時空の漂白 23 PDF (2006年2月6日)
都心の移り住み 東京の原風景 前田勲男
この20年あまり、オフィスの移転と絡め、自分の住みかも再開発などで騒がしくなるのを避けながら東京の中心部を移り住んでいる。
いま住んでいるのは防衛庁に近い、牛込台地の中でも海抜約40メートルの高台に旧都市基盤公団(現在の都市再生機構)によって建てられた41階建ての高層賃貸マンションである。
ちなみに1925年、新橋や虎ノ門から徒歩で20分もない、徳川将軍家の菩提寺、港区芝の増上寺にも近い愛宕山の頂上に、電波が遠くに届く所ということで、日本初のラジオ放送局が建設されたが、その頂上は海抜約26メートルである。
この頂上までの階段は、曲垣平九郎が馬で登って降りたということで有名である。本当に急勾配で、降りる時などは手すりを使わないと怖い。この階段を馬に乗って上り下りしたと言われても、信じられない。
さらに付け加えれば、この愛宕山の頂上で、勝海舟と西郷隆盛は会談し、そこから勝海舟は、江戸八百八町を眺望させ、これを火の海にして多くの苦しめることになることの無意味さを説き、江戸城の無血開城というアイデアを西郷隆盛に納得させたという。
そんな見晴らしの良い愛宕山よりも海抜が2倍ちかい高台の地域に長らく住んでいる。今は最初の写真の手前中央に聳え立つ40階建ての高層マンション28階にいる。
このマンションに住む前は、通り一つ隔てた所にある、6階建ての瀟洒な民間賃貸マンションの2階に住んでいた。東南の角部屋で日当たりも良く、静かで、なかなか快適だった。定期的に通わなければならない東京女子医大病院に歩いて3分ほどで行けることもあって、そこを移ることなど考えていなかった。
まして近くで建設が始まった高層マンションに移り住むことなどまったく考えなかった。
かつてNHKのテレビ番組「プロジェクトX」で採り上げられた日本最初の高層ビル、霞ヶ関ビルの建築に関わったエンジニアの人たちから苦労話を直接に聞く機会があった。あまりにも建設技術は後れている驚ろかされた。高層ビルで仕事するのは嫌だ、ましてそこに住むのは絶対に嫌だと思った。
しかし、それから30年あまり経っている。どのくらい建設技術は進歩したのだろうかという好奇心がうずいた。間近で高層マンションの建設の様子を基礎工事からつぶさに観察した。そして高層ビルの建設技術も、コンピュータや半導体に負けず劣らず大幅に変わっていることを実感した。いま世間を騒がしている低中層ビルと高層ビルとでは建設技術というか建設工法がまったく違ったということが分かった。
基礎工事が終わってからの変化は驚くほど速かった。数基のクレーンで鉄骨がどんどん吊り上げられ、日に日に高くなる。床や外壁のコンクリート・パネルのユニットなどが次々と吊り上げられ、組み付けられていく。あっと言う間に高層ビルが目の前に出現した。
中は、どんな具合になっているのか興味をそそられた。入居募集が始まったので、気分転換で散歩に出た帰りに、ぶらりと覗きに行った。
構造とかインフラなどについて執拗に聞いたら、公団の人たちは答えられず、別室に待機していたエンジニアが出てきて説明した。躯体構造も見せてくれた。僕が高層ビルで問題になると思っていた事柄について、きちんとした説明があった。
いくつか部屋を見た。無駄のない造りの上に、遮るものがない窓から風景は心地良いし、ベランダからの眺望は素晴らしかった。
高層マンションも悪くはないと思い直し、入居について係の人に聞いた。すでにたくさんの応募があり、抽選になる。応募は部屋タイプ別に行う。部屋の向きや階数も抽選で指定順位を定め、それに従って決める。現在、倍率は平均で5~6倍ぐらいになっているなどと聞かされた。それも入居して下さいというより入居させてやるという高圧的な雰囲気で説明された。
不愉快なのと面倒なのとで、止めようと思った。ところが僕が隣のマンションの住人だと分かったら係員の態度が豹変し、親切になった。抽選に際してはいろいろ枠がある。地元枠というがある。地元枠ならまだ2倍ぐらいだと言う。気を取り直して申し込み、抽選会に行った。
