時空の漂白 57  PDF (2011年3月17日)   

海の物とも山の物ともつかぬ(6) 熱気球   西村一彦    

「バルーンメール」 

日本の気球大会ではあまり馴染みがないが、欧米の気球大会に参加すると、主催者から手紙の束を渡されることがある。

これは気球乗りと直接関係のない一般の方々が、その知人友人に向けて出す手紙なのだが、「この手紙は気球によって運ばれました。」という欄に気球パイロットが署名することで、大きな付加価値をつける「バルーンメール」というサービスである。当然のことながら気球がその手紙を受取人に直接運ぶのではなく、単に手紙を大会中の自由飛行に搭載するだけであり、その飛行終了後に手紙に署名を入れ、大会本部にその手紙を戻すのである。大会本部がそれらの手紙を郵便ポストに投函して、あとは郵便局まかせだ。

これをバルーンメールと言うには大げさだが、手紙を受け取った方々が喜んでくれるというのだから、気球乗りとして悪い気はしない。ただ人気パイロットになると、この手紙が日に数十通ともなり、署名を入れるのも一仕事になるのだが。

2011年1月14日  日本郵便の切手

最近の私たちは手紙を出すことが本当に少なくなってしまった。事務的な手紙以外では、せいぜい年賀状くらいである。

だが、その年賀状すらも若い人たちの間では廃れているという。会社の若者に聞いてみたところ、今年の正月に出した年賀状は数枚で、それも年配の方に対して出したものだけだという。

だからといって電子メールのやりとりは実に盛んで、親しい人には日に数度送っているという。

どうやら手紙は電子メールを扱えない旧世代との伝統的通信手段とされてしまっているようだ。

さて手紙と言えば切手である。切手の絵柄に気球が使われることはままあることで、特に海外ではよく見られるが、こと国内では私の知る限り2例しかない。その2例を次に示す。

写真一は1989年に佐賀、いや日本で初めての熱気球世界選手権(世界一の腕の気球乗りを決める競技会。2年に1回、世界のどこかで行われる)が開催された際に発行されたものである。これは佐賀の地元の高校生の絵が元になっていて、実在しない気球である。

写真二は画家の中島潔氏が書いた、同じく佐賀の気球大会の切手。(2000年)中島さんは佐賀県出身という縁で描いたとのこと。故郷切手ということなので、地元でのみ発行された。

そして今回追加されたのが写真三である。佐賀県の代表ということで選ばれたのが、佐賀出身の大隈重信、祐徳稲荷神社、吉野ヶ里遺跡、唐津くんち、そして佐賀バルーンフェスタである。

佐賀バルーンフェスタは毎年10月末から11月頭の約1週間、佐賀市で実施される熱気球の大会だ。

これは日本最大の参加気球数(約100機)を誇る、日本でもっとも有名な熱気球の大会だ。観客数も大会中通算して約100万人、佐賀県で最大のイベントとなっている。

ところで、このバルーンフェスタの切手の中央にドカンと出ている虹色の気球は、実は私の所有する気球である。この気球でバルーンフェスタに参加したのは1回だけ。10年ぐらい前なのだが、なぜかこの気球が地元佐賀の方々の気球を差し置いて切手の絵柄に採用されてしまった。

他の方々に申し訳ないと思いながらも、この幸運は一生モノと思っている。もっとも、これだけの幸運であれば、宝くじ一億円にも匹敵しそうなものだが、それがまったくそうではなく、一銭の金にも結びつかないところが私にはなんとも似合っているようだ。さらに気球のバスケット部分を目を凝らして見ると、人影が見えるが、この人物はおそらく私であろう。私以外であるとはなかなか考え難い。

 まさか日本の国の切手に掲載される人物になろうとは、…………。

 ここまでくると漫才だが、同じ切手シートにある大隈候と比べ、人間の大きさの違いを見せつけられてしまった。いやはや。

1785年1月7日       パリ 航空郵便

私が青年になる頃まで、航空郵便(エアメール)は特別な趣があった。そもそも海外に手紙を出すには英語とか海外の知人とか、といった壁があり、これを乗り越えるのは普通の日本人には困難だった。

仕事柄、今ではほぼ毎日のように電子メールで海外の人とやりとりをしていて、あの趣は遠いものとなってしまった。

航空郵便というからには、郵便物を運ぶ航空機が必要である。気球が飛び始める以前は伝書鳩に手紙を運んでもらったりしていた。これも空を飛んで運ばれたということでは航空郵便の仲間と言えなくもないかも知れないが、人間が手紙の束を抱えて運ぶということからすると、最初の航空郵便はやはり気球で運ばれたということになる。

