時空の漂白 63  PDF (2011年5月6日)  

広島・里山便り(4)                高橋 滋  

4月5日は「二十四節気せっきの一つ「清明」であった。

 

「太陽が天球上を1(太陽)年で西から東に1周する大圏を黄道こうどうという。黄道こうどう一周を24等分し、太陽がこの分点にあるときの季節に相応する名称を付して、これを24節気せっきという。」(国史大辞典)。清明は、ある説明では、「すべてが明るく清らかで、生き生きとしてすがすがしく感じられる頃。草花も咲きはじめ、小鳥達も賑やかにさえずりだす。」とされている。

今年の3月は、月末まで強い寒波がたびたびやってきて、非常に寒かった。下旬の平均気温は平年より3度も低く、広島市の桜の開花は4月にずれ込んだ。

しかし、ここ数年暖冬傾向だったので、3月中旬から下旬にかけての開花が普通のことになっていたが、かなり最近まで、桜は新学期の頃に満開になるものだった。開花は3月28日というのが平年だったと思う。

4月の初めは、安定した高気圧に覆われて気温が高い日が続いた。4月5日も快晴で、植物も動物もいっぺんに動き出した。

暖かさに誘われて蝶(ルリタテハ)が飛び出し、鳥(ヤマガラ)が慌ただしくなり、山のタムシバが満開となった。

タムシバ(田虫葉)は、コブシ(辛夷)とよく似た花を咲かせるモクレン(木蓮)科の樹木で、このあたりでは多く見受ける。(図鑑では、「特に日本海側に多い」とあり、関東では余り目にしない木かもしれない)

隔年に花を多く咲かせるというが、私が見たのは4年ぶりで、観察に来ていた人によれば、ここ10年で最も多い着花だと言う。

震災の影響もあって気持ちが縮こまっていたが、眺めていたら自然に体が弛み、気持ちも和んできた。

若い人が「二十四節気せっき」という言葉をどう思い、季節感を何で感じるのかかよくわからないが、私には「こよみ通りだな」という印象だった。

「暦」---「旧暦」・「新暦」

こよみ」という言葉を口にして、改めて「こよみ」とは何かと考える。「こよみ」は明らかにもともと日本で使われていた「大和言葉やまとことば」である。いつのころか、渡来人が「こよみ」の概念を持ち込んだとき、迷うことなく、この「大和言葉やまとことば」を対応させたのだろう。

そんなことを思いながら、「こよみ」に関係する本を図書館で借りて読んだら、またもや判っていたつもりが不正確だったことに気付かされた。

スローライフを志向する一部の人は、「旧暦」に基づく生活を推奨している。「旧暦」は季節の推移を反映し、生活に密着しているという。

「旧暦」とは、基本的には、月の動き(1周約29.5日)にあわせて、1ヶ月が29日と30日の月を交互に配するカレンダーである(太陰暦たいいんれき)。

月の満ち欠け、潮の動きと日付が一致し、沿岸漁業をする人には便利で欠かせないものだったのだろう。林業の世界では「新月伐採しんげつばっさい」という考え方がある。満月の頃に伐採した木は水分や澱粉質が多くて傷みやすく強度も出ないので、新月の頃に伐採しなければならないという。(「月齢伐採げつれいばっさい」、「新月の木」という言葉も使われている。)

月の変化は肉眼で見て非常にはっきりとしている。天のカレンダーとなっている。その点で合理性はある。

しかし、月が地球の周りを12回、回るのに要する日数と、地球が太陽の周りを1回りするのに要する日数を比較すると、11日、地球が太陽の周りを1回りする「一太陽年」の方が長い。太陽の動きを考慮して補正しないと、季節と月の関係が乖離してしまう。

季節の動きを確実に把握することは農業社会では最重要事項であった。精神生活でも古代では日食も月食も重要な意味を持ち、月の動きを基にしていたこよみを、太陽の動きとも連動させる必要があった。

そのために3年に1回程度(実際は19年に7回)、12ヶ月の他に「閏月うるうづき」を加えてギャップを解消する工夫が行われた。たとえば、4月の後に挿入されると、「閏4月うるうしがつ」と呼ばれた(太陰太陽暦)。

この、月の動きを基にした、いわゆる「旧暦」は中国で開発され、仏教とともに日本に導入された。「閏月うるうづき」が入るのだから本来、「旧暦」の月別の季節感は一定したものになるはずがない。「今年は閏月うるうづきが入るから、閏月うるうづきの入る季節が長くなる」というようなことも無論ない。

