時空の漂白 49  PDF (2011年2月9日)  

海の物とも山の物ともつかぬ(2) 熱気球   西村一彦  

熱気球活動の朝は早い 

日の出とともに朝の日差しが辺りに射し込み、そして凍り付いていた時間がゆっくり解けて動き出す。そこに現れたのは熱気球だ。バーナの大きな燃焼音をたてて、非日常の空間が開かれていく。

熱気球活動の朝は早い。日の出直後から一時間くらいが最も熱気球の飛行に適した時間帯だ。風に流されるだけの熱気球は、朝凪あさなぎと呼ばれる、大気の安定した状態の時が一番安全に浮くことができる。

時間がたつにつれ、大地は太陽のエネルギーによって温められる。するとそこには、まるでレンジにかけられた鍋底の水のように大気の対流が始まる。対流はやがて上昇気流や積雲に姿を変えていき、そのとき地上は強風となっている。こうなると気球に乗って浮いている私たちは本当に無力だ。

地面にたたきつけられるか、風の速さで地上を引き回されるか、どちらにせよ悲惨な結末が待っている。空中に浮かんで風に乗って流されるということは、つまり浮いている間は風を感じることはない(対気速度ゼロ)のだが、地面との関係においては、風と同じ速度で動いているということだ。風速が5メートル/秒であれば、時速18キロメートル、風速が10メートル/秒であれば時速36キロメートルだ。

この速さでもって着地すれば、それは走る自動車並みの速度で地面に投げ出されるのと同じことになる。私たちの気球飛行においてもごく希にだがこのような状況が起きる。この光景を見た一般の方はおそらく気球に対して持っている母のようなイメージ(やさしくふんわり)を破壊されることになる。荒々しい父のイメージだ。だがこれも自然界の偽りのない一側面だ。

おそらく地球誕生以来気の遠くなるほど繰り返されてきた大気の振る舞い。現代社会ではよほどの悪天候でもないかぎり人が気づかない、わずかな大気の乱れに敏感なのが気球乗りだ。そう、私たちは自然界の意思に逆らうことなど出来はしない。

地面から離れて一人孤独に空中に大気とともにある時、私は地上のことなどまったく取るに足らないことに思えてしまう。自然界の意思に比べてなんと小さいことか。だが残念ながら永遠に浮かんでいるわけにはいかない。飛行の後は必ず地上に戻って来なければならないのだ。

神を感じる瞬間

そもそも天気・風というのはなにゆえ乱数のように予測不可なのだろうか。観測機材の充実や流体解析を応用したコンピュータ技術により、最近は随分と短期的な気象予測精度については向上した。またインターネットのおかげでそれらの情報の入手も簡単になり、気球飛行の安全性向上に役立っている。しかし依然としてそれらの予測は大局的(10キロメートル・メッシュ程度)なものであり、私たちが必要としている局所的(10メートル程度)な情報ではない。

風の向きと速さがどうやって決まってくるか、基本は太陽のエネルギーを受けて発生する温度差によるのだが、大きなほうから言うと、

1 地球規模の流れ。偏西風や貿易風といったもの。
2 高気圧や低気圧などの、気圧傾度によるもの。
3 昼夜の温度差。
4 湿度(飽和水蒸気量)。
5 地形・地質。

である。最終的には上記の組み合わせで風向風速が定まる。極小的には、異なる風向風速の風がぶつかる境界、地形や建物に風がぶつかって発生する渦などの問題もある。

風を予測する上で、これら1、2、3、4は天気情報から得られる。5はその土地の特性を見極めることが大切である。土地の人はよくその知識を持っている。

風は人の目には見えない。自分が今いる場所の風は皮膚で感じることが出来るが、離れた場所の風をどうやって知るのか、また離陸前に着陸時期の風を予測できるか。これが出来るのが優秀な気球乗りなのだ。

古来、風は目に見えないながらも人に恵みを、また時に災いを与えるものとして、神格化されてきた。世界各地には満遍なく風の神が存在している。

農耕文化が根付くと風の神は天候に関わることから農耕の神様とみなされるようにもなった。

私も何年かに一回程度であるが、熱気球の活動中に一瞬、神を感じることがある。もちろんそれは単なる偶然の物理現象ではあるのだが。

見えない風を見る

さて話を戻して、見えない風を見るいくつかの方法を示そう。まず飛んでいる自分の熱気球の動きである。昔はカンで自分の動きを知っていたが、最近はGPSのおかげでずいぶん正確に移動方向速度を知ることができるようになった。

