時空の漂白 22 PDF (2006年1月27日)

野生は生きている            谷 弘一   

 

20年も前になる。ケニアのナイロビに2週間あまり逗留し、セレンゲティー国立公園(Serengeti National Park)にも一泊するという豪勢な旅をしたことがある。

この自然公園は、生きている自然そのもので、野性が凝縮していた。そこで、私は、生きた自然にがっぽり触れるという、初めての体験をした。豊かな野生の中で、多様な生態を眺めているうちに、「生きている」という命題があることに気が付いた。

野生の世界は、「生きる」という森羅万象しんらばんしょうをひっくるめた難解な命題ではなくて、「生きている」という平易な命題を垣間見かいまみせてくれたといってよい。

ケニアの首都ナイロビは、南緯3度のほぼ赤道直下にある。しかし、標高1500メータ位の高原にあるので気候は温暖で、同じアフリカでも西の森林地帯とは違って快適な土地柄だった。

ナイロビの空港から小型機に乗って、セレンゲティー国立公園に向かった。セレンゲティー国立公園は、アフリカのサバンナの典型として、最近、よくテレビにも登場する。

オフ・シーズンなので乗客は私1人。小型機が機首を南の隣国タンザニアに向けて水平飛行に移ると、真正面に雪をかぶった一際高い山並みが現れた。眼下には山裾に広大な平原が広がっていている。

キリマンジャロだ。山並みが目に入った瞬間、私の口をついて山の名前が飛び出した。中学生の頃だった。鎌倉に一軒あった輸入食料店で、初めてすすめられたコーヒー豆が酸味の利いたキリマンジェロだった。母親に連れられて見た洋画に、ヘミングウエー原作の「キリマンジェロの雪」があった。コーヒーと映画が、それが私のキリマンジェロの原風景だった。

私の発音が正しかったんだろう、イギリス人らしい小柄なパイロットが、キリマンジェロの前面を3回旋回飛行をしてくれた。後で調べたらキリマンジェロは、ケニアとの国境に近いタンザニアの山だった。もし、この山がケニアにあったら、若いパイロットは山の上空を旋回飛行してくれたろうと、私は今でも確信している。

ヌーの大群

眼下の大きな起伏の広大な平原はヌーの大群が埋め尽くしている。ヌーの大群は北に向かって動いている。折り良く、大移動の季節に来合わせたようだ。

ヌーは、アメリカの野牛バッハローと同種のウシ科の哺乳類である。機体が高度を下げると、頭が大きくて尻の小さいヌー独特の姿が手に取るように見て取れる。何かに追われでもいるように、群れ全体が疾走している。エンジンを止めてくれたら、地響きも聞こえただろう。

サバンナ

ナイロビを離陸してから約30分、小型機は、草原に吸い込まれるようにスウッと着陸した。草原の中からの忽然こつぜんと1台のランドクルーザーが現れた。背丈せたけをはるかに越す草原の中では、とても頼りないほど小さく見えた。

ランドクルーザーは、私をピックアップすると草原の中を走り出した。しばらく行くと、生い茂っていた草原が途切れて、土と石が散らばった、むき出しの大地に出た。これがサバンナというものなのか。全身に感動が静かに伝わっていく。茶色の土にしがみつくように、見渡す限り、草と低い潅木かんぼくが雑然と点在する光景が続く。視野をさえぎるもののない平原の彼方、あちらこちらに、ゆっくり動いているモノがある。目をらして見ると、動物の群れらしい。象、キリン、鹿、縞馬しまうま。ヌーも見える。

東西南北の遠景も、サバンナである。今、走り抜けてきた緑の濃い草原も見える。乾燥したサバンナだけではないようだ。サバンナには、実際には「茶色のサバンナ」と「緑のサバンナ」とがあるのだと合点した。

雨期に近付くと、「茶色のサバンナ」に雨の恵みがやってきて、たぶん、「緑のサバンナ」に変身していくのだろう。その「緑のサバンナ」に向かって、ヌーなどの草食動物が移動し、草食動物を食物とする肉食動物も移動する。水と草が野生の宝庫を現出させてくれている。

「ジャンボ」のお出迎え

セレンゲティー国立公園のキャンプに到着した。大小の岩がごろごろしている。ここは「茶色のサバンナ」だ。キャンプの入り口近くでは、人間のことなど意に介せずに猿や鹿が勝手に動き回っている。