最終倍率は3倍ぐらいに上がっていたけれど、抽選に当たった。それも優先順位2位であった。部屋の向きも階数も自分の好きなところを選ぶことができた。新宿の高層ビル群と富士山の眺望が売り物の部屋にするかどうかいろいろ思案したけれど、どうしても西日の厳しさが気掛かりで嫌だったので、東京湾側の東側の部屋を選んだ。
その部屋のベランダからは、左手から順に筑波山、若い頃に20年あまり移り住んだ千葉県の幕張メッセ、そして三浦半島さえも遠景に見える。
中近景には早稲田の森から後楽園ドーム、法政大学、上智大学、お台場、東京タワー、赤坂、迎賓館、東宮御所、そしていま話題の「六本木ヒルズ」などが一望できる。
暖かい日射しを浴びながら、こんな眺望を楽しんでいたら、この20年あまり、何度もオフィスも住まいも替えたけれど、基本的には、広い東京の中でも、自分自身の本籍のある赤坂、両親たちが眠る菩提寺、高輪の正覚寺も、ここから一望できる範囲の港区内だったことに気付いた。
地図にオフィス(赤印)と住まい(黒印)の推移を書き込んで眺めたら、一目瞭然だった。例外は、現在住んでいる所と次に住もうとしている高層マンションの場所だった。
ここは港区ではなく新宿区である。そして改めて僕は住まいについては、歴史的、それも江戸幕府の成立以来の故事来歴の積み重ねではなく、東京という地域の原型が形成され、人が住み始めた「洪積世」から現在の「沖積世」に至る自然科学的な条件に突き動かされてきていることを確認した。
ちょうど「アースダイバー」(中沢新一 講談社)を読み終わったあとだったこともあって、東京の「洪積世」の土地―――「洪積層」の台地を選んでは動いていると思った。
中沢新一氏は哲学者であって、自然科学者ではないが、そのコンセプトを友人に伝えて、次図のような部)の地図を作らせた。東京の地表が「洪積世」のもの―――「洪積層」(図で黄色の部分)と、氷河の後退に伴う海水面の上昇によって海水が「洪積層」をえぐって侵入し、その上に新たに形成された「沖積層」(図で青色の部分)とをコンピュータを使って色分けしたものである。それを中沢氏は人の歴史の観点から「縄文地図」と呼んでいる。
「洪積層」は堅い地盤の台地で、「沖積層」は、その上に砂や泥が数メートルから数十メートルも堆積している低地である。江戸時代には、まだ海だったり、池や沼だったり、川が流れていたところが多い。しかし、人が埋め立てたり、高層ビルを作ったりしたため、その東京の「基層」というか、地質学的に既定される文字通りの「原風景」がいまでは分かり難くなっている。これは自然科学的な事実である。
社会科学的には、この「原風景」を身近に感じて生活する人によって1000年あまりの歴史が積み重ねられてきていることが事実である。
中沢新一氏は、この2つの事実に光をあて、同氏が作製させた「縄文地図」を持って、東京を歩き回ったという。
「東京はけっして均質な空間として、できあがってなどはいない。それはじつに複雑な多様体の構造をしているが、その多様体が奇妙なねじれを見せたり、異様なほどの密度の高さをしめしている地点は、不思議なことに判で押したように、縄文地図においてもではなく、洪積層と沖積層がせめぎあいを見せる、特異な場所であることがわかる。そこから、東京という都市が轟かせている『大地の歌』が聞こえてくる。ぼくはその『歌』を、文章に変換するだけでいい」と書いている。
僕は、自分自身も中沢新一氏の言う「大地の歌」を東京に生まれ育ち生活してきた中で本能的に感じていたに違いないと思った。それが「都心の移り住み」の根底にあったに違いないと思った。
大学では航空工学・宇宙工学を専攻したが、興味があってクラブでもゼミでも地学・地質学をやり、地層のフィールド調査などにも没頭した。たぶん、そんな下地が影響しているからだと思う。