時空の漂白 21 PDF (2005年11月11日)
広島便り(最終回):ものづくりの世界 高橋 滋
還暦というのは、十干十二支(干支)の組み合わせで、60年でそれが同じ組み合わせに戻ると記憶していた。しかし、十と十二の組み合わせは、よく考えると百二十通りで、辻褄が合わない。
ある辞書で調べたら、「中国では干は五類(甲乙丙丁戊)」と書かれていた。あー、それで5×12=60種類となるのだと最初は思った。しかし、実際には壬申のように、五類ではない。合計すると十分類になる十干が用いられている。分からなくなった。それで、さらに調べたら、「十干を五行(木・火・土・金・水)に配し、たとえば甲は木ノ兄、乙は木ノ弟と統合し五種類になる」とややこしいことが書いてあった。
しかし、どうもピンとこない。そこで十干と、いわゆる十二支を整理して上表を作った。それを眺めていたら基本的な勘違いをしていたことが分かった。
十と十二の組み合わせということに変わりはないのだが、「組み合わせ」という言葉を勝手に数学的な純粋な組み合わせだと思いこんでいたことが間違いの基だった。十干十二支のそれぞれの順序は変えないという前提を忘れていた。
それぞれの順序を変えない上での「組み合わせ」となると、それは数学的には「最小公倍数」―――2つ以上の整数に共通な倍数のうちで最小のもの、2と7を例にすれば、その最小公倍数は14という類の問題であった。10と12の「最小公倍数」は60である。
つまり、十干と十二支とは上表のように組み合わされるのである。このような組み合わせ方で、同じ組み合わせになるのが60年毎ということであった。
分かっていたつもりだったのに、まったく勘違いしてことを実感した。同時に、いかに流布している「説明」が親切心を欠いており、他の本に書かれていることが、読者のことなど考えられずに、そのまま引用される、いわゆる「孫引き」のような「説明」が横行していると思った。そして改めて自分自身も反省させられた。
還暦を迎えて
前置きが長くなったが、こんなことを考えることになったのは、私自身が今年の夏に60歳になったからである。「十干十二支」の考え方に基づく還暦を迎えたからである。若いころ頃はともかく、私も今では古くから伝えられてきたことで、その是非の理屈を抜きに人生の節目を迎えることになったのだと思った。人生に思いを巡らせることが多くなってきている。
年齢を遡って、30歳台の壮年期や、その前の20歳代初めの不安定な時期に戻ることがある。そして、その時々に何に関心を持って何をしてきたのか思い起こし、それらを今この時点で再び取り組み、その始末をつけることができるかと自問自答する。そして最後には、頭の中で「漂泊」しているだけには止まらず、趣味の道具類をどう始末するなどの具体的に身体的・肉体的な作業を要求する課題にぶつかる。
そうすると、改めて還暦というのは、盤上の駒を動かして勝敗を競うボードゲームの上がり(=次のスタート)ではなくて、マラソンの折り返し地点のようなものだという思いに襲われた。
好むと好まざるにかかわらず、気が付いたらまとわりついていた諸々の柵や積み重なっていた肩の重荷を徐々に軽くし、それらから解放される自由な時間を取り戻す。そのきっかけが還暦なのではないだろうかと思うようになった。
そして、時々、ふと思うことがある。「小学校の高学年。その頃は、もしかしたら一生の中で一番幸福だったかもしれない。」と………。
当時の私にはダヴィンチは何でもできる人の代名詞だった。「あのころ」は、勉強で苦労することはなく、音楽や家庭科や工作などが思うようにできたように頭の中では記憶されている。夏休みの宿題の工作などは、今でもハッキリと覚えている。
「駆けっこ」だけは苦手だったが、「何でもできる」ダヴィンチ的な万能の人が存在したということは、大きな目標であって、そういう目標を持てることができたということは、本当に貴重だったと思う。
自分でモノを作りたい
こうした原体験が深層心理にあったことは間違いない。それが、今回、私の小屋を製作したい、木工や草木染めなどの手作りを自由に行う作業場所が欲しいという気持ちの根底にあったことは間違いない。
若い頃は、東京では無理だが、この広島では戸建ての家を持って、そこに住みながら仕事と両立させ、あれこれと好きなことをすることができた。それ自体、東京に住んでいる人たちに言わせれば贅沢の極みだが、ここ広島でも、それはさすがに仕事の責任と忙しさから難しくなって、ここ20年ほどは、広島の「都心」のマンション暮らしを強いられ、「やりたいことをやる」という訳にはいかなかった。
