時空の漂白 58 PDF (2011年3月29日)
海の物とも山の物ともつかぬ(7) 熱気球 西村一彦
熱気球大会などで多くの熱気球が浮かんでいる写真を見ると、どの気球もデザインに気を使っていることが分かる。宣伝広告用の気球ならともかく、私たちの趣味のための気球でさえも、色使いなどに工夫をしている。大抵の熱気球は熱気球クラブ単位での共同購入品なので、お金を出し合う以上、どのようなデザインにするかクラブ員で案を出し合って検討する。それもあって決定したデザインはそこそこの水準になるようだ。(もちろん例外はある。)
考えてみれば不思議だが、あの人類最初の航空機であるモンゴルフェの熱気球も凝った装飾がされていた。(太陽と風の神の絵か?)装飾をしなければかなりの軽量化が出来たはずだし、それに紙製の球皮は使い捨てなので、装飾に凝ってもしょうがないように思えるのだが、それでも当然のように装飾がされていた。
大勢の人々の目に触れるものは当然、美しくなければならない、ということなのだろう。
これだけ大きくて人目を引くものを広告媒体として使わない手はない、ということだろう。
熱気球の大会ともなると企業や団体の名前やマークの入った気球がたくさん参加してくる。世界には熱気球メーカーが数社あり、これらのメーカーにアートデザインを渡すと、そのデザインで気球を綺麗に作ってくれる。
私たちが通常使っている比較的単純な配色の気球で、球皮部分は大体200万円くらいであるが、企業のマーク入りとなると大体300万円からとなる。
凝ったデザインほど高く、金額はその都度の見積もりとなる。それでも、まあ企業の広告宣伝となれば安いのかもしれない。
気球を運用している現場の人は、たいてい趣味でやっている人である。
この特殊技術を持つ人たちを各企業がそれぞれ抱えようとすると、お金は掛かるし、だいたい無駄である。一方、趣味で気球をやっている人たちにとっては、気球機材がタダで与えられる上に、お小遣いも期待できるとなれば、嬉しい限りである。双方の利害が一致する、ありがたい話である。
もっと人目を引きたい人には、球皮の形そのものを変えるやり方もある。スペシャル・シェイプトバルーンと呼ばれる熱気球はお値段が1500万円以上と言われるが、その広告効果はすばらしいものがある。マンガチックなものからリアルなものまで様々だが、これが空に浮かんでいるとより非日常感が高まる。
こういった形の気球は力学的には無駄が多いので、結果、燃費が悪かったり、強風に弱かったり、寿命が短かったりする。準備するのも飛ばすのも片付けるのも手間がかかるので、気球乗りとしては実はあまりやりたくないものだ。
ただし、特に子供たちの受けが大変良いので、そういった声援を受けるとやりがいを感じたりもする、悩ましい存在である。
世界には10社以上の気球メーカーがあると言われているが、その規模はいろいろだ。日本には2社あるが、いずれも個人経営でこつこつと作っている。
主流はアメリカ、ヨーロッパで、最大手メーカーでは、年間400機ほどを製作している。日本の気球乗りは、アメリカ・イギリス・スペイン・チェコあたりのメーカーから購入している。
以前は日本国内で製造される熱気球はもっと多かったのだが、円高のため輸入するのが普通になってしまった。中国にもメーカーがあるらしいが、世界に輸出するほどにはなっていないようだ。
1976年1月6日 広島 とある学生アパート
1969年に「イカロス5号」が飛行に成功して以来、多くの若者がイカロス昇天グループに熱気球の作成方法を教えてもらいに集まった。当時の主流は大学の探検部である。
数年の後、日本にはこれらの若者が作成した熱気球が続々と誕生した。
これらの熱気球は「イカロス5号」の兄弟であり、気球の形も良く似ていた。なぜなら回転体の気球の外形には「イカロス5号」の設計者の島本伸雄が考案した「自然形」という張力計算式を採用していたからである。
熱気球は通常、赤道から上は球形に近い楕円形、下はなだらかな曲線を取る。最小の表面積で最大の体積を実現するには完全な球体が良いが、上側はともかく下側はバスケットを吊り下げる都合で、球形にはできない。
また球皮にかかる力を考えると、縦方向は浮力と重力の釣り合いで一定の張力となるが、横方向はラインの形によってはマイナスの張力となる。そうなっては気球の下側がしぼんでしまう。熱気球の場合、下側に火の炊き込み口が開いているので、ここがしぼむのは大変不都合だ。
