時空の漂白 27 PDF (2007年11月30日)
ドレスデン:その思い 吉田嘉太郎
ドレスデンと聞くと、ついつい肩入れしてしまう。昨年春、雪解けと大雨のためドナウ川とエルベ川の両大河が氾濫し、東ヨーロッパの主要都市が大きな被害を被った。そのニュースを目にした時も直ちにドレスデンを思い起こした。ドナウ川の氾濫でハンガリーの首都ブタペストが水浸しになったなどと同時に、エルベ川の氾濫でドレスデンも浸水していると報じられていた。
2002年、初めてドレスデンを訪れた時も未曾有の大雨でエルベ川沿いにあるドレスデンは水没し、そのために私たち一行の旅行も大混乱に陥ったことを思い出した。
チェコとの国境に近い、旧東ドイツの都市、ドレスデンはエルベ川沿いの平地にある。かつてザクセン公国・ザクセン王国の首都で、エルベ川のフィレンツェと賞されるほど繁栄を謳歌した美しい都市であった。下流25キロほど離れたところには陶磁器の町として有名なマインツがある。
ドレスデンを拠点とする主の家系の変遷は入り乱れ、その勢力範囲も複雑に変化しているが、そこにはローマ法王から戴冠を受け、神聖ローマ帝国の初代皇帝に就任したオットー大帝(912~973年)から始まってポーロンド王にもなったアウグスト二世―――アウグスト豪胆王・強健王(1670~1733年)など歴史上も著名な人物が名前を連ねている。
なかでもアウグスト豪胆王の時代にはバッロク様式の華麗な建物が建てられ、数多くの美術品が収集された。「緑の丸天井」といわれる展示場には、各国から集めた財宝が収蔵されていたという。
第二次世界大戦中、これら美術品の保存と美しい街並みの保護のため、ドレスデンは無防備都市を宣言した。それで「ドレスデンだけは空襲にされることはない」と信じられていた。ドイツ軍の高射砲配置など空襲対策も手薄であったという。
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しかし、第二次世界大戦末、1945年2月13日から14日にかけて連合国は大空襲を決行した。「サンダークラップ」(Thunderclap:雷鳴・思いがけない出来事・青天の霹靂)という作戦である。皮肉にも、ドレスデンの劇場ではウェーバーの歌劇「魔弾の射手」が上演されていたという。
この「ドレスデン爆撃」で市街の約9割が破壊された。この二昼夜の空襲で1944年11月から敗戦まで合計100回以上に及ぶ「東京大空襲」で投下された爆弾よりも五割以上も多い量の爆弾が投下された。第二次世界大戦中の都市に対する空襲では最大規模であったという。
まず弾体内に多数の鉛のボールを入れて殺傷効果を高めた「榴散弾」の多量投下により建物の屋根なども徹底的に破壊する。続いて可燃物を焼き払うための薬剤などが入った「焼夷弾」を大量に投下し、火災に成長させるという作戦がとられた。
この結果、火災旋風が発生し、衰えることなく燃え盛り、街は大きな被害を受けた。そうした作戦が短時間に、しかも繰り返し行われた。その結果、ドレスデンは完膚なきまで破壊され、全く死んだ都市になった。そうした事実を、第二次大戦後、私は知った。
第二次大戦後、ドイツは東西に分割される運命を辿った。西ドイツではボン、東ドイツではベルリンがそれぞれ首都になった。その後、ボンは順調に第二次大戦後の後遺症を克服し、街並みも回復が進んだ。しかし、ベルリンの回復はかなり遅れ、古都ドレスデンの復興はもっと遅れたようだった。
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長年にわたって工作機械に関わり、ドイツに行く機会は多かったが、東西冷戦下の東ドイツのドレスデンを訪れることは難しかった。どの程度までドレスデンが焦土から復興したかが気になったが、詳しいことは分からなかった。まして自分の目で見ることはかなわなかった。ますますドレスデンに対する関心が高まるのを抑えられなかった。
