時空の漂白 58  PDF (2011年4月19日)   

海の物とも山の物ともつかぬ(8) 熱気球   西村一彦      

気球は風まかせだから離陸した場所に戻ってくることはほとんどない。だから気球を追跡する車は必須である。私の熱気球クラブでも気球に搭乗する搭乗する者と、それを地上で自動車に乗って追跡する者とに分かれて楽しんでいる。

気球がどこかに着陸するとやがて自動車に乗って追跡していた者が到着する。そして搭乗していた者と追跡していた者とが力を合わせて気球を分解し、追跡に使ってきた自動車に積み込み、それに人も乗り込み一緒に帰る。

もちろん交代制である。気球は1人では出来ない活動である。

風に乗って流れていく気球は、時に地上の自動車には追いつけないほど速く飛んで行く。何しろ空には交通信号も渋滞も遠回り道もないのだ。気球の速度が毎時20㎞ぐらいになると、かなり困難となる。でも、それを地上で野を越え山越え追いかけるのはそれなりに楽しい。

最近は携帯電話のお陰で気球を見失うことはあまりなくなったが、携帯電話が普及する以前は気球をよく見失った。気球に無線機は積んでいたが、性能がお粗末で、空に浮かんでいる間はなんとか通話ができても、着陸してしまうと、わずか二㎞離れているだけで交信ができなくなるような代物だった。

私が経験した例だと、交信ができなくなって、探し出すのに半日も掛かったことがあった。

このようなことが起きても古い気球乗りは対処方法を知っている。気球に乗っていた者たちは着陸した気球からガスボンベを取り外し、近くの道路まで運んで、道路際に置くのだ。

地上で自動車に乗って気球を追跡していた者たちは、着陸したと思われる地点をぐるぐると自動車でひたすら巡回する。道路際に置かれたガスボンベを発見するまで巡回を続ける。

そしてガスボンベを発見したら大声を上げるか、自動車のクラクションを鳴らし、連絡を取り合うという次第である。

気球に乗ってきた者たちにとっては、日が暮れてくると発見してもらえる可能性はますます厳しくなるが、気球を確保しながら、いざとなれば大きな球皮の中に潜り込んで寒さを回避する手段がある。ビバークの覚悟もしているのである。

不幸?にして最近の若い気球乗りにはこのような体験をする機会はない。だが油断は大敵である。「東日本大地震」(東北地方太平洋沖地震)が良い例である。いろいろあるが、気球乗りは、最低限度、携帯電話が使えない事態は常に覚悟し、対応できるようにしなければならないのである。

一つの熱気球チームは5人程度で構成されている。それは1台の気球追跡車に乗れる人数に限りがあるからだ。気球追跡車が2台になると効率が悪くなる。

日本で気球追跡車として使われている自動車は、トヨタ・ハイエースか、日産・キャラバンのどちらかであることが多い。これらいわゆるワンボックス車は、分解した熱気球一式と、そのチームメンバーをきっちり1台が暴露される自動車は気球追跡車には向いていない。

すべてが1台に納まる気球追跡車は、当然のことながらチームの一体感醸成に貢献する。学生熱気球クラブの新人は、すぐに自動車運転免許の取得に努めなければならない。まず自動車を運転し、地上で気球を追跡する役割を担うことができるようになるためだ。

だから気球乗りが自動車運転免許を取って初めて公道を走った車は気球追跡車であることが多い。(私もそうだった。)

しかし、初心者の運転で道なき道も気球を追跡して走るため、そしてそもそも自動車にまであまりお金をかけられないため、気球追跡車は、大抵、おんぼろ・ボコボコである。それでも気球乗りは気球追跡車に大きな愛着を持っている。

1908年 ロールスの気球追跡車

高級車の代名詞となっているロールスロイスは、貴族でスポーツマンでモータースポーツにも入れ込んでいたチャールズ・ロールスと、頑固な技術屋のヘンリー・ロイスの2人によって1906年に設立された会社であるが、チャールズ・ロールスはモータースポーツだけではなく空の世界でも先駆者であった。

趣味として気球飛行を楽しみ、またライト兄弟から初期の飛行機を購入して乗ってもいた。

その彼が自分の気球遊びのために作ったのが「ロールスロイス シルバーゴースト バルーンカー」である。

「シルバーゴースト」は初期のロールスロイス製品の中でも代表とされる名車で、そのエンジンは「ささやくように」静かに回った。

その「シルバーゴースト」を使った気球追跡車! 特注の車の後ろ半分は気球が積めるように平らにされていた。当時、高級車はコーチビルダーという専門業者によってシャシーより上は顧客の要望を聞いて個別に作られていた。

なお、ロールスロイス車にはボンネットに「Sprit of Ecstasy」という翼を広げた精霊像の飾りが付いているが、これは1911年から付け始められたもので、この「バルーンカー」には付いてはいない。

もっとも残念なことにチャールズ・ロールスはこの車を実際に気球飛行で使ったことはないようだ。そしてチャールズ・ロールスはロールスロイス設立の僅か4年後の1910年に飛行機の事故で亡くなってしまった。チャールズ・ロールスの空の人としての活躍を知る一般の人は少ない。

