時空の漂白 54  PDF (2011年3月8日)  

広島・里山便り(2)                高橋 滋  

山歩きにせよ、自然観察にせよ、地形は基本事項であり、その説明は欠かせない。しかし、不慣れなもので、ついつい後回しになってしまった。

吉備高原面

広島県の中央部にあたる福富町(東広島市)にある鷹ノ巣山(922㍍)の頂上から東の方向を眺めると、地平線上に大きな山はなく、平坦な土地が連なっている。地理の教科書で吉備高原面と呼ばれる台地で、ここはまさに中国準平原であり、準平原にある起伏を指す「侵食小起伏面」という表現どおりの地形である。

昨年来紹介してきたフィールドとはかなり趣が異なる、しかも不慣れな話であるが、ご了承願いたい。

下の衛星写真(「日本の地形、東京大学出版会」)に見られる通り、広島湾の西側、広島県の東部から山口県にかけて、北東から南西の方向に直線状の谷が平行していくつも走っている。

谷のピッチは5~6キロ程度で、中国地方の他のところに、このような規則性があるところはみあたらない。

素人考えで、このでこぼこは、この山列に直角方向から力が加わって波板状になってできたのだろうと思ったら、地殻の変形はもっとスケールが大きいらしい。

日本列島の誕生

自分がこれまで知らなかったことにいろいろ驚かされる。頻繁に出てくる「プレートテクトニクス」の意味も知らなかった。「秋吉台あきよしだいの石灰岩は、太平洋の真ん中から運ばれて来た」ものだとの説明には、ただただ唖然あぜんとした。

日本列島は、もとは大陸の一部で、沈み込む海洋プレートで掻き取られた様々な時代の地層を横方向に積み重ね、2000万年前から1500万年前にかけて日本海を広げる形で、島(島弧とうこ)になったらしい。

200万年前にほぼ今の形になってから、中国地方は南北の力を受け、全体がゆるやかに曲降・隆起し、瀬戸内海は沈降し、その後、東西の力を受け、山列部分が「雁行状に断層を起こした」と説明されていた。

日本列島は、もとは大陸の一部で、沈み込む海洋プレートで掻き取られた様々な時代の地層を横方向に積み重ね、2000万年前から1500万年前にかけて日本海を広げる形で、島(島弧とうこ)になったらしい。200万年前にほぼ今の形になってから、中国地方は南北の力を受け、全体がゆるやかに曲降・隆起し、瀬戸内海は沈降し、その後、東西の力を受け、山列部分が「雁行状に断層を起こした」と説明されていた。

やや古いが、20万分の一の地図を見ると、このあたりが理解できる。

一番高度のある山列(昨年紹介した恐羅漢山おそらかんざんのある列:上図の三列の左端)が西中国山地の脊梁せきりょうである。

押ケ垰おしがたお断層帯」

この山列の隣、十方山じゅっぽうざんのある真ん中の山列の南のふもとに、「押ケ垰おしがたお」(“たお”は広島弁で峠の意味)」という地名が見える。ここに5万分の1の地図では「押ケ垰おしがたお断層帯」と記載されている。

調べると、この断層帯は国の天然記念物で、昭和40年(1965年)に指定された時は、断層としては日本では初めてだった、とあった。

ここは何度か走ったことがあるが、実際、そのような地形になっている。

3頁の地図に記載されている通り、立岩山のある山列に沿って、その南側に中国自動車道が通る広い大きな谷がある。これは「冠山断層」と呼ばれていて、この谷筋は北に伸びて太田川の一部となり、また山口県の方に下がると大きな渓谷になっていて、「非常に大規模な断層だったのだな」と実感させるスケールを持っている。

広島から直線距離で約30キロしか離れてないが、昨年報告した通り、ブナやミズナラ(水楢)が育ち、冬は雪が積もってスキー場となる。

オオヤマレンゲ(大山蓮華)やカタクリ(片栗)が見られるのもこの山塊である。

冠高原

冠山の肩の部分に冠高原という高度約800mの平坦地がある(地図からは少し外れる)。ここは蝶類が豊富で、かつてはゼフィルス(森林に棲息するシジミチョウ類)の宝庫と呼ばれた。

古い写真を整理し、2003年に撮った1枚の写真を見つけた。捕虫網で採ったので人には見せられないと放っておいたらしい。改めて確認すると、ウラミスジシジミ(裏三條蜆)という比較的珍しいものであり、自分でも驚いた。

私は中学生の頃、昆虫少年で、冬季に蝶の卵を採集するために信州や上州の山に出かけたが、信濃追分しなのおいわけという所がとりわけ記憶に残っている。ここは関東平野(高崎あたり)から見ると信州の高みにつながる入り口であり、平坦な高原性を持ちながら、浅間山のふもとという山岳性も持っている。

その信濃追分しなのおいわけと、蝶の種類といい、景観といい、冠高原は似たところがある。そう言えば、かつて冠山の麓の吉和は、温泉もスキー場もある別荘地で、「西の軽井沢」という打ち出しをしていた。この山列は広島市北西側の裏山まで連続している。広島市側から見ると、はっきりとした山脈であり、標高500m弱だが、広島の南アルプスという人もいる。両端は平地で、縦走は1日がかりとなる。