蜥蜴とかげが俊敏に岩陰や地面をいずり回っている。日本で見るのとはまったく違う、極彩色でずっと大型のヤツである。最初に目にした時は、さすがギョッとした。

こげ茶色というか漆黒しっこくに近いケニアの人が、真っ白な歯を見せながら全身で笑っている。

「ジャンボの大声に迎えられた。朝でも昼でも夜でも、挨拶はすべて「ジャンボ」で済む。しかも、ここの「ジャンボ」は、ケニアの首都ナイロビで耳にした「ジャンボ」よりずっと明るく、野太い響きである。

コテージの入り口で

広い食堂がキャンプの入口にある。その横を抜けると、キャンプの中庭に出る。中庭は直径80メータくらいの円形の敷地で、その中庭を囲んで木造平屋のコテージが50棟くらい円陣を作って並んでいた。

私は、その中の一つ、中庭の入口の対角線上にあるコテージをあてがわれた。それが泊まるところだった。その間口一間くらいの入口のベランダに足をかけようとしたら、入口の柱のところに先客がいた。

全長30センチくらいの極彩色の全体が緑色の蛇である。そいつが柱にとぐろを巻いていた。私は思わず半歩後ずさりすると同時に、片手の小さなバッグを勢いよく頭上に振りかぶった。私の経験では、こちらが動くか音を出して威嚇いかくすれば逃げるものと思っていたからだ。

ところが、こいつは逆に鎌首かまくびをぐっともたげ、こちらを威嚇してきた。これがアフリカの「野生」なのだと感動させられたものの、とにかく怖い。蛇から目を離せない。

銭形平次と丸太ん棒

ポケットを探って小銭がかなり溜まっていたのを確認し、蛇めがけ、その硬貨を次から次ぎに投げつけた。アフリカのサバンナに来て、銭形平次を思い出したのである。

10個以上投げつけたところ、やっと命中したらしい。緑色の蛇は消え失せた。

目に止まらない早業で消え失せたので、蛇の行き先が分からない。コテージの中に逃げ込んだかも知れないと思うと、私は中に入れなくなってしまった。

荷物を置いたまま、中庭を突っ切ってレセプションに走った。そこに居た黒人にことの顛末てんまつを告げた。すると、すわ出たかとばかりに、長さ2メータは優にある太い丸太を担いで、私のコテージに走った。

蛇は既に失せたということも、小さな蛇だということも伝わらなかったようだ。彼は、「蛇はいなくなった。もう大丈夫だ」と戻ってきて言った。

張り板一枚 外はサバンナ

「蛇がいなくなったから、困っているんだ。コテージの中に移動していたらどうするんだ」と訴えたかったのだが、彼はもういなかった。また1人になった私は、中庭を渡って恐る恐るコテージに入った。

板張りの10畳くらいの部屋に、木の箪笥たんすと机とベッドが置かれている。板張りの目隠しの窓を少し開けてみた。外はサバンナそのものだった。急いで窓も板戸もきっちり閉めて部屋を出た。ここに居たらいったい何が入ってくるか分からない不安に駆られ、中庭に向かった。

リビングストンの末裔

そこで隣のコテージに泊まっているらしい、柔和な笑顔の伯父さんに声を掛けられた。

アフリカ探検の衣装――今ではあまり耳にしなくなってしまったサファリ・ルックのオリジナルだろう―――そのまま、リビングストンを小柄にしたようながっちりした体格の伯父さんだった。

私はホッとした。救いを求める気持ちも働いて、私は咄嗟とっさに緑の蛇の話をした。しかし、伯父さん乗ってこないで、勝手に自分の話を始めた。

「仕事を引退してアフリカ旅行にやってきたんだ」とゆっくり切り出した。私の頭の中で、伯父さんの探検衣装と、消え失せた緑色の蛇が重なって、「アフリカの自然探索の旅行をするのに、ここはぴったりの場所だ」と言うような合槌あいづちを打った。

セレンゲティーは休養地

その伯父さんは、私の早合点をたしめるかのように話を続ける。「1人でアフリカ・ツアーに加わって、ウガンダ、タンザニアとあちらこちらを回ってきて、最後にイギリスに帰国する途中でここに寄ったのだ」と言いながら、私の知らない地名をたくさん上げ、「アフリカの過酷な自然のど真ん中、野生の宝庫を、もう1ヶ月以上も旅行してきた」と誇らしげに言う。

叔父さんは、私を相手に自分の野生探訪の旅の総括をしたくなったのかも知れない。私は、この伯父さんの話を、過酷だった旅の終わりに、ここは骨休めに寄った場所なんだから、蛇なんか心配することなどない―――そう説明をしてくれているのだと勝手に了解した。