「旧暦」は明治5年12月3日にグレゴリオ暦(太陽暦)、「新暦」に切り替えられ、同日が明治6年1月1日とされた。新旧の暦のずれ(1月が、いつ始まるのか?)は、この時の名残であるとも言えるし、そもそもグレゴリオ暦の考え方と、日本の「旧暦」そして「旧暦」の基本である中国の暦の考え方とは違うのだとも言える。

西洋の暦の歴史は古代ローマに遡る。紀元前753年に採用された古代ローマのロムルス暦では1年は10ヶ月、3月から始まり12月で終わっていた。

1年は304日。年末の12月30日から年初の3月1日の間に、日付のない日が約61日あった。

農耕暦で、寒冷で仕事のできない季節には日付は不要だった。春になり、畑仕事を始める時期を迎えると王が新年を宣言したという。「西洋の暦法は春分を中心としている」と言われる所以であろう。

紀元前713年にはローマ国王ヌマ・ポンピウスが採用したヌマ暦によって、1月と2月が付け加えられ、1年は12ヶ月、365日という形となった。

これがローマ暦として600年以上使用されたが、天体の運行とのズレを補正する「うるう」の入れ方が恣意的である上、誤差も累積して大問題になった。

そのためガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は紀元前46年の日数を90日増やして445日とし、翌紀元前46年からは 「太陽暦」に移行された。

1年を原則として365日とし、4年毎に閏年うるうどしを置き、その年の2月末に1日を加えて366日とするというものである。いわゆる「ユリウス暦」である。これが、その後、1500年以上、ローマでは使用されることになった。

1852年、ローマ教王グレゴリウス十三世によってユリウス暦が改良され、現行の太陽暦「グレゴリオ暦」が制定されるまで使用された。

1年は365日とするが、400年間に97回の閏年うるうどしを設け、その年を365日とするものである。

その時、日本は江戸時代の末期、幕末であった。「グレゴリオ暦」が制定された翌年の1853年には、米国のペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、大騒動になり、続く1854年には日米和親条約が締結され、鎖国体制が終焉した。そして「グレゴリオ暦」が制定されてから16年後の1868年には、江戸幕府は倒れ、明治時代に入った。

明治時代の象徴は国際標準に従う文明開化であった。そして明治5年(1872年)に、欧米諸国が1500年以上も使用していた「ユリウス暦」を「グレゴリオ暦」に切り替えてから「僅か20年後」に日本も「グレゴリオ暦」に切り替えたのであった。

なお、明治の暦の切り替えに絡んでは、春分の日を含む月を年初に持ってくる案を出した人もいた。旧暦の明治6年に閏月があり、給与支払いが13回になるのを避けるため明治政府は改暦を急いだ。「グレゴリオ暦」採用で、その年は11月の次に1月が来ることになり、明治政府は12月分の給与支払いも不要にした、といった話も伝わっている。

しかし、「グレゴリオ暦」という国際標準、しかも最新の国際標準に従うことが何よりも文明開化であったというのが真実だろう。

生きている旧暦

もっとも「旧暦」は公式/非公式に、その後も維持され、日常生活の中で使われ、生きている。

それは最初に触れた「旧暦」が持つ季節感との乖離を調整するために作られた「二十四節気せっき」と、それに付け加えられる「雑節ざっせつ」(節分せつぶん彼岸ひがん入梅にゅうばい土用どよう八十八夜はちじゅうはちや210日にひゃくとうかなど)によるところが大きい。

「二十四節気せっき」および「雑節ざっせつ」は「旧暦」で重要な役割を果たしたが、それは現在でも日本の日常生活に深く溶け込んでいる。

しかも「旧暦」の仕組みと別に純粋に天文学で決まるものであり、そのため現在でも添附資料の通り、「暦要項」として、江戸幕府の天文方の活動を引き継いでもいる国立天文台から発表されている。

旧暦では立春(2月4日前後)を基準に1年を開始している。

この時期は、普通の感覚ではまだ冬の最中さなかであり、そこで「暦の上ではもう○○ですが」ということになる。

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私自身は津田の園地(佐伯ガーデン)で自然にのっとった作業をしている。そこでの経験では、秋の訪れは広島市内よりかなり早いものの11月前半はまだ暖かい日があり、ダリアなどが咲き残り、厳しさが感じられない。

11月後半、紅葉が散り、最低気温がマイナスの日が多くなると、急に寒くなってくる。毎年12月の半ば頃には「今年はもう終わりだな」と、仕舞いをつける。早い雪が来ることもある。 秋から冬の流れである。