1989年11月、「ベルリンの壁」が市民らの手によって打ち壊され、翌1990年、東西ドイツはついに統合した。それから3年後の1993年、ハノーバーで開催された工作機械見本市に出かけた時、家内と娘は日帰りでドレスデンに出かけ、戦後の荒廃が未だに残り町全体が黒く煤けて荒廃したドレスデンを見てきた。
爆撃で無惨に崩れた有名なフラウエン教会(聖母教会)の破片は整理され、棚に付番されて並んでいた。修復された建物はアメリカ資本の入ったホテルなどわずかしか見られない。ドレスデンの駅舎も灰色に煤けていたという。そんな話を身近なところから聞いたら、一気に長年の想いが吹き出してきた。多量の美術品がどうなっているかも気掛かりだし、何としても自分の目でドレスデンの街を見たいと思った。
2002年10月、念願のドレスデンへ
それから約10年後の2002年10月、ついに念願のドレスデンを訪れる機会が訪れた。
10月23日(月)は、日本では秋分の日で休日だが、ドイツでは休日ではなく、その日から28日(土)までベルリンでISO総会が開催され、それに出席することが決まった。
出席することが決まるや否や直ちに、総会終了後、念願のドレスデンに行き、さらに「東欧の三姉妹」(ウィーン、ブタペスト、プラハ)の一つチェコのプラハを訪れるという計画作りに専念した。エルベ川に沿って走る列車の車窓からの眺めは素晴らしいと聞いて列車で行こうと決めた。
ドイツ、フランス、スイスなど欧州各国では列車が発達し、線路が縦横無尽に張り巡らされおり、列車による旅が楽しい。今回もベルリンからはすべて列車の旅とすることにした。早急に計画を立て、ドレスデンのホテルの予約だけは早めに行うこととした。
ドレスデンでは、いろいろな建物や博物館などが集中する旧市内(Altstadt)の一角のホテルに宿泊することとし、予約も行った。そこに大雨でエルベ川が氾濫し、プラハもドレスデンも水浸しというニュースが飛び込んできた。2002年8月のことである。
宿泊予定のドレスデンのホテルからは、エルベ川の氾濫で冠水し、現在ホテルは営業中止となっているというメッセージが入った。冠水により地下の厨房と、一階のエントランスホールとロビーおよび大食堂が使用不能で食事は用意できないし、部屋のサービスも提供できないということであった。
計画の変更を余儀なくされた。しかし、ただ、日本を出発する前になって、そのホテルから営業を開始したので宿泊をお待ちしますというメッセージが入り、慌てて再び計画を大分変更してまずはベルリンへと向かった。
ベルリンでの会議を終えて、いよいよ列車でドレスデンそれからプラハに向かうことにした。なんとかなるだろうと思っていたところ、列車の路線も相当な被害を受けていた。インターネットで運行状況を調べたら、ドレスデン周辺の鉄道は冠水で線路の路肩が削られたり、橋も落ちたりしていた。ベルリンからドレスデン新駅までは辿り着けるものの、それからプラハまではほとんどバスを乗り継がなければならず、プラハ行きは時間的に無理だということが分かった。(写真:水没したドレスデン駅構内と橋が流れて宙づりになった線路 DB moil誌2002/10/2)
再び計画を変更した。プラハ行きは断念し、取りあえずドレスデンまで行って、そこからドイツ国内を観光することにした。
エルベ川を挟んで旧市街と反対の少し高台の新市街にあるドレスデン新駅(Neustadt))は被害が少なかったようで列車が走っていたが、旧市街にあるドレスデン中央駅はSバーンという近郊電車の線路が回復していただけであった。
ベルリンからドレスデンに着いて一泊した後、変更した計画に従ってドイツ国内旅行に出かけた。ライプチヒまで代替の連絡バスで行き、そこから列車による旅となった。車窓から見る川は水で溢れており、まだ大雨の後遺症が残っていた。
水害の爪痕が残るドレスデン
3日間のドイツ国内旅行の後、再びドレスデンに戻り、短時間ではあったが市内を見て歩いた。
宿泊したホテルでは数か所から太いホースを入れて地下室の水抜きを行っていた。まだ十分にサービスなどが十分に回復していないのも当然であった。
