時空の漂白 4  PDF (2004年12月10日)

雲は天才である               谷 弘一   

 

時の漂泊は物理的に不可能である。人にとっても、あらゆる生命体にとっても、時は、今、現在しかない。皆、同じ時間軸を同時に移動しているだけである。

数秒でも、数ナノ・セカンド前でも、そこに戻ることは出来ないし、同じ距離の未来に勝手に移動することも出来ない。もし、それが出来れば、人は怪我することも、死ぬこともなくなる。時間の漂泊も透明人間も、

物理的にはあり得そうではない。

もっとも、宇宙の時間軸が余程、歪んでいれば、何万光年の彼方に、何万年昔の地球を光学望遠鏡や、電波望遠鏡で見ることは出来るかもしれない。でも、そこへ旅することは出来ないだろう。

時間軸を含む四次元の世界での漂泊は無理だが、三次元空間での漂泊なら物理的に可能である。誰も、同じ時間軸に串刺しになったまま、歩いても、っても、飛んでも、跳ねても、自転車や自動車や船や飛行機に乗っても、空間を漂うことはできる。しかし、空間の漂泊とは、物理的には空間を移動するだけのことになってしまう。

とすれば、要すれば、時空の漂泊は脳の中の作業にかかっていることになる。

時空の漂泊とは、脳内の作業として時空を漂泊することになりそうである。脳内であれば、時間と空間を分けて漂泊をする必要はない。時間も空間も自由自在に漂泊できる。

禅坊主が、「座禅を続ければ妄想にさいなまれると思っている奴もいるが」と言ってから、「凡俗は座っても、直ぐに妄想の種が尽きてしまうものだ」と続けたという話を、ずっと前に聞いたか、読んだかしたのを思い出した。

実際、筆者も茶事ちゃじの冒頭に高僧の指導で座禅らしきことをやったことがあるが、この時は、座っている苦痛にさいなまれていただけで、妄想も湧いてこなかった。

けちな妄想にしても、妄想は何かの執着があって生まれてくるもので、「時空の漂泊」とは違うような気もするが、妄想も風船玉みたいに吹いてみれば、これはこれで「時空の漂泊」になりそうな気もするが、凡俗の筆者には妄想の種が直ぐに尽きてしまいそうである。

漂泊の典型は雲だろう。漂泊という人間だけと思われる脳内作業を絵にすれば雲が出てくる。素手で掴むことの出来ない、空に浮かぶ雲を見ながら、人は漂泊を想うのがごく普通だろう。

もっとも、霧や霞も物理的には雲と同じものらしいけれど、霧や霞では駄目である。霧や霞では漂泊という言葉が相応しくない。人の手の届かない遥か彼方の空に軽々と浮かんでいて、刻々と形を変えるようなものでなければならない。漂泊には、ほっこりと浮いている雲がぴったりする。

そういう軽さがなければ、漂泊の絵にはならない。漂泊というのは、軽々と何にもとらわれず、何も思いわずらうことなく、変幻自在で居ることのようである。

煩悩だとか解脱げだつとかいった形にもとらわれず、重力の圏外で、自由自在に脳内飛翔することが漂泊のようである。

雲は天才であると言った詩人がいる。雲の自由自在、多彩、奔放な造形と、雲の常住じょうじゅうつねならざる変化が、詩人をして、雲は天才だと思わず言わしめたのだろう。

でも、雲を作っているのは大気である。雲は大気の作品である。とすれば、天才は雲ではなくて大気である。大気が水蒸気を使って雲を演出しているに過ぎないからだ。

でも、同じ雲でも、前線の不気味な暗雲は漂泊には向かない。曇天の雲も漂泊はしていない。入道雲もあやしい。詩人は入道雲までは天才の内に入れたかもしれないが、集まって不穏な情勢を思わせるような雲は、やっぱり漂泊しているようには思えない。何れも大気の作品であることに間違いはないのだが ………。

アルバトロ、アホウドリ。何故、バカドリとは言わないのだろう。フランスの詩人がアルバトロの詩を書いている。

タンポポのあの綺麗な種も、大気の状態によってはかなり上空を飛翔ひしょうするだろうけど、エベレストを越えることがあるのだろうか。アホウドリは地上に降り立ってしまうと、まさにアホウドリ。大きすぎる翼を扱いあぐねて、じたばたする姿は将にアホウドリである。でも、遥か上空を大きな翼を広げて飛翔ひしょうしている時は、天才そのものである。タンポポは大気に乗っているだけだが、アルバトロは大気に乗って自在に漂泊している。

男は大気の中を旅する雲のように漂泊する。一人一人、歴史の時空を旅する、或いは歴史の時空を漂泊する水蒸気の粒のように思える。時には集まって暗雲を作り騒擾そうじょうを起こし、まっさかさまに墜落することもある。権力とはそういうものかもしれない。

集まれば墜落する。引力が有効に効き出す、水蒸気の集積の臨界点のようなものがあるのかもしれない。臨界点に達すると、水蒸気―――雲は、ばらばらの雨粒になって墜落する。

でも、時には、大き過ぎる衆をなさずに、筋雲やぽっかり浮かんだ雲のように、漂泊している雲の粒もある。暗雲の中で、雨になって墜落せずに、離合集散の合間に漂泊を続ける水蒸気の粒粒も間違いなくいるはずである。

初回は、雲に乗ってほんのしばし「時空の漂泊」をさせてもらったが、漂泊の種も尽きたようである。次回は何に乗って漂泊をしたものだろう。

すんなりと雲に乗らないとなると、まさか、座って空中遊泳をする訳にも行かないから、犬が棒につまづいて漂泊するか、豚に真珠で仮託かたくする世の中の価値を教えてもらって「豚真珠」で漂泊をするか、猫に小判の値打ちを悟らされて「猫小判」で漂泊するか、漂泊するのも楽でなさそうである。

何かテーマを絞って、ヘゲモニーとか、国家とか、男と女とかをテーマに、勝手気ままに漂泊してみるのも悪くないかもしれない。

                              (壺宙計画)