次第に、これから先の人生を考えるようになった。
何年生きられるのかは分からない。ゴールと呼ぶべきものがあるとも思えない。その一方で「自由」な時間は増えるだろう。だったら時間を忘れて積み木や「お絵かき」に熱中した幼年期のように、好きな時に好きなことができる空間を確保したいという思いを抑えられなくなった。
このシリーズの初回に「老後のプレイグラウンド」という言葉を使ったが、それは幼年期に戻って「遊ぶ」ことができるような所が欲しいという意味であった。
ところで物を作りたいということについては、若干のいきさつがある。今から5年ほど前のことになる。
勤務先の会社で、事業再構築の一環として従業員の早期退職が実施されることになった。すでに経営権は海外企業の手に移り、事業再構築の手法もそれなりに周到に組み立てられていた。トップの研修会を皮切りに、外部の会場を借り切っての社員全員参加の勉強会、続いて手厚い再就職支援の提示、さらに綿密な意思確認のステップを踏むなど1年あまりをかける綿密な計画が策定された。私は、この計画を全社的に遂行する立場にあったが、自分自身が入社時に予定した定年の55歳を過ぎていたこともあって、率先して、この計画に基づいて自分も退職するという道を選択した。
退職を機会に、年齢的にはやや遅いが、「モノづくりの手業」を身に付けたいと思った。大学では工学部を専攻し、動くもの(乗り物)を作りたくて自動車メーカーに就職した。そして数多くの自動車を設計する機会に恵まれた。しかし、設計には携わったものの、実際に自分の手を使って「モノ」を作るということはなかったからだ。
雇用保険受給者の職業訓練
退職して雇用保険(失業保険)受給者になったのだが、調べたら、実に様々な支援制度が用意されていることが分かった。その一つに無料で(場合によっては日当付きで!)職業訓練を受けることができるという特典があった。
広島県でも、独立行政法人「雇用・能力開発機構」(旧特殊法人・雇用促進事業団)直営の「ポリテクセンター広島」(現在は広島センターに併合)の他に、「広島県立福山高等技術専門校」などの施設があり、これらの施設を雇用保険受給者は優先して利用することができるのである。
広島県東部には、下駄や家具など木工品産業が発達している。特に府中市を中心とする婚礼家具は、戦後の復興期、高度成長期には全国的なポジションを得て隆盛を誇った。
生活様式の変化などから県内の家具生産はかつての3分の1に落ちたが、それでも広島県立福山高等技術専門校には全国でも数少ない家具コース(インテリアクラフト科 訓練期間1年間)が現在も残っている。
この対象者は「おおむね30歳まで」で私は受講ができなかったが、それとは別に年齢制限のない半年コース(木材工芸科)があり、これを私は退職直後の4月から幸いにも受講することができた。
なお、この半年コースの「木材工芸科」は、かつては家具工場から彫刻の下請け仕事が多くあり、その対応のために設けられたそうだが、時代の変遷で次第に就職難になり、私が受講した年を最後になくなってしまった。
この半年コースで、木材の性質や加工の基本、刃物の研ぎ方や手工具の扱い、さらに基本的な加工機械の操作などを習った。
生業としての家具製作に挑戦
専門校を終了した後、近くの内装の造作工場と交渉したところ、幸いにも、そこの機械を借りて使うことができるようになった。そこで、さらに半年、プロ仕様の木工機械を使いながら腕を磨いた。
その工場というのは、最盛期には40人もの職人さんが働いていたという創業百年を越す老舗だった。しかし、そこの機械を私が借りて使い始めた時には、働いている職人さんはすでに1人だけになっていた。職人さんは、手が空いた時間には、自分で家具も作っていた。そのお陰で、家具製作について、さらに突っ込んで教えて貰うことが出来た。
一方、その合間に、少人数で家具製作を行っている工場を訪ねたり、個人で工房を開いている人に話を聞いたりしながら、家具製作で生計を立てる道を探った。
しかし、第二の人生なのだから好きなようにやれるだろうと比較的気楽に考えていたのだが、検討を進めれば進めるほど、決して容易なことではないと思うようになった。
