同一シリンダーの中で行われるため、熱効率が決定的に低くなるという事実だ。そこでシリンダーとは別に分離凝縮器―――復水器を設けるという画期的な着想を得た。

恩師の知人ローバックが支援者となって、ワットは新しい蒸気機関の開発を始めた。1769年、ワットは、ついに復水器に使った蒸気機関に関する最初の特許を取得した。しかし、1773年、支援者ローバックが破産してしまった。

途方に暮れていたワットに対して、すでに知遇を得ていたバーミンガムの産業界で指導的な立場にあった工場主M・ボールトンが協力を申し出た。そして2人は1774年、ボールトン・ワット商会を発足させた。

さらにワットはツキに恵まれた。ワット機関を実現するためにはシリンダーの精密加工が不可欠で、この加工を行う工作機械がなかったことがネックになっていた。ところが翌年の1775年、鉄器製造業者のウィルキンソンが中繰り盤を発明した。これにより蒸気機関用の精密なシリンダーの製造が可能になったのである。

この新型工作機械によりシリンダーが製作され、翌年の1776年には復水器を備えたワット機関が完成した。

このワット機関は、まず、ワット機関のシリンダー加工を実現した中繰り盤の発明者のウィルキンソンの製鉄用溶鉱炉の送風機用に採用され、ついで炭鉱の排水用などに採用され、それを契機に、ちょうど水力(水車)を動力に生産拡大を続けていたイギリスの発展期にあった繊維産業でも動力として採用され、急速に普及した。1790年までにはイギリスで使われていた数多くのニューコメン機関が、一つを除いて、すべてワット機関に代替されたという。

勝手に「時空の漂泊」をしていると、実にあっけない出来事なのだが、これらが実際に起こった歳月 ――― ワットがニューコメン機関の模型の修理という機会に遭遇し、そこで直ちに改良を思い付き、支援者を得て開発に着手し、それを実用化するまでに、実は20年以上の歳月が経過していた。

しかも、このワットの業績は、パトロンであり、パートナーでもあったボールトンの存在を抜きには語れない。ボールトンは単純な好意や好奇心だけからワットを支援したのではなかった。工場主としてのボールトンは、当時普及し、自分自身も使っていたニューコメン機関では、今後は立ち行かないということを実感し、その意識がワットの支援を決断した根底にあったらしい。

事実、ボールトンの要求は厳しかった。ワットに万能的原動機として広い用途を持つ回転運動機関の開発を求めた。そしてワットは1781年には往復運動を回転運動に変換する伝道機構に関する機構、1782年には同容積のシリンダーで倍の動力を得る複合機関など、1784年には往復運動の回転運動への変換機構、さらに1787年には負荷が変化しても速さを保つ遠心調速機を発明し、これら新機構を取り入れた複合回転蒸気機関を完成させた。

この複合回転蒸気機関はワットの最も重要な特許―――独立復水器に関する特許が満期になる1800年まで、そのままの形で作り続けられた。

ワットの生涯のパートナーになったボールトンは、技術革新により市場の制約を乗り切ようとする近代経済のダイナミズムの意識が、その根底で人一倍、強くうごめいていた人のように思う。

経済の視点からまとめると、発見・発明・技術開発が経済発展の種を育て、その種の実用化を経済がうながし、市場を創る、経済は技術の種を供給力に変えると同時に需要も生み出すという教科書に載っているイメージが浮かび上がってくる。

さらに、この技術と経済のダイナミズムに政治を加えて考えると、蒸気機関車が、多くのモノを満載した貨車と、頓着とんちゃくしないというか無知というか、そんなヒトで一杯の客車―――それも延々とつながる長い列車を牽引して、無限の時空で驀進ばくしんしている、絵、劇画、グラフィックスのようなものが見えてくる。

そんなイメージにふけっていたら、再び、この蒸気機関がいつどこで蒸気機関車に変身したのかに関心が向かった。蒸気機関が鉄路に乗って貨車や客車を引っ張る蒸気機関車に変身し、鉱山の排水などの裏方作業の世界から運輸の世界の革新者として一身に脚光を浴びる栄光の世界に、どうやって登り詰めたかである。