従って、下側の火の炊き込み口の横方向のラインはプラスの張力になるようにしなければならない。「自然形」はこの横方向の張力をほぼ0、わずかにプラスになるようにするラインである。
いろいろなスペシャル・シェイプト・バルーンを見てきている私たちには、このような張力計算に、それほど神経質にならなくても良いのではないかと思ってしまうが、万一破れたときのことを考えると、できるだけ球皮に張力がかからない「自然形」のラインはやっぱり理にかなっている。
ちなみに現在の「ハイパーラスト」と呼ばれるナイロン布は新品であれば大人の力でも引き裂くことは難しい。通常のナイロン布でも当時のものより丈夫だ。風の強い日に気球を膨らませる場合、プラス張力のほうが風の力に負けずに膨らんでくれるため、現在はやや強くプラス張力になるラインが採用されている。だから現在の目で見れば「イカロス5号」のラインはずいぶん古風な印象を受ける。
最近のレース用の気球は高速の上下運動ができるよう、かなり細長い形をしている。以前に述べたように、気球は高さによって異なる風を選ぶことで行きたい方向に進むので、高速の上下運動ができるということは、風を選ぶ自由度がより大きくなり、レースにおいても有利だからだ。
私が入部した広島大学の熱気球クラブは、設立が一九七五年ということで、部長の角田正もクラブ設立後、すぐに熱気球の自作を始めた。今なら大勢の部員を集め、お金を徴収し、外国のメーカーに気球を発注するところだが、当時の熱気球クラブはまず自分たちで気球を作るところから始めるのが普通だった。
当時はまだ1ドル=300円くらいだったし、外国の気球メーカーに“つて”がないし、そしてその気球メーカーが作る気球と、自作気球との品質の差があまりないと思われていたからだ。
それに金はなくとも時間がある大学生のこと、自分たちで作ったもので空を飛ぶという誘惑。学生時代に大きなことをひとつやろうと考えていた若者たちが、気球作りに熱中したとしても不思議はない。
その他、気球を自作する利点として、自分たちで球皮の修理ができるようになることもある。たまには球皮が破れることがある。準備したり片付けたりするときに尖ったものに引っ掛けて、かぎ裂きができたりする。またバーナの使い方を誤って球皮を焼いてしまうこともある。
熱気球は球皮内圧が大気圧と比べてそれほど大きくないので、少々の穴が開いてもさほど飛行に影響ない。ただ生き物ではないので、開いた穴をそのままにしておくとその穴が広がることはあっても逆はない。
だからなるべく早く穴は塞ぐべきだが、自作の経験・設備があると、こういった修理はさっさと自分たちでやってしまえる。メーカーに修理を依頼すると、時間もかかるし金もかかる。学生や気球の初心者は球皮を痛める可能性が高いので、自分たちで修理が出来ると、すごく気楽になれる。
島本伸雄らは気球の設計方法と操縦運用方法を全国から集まった若者たちに教えた。これが日本の気球界の第一世代となった。角田はその第一世代から教えを受けたので、第二世代ということになる。私は、その角田から教えを受けたので、第三世代ということになる。
当時の製作ノートを読むと、気球の設計方法や製作方法、そしてそれに混じって若者の不安・葛藤・悩みが綴られている。
1975年には学生運動こそ下火になっていたが、表現を変えた青春がそこにはあった。
張力方程式と幾何方程式を計算して布の裁断図を求めるためには、どうしてもコンピュータの力が必要となる。
1975年には、まだパソコンは一般的でなく、一部の学生だけが使えた大学の汎用計算機を計算機室に忍び込んで使ったりしていた。
しかし、私が入部した1979年には、大ヒットとなったパソコンが登場した。日本電気、NECのPC8001である。これを、意を決し、角田と共同で大枚叩いて購入した。懐かしい、良い思い出となっている。
このパソコンはローンの金利を含めると、当時で90万円にもなった。大学卒の初任給が10万円ぐらいの時代である。
これの諸元は、
・クロック数MHzの高性能8ビットCPU。
・メモリはたっぷり32Kバイト。
・無名の若者ビルゲーツによって開発されたバグありBASIC言語。
・専用モニタにより実現した160x100ドット8色カラー高解像度グラフィック。
・140Kバイトものデータを高速に記録できたフロッピーディスクドライブ。
・英数字カタカナのみ印字でき、よく紙送りミスをしたドットマトリクスプリンタ。
今から見ればおもちゃ以下の代物だが、そのパソコンが私たちに可能性を与えてくれた。