本格的な木工機械は1台、200キロ、300キロの重量があり、その据え付けスペースも半端なものではない。電力も家庭用では駄目で別に引き込まなければならないし、切り屑「切り子」など廃棄物処理のことも考えなくてはならない。家具製作を事業化しようとすると、本格的な工場が必要になるという結論になってしまった。
さらに「商品としてお金を貰うためには10年は必要である」とその道の先達にいわれた。
椅子や机、箱物をいくつか製作したが、実際にかかった手間(工数)と材料費、それと完成品の価値(価格)とを比べると、その乖離はあまりにも大きすぎた。椅子一つの製作に1週間や10日も使うようでは、商売にならないと思った。そして先達の言葉の重みを噛みしめた。
この年齢で、家具製作で「創業」するのは難しいということだった。「創業」が無理なら家具職人として生きようとも思い、その就職試験も受けた。しかし、就職は若い人でも難しい状況だった。結局、家具製作の仕事でもって、生計を立てようという道は断念することにした。
幸い、ある第三セクターの技術コンサルタントのような職に就くことができた。それでも、その後1年間ほどは、週末なると件の工場の木工機械を使わせてもらって家具製作を続けた。いくつか納得の行く作品も製作できた。
ところが、長引く不況の中、工場は閉鎖され、機械も場所も借りられなくなってしまった。こうして私の蜜月は終わった。
募る作業スペース確保の願望
しかし、モノ作りに対する憧れの気持ちは払拭できなかった。本格的な工場は無理だが、子供の玩具を作ったり、家具を組み立てたりするぐらいのスペースは欲しいという思いは、その後も消えなかった。
広島県では東部地域だけでなく西部地域にも家具産業が発達している。廿日市市には木材港もあって、「ウッドワン」などの企業が立地しており、木材業が盛んである。さらに広島市周辺にも手作り家具を商売にしている企業がいくつかある。
そのため木工機械の賃貸使用サービスを提供している企業もある。そこに材料を持ち込み、自分で機械を操作して必要な加工を行い、それを持ち帰って、それ以外の作業や組立や塗装は自分のところでやるということが、自分のスペースを持っていれば可能になる。
また周囲の山には間伐材や風倒木が溢れており、それを手に入れることができるのだが、ともかく、それらを保管して置くスペースがなければ、実際に利用するのは難しい。場所さえあれば、間伐材や風倒木を使っていろいろなことが出来る。
自然素材を使った細工物(竹や葛など)や織物や染物もやってみたいと思っている。昔、機を織っていたこともあって、まだその機が残っている。自由学園が販売していた織り機である。
染色道具や綿糸などの材料が残っており、その「落とし前」をつけたいという気持ちもある。そして、それをやろうとすると、やはり場所が必要になってくる。
それで作業小屋―格好よく言えばアトリエ・工房―を持ちたいという夢がずっと尾を引いた。そして、ついに3年前に購入した土地に、これまで製作過程を紹介してきたが、小屋の建築を決めたのである。
3月に開始し、枠組み・壁・床・屋根などの工事を順次完成した後、7月から9月の約3ヶ月間は、もっぱら建具の製作に専念してしまった。しかし、それでも少しも焦る気持ちにはならなかった。
知り合いになった近くで山仕事をしている人の口癖の「(1人でやる仕事は)そういっぺんにはできやしません」という気持ちが分かってきたことと、屋根のある部屋の床の上で作業しているもので、すでに工房生活を先取りして開始しているような気分にもなったからだ。
初めはクルーザーの置き場所
ところで話は横道に入るが、ここに至るまでの流れを正確に話すと、3年半前に土地を求めた時には、実は別の使い方を考えていた。
私はヨットが好きで、80年代末の3年間のアメリカ暮らしの後、夢に浮かされるようにクルーザーを買ってしまった。アメリカでは、マネージャークラスになると、休日には湖の側の家に移り住み、家族でボートやセーリングを楽しんだりするのがごく普通だった。
それが眩しいくらい羨ましかった。そして帰国後、半年間に四級の海技免状を取得してクルーザーを買ってしまった。わが家の「バブル」だった。
佐伯に土地を購入した背景には、まず、このクルーザーの陸置場所が欲しいという気持ちがあった。子供たちが家を出て、利用する機会が次第に減り、手放そうという気持ちが強くなっていたのだが、「スクラップ」にするには忍びなかった。
フランスのデュフォーというヨットビルダーの設計で、特に室内のセンスが良かった。