さすがにイギリス人。現役を卒業すると、まずアフリカの自然探索旅行に出かけ、先人の跡を訪ね、心機一転、英気を養うものなんだと、妙に妙に感心してしまった。ツェツェ蠅や猛獣の恐怖と戦いながらテントで野営生活を続ける。そんな昔ながらの「アフリカ探検」を、イギリス人の叔父さんは体験してきたのだ。

それが、多分、今、残された野生の極地体験なのだろう。それに比べれば、ケニアの国立公園の野生は大人しいものなんだということが分かってきた。それでも、私には十分だと思った。決してがっかりはしなかった。

サファリ・ツアー

翌朝、サファリ・ツアーに参加した。「safari」とはスワヒリ語で「旅」という意味で、それからアフリカで案内人や荷物運搬人を従えて猛獣狩りに奥地に入ることを指すようになったという。

しかし、この国立公園でのサファリ・ツアーはまったく違う。中型のランドクルーザーの、鉄製のおりでがっちりガードされた荷台に乗り込んで見学に行くのである。荷台には3人がけベンチが3列あり、1列毎にドアが付いている。

私は、これを「サファリ・クルーザー」と呼ぶことにした。いよいよ出発である。 

全天候型の景色

相変わらず、猿や鹿が忙しく動き回っている。クルーザーは、起伏の多い「茶色のサバンナ」をガタガタと進んでいく。サバンナは、少し高みに来ると、360度を一展望する素晴らしい見晴らしを持っている。

前方の左右の空には太陽が燦燦さんさんと降り注いでいる。後方の右半分の空には灰色の雨雲がめ、その右横の天空には鮮やかな虹が浮かび上がっている。

経験したことない、限りない広がりの大地と、その大地の天空をおおい尽くす全天候型の光景に圧倒され、私は、ただただ感動していた。

ハイエナの朝食

なだらかな起伏の「茶色のサバンナ」には、たくさんのキリンや縞馬が現れ、大小の鹿が走り回っていた。アティロープ(Antelope)という小型のカモシカの仲間もいた。

昔、アフリカ土産に、ライオンの牙と一緒にアンティロープの皮を貰ったので、記憶があった。その生きているヤツが走り回っていた。

さらに「サファリ・クルーザー」で進むと「緑色のサバンナ」に入っていった。丈の高い草がびっしりと生い茂る草原である。象がいる、ヌーの群れもいる。遠くにも、キリンの長い首と象の姿が丈の高い草に遮られることなく、いくらでも見える。

窪地では、ハイエナ(hyena)が捕えたばかりの動物の肉に群がっている。汚らしくて貧相な顔かたちで、ライオンなどが食べ残した死肉ばかりを食べていると思っていたもので、ハイエナも新鮮で豪勢な朝食を摂るもんだと感心する。

見えないジャッカル

私たちの「サファリ・クルーザーは、サバンナの中をどんどん進んで行く。ガイドが、「今、ジャッカルが走って行った」と叫んだ。だが、私の目にはまったく映らない。

私はジャッカルと聞いて、以前にパリで見かけた、野性味溢れる男物のコートの毛皮が浮かんできた。フォーサイスの小説よりは、毛皮が浮かんできたのだから、一歩だけ実物に近かったかも知れない。

しかし、毛皮止まりだから、野生動物に疎いことに変わりはない。ガイドがいろいろな動物の名前を叫ぶのだが、理解することができない。前もって動物図鑑を眺めることすらなかった報いであろう。ガイドの発する馴染みのない動物の名前は、ただ私の耳を素通りするだけだった。

ジャッカルというのも、もしかすると私の空耳だったかもしれない。

欠落した記憶と鮮明な記憶

間違いなく、たくさんの野生動物の姿を目にし、その名前も聞いたはずなのだが、全く覚えていない。馴染みがまったくない上に、予備知識がないものについては、人間の記憶中枢というものはあまり反応しないらしい。

ガイドが叫んだ野生動物の個々の名前はいくら頑張っても浮かんでこないし、その個々の姿も私の網膜に焼き付いてはいない。

それでも生き生きと再現できる、景色と動植物の記憶もある。沈んでいく真っ赤な太陽を背景に、じっとしている大型の鳥の群れ光景が、今でもくっきりと浮き上がってくる。

鳥たちは、緑のまばらな太い木の枝にしっかりとつかまっていた。そして、翌日の早朝にも、大型の鳥の群が、昨日とまったく同じ姿勢で同じ木の枝につかまっているのを見た。鳥は、しっかりと足で枝をつかんで立ったまま寝るんだなと、妙に合点したことを覚えている。