その寒さは2月の初めまではがっちりと残る。2月になると、まだ寒さは残り、雪も降るが、光の輝きが画然変わる。

冬至のころは正午の太陽の迎え角は32度程度だが、2月の半ばには45度近くまで高くなっている。

「日々の角度の変化量が急増するのかな」とおもって計算してみたが、サインカーブの立ち上がりのようなことはない。それでも日を追って日差しが強くなる。冬場は凍結して使えなかった山水を取り込み始めるのもこの頃である。

電気がない時代、年の始まりは、この時期であったに違いない。

中国の暦は古い歴史がある。その暦の世界に足を踏み入れよとすると、まずは最初にということで、道教とか陰陽五行説などの複雑な世界に引き込まれそうになる。引き込まれるのを避けながら暦だけに注目して追跡したところ「中国暦の年始はおおむね立春を基準としていた」という説明に出会った。

NHKの園芸図書に月々の作業の説明を中心にした「12ヶ月」シリーズにも、多くの植物は「2月になると根が動きだし、春先の芽だしの準備を始める」とある。(だから、寒肥は2月までには終わらせなさいという。)

目には見えないものの、まだ寒さはあるものの、2月になれば、明らかな兆しがある。兆しをもって開始点とするのは、ちょうど何も見えない新月を月の初めに置く考えと一致しており、また原始の農耕民の生活実感(「ようやく暗く寒い時期から抜け出せそうだ」)とにマッチしていたであろう。

温暖化が進み、人工物が増えて身近な自然の動きが分からなくなっている現在の状況からはズレがあるが、原始人的な鋭敏な感覚(あるいは平安の風流人のもののあはれの心)で季節の変化の兆し(ないし予兆)を捉えることができれば、立春は一年の初めに相応しいし、「二十四節気せっき」にはそれなりの深みがあると私は思う。

なお、旧暦の1月1日と立春(2月4日)とは一致しておらず、年によって大きく変動している。この10年で、早いときは1月22日、遅いときは2月18日であった。

くどいようだが、旧暦そのものが季節感と完全に連動している訳ではない。「旧暦だから、自然の動き(季節感)とマッチしている」と思いたくなるかもしれないが、それは間違っている。

季節はあくまでも太陽の動きで決まる。「新暦」の方が春分の日や夏至など太陽との関係は安定している。ただ、様々な伝統的な年中行事は旧暦ベースで行われた方が季節の実感に近いということである。

「桜」---  45種を確認

ところで前回の「時空の漂白」で「桜」について述べたが、フォローとして、その後、かなり多くの桜を確認した。

近所の公園(植栽品)を巡った。そして品種名のラベルを写し込んだ写真だけでも45種に達した。広島市近郊で、名のある枝垂れ桜を一日で6ヶ所見て廻った日もある。

そうして分かったことは、桜という花木はまさに「千変万化」で、変化の方向性や集団としてのくくりがなかなか難しいということであった。

栽培品で品種名が付いた桜は八重(重弁)が多いが、そもそも八重というのは、おしべが花弁に変化したいわば奇形であり、種子ができない。突然変異で「1だけ出た」ものが温存され、何らかの栄養繁殖(接木や挿し木)で増やされたものである。

バラやベゴニアなどは、はっきりとした特徴のある原種を掛け合わせて、狙いの形質を意図的に引き出す。ある種の遺伝子操作で、育種と呼ばれる。

「ソメイヨシノ」は「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の雑種とされる。単純な雑種ではなく、なんらかの雑種が片親に残り、それと「オオシマザクラ」が交配した、と考えられている。

前回も述べたように、桜の仲間は、同じ種の中での変異幅が大きい。加えて、雑種ができやすく、さまざまな遺伝子が残る。はっきりとした原種がない分、系統的な育種がむずかしいということだろう。

「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の組み合わせを根気よくトレースし、「ソメイヨシノ」のルーツ探しをしている人がいた。その作業の中から、別の形質をもった、「伊豆吉野」という新種も作り出されている。

「伊豆吉野」も、「ソメイヨシノ」の親類になるわけだが、多花性で、雲のように咲き誇っていっせいに散り、成長がよくて、植えた後の生存確率(活着率)の高い出世頭(ソメイヨシ)の総合性能を凌ぐものにはなっていないといえる。