次に離れた場所の風を知る手がかりとしては地上の焚き火や煙突の煙だ。これらは地上付近の風向風速を空中から知ることができる有力な方法だ。

で、都合よく煙が立っていなければどうするか。木々やススキのざわめきは小さすぎて空中からは見えない。そこで地上にいる気球仲間にヘリウム入りゴム風船を飛ばしてもらい、その飛んでいく様子を無線機で伝えてもらう。

また上空の熱気球から紙片などを落とすこともある。これは下の風を知るのによい方法だ。

他に熱気球が飛んでいれば、その気球の動きは、離れた場所の風を知るには最適だ。多くの熱気球が同時に飛んでいれば、いろいろな場所の風が大変よくわかる。各地で行われる熱気球大会は10機から100機近い熱気球が同時に飛行するので、その地域全体の風の流れを見ることができる。

ただし、これらの方法を用いても、知ることができるのは「今の」風の状態である。将来の風を予測するにはやはり経験と知識とカンが必要だ。

これらの風の情報がわかると、熱気球パイロットは何ができるのだろうか。先ほど気球は風に逆らって動くことはできないと述べたが、実は浮力を調整することで、高度を変えることは出来るのである。そして大抵の場合、風というものは高度によって風向風速が異なるのである。高度によってどのような風が吹いているかが分かれば、その高度の風を選ぶことで、ある程度は自分の行きたい方向に進めるようになる。

複数の風向があるなら、それらを交互に利用することで、その合成ベクトルの方角にも進めるようになる。但し、どう合成しても行けない方向というのはその時の風の条件によってはありうるので、その場合はどうにもならない。別の手として、離陸地を変えてその目的地に行き易い場所から飛び上がるというやり方もある。熱気球は障害物のない、30メートル四方の空き地からでも離陸できるので、この方法はよく使われる。

図一は実際の熱気球の飛行の航跡を地図上に書いたものだ。地図の左上あたりから離陸した熱気球は高度150メートル前後の高さの風で右下(南東)に進み、中間着陸の後、高度300メートルほどに上がって左下(南西)に進んでいる。このような日は、北方向に進むことはできないが、南方向であればいろいろな場所に行けそうなことがわかる。

しかし実際にはこのような日ばかりとはかぎらない。ほんの数メートル横に動いてほしくてもどうにもならないのが熱気球だ。でも私たちはそれが本当に楽しいのだ。

1972年頃 
岩国市立藤河小学校講堂
映画鑑賞会

私が小学5年か6年の頃、小学校の全校生徒が見る講堂で行われた映画鑑賞会で上映されたのが「素晴らしい風船旅行」アルベール・ラモリス監督である。この映画は当時の小学校での映画鑑賞会の定番といってもよい作品で、私自身はこれを見たことで、いつか気球に乗ってみたいと思うようなった。

この映画が遠いきっかけになった気球乗りは私の他にも何人かいるようなので、日本の気球乗りを増やすのにこの映画は貢献したのだろう。

この映画は老科学者と孫の少年がガス気球に乗ってヨーロッパを旅するもので、空中からのたくさんの美しい風景が写し出されていた。実際の映画の撮影には主にヘリコプターが使われ、気球からではないのが残念であるが。

映画の気球はガス気球らしい。実際のガス気球と違うのはバスケットの上に四方向に空気を噴出するノズルがあり、それを使って行きたいところに行ける、という設定だ。

まあこの程度の推進力で気球が自分の思う方向に動いてくれれば苦労はない。そこがやはり創作である。

この映画で私が一番好きなのはラストシーンだ。ちょっとしたトラブルで少年のみ乗せたまま気球が飛んでいってしまったのだが、まるで気球が意思を持っているかのごとく少年に多くの風景を見せ、そして安全に少年を海岸に降ろした後、無人の気球は遠く遠く飛び去っていく。

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監督のアルベール・ラモリスは独自の空中撮影技術を使って気球に絡んだいくつかの名作を残したが撮影中のヘリコプターの事故で亡くなった。