野生のど真ん中で

ともかく数え切れない大小の野生動物が小さな群れを作りながら、広大な「茶色のサバンナ」と「緑色のサバンナ」に点在し、埋め尽くしていた。人間といえば、「サファリ・クルーザー」の前の座席を占めた運転手とガイド、それに私と一緒に乗り合わせた隣の席の外人の4人だけだった。

「サファリ・クルーザー」の中で、隣席の外人と時たま話を交わしていた。それでも、別れ際に彼が「OK」を「オーカイ」と言ったことで、オーストラリア人だったのだと悟った。ずっと、2人とも意味など確かめもしないで、喋り合っているだけで違和感も覚えなかった。「また、会いましょう」なんて、気にきいた言葉も交わさなかった。

人間が「サファリ・クルーザー」に保護されながら、野生の群れの中を走っている。全身で圧倒的な野生を感じている。溢れる野生の中で、私はカタコト英語、彼はオーストラリア英語を使い続け、意味まで十分に交換できないままでも満足していたようだ。

私たちの祖先たちは、野生と隣り合わせで生きていたに違いない。祖先たちの交流も、意味を交換する以前に、音声を交換するだけで満たされる、きんとそんな生活だったのかも知れないと思った。

ライオンが待っていた

私の連想の糸はしばし異界を彷徨さまよい、話は横道に入ってしまった。セレンゲティー国立公園の「サファリ・ツアー」に戻ろう。出発してから1時間半ぐらい「サファリ・クルーザー」が走り続け、「野生」に慣れた気持ちになってきた頃、ライオンの群れに遭遇した。

ライオンに会うなんて、私には想定外だった。雄1頭に雌3頭、それに子供が3頭の群れである。身を隠すものがない「茶色のサバンナ」に、ごろりと寝転んでいた。

ちょっと離れた所で、猿や鹿などはちょこまか動き、キリンや縞馬やヌーなどが思い思いに草や木の枝を食んでいる。

それらに比べれば動きは緩慢だが、象も、盛んに鼻を使って草を口に運んでいる。そして、目の前のライオンと言えば、そんな周囲には頓着する様子もなく、悠々ゆうゆうと、だれはばかることなく寝転んでいる。

血なまぐささは一切感じられない平和な光景である。たぶん、ライオンの群れは、今しがた盛大な食事をしたに違いない。気が付けば、どこから集まったのか、近くには「サファリ・クルーザー」が3台も停まっていた。それぞれがライオンの群れから少なくとも10メーターくらい離れた場所に停車していた。

もちろん、車外に出ている人などはいない。「サファリ・クルーザー」からは出ない。誰も、怖いというよりも、畏敬の念を露わにライオンの群を見守っている。ライオンも、エンジンを止めないで近くにいる「サファリ・クルーザー」にまったく無関心な様子であった。

ライオンの雌雄

その時、突然、立派なたてがみの雄ライオンが、その大きなかしらをもたげ、うなり声を上げた。私が乗っている「サファリ・クルーザー」に緊張が走った。

と、隣に寝そべっていた雌ライオンが頭をもたげ、雄ライオンの首根っこを押さえつけた。雄ライオンはされるがままにかしらを下ろし、眼を閉じて寝てしまった。

「貴方、放っておきなさい」と雄ライオンをたしなめたに違いない。落ち着きのない雄ライオンと、腹の座った雌ライオンの日常のワン・ショットなのだろう。私は、無条件に雄ライオンに近親感を覚えた。

雌はお産、育児、捕食を一手に引き受け、雄ライオンは母系の群れを支配することに専念しているのだそうだ。ライオンの雌雄の生き様の差を我が身に引き寄せ、男はライオンほどの生意地もないのかもしれないと、野生の王者の近くに居て、分けも分からず笑いがこみ上げてきたのを覚えている。

鳥は立ったまま寝てる

私たちの「サファリ・クルーザー」は、ライオンの群から離れて動き出した。ガイドは盛んに「ライオンに会えてラッキーだ」とはやし立てる。私は、ライオンに遭遇したことで、私の野生観察は完結した気になって、ガイドの方に顔を向けて、「良かった」とガイドに言った。