ロールスロイスは、会社として気球に関わることはなかったが、その技術力によって空の世界においても名エンジンを生み出している。特に「マーリン」は大戦中のスピットファイアやムスタングといった飛行機に搭載され、これらを名機とする原動力になった。今でもロールスロイスはジェットエンジンの製造を通して航空界に深く関わっている。

1901年に初めて気球に乗った彼は、その感動から友人とイギリスに「王立航空クラブ」(Royal Aero Club)を設立した。そして貴族階級の人々は気軽に気球に搭乗できるようになった。

同様の組織はフランスなどにも設立されており、これが連携し、1905年「国際航空連盟」(Fédération Aéronautique Internationale, FAI)として組織されることとなった。日本では1913年に「帝国飛行協会」が設立され、FAIに参加した。第二次世界大戦後、「帝国飛行協会」は「(財)日本航空協会」に改組され、日本代表としてFAIに加盟している。現在FAIは各国航空スポーツ界の調整組織となっている。規模は違うが、自動車界における「国際自動車連盟」と同様の性格をもつ組織である。

ちなみに「日本航空協会」の歴代会長には元日本航空社長、元全日本空輸社長、元運輸事務次官といった方々が就任してきている。まあ、そういった感じの組織である。

私たち気球組の「日本気球連盟」も、その構成員となっている。こういった関係から、以前書いたように、日本においては国家資格ではない熱気球の操縦者免許が海外の熱気球国家資格である操縦者免許と同等の扱いを受けられるようになっている。

2006年11月25日  栃木県 茂木町 熱気球世界選手権大会 

熱気球の世界選手権大会は2年に1度、世界のどこかで行われる、世界一の熱気球操縦者を決める競技会である。

この競技会には世界各国の国内競技会を勝ち抜いた腕利きが約百人集まってくる。各国から参加できる選手は2〜3人だ。日本人も毎回参加しているが世界のカベは厚く、過去に世界チャンピオンになった日本人はいない。FAIはこの大会を「公認」することで、世界チャンピオンという権威付けをしている。

二年に一度の大会開催地の選定は各国の綱引きで決まる。オリンピックの誘致と同じである。

日本では1989年と1997年に佐賀で、そして2006年に栃木で行われた。「世界選手権の開催」はFAIの大きな業務であり、この2006年の大会にはFAI会長が来日した。せっかくいらっしゃるのであるから、ぜひとも競技会の最中に気球で飛行してもらおうという話になり、なぜだか分からないが私がその飛行のパイロットとして選ばれてしまった。

VIPを乗せる飛行は時々依頼され、安全第一でなければならないのは言うまでもないのだが、それだけに留まらないこともある。

私の友人は羽田孜元首相にご搭乗頂いて雲の上を楽しく飛行したが、大変だったのは地上だった。

気ままな風に流されて動く気球を見て、「気球はどこに行くんだ、教えろ!」と、警備の方々が恐ろしい形相で聞いてきた。私たちは「風まかせですから私たちも分かりませーん。」と答えた。やがて警護の方々は「あ、あそこに降りるぞ。」と言うと、車で気球に向かって走っていった。

田圃の畦道を砂埃を立てて走っていく黒塗りの車列。上にいる人と下にいる人たちの気持ちの違い。なんとも可笑しかった。

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当時のFAI会長ポートマンさんは実に気さくな方で、気球での飛行を本当に楽しんでいるようだった。選手たちが競い合っている様子を空中からご覧になったりして、ご機嫌だった。

私も通常VIP飛行は無難に終わらせるのだが、この日は美しい日本の山々の紅葉と、それを背景に高度な飛行テクニックを競って戦う選手たち、それとポートマンさんの人柄で、ついつい無理をしてしまった。

予想していた風がぼけ始め・・・・・私たちの気球は山中を右に左に漂うことになってしまった。

この時、地上で追いかけていたのは警備員ではなく日本航空協会の方たちである。しかし、この方たちも気球のことはよく知らず、「どこに降りるんだ。」と無線で問い合わせてくる。特にホスト役の日本航空協会顧問の平沢秀雄さんはかなり焦っていらっしゃるようだった。

そうこうしているうちに燃料が残り少なくなってきて、私自身も、まあ最後は何とかなるだろうという気持ちではあったものの、ちょっと焦ってきた。

会長は私を信じてくれているのか、平静である。地上の人たちを相当心配させながら、そして、最後は木々の小枝に接触しながら、なんとか気球を無事に谷間のわずかな空間に着陸させることができた。

機体にも乗員にも地上施設にも損害はなく、まあこんなもんだろう、と思っていたが、会長は大変に感激して「これはアドベンチャー飛行だ、西村はすばらしいパイロットだ。」とおっしゃって、FAIのピンバッチを胸につけてくださった。いえ、そもそもそのような状況にしてしまったのは私の判断ミスなんですけど …………。

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筆者紹介

西村一彦(にしむら かずひこ)

1960年生まれ

本業はコンピュータ・ソフトウェア・エンジニア。大学入学時に熱気球クラブに入部したことより気球活動を始める。最近の熱気球の飛行は二ヶ月に一回くらいと控えめ。