その隣は、極楽寺山697m、窓ヶ山711mなどのある山列で、宮島から本土を見た時、写真の通り、壁のように見える山脈の一部である。

里山の整備を行っているところとして紹介した湯来ゆき町の峠地区は、この山列の向こう側の斜面にある。陸軍省の標石があったのも、この山列である。

極楽寺山で、数年前に、広島県では準絶滅危惧種に選定されているギフチョウ(岐阜蝶)を見たことがある。ギフチョウは、カンアオイ(寒葵)類(サンヨウアオイ 山陽葵を食草としている。この植物が育つ環境 ---- 年間を通してやや薄暗く、春先は陽が射す所が維持されないと、ギフチョウは消滅してしまう。この植物が育つ、そういう自然が残っている所である。

広島の裏山の山列とこの極楽寺の山列には、活断層が確認されている。活断層というのは、地質学的にごく最近まで(過去数十万年程度?)に活動があったことがはっきりとしている断層であり、一つ一つ名前がつけられ、推定される地震の規模、発生サイクルが公表されている(証明のためにはトレンチを掘るなどかなりのエネルギーを要するらしい)。

この地域での活断層の基本は横ずれとされているが、押ケ垰おうけたおと同じく、上下に大きくずれたのではなかろうか。平坦部から頂上を見上げる勾配は直線 2.5キロに対して600mほど上がるもので、押ケ垰おうけたおの谷から十方山の山列を見上げる時とほぼ同じである。

極楽寺の山列と岩立山の山列の間に、2本の大きな山列がある。両方とも標高1000m程度で、広島市内では最も高い地点である。大峯山(1040m)、東郷山(977m)は遠目で分かる山容を持っており、ファンが多い。頂上部にはブナが少し残っている。

この2本の大きな山列の間は谷底が深く下がり、鋭いV字谷になっている。川は水内みのち川。太田川支流としては、最もパワーがあるのではないだろうか。 流域に湯ノ山温泉や湯来温泉ゆきおんせんがあり、キブシ(木五倍子)のあった石ヶ谷峡など渓谷も多い。

この谷筋の線を東南側に伸ばしてゆくと、高みを越えて小瀬川(広島山口県境の一級河川)の水系に入る。谷筋を出ると、やや平坦なエリアに入る。旧佐伯町の中心部で、ここに津田の園地(佐伯ガーデン)がある。津田には地域気象観測システム・アメダス(Automated Meteorological Data Acquisition System)の観測機があるが、その標高は317mとなっている。

ここから冠高原までは走り易い県道1本で、約20分(15キロ程度)である。

以上、つたない説明であるが、お分かり頂けたでしょうか。

これまで「準平原のなかのうねのようなもの」と表現してきた谷筋であり山列なのだが、改めて教科書を読み、地図を追いかけると、相当激しい断層地形であることは分かった。昨年来紹介してきた蝶や樹木にはかなりの多様性が見られたが、それは、この地形の変化の大きさに負うところが大きいのだろうと思う。

春は黄色から

昨年の夏暑かったので日本海の温度が高くなっており、今年の冬は雪が多いのではという予想があった。その予想は当たったが、1〜2月の気温の低さは想定外だった。廿日市津田では、最低気温がマイナス八度を切る日が5日もあった。そのうちの1日はマイナス10.1度だった。それでも1週から10日遅れで、春の気配が迫ってきた。

春先の樹木の花は黄色が多い、とかねがね思っている。昨年紹介したマンサク(万作)、キブシ(木五倍子)の他にも、トサミズキ(土佐水木)、シキミ(樒)、ロウバイ(蝋梅)、オウバイ(黄梅)、レンギョウ(連翹)など枚挙にいとまがない。

佐伯に植えてあるマンサク(万作)はとりわけ開花が早い。一月末には蕾がほころび始め、2月初めには咲き始める。岡山県北部の石灰岩地帯に固有のアテツマンサク(阿哲万作)の系列と聞いていたが、花が大きく、黄色が濃く、がくにやや赤みのある特徴からすると、シナマンサク(支那万作)のようだった。

もう一つ種類がハッキリしないのがミズキ(水木)である。3月頃、山間部を走ると、キブシとともにぱっと目に入ってくる。トサミズキ(土佐水木)かと思ったのだが、調べたら、その分布範囲はあまり広くなく、どうも見るのはコウヤミズキ(高野水木)らしい。

シキミ(樒)もかなり派手な花を咲かせる。なかなか目にしないが、一旦ありかを知ると咲くのが待ち遠しくなる花である。シキミは仏前の木とされて、一般的にはあまり好まれないようなのだが ………… 。

サンシュユ(山茱萸)は、子供の頃に住んでいた世田谷区の家の庭にかなり大きな木、と言っても株立ちで背は高くないが、2本あった。昭和10年頃の植栽だろう。

江戸時代中期に多摩地方で新田開発の褒美にサンシュユ(山茱萸)の苗木が名主に下付された(草木花歳時記、朝日文庫)とある。

日本に導入された直後のことであり、貴重品であったのかもしれない。世田谷は荏原郡で、多摩ではなかったが、大きな農家の多かったところで、この故事に絡んでいたのかも知れない。

実家では、この樹をずっとマンサク(万作)と呼んでいたが、大学時代に小石川植物園でサンシュユ(山茱萸)であると知った。黄色がとりわけ鮮明で、花の粒もしっかりとしていて、春先らしい花である。春黄金花(はるこがねばな)という別名が本当にふさわしい花木だと思う。

桜の頃には、山間部の集落でミツマタ(三椏)が見られる。これも中国から渡来したものある。室町時代に紙の原料として入ったということで、すでに、その役割は終わっているのだが、その柔らかい姿が好まれて生き残ったのだろう。

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イギリスのガーデン雑誌にミツマタなどの記述があったことを思い出して探したところ、ミツマタとマンサクが春先の花木として紹介してあった。

「春は黄色から」は万国共通のようである。