ちなみに、蒸気機関の改良に貢献したワット自身は、蒸気機関それ自体が動く自走蒸気機関については着想しなかったと言われている。

自走蒸気機関の実用化の光栄を浴したのはスティーブンソン親子だが、実は蒸気機関のワットの場合と同様、スティーブンソンにも先駆者がいた。

1枚の挿絵さしえがある。ロンドンの広場で蒸気機関車を見世物にしたトレビシックの鉄道サーカスの絵である。囲いをして入場料を取って見物人を集め、その中で蒸気機関車に観客を乗せて走らせたという。1808年7月8日から9月18日のことである。

1825年の世界最初の蒸気機関車による鉄道営業運転に先立つこと約17年も前のことである。今でもヨーロッパの大都市では、冬の寒い季節や夏の休みの時期になると、ジプシーのサーカス小屋が街の中央広場や街外れの広場に出現する。多分、トレビシックの鉄道サーカスも同じような感覚で開催されたのだろう。

実はトレビシックは、この見世物開催の4年前、すでに1804年に初めてレールの上を走る蒸気機関車を製作したと伝えられている。

しかし、蒸気機関車による鉄道営業運転の開始は、20年以上も後の1825年のことだった。なぜスティーブンソンの蒸気機関車が実用化するまで20年以上も掛かったのだろうか。なぜスティーブンソンの蒸気機関車が世界の鉄道の偉大な原点になったのに、トレビシックの蒸気機関車はロンドンの見世物にしかならなかったのだろうか。

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そこには供給側の技術要因だけではいかんともしがたい制度という要因が働いていたように思う。制度の変革の背景には、蒸気機関車を必要とするようになった社会情勢の変化があった。

当時のイギリスの社会情勢の変化ということでは、穀物法(Corn Laws)の制定が決定的な意味を持っている。イギリスの綿織物の輸出が急拡大し、その結果、輸出先である植民地の農産物の輸出圧力を高め、その農産物の輸入がイギリスの国内農業を圧迫するという玉突き現象が起きていた。

そのため1815年、保守勢力の守護者であった農業資本家の主張を取り入れ、低価格を武器に拡大する海外からの穀物輸入に対して高率の関税を課して国内農業を守るという穀物法が制定されることになった。

この結果、イギリス国内の農産物価格が高騰し、家畜の使役賃料も人件費も二倍に跳ね上がったという。これは産業革命を契機に伸び始めた産業を直撃した。イギリスの繊維産業の発展から始まった繊維輸出の拡大という白玉が、それを輸入するイギリスの植民地の農産物輸出を拡大するという緑玉になって跳ね戻り、それがイギリスの農業保護の鼠色ねずみいろ玉に当たって、穀物法の制定という黒玉を弾き出した。そして穀物法の黒玉がイギリス国内の農産物価格高騰という赤玉を直撃して、この赤玉が蒸気機関車の実用化という花火球を打ち上げさせることになったのである。

すでに運河を使った運輸事業が飽和状態に達し、それが物価高騰に拍車を掛けており、物価高騰を少しでも沈静化するためには、別の大量運輸手段を確保することが不可欠になった。そこでイギリス政府は新たな法律を公布し、国を挙げて新たな輸送手段の登場をうながすことになった。1821年のことである。

もっとも、それは「人間と馬もしくはその他の方法」で動かされる輸送手段の導入を促進するもので、蒸気機関車の導入を明示したものではなかった。産業革命の先頭を走るイギリスには、前例というものはなかったことがよく分かる。

この社会的背景の中で、「その他の方法」があることがスティーブンソンによって実証され、蒸気機関車による鉄道が人類の歴史に登場したのである。

技術と経済の発展の歴史的な経緯は、経済の基本的なパターン認識となっている需給のダイナミズムの関連で読み取ると解りやすい。つまりイギリスでの鉄道の出現については、供給側には蒸気機関とレールと車輪の技術革新が、そして需要側には穀物法の立法に代表される社会情勢の変化があったということである。

イギリスで蒸気機関車に変身して大躍進した蒸気機関は、同時代のアメリカでは蒸気船に変身した。このアメリカの蒸気船に乗り換えれば、蒸気船が海を渡って世界を変えていった、また別の壮大な歴史が見えてくるだろう。次回は、連想の糸を綱のように撚り合わせて、人間の選択や決意を超えた歴史の必然のゴンドラを「記憶空間」に懸架けんかしてみたい。

(壺宙計画)