時空の漂白 28 PDF (2010年2月5日)
都心の移り住み 雑種強勢 前田勲男
東京の本来の地形は起伏に富み、入り組んだものである。その襞には古代からの人の歴史が刻み込まれている。表面の地質は起伏と関係している。地質を色分けしたて浮かび上がらせた「縄文地図」を手に語る中沢新一著「アースダイバー」(講談社)に刺激を受けた。
同時に、その書名「アースダイバー」に関連する地学・地質学は大学時代、のめり込んでクラブにまで入った上に「江戸っ子」を自称しているものだから、もう少し追加したい気持ちに襲われた。それが「都心での移り住み」を書き始めた理由であった。
もっとも、しばらく書いていないと思ったら、「その三」は2006年3月15日付けとなっていたから、もう4年近くも間が空いた。個人的なことでバタバタやっていたら、あっという間に時間が過ぎていた。
書き始めた時は41階建ての高層マンションの28階に住んでいた。そこに、2003年、完成と同時に入居したのだが、昨年12月、同じ敷地内の8階建ての別棟の7階の部屋に移った。約7年間、高層階の暮らしを満喫したのだけれど、個人的なことも区切りがついて、新規まき直しをしようと想った。そのためにはいろいろ不都合があるということで、決心して引っ越した。
振り返ると、都心でも、この約20年間に居住場所は20階、1階、2階そしてまた2階、28階、7階と立体的にも漂白していた。
「江戸っ子」の定義は難しいけれど、「三代続く江戸居住者」という定義に従えば、僕の父親の家系を辿ると、男系は島津藩士で江戸にきて武士を辞め町家の娘と一緒になったらしい。そして赤坂で「水菓子屋」、今で言う果物屋をやり始めた。その関係で僕の本籍も赤坂のままである。島津藩の「丸に十の字」が刻まれた算盤があったのを記憶している。
町娘というのは町火消し「め組」の新門辰五郎の一族であったようで、その関係で菩提寺は同じ高輪の寺にある。しかも僕自身、目黒区の小中学校、新宿区の高校、渋谷区・文京区の大学に通い、職場は千代田区ということで「都心」から一度も離れなかったのだから、かなり「江戸っ子」の要件を満たしていると言って差し支えないだろう。
もっとも、僕の母親の家系を辿ると、まったく違った流れがでてくる。母親の父親は小林姓の千葉県印旛沼近くの大名主の息子。長男でありながら明治時代に高等文官試験に受かり国家公務員となった。母親は鈴木姓の茨城県古河、大名主の長女、いずれも「江戸っ子」とは無縁であった。その血を半分受け継いでおり、厳密に言うと僕は「江戸っ子半」というべきだろう。
しかし、———物心ついてからもの、心付いてからの50年以上「都心」の変化を「定点観測」してきており、中沢氏の「アースダイバー」にさらにいろいろ付け加えることができるだろうと思った。
それで、このシリーズを始めたのだが、脱線と迷走の「しっぱなし」、まさに「浅慮」の「江戸っ子」の見本になってしまった。この先どうなるか見当が付かないが、このままの調子で進めることを許して欲しい。
ちなみに「江戸っ子」については、小学館「日本大百科全書」には、概略、 以下のように説明されていた。
「江戸居住者、なかでも生粋の江戸市民が「江戸っ子」と言われ、条件は3代続く江戸居住者であった。
「江戸っ子」という言葉が初見されたのは1771年の川柳である。1603年の江戸開府後、各地から多くの人が数流入したが、それから約150年経ち、連帯感の強まりを背景に「江戸っ子」という言葉が誕生し、寛政(1789~1801)以後に普及した。
粋で勇み肌の気風、さっぱりとした態度、歯切れの良さ、その一方で浅慮で喧嘩早い点が江戸っ子の特徴としてあげられた。
基本的に江戸は長期にわたって発展を続けたため、江戸の庶民の間には、たとえ災害を受けても、その後、復興景気に期待するなど、あまり苦にせず、宵越しの金を持つ必要がないという気風が生まれた。
大工、左官、鳶、天秤棒を肩にする行商人などが、「俺たちゃ江戸っ子だ」という意識を強くし、それを振り回し、力みだしたのは、文政(1818~1830)のころからである。
「雑種強勢」
「江戸」から「東京」、そして「東京」になってからの、その歴史を振り返ると、その地形とか地盤などの物理的な条件以外に「雑種強勢」(hybrid vigor)という生物学の用語が浮かんでくる。