ガイドは、待ってましたとばかりに、薀蓄うんちくを傾け始めた。私が感動した鳥の寝方についても、鳥は木の枝に止まったまま寝るもんだと教えてくれた。「緑色のサバンナ」にたむろして、盛んに草をんでいる象についても話してくれた。

象は寝もやらず草をんでいる

「象は、お産をする時以外はずっと草をみ続けているんだ」と一段と得意げにガイドは説明する。「睡眠も取らずに食べ続けるのか」と私が尋ねると「そうだ」と言う。

猿も鹿も縞馬もいつもえさをあさっているように見えるが、食事に明け暮れている訳ではない。実は、こうした小型の草食動物にはかなり自由時間がある。肉食のライオンだって、たっぷり食事をした後は、ゆったり寝そべっている。

ところが、象は寝る暇も惜しんで、草を食べ続けているのだとガイドは言う。そう言えば、同じように大型の草食動物のキリンも、いつも首を動かし伸ばし、木の枝や葉をんでいた。象はキリンより大きい草食動物である。言われれば、あの巨体では、草をいくら食べても腹がいっぱいにはならないだろうと思う。

象は、年がら年中、空腹を抱えて、寝もやらず食べ続けている。とすれば、象は生きるために食べるのではなく、食べるために生きていることになる。

象の食事時間

確かに、ガイドの説明には頷けるところもあると思いながら、私は頭の中で計算をしてみた。アフリカ象の体重は平均して約6トンくらいだそうだ。中型の鹿の体重が約50キロだとすれば、象の体重は鹿の約120倍ということになる。すると、消化効率が同じだとすると、象は鹿の120倍の草や葉を食べなければならない計算になる。

象は1回に鼻を動かして鹿の10倍の草を摂取するとしても、食事に鹿の12倍の時間が必要なことになる。象が1回で鹿の20倍の量を食べるとしても、象は食事に鹿の6倍の時間が必要なことになる。

食べて食べて子孫を残す

こう考えてみると、鹿が食事に一日何時間をかけるのかは分からないが、素人計算でも象は一日中食べている可能性が高いことが分かる。象も睡眠は取るだろうが、起きている間はずっと食べているのだろう。起きている間中、腹が減って草を食べ続けている。空腹が満たされると、眠りに就く。空腹を感じると再び目覚め、ひたすら食事に励む―――そんな象の日常の姿が浮かんでくる。

鹿や猿は、46時中食事をしている訳ではない。少なくとも肉食獣に狙われ、七転八倒して逃げ回るくらいの食事をしない時間がある。

それに対して、象は空きっ腹を抱えて草を食べ続け、実に平和な顔で生きている。象の間で緊張が走るのは子孫を残す雄同士の争いの時ぐらいだろう。とすると、食べるために生き、そして子孫を残すという単純明快な象の一生の生態が浮かび上がってくる。

お腹がへって食べ続ける

象にとって、「生きている」ということは「食べ続ける」ことである。象は、食欲にられて、長い鼻で草を口に運んで食べ続けている。草がある限り四六時中お腹を満たし続けている。

私は、フッと、いったい象は、こうした宿命をどのように受けとめているのだろうかと思った。苦痛なのかもしれないとも思ったが、私は、象が絶えず食事を楽しんでいたんだと、考え直してみた。

人間だって、食欲は最も優先度の高い本能である。象は肉食獣や小型の草食獣のように、すぐに満腹になって寝転んだり、走り回ったりはしない。ただ、ひたすら空腹を満たし続ける。きっと旺盛な食欲を満たし続ける充実した一生を送っているに違いないと思い直した。

象は食べ続けていても、木や草を食べ続けているんだから、高血糖症に悩まされたり、まして合併症で心臓病になったり、脳卒中になったりすることは皆無なんだろう。

草食動物という法を越えることもなく、象は、あの平和な巨体で絶えず食事を楽しんでいたんだろう。象の一生は充実感に溢れたものに違いないと私は一人で合点した。

象への手向け

そして象は生涯を閉じる。象の臨終の生態についての知識はないが、私なりに象に相応ふさわしい死を手向たむけたいと思う。

象は、ある日、突然、寝に就いて覚醒することもなく死ぬ。この覚醒することのない睡眠が、人間の場合もそうだと思うが、最も穏やかで象に相応ふさわしい死に方だろう。

そうでなければ、痴呆症ちほうしょうに陥り、群れを離れ、食べることを忘れ、衰弱死するのだと思う。もし、死の間際に象の脳裏を過ぎる記憶があったとすれば、草を食べ続けてきた満ち足りた思いだろう。

                                       (壺宙計画)