全長は27フィートであまり大きくはないが、完全な水密で、5人分のバース(ベッド)に加えて、キッチン、トイレ、発電機があり、氷式冷蔵庫も付いていた。上手くセットすれば、そのまま山荘として使うことができると思った。
しかし、海の上では小さいが、陸に上げると大きい。トラックで運ぼうとしたら、幅も高さも道路輸送の制約にぶつかり、特殊車両を使わなければ運べないということが分かった。さらに
クルーザーを陸置しようとすると、専用の船台が必要になるし、そこでキャビン(船室)を使うためには、給排水や電気のことも考えなければならない。
そんなことを、あれこれ検討しているうちに、肝心のクルーザーのエンジンが動かなくなった。モタモタしていると、ただのお荷物になる不安が出てきた。
そこに引きとっても良いという人が現れた。それで迷わずに譲ってしまった。2003年夏のことである。
ヨットは、その後、新しいユーザーの下で使われていたが、2004年9月の広島市を襲った18号台風の後は、姿を見ることができなくなくなってしまった。係留中の多くの船が岸壁に打ち付けられ、破壊したという。多分、この記録的な強風を喰らって、その犠牲になって壊れてしまったのだろう。
しかし、正確なことは分からず、そのモヤモヤを断ち切りたいということもあって、小屋を自分で作る決心をしたというのが真実である。
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それでも、今でもマホガニーをふんだんに使ったキャビンを思い浮かべて、惜しかったという気持ちに襲われることがある。
でも、無理して山に運んでも、あのクルーザーの姿は、結局は、周囲の環境にはマッチせず、浮き上がってしまったように思う。あのクルーザーを拠点にしていると、佐伯での生活は全く異なったものになってしまうように思う。
こうしたことを含め、あれこれと総合的に考えると、クルーザーを手放して、ここ佐伯に運び込まなかったことは正解だったと思っている。
それでも実を言うと未練というか忘れることのできないことが多い。あのクルーザーの無駄のない空間の利用方法には感服した。ちょっとしたところに設けられている物入れとか、ベッドやテーブルの収め方などには小憎らしさを覚えた。また足踏み式の水ポンプなどの修理部品が20年前、30年前のものであっても揃っていたことには脱帽した。
そして、このクルーザーを通して学んだこと、例えば四十リットルの水タンクで二日三日と過ごすといったシンプルライフの極致を、これからの「山での生活」に生かそうと思っている。それが、あのクルーザーに対する私なりの供養でもあると思っている。
つまるところ、大昔の海人の生き方も山人の生き方も、表面的な形は違うが、その基本の全人的なあり方は同じであると思うようになっている。それが、我が家の「バブル」――持ったものの結局は手放すことになったクルーザー、ヨットから学んだことの一つの精神である。この精神は引き継ぎたいと思う。
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去る2005年6月、日本のヨット・ファンには大きなニュースが相次いで飛び込んだ。6月6日、斎藤実さんという71歳のヨットマンが単独無寄航世界一周を終えて日本に戻った。最高齢の世界記録である。翌日には、マーメイド号の堀江さん(66歳)が、同じく単独無寄航世界一周を終えて帰国した。
小屋を1人で製作するということは、単独のヨット航海に似ている。始めたら、途中で「嫌になったから止めた」、「代わって欲しい」などとか言うことが出来ない。言うのは勝手であって、引き受けてくれる人などいないだろう。出航した以上は、ともかく自力で予定の周航を終えて戻らなければならない。
ちなみに斎藤さんは、180で単独無寄航世界一周という計画を立てていたのが、実際には234日も掛かってしまったという。
私も、小屋を1人で製作するという計画を半年で完遂しようと思っていた。3月にスタートし、8月には収束させたいと思っていた。ところが、実際には、9月末でも終わらなかった。すべての建具加工を完了し、最後のガラス板を窓に嵌め込んだのは十月初めだった。
10月10日、すっかり日が短くなり、寒さを覚える時期になって、まだ手を入れる部分は残ってはいるが、ともかく一応の完成をみた。翌週、子供たちも招き、お祝いをした。一区切りがついたと安堵した。数えると、スタートしてから227日目のことだった。