      ---------

この日、イギリスからドーバー海峡を超えてフランスにやってきた気球は郵便を運んできた。運んできた手紙はウィリアム・フランクリンが子供のウィリアム・テンプル・フランクリンに宛てたものであった。ウィリアム・フランクリンの父はベンジャミン・フランクリンである。これは初めて気球・航空機がドーバー海峡を越えた飛行でもあった。

この飛行が企画されたのは、モンゴルフィエ兄弟の気球初飛行から約一年後、ジャン・ピエール・ブランシャールによってであった。

彼は史上初のドーバー海峡越え飛行を企て、見事に成功した。1785年のことである。この気球は水素ガスを納入したガス気球だったが、海峡越え飛行の途中で気球が浮力不足となってしまった。このままでは海に着水してしまう。彼はバラストを全て捨てたが、それでも足りず、積んでいた気球の装備品をどんどん捨てていった。服も脱ぎ捨てほとんど全裸となり、小水を放出してやっと浮力を回復。彼がフランス着陸時に持っていたものは温度計・気圧計・ブランデー1本・1束の手紙だけだった。

ブランシャールは当時貴族中心に行われていた気球活動において、庶民階級出身者でありながら機械技術力と驚異的企画力でパトロンを獲得し、世界初のプロ気球乗りになった人である。

自己中心的性格で敵も多かったようだが、各地での興行飛行は好評だった。1793年にはアメリカ・フィラデルフィアで遊覧飛行を企画。この飛行会場にはジョージ・ワシントン大統領を初め、ジョン・アダムス、トマス・ジェファーソン、ジェームス・マディソン、ジェームス・モンローの歴々も現れた。

考えてみれば、失敗する可能性の高い、ドーバー海峡越え冒険飛行にわざわざ著名人の手紙を携えるところなど、興行師としても見事なものである。ある意味、彼は気球の本質を分かっていたのかもしれない。

このようにブランシャールはプロの気球乗りとして活躍したが、残念ながら生活はそれほど裕福ではなかった。ガス気球の運用には高額な費用がかかるので、多少の興行の成功くらいでは経済的余裕は生まれなかった。

彼は彼の夫人に、「俺が死んだらおまえは川に身を投げるしかないかも」と言い残したが、彼の死後、跡を継いだ夫人は興行的大成功を得て、これまた世界初のプロ女性気球乗りとなった。

しかし彼女は気球飛行中に墜落死し、最初の女性の航空機犠牲者となった。

1870年9月23日       パリ 航空郵便

それから100年近くが過ぎ、もはやパリでの華やかな気球の飛行など、過去の伝説となったと思われたころ、一機のガス気球がサンピエール広場で離陸準備を始めていた。この気球はあまりにもおんぼろで、本来の気球の華やかさとは無縁なものだった。しかしながら、その気球にかけるパリ市民の期待は100年前と比べてけして劣ってはいなかった。

時は普仏戦争、プロイセン軍にパリは包囲されていた。そのためフランス軍は外部との通信手段として、気球を使うことを企てた。地上の通信手段がすべて閉ざされたこの状況で、パリと外界との絆は、もはやこのみすぼらしい気球でしか実現出来なかった。

103キロの郵便物を積んだ気球はみごと包囲網の上空を越え、郊外に着陸。その郵便物はトゥールの臨時政府まで無事届けられたのだ。

この成功を機にパリ市内で気球が量産され、終戦までに66機の気球、102人の人間、250万通の手紙がパリから運び出された。これらの気球は伝書鳩も運んだので、外からパリに手紙を届けるのには伝書鳩が使われた。一国の政府の主要な業務は、これらの気球が運ぶ通信文によって支えられていたのだ。

通信のために、何と手間をかけたことなのだろう。それほど人間社会には通信が大事なことなのだろう。ケータイで通話ボタンを押せば、メールで送信ボタンを押せば、世界中のほとんどの場所に瞬時に届く現代からは、その有難みは実感できない。

参考図書

「はじめに気球ありき」ライフ 大空への挑戦

Donald Dale Jackson Time-Life Books Inc. 1980.

日本語訳 西山浅次郎・大谷内一夫

——————————————

筆者紹介

西村一彦(にしむら かずひこ)

 1960年生まれ
本業はコンピュータ・ソフトウェア・エンジニア。大学入学時に熱気球クラブに入部したことより気球活動を始める。最近の熱気球の飛行は2ヶ月に1回くらいと控えめ。