「同じ品種名だが、姿が図鑑と違う(図鑑同士でも違う)」ものもあった。

「新日本の桜」でも、「現在この名で栽培されているものが、もと東京荒川堤にあった同名のものと同じかどうか疑問が残る」といった記述がある。

学名は、特性を保有した標準標本を保存して以降の同定の基準とする。標本は色が変わり、細かい毛が飛んでしまえば、標本基準の同定はかなり難しいことになる。実物の比較も、咲く場所や季節が異なれば、実務的にはやはりなかなか難しいことである。同じものを別の名で呼ぶなど同じ名前でも実体は異なることもありそうだ。

とはいえ、そういう理屈っぽさを忘れれば、やはり桜は春らしさの代表なのだなと楽しめる。

平地の「しだれ桜」(「エドヒガン」の変異種)は、「ソメイヨシノ」より早く咲いていた。

広島市佐伯区五日市の街中にある観音神社の桜(京都の円山公園の「しだれ桜」から増やしたもの)は、4月の頭には満開になっていた。

この桜は、平成14年に京都の桜守佐野藤右衛門さんが、ご自身で育てた樹齢30年の若木を自らが植樹されたものである。この年齢のころは、大きさはいまひとつだが、勢いは一番あるときかもしれない。円山公園のものは80年、90年程度である。

「しだれ桜」は、一つ一つの花がやや小さく、色が濃いことで、独特の雰囲気を出しているようだ。

広島市佐伯区の「湯の山温泉」の桜も咲いた。4月10日の様子である。

「ヤマザクラ」は、公園の植栽品、自生のもの、多く見た。開花の時期はばらつきがあり、葉の出方、葉の色もまちまちであった。

ただ、遠目では、「ソメイヨシノ」と区別がつかないこともある。東京上野公園の桜の中には「ヤマザクラ」が多いというし、吉野の桜は「ヤマザクラ」である。

「ヤマザクラ」は、葉の色とあわせて控えめで美しい桜だと思った。山の中で毎年増えているようで、嬉しい。

五日市に独立行政法人造幣局の広島支局がある。コインや勲章を作る機関である。大阪が本局で、東京と広島に支局がある。大阪の「通り抜け」は有名だが、そこから桜の苗を移植して、育ててきた。20年ほど前から花の時期に1週間程度、「花のまわりみち」と称して公開されている。

今年は、4月15〜21日の公開だったが、季節が後倒しであったので、例年は花が終わっていて見られない、やや早咲きの品種が見ごろであった(「ソメイヨシノ」も咲き残っていた)。

大阪の「通り抜け」も広島の「花のまわりみち」も、どっしりとした八重が中心で、色味も濃い目の紅色が多いのだが、早咲きは、シンプルな一重のもの、白っぽいものが目立った。

たとえば、「太白」という品種。一重だが、花の直径は5.5〜6センチと大柄で、「ヤマザクラ」の血を引いて、葉が少し出ている。日本ではいったん絶滅(消滅)し、イギリスにわたっていた親木から穂木を取り、日本で再度育てられたものという(やはり佐野藤右衛門さんの仕事である)。

思川おもいがわ」。図鑑では花弁は約10枚となっているが、一重に近いものもある。うっすらとしたピンクと緑の葉がよい。

「白雪」。白色系の代表である。花弁は丸く、大きく見える。花数も多い。幕末から明治にかけての混乱期に温存され、深川の土手(深川堤)で育てられていた一群の桜の中のもの。

衣通姫そとおりひめ。「ソメイヨシノ」の実生から生じたもので、「オオシマザクラ」との自然交配によってできたものと考えられている。「ソメイヨシノ」の親類の中では気品が感じられることからの命名であろうか。

中旬から月末に向けて、平年より寒い日が続いた。山間部でも(また被災地東北でも)雪が降った日があった。

広島市の植物公園にも桜は多いが、「一葉」、「楊貴妃」、「普賢象ふげんぞう、「関山」といった八重桜の名品が咲きそろっていた。「鬱金うこん」、「浅黄あさぎ」、「御衣黄ぎょいこう」などの黄色のシリーズも、遅めながらしっかりと開花した。

季節と桜といえば、西行の歌を思い起こす。

願わくば 花の下にて春死なむ 
            その如月の望月のころ

西行が死んだのは数え73才であるが、この歌は60才台中ごろの作といわれている。命終みょうじゅうは文治6年2月16日で、この月の満月は16日であった。新暦では1190年3月30日になるという。

入寂にゅうじゃくの地・南河内は京都よりもやや暖かい。金剛山地の山麓では早咲きの「ヤマザクラ」はもう咲いていただろう。この頃、「ソメイヨシノ」はまだ生まれていない。