気球を1機作るのに必要な材料は幅約1m長さ100mのナイロンの反物が約12本。この本数は気球の大きさと裁断形式、配色によって異なる。
色は反物単位で決まるので、多数の色を使うほど、反物の数が必要になる。
それらを裁断図に基づいて台形に切り、ミシンで縫い合わせていく。一機の気球を完成させるには、裁断方式にもよるが、大体十㎞を縫わなければならない。
家庭用ミシンでこれだけの距離は縫えないので、中古の工業用ミシンを買い、自分たちでミシンの調整をしながら、何日もかけて(大学の授業はときどきサボって)黙々と縫った。
学生アパートの6畳間にミシンを持ち込み、気球一機分を縫っていると、終盤には6畳間すべてがナイロンの球皮で溢れ、自分がどこを縫っているのか分からなくなる。
ただナイロンの裁断時に布に付けたマークと工程表を頼りにひたすら縫う。気球の縫製は地球儀を作るように縦横に縫うのだが、最上部と最下部は開かれている。
最終工程でドーナツのように縫い合わせるときに「メビウスの輪」にならないようにしなければならない。
こうして縫製されたナイロン布の山は見ただけでは完成したか分からない。ただ工程表に沿って縫製し、工程表が埋まったから、おそらく作業は完了したのだろう、と推測するだけだ。
球皮は以上のように作っていくが、その他の部分も金のない学生のこと、出来るだけ自作する。人の乗るバスケットは材料の籐をまとめて買って、これを大学の池に一晩放りこんでおく。適当に水を吸ってやわらかくなった籐を編んで箱状にし、仕上げにニスを塗れば完成だ。
容器証明が必要なことから高圧ガスボンベは、流石に自作は出来ないが、それでもメーカーに仕様を伝えて特注で作ってもらう。バーナもステンレス加工が難しいのでメーカーに仕様を伝えて作ってもらう。
こういった手順で作っていくとざっくりした材料代で当時の金額にして150万円くらいだ。
「空を飛ばすなんて、保証はできねえなー」とか言いながら、まったく儲けの出ない格安価格で受けてくれた当時のメーカーの方々には感謝している。
一通り揃ったところで、次は進水式(進空式?)だ。
気象状況のよい早朝、クラブ員を集合させ、大学のグラウンドにナイロン布の山を持ち込む。バーナ・バスケットを接続し、空気を中に入れ、徐々に膨らませていく。ナイロン布の山だったものが、だんだんと命を吹き込まれるがごとく膨張し、そして地上から立ち上がる。
立ち上がった瞬間、何ヶ月もかけて縫った証である縫製時の糸くずが花吹雪のように気球内部から私たちの頭上に降り注ぐ。出来たばかりの真新しい気球は朝日によってまばゆく輝く。数ヶ月の苦労が喜びに変わる瞬間だ。
機体をチェックし、製造の不具合がないことを確かめたら、次は命名式だ。この気球に名前をつけ、ワインの栓を抜き、ワインを少し気球にかけ、そして、みんなでワインを回し飲みして、この気球のこれからの飛行の無事を祈る。
私がクラブに入部した時点ではクラブ所有の気球は一機だけだったが、私の在学中に、私は三・五機の気球を作った。〇・五機というのは、クラブ最初の気球の上半分を作り変えたからだ。
そして私の作った気球で多くの後輩が気球パイロットになり、フランスやアメリカの大会に参加もした。メーカー製の気球と比べてけして性能が良いとは言えなかったが、安全に飛行し、寿命を全うしたこれらの気球は私たちの誇りである。
時は流れ、自作が当然だった日本の気球界も、もはや特別なことでもなければ気球を自作するなんてことはなくなった。変な話だがこの体験ができない若い気球乗りに若干の申し訳なさを感じながら、あのころのことを懐かしく思い出している。そして、実は今、私は自作を企てていたりする。
私が所有している自分の機体は作られて20年になる。強度的には問題ないが、球皮の気密性が劣化していて燃費がだいぶ悪くなっている。そこで、この機体の球皮を新しいナイロン布に縫い直すことを考えている。もちろん手間暇考えれば新品を買うほうがよほど良いのだが、愛着のある機体だし、趣味でやっているものだからそれも良いかな、と。
自分で作ったもので空を飛ぶ。ほぼ熱気球だけに許された特権なのだ。
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筆者紹介
西村一彦(にしむら かずひこ)
1960年生まれ
本業はコンピュータ・ソフトウェア・エンジニア。
大学入学時に熱気球クラブに入部したことより気球活動を始める。
最近の熱気球の飛行は2ヶ月に1回くらいと控えめ。