新市街では水害の痕跡はほとんど見当たらなかったが、旧市街ではいたるところに爪痕が残っていた。散策して楽しむどころではなく、いろいろな催し物が開かれるマルクト広場を消しており、心残りだった。
しかし、「緑の丸天井」といわれるドレスデン城の中の展示場に収納されたていたザクセン王が収集した有名なコレクションは、この洪水の影響を避け、少し離れたアルベルティヌムといわれる宝物館で展示されていた。そこで幸いにも、ほとんどの作品を見ることができた。感動的であった。
「緑の丸天井」は、まだ修復が完成しておらず、戦後残った宝物を含め、洪水を逃れて運び込まれたいろいろな彫刻が無造作に所狭ましと並べられていたのには圧倒された。ホテル近くの城壁に描かれた壁画「君主の行列」も無事で非常によかった。
バロック様式のドレスデンを代表するツヴィビンガー宮殿も、爆撃による破壊を修復中のところを水害に襲われるという状況で、宮殿内の展示は一部しか鑑賞できなかった。
ただ、近くのフラウエン教会では、残っていた破片をジグソーパズルのように組み合わせて外壁の補修作業進められ、その姿が復元しつつあるのには感激した。ドレスデンでは、この教会をはじめ多くの建築物の美しい姿を取り戻す試みが行われている。その様子を見習うことが多いと感じたのは私だけではないだろう。
2005年、再度のドレスデン
最初のドレスデンは、いずれにしてもすべて中途半端で、もっと良く街を見たいと思っていたところ、その機会が、この3年後の2005年に訪れた。ハノーバーで開催される工作機械見本市の視察調査である。
予定の視察調査を終えた後、勇んで2度目のドレスデンに向かった。旅の拠点はドレスデンであったが、滞在中に前回にはかなわなかったプラハにも足を伸ばし、わずかではあるがプラハを楽しむこともできた。
ドレスデン中央駅は、行き止まりの頭端式であるが、その一部を通過方式に変更しながら建物の復元・復旧が進められているが、水害からは立ち直り、その機能はほぼ回復していた。
ホテルは前回と同じである。旧市街の博物館などが周りにある非常に便利なロケーションにある。水害からはほとんど立ち直っていた。ドレスデンの建物も街並みもまだ戦災の影響は残っているが、次第に昔の美しい姿に戻りつつあった。ツヴィンガー宮殿もほぼ回復し、いろいろな展示物を見ることができた。ドレスデン城の「緑の丸天井」も修復されていた。
コンピュータを駆使してジグソーパズルのように破片を組み合わることで進められていたフラウエン教会の外壁の修復は、モザイク模様になってはいるが、ほぼ完成し、内部の修復作業が行われていた。
また煤けた外壁を見せるドレスデン州立劇場、ゼンパオーパでは、いろいろな演奏会、歌劇などが催されるようになっていた。実際に鑑賞しようと思ったが、タイミングが悪くかなわなかった。
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世界遺産にも登録されたこの街の復元が国を挙げて進められており、近い将来、ドレスデンは「エルベ川のフィレンツェ」といわれるような美しい昔の姿を取り戻すだろう。そうすると、美しい渓谷を遡って到達する「百塔の街」、「北のローマ」といわれる美しいプラハの街とともに、旅の人々を惹きつけることになるであろう。
私はドイツが好きである。いつ行っても、またどこに行っても安心して散策できる美しい街が多い。とくに田舎が良い。改めてドイツの地方都市をゆっくりと散策できる旅を行いたいと思っている。
なお、現在、ドレスデン郊外約4キロの地点でエルベ川渓谷に交通量増大に対応するため橋をかけることが計画されているが、これが大きな問題になっている。もし、橋が建設されれば、景観は損なわれるため、ドレスデンの世界遺産の指定をユネスコは解除すると警告している。一方、橋の建設は渓谷に生息する絶滅が危惧されるコウモリの仲間に重大な影響を与えるとして環境保護団体から差し止め裁判も起こされている。建設推進派と反対派が一歩も引かず争っているという。なんとか上手く解決されることを祈っている。
(千葉大学名誉教授)