簡単に言うと、遺伝子的に相違の大きい個体間に生まれた「雑種」の方が生存力、繁殖力など多くの面で優れた性質を表すことが多いということである。
徳川家康が豊臣秀吉の命で愛知県岡崎から一族を率いて室町時代の武将・太田道灌(1432~1486年)が築いた江戸城に移ったのは1590年、「関ヶ原の戦い」(1600年)の10年前のことである。その時の江戸城は「城」というよりも「館」であった。「ここもかしこも汐入の茅原」とか、城下には「茅ぶきの家百ばかりも有かなし」などという状況であった。
徳川家康の江戸入りを契機に「よそ者」が集まり、「雑種強勢」のメカニズムが働き始め、四百年以上経った今も働き続けているのが東京という場所だと言って良いだろう。
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大学時代には、専攻とはまったく違う民族学・考古学分野の著名な学者、インカ・アンデスの故泉靖一氏(1915~1970年)と、アジア・オセアニアの故大林太良氏(1929~2001年)の講義に熱中した。いずれも初めは百人近く受講者がいたのが、いつの間にか10人ぐらいになっていた。そんな中で、最前列で講義を欠かさず受け続け、帰ろうとする先生を掴まえては質問攻めにした。
小学生時代にむさぼるように読破した岩波少年文庫全集の中にギリシャ・ローマ神話と並んで、トロイを発掘したシュリーマンの話があった。それと同じような感銘を講義で受けたからだ。
あんな講義のどこが面白いのか。友人たちからは呆れられたけれど僕には面白かった。一連の講義と、先生たちとの議論を通じ、「人種」、「民族」、「歴史」、「文化」、「宗教」といったことに関する多様な視点の基礎を培われたように思う。
そんな背景もあって、大学卒業後、仕事上で懇意になった欧米の知日派と称される人たちや中国や韓国の人たちと、かつては仕事の合間に「人種」、「民族」、「文化」、「宗教」といったことをよく議論した。
その一つが、多くの日本人自身も、日本は単一民族国家と思っているようだけれど、それは間違っているということだった。
日本人のルーツを数千年以上前まで遡ると、それも地学的・地質学に見ると、ほんのわずかな時間の中で、様々な民族が浮かび上がってくる。一般に白色人種(コーカソイド:Caucasoid)、黄色人種(モンゴロイド:Mongoloid)、黒色人種(ネグロイド:Negroid)と分類され、日本人は黄色人種と一括りにされ、そして単一民族と思われているけれど、そんなに単純なものではない。
数千年以上も前に、日本列島では、これらの人種が混血した可能性があるらしい。しかも書き物が残っている千年ぐらい前の日本では、数多くの中国や韓国から来た人たちが政権の枢要なポストに就いた。今の日本では考えられない状況だった。
アメリカは多民族国家として刺激的な存在の国になっているけれど、実は、日本も1000年以上前は、現在のアメリカと同じような国だった。その点ではアメリカの先輩である。こんな話をすると、当時は、ほとんどの外国人が新鮮な驚きを示した。
ちなみに、こうしたことは遺伝子研究によって、最近、かなり明らかになっている。動物の細胞内にある酸素呼吸とエネルギー生産に係わるミトコンドリアのDNAを調べることによって先祖の追跡が可能であるなどと言われている。
その結果、現在の人類の起源に関する「多地域起源説」と「単一起源説」についても、10年ほど前、ついにアフリカ人を起点とする「単一起源説」に軍配が上がった。
さらに日本人は先住民の南方系の狩猟民の縄文人と、渡来民の北方系の農耕民の弥生人との混血ということもミトコンドリアのDNAによって定量的に示されるようになってきている。住斉筑波大名誉教授が考案した方法によって地域別の縄文系と弥生系の比率なども紹介されるようになっている。
さらに「縄文顔」か「弥生顔」かといったこともよく言われるようになっている。
たち日本人になじみのある細眉、一重瞼、薄唇の平坦な顔は「弥生顔」であり、渡来人である弥生人が支配層(貴族)になったことから、それが日本人的あるいは人相の良い顔となった。
そして太眉、二重瞼、厚唇の立体的な「縄文顔」は酷い場合は鬼となってしまった。気が付いたら、そんなことが、普通に言われるようになっていた。しかし、僕自身はいったいどちらなのか、自分ではどうも定かではない、やっぱり、その混合としか思えない…………。