時空の漂白 51 PDF (2011年2月25日)
海の物とも山の物ともつかぬ(4) 熱気球 西村一彦
係留飛行
私たちが通常行う熱気球活動は自由飛行(フリーフライト)である。これは今まで説明したとおりの風まかせの飛行を楽しむやり方だ。それ以外に一般の人が熱気球に接する機会には「係留飛行」がある。要は熱気球を複数本のロープで地上と繋いで、数十メートルだけ浮かせる方法だ。アドバルーンのように同じ場所から動かないので、これを飛行というには大げさだが、まあ確かに浮いてはいる。
係留飛行は自由飛行と比較すると困難ではないと一般の方は思われるかもしれないが、どうして、状況次第では係留飛行のほうが危険な場合がある。というのも係留飛行は主に多数の一般の方を搭乗させることを目的に行われるからだ。
係留飛行が行われる目的はいくつかあるが、主なところで、一般人に搭乗体験をしてもらう・巨大な看板の代わりとなる・イベントの人寄せとなる、などだ。そして普通はスポンサーがいて、私たちはアルバイトでやっていたりする。
一般人相手なので、自由飛行のように朝早い時間というわけにはいかない。よって大概は風が強い。あまり強くなると係留飛行を中止するが、中途半端な風のときが問題だ。無理をすれば出来ないことはないが、何かが間違えれば大きな事故になる。パイロットの判断が大事である。
ロープで結び付けられた熱気球の、何が危険なのだろうか。それは風の力の大きさだ。熱気球の球皮部分が受ける風の力はずいぶん大きい。横面積で考えてもらえば、それは小型ヨットの帆よりも広い。ロープの端は車に結びつけることが多いが、風が強くなると、ブレーキをかけた乗用車が引きずられることもある。
20ミリの太さのロープが切れることもある。またロープは風上風下三方向に張るが、風向が変わりやすい場合は、ロープの配置と長さに注意しなければならない。気球が揺れることで、ロープは緩んだり張り詰めたりするので、ロープが張った瞬間に一般人を跳ね飛ばすこともある。
そして最も危険な点は、一般の方が、ロープで結び付けられた熱気球をそれほど危険なものと思っていないことだろう。ただ一般の方に楽しんでもらう目的で行っているイベントでは、私たちが神経質になっていることを一般の方に知られないほうがよいので、ここは気配りの必要なところだ。
なおロープを風上側だけでなく風下側にも張る理由は、急に風が逆方向に変わった場合への備えと、風上側だけだと熱気球が振り子のように左右に振られるということだ。この世では三点支持が安定のために欠かせない。
話はちょっとずれるが、以前ヨット乗りの人と話をしたら、実は「順風満帆」は不安定だということだった。進行方向真後ろの風は効率がよさそうだが、そのときヨットは前後方向の力のみで釣り合っているため、ちょっとした横波で転覆してしまうことがあるそうだ。よって斜め後ろからの風が一番安全なのだそうだ。
1992年9月 陸上自衛隊小平駐屯地 創立記念行事
私は係留飛行も数多く行ってきているが、印象に残っているものに、陸上自衛隊の小平駐屯地での係留飛行がある。熱気球と自衛隊は関係なさそうに思われるだろうが、熱気球の飛行に際しては空域の調整の段階で自衛隊と協議することが多い。それも陸上自衛隊だ。航空自衛隊との調整の機会は少ない。実際に航空機とヘリコプターが飛ぶ飛行場、それに加えて砲弾が飛ぶ演習地の数を比べると陸上自衛隊のほうが多いからだ。
お互いの空域が重なると危険なので、調整が必要となる。幸いにして現在の日本は平和なので、自衛隊の活動は週末には低調となる。それで私たちの週末飛行に一定の配慮をしてもらえている。
ただ、その見返り?として各種の広報活動?に協力することはある。もちろん強制ではないが。
東京の小平市にある陸上自衛隊の小平駐屯地には実戦部隊ではなく各種教育機関が置かれている。もともとは帝国陸軍の経理学校があったところだ。そこでは毎年9月に創立記念式典が行われており、1992年の式典では目玉として熱気球の係留が企画された。私は気球の友人からの依頼でお手伝いをしたのである。
当日の朝の打ち合わせでは、風の条件がよい間に気球を膨らませておくことと、記念式典行事のときに気球を浮上させること、といった程度の取り決めだった。やがて記念式典行事の時間となり、大勢の隊員が運動場に集まってきた。そこで「基地司令を搭乗させられないか」という依頼が出てきた。人を搭乗させる予定はなかったが、たまたま風の条件も良かったので応諾した。そして記念式典行事が始まると、そこは自衛隊、「司令、熱気球搭乗!」の大号令。私の乗る熱気球に歩み寄ってこられた基地司令をバスケット内にお乗せして、その次に「熱気球、浮上!」の大号令。こうして数分程度だが何百人の規律正しく整列した隊員を前に、熱気球は翩翻と空に浮かんでいた。私は司令と2人だけで短い時間、熱気球について談笑していたのだった。
引き締まった規律の前で、なんとも自由気のままふらつく熱気球。気球には平和が似合う。
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たいがいの新技術がそうであるように、気球も誕生してすぐに軍用として使えないか試行が始まった。風まかせという性質から、とても兵器としては使えなさそうに思われたのだが、それなりの成功例として高所からの敵情偵察としての使い方があった。
1794年のフランスとオーストリアの戦いでは史上初めてガス気球が戦場に投入された。水素ガスと破れやすい球皮という、繊細な取り扱いを要求する道具ではあったが、フランス軍に用意された気球隊は、その優雅さと先進性、大胆さで若い女性たちの羨望の的となった。彼らは上官の目を盗んでこっそりと彼女たちを搭乗させたりもしていた。
ただ緒戦においては活躍した気球隊だが、数年後ナポレオンが将軍になるころには気球隊の活動は下火となり、やがて廃止されることとなった。やはり取り扱いの難しさと天候の影響を受けやすいことが兵器としては不満足とされてしまったのだ。
その後、アメリカ南北戦争での偵察隊や普仏戦争におけるパリ包囲戦での通信手段としての使われ方をした後、固定翼機が登場すると気球は兵器としては完全にお役御免になったと思われた。
だが一時的ではあるが、気球が兵器?として復活したことがあった。1940年、バトルオブブリテンにおいて、ロンドン上空に侵入したドイツ航空艦隊は空に浮かぶ無数の阻塞気球に行く手を阻まれ、最初の18ヶ月で60機以上を失うこととなった。6000m上空まで上った気球は、その係留ワイヤーでドイツ機を引っかけて墜落させたのだ。空を風に揺られて浮かぶ気球、優雅な割には危険なものらしい。
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1943年6月 満州・平安鎮 特殊部隊
大日本帝国陸軍の機動第二連隊は、満州吉林省に展開する対ソ連向け特殊部隊であった。隊員は精強なる関東軍の中から選ばれた精鋭であり、屈強にして各種特殊技能を修得し、有事には敵後方に潜入して破壊活動を行うことを目的としていた。その機動第二連隊はある日不思議な命令を受け取った。「ふ号演習に参加せよ」というものであった。
連隊長はそれが気球に搭乗して浮揚することと知ると、「大切な部下をそのような頼りないものに乗せるわけにいかん。」と激怒した。が、命令とあれば仕方ない。この演習を指揮したのは陸軍航空技術少佐の近藤石象だった。隊員たちは最初こわごわと気球にぶら下がっていたが、やがて500メートルの上空を音もなく漂うのに慣れてくると夢見心地となっていった。
演習は成功であった。これは人間1人用の水素気球であり、風の条件さえよければ夜間、音もなく敵地深く潜入できることが証明された。
近藤石象は元々陸軍の気象技師であったが、「ふ」号という風船爆弾を使えば人間を運搬できることを思いつき、それを実証した人である。
そもそも「ふ」号は米国本土を攻撃するために開発された兵器で、水素気球に爆弾と高度を調整する機器をぶら下げ、日本から偏西風に乗って3日程度で米国に到達することを狙っていた。実際に昭和19年11月から20年4月にかけて9000個以上の風船が飛ばされた。どのくらいの数が米国に到達したかは定かではないが、そのうちの1個がオレゴン州に到達、ピクニックに来ていた子供たちがそれを触り爆発、6人が犠牲となった。これは大戦中の日本軍による攻撃で米国本土にて死亡者が出た唯一の例と言われている。
さて近藤石象のほうである。風まかせの気球とはいえ、敵地に潜入するからにはやはり正確な場所に行けるようにしたい。そこで彼は現在の気球乗りがやっているように高度を調整して風向を選べるような工夫をした。このような苦労の末、昭和20年には「ふ」号を満州で量産できるような体制が整い、いつでも作戦を実施できるようになっていた。
しかしながら昭和20年8月9日、進入してきたソ連軍は怒涛の勢いで各地を攻略、南方に戦力を抽出されて弱体化していた関東軍はわずかに抵抗するのが精一杯で、とても後方攪乱するような余裕はなく、そして終戦となってしまった。
多くの工夫・努力を費やした作戦であったが、幸いなことなのか、敵にも味方にも1人の犠牲者殉職者を出すことなく、何ら戦況に影響を及ばすことなく、歴史から消え去っていった。ただ満州の空をゆらりと飛んだという記憶を残して。
戦後に近藤石象はその経験を生かして「ジャンピングバルーン」というスポーツを考案した。また「ブイヤント航空懇談会」を設立した。そしてその思想を気球乗りは受け継いでいる。
筆者紹介
西村一彦(にしむら かずひこ)
1960年生まれ
本業はコンピュータ・ソフトウェア・エンジニア。大学入学時に熱気球クラブに入部したことより気球活動を始める。最近の熱気球の飛行は2ヶ月に1回くらいと控えめ。