時空の漂白 67  PDF (2011年7月20日)   

海の物とも山の物ともつかぬ(9) 熱気球   西村一彦      

色とりどりの熱気球が数多く空に浮かぶ気球大会は、気球乗りにとって最も花のある大舞台である。参加者が多いほど、観客が多いほど、人々の熱気が飛行中の私たちにも強く伝わってくる。

気球大会は日本国内だけで年間30回弱が開催されている。詳細は日本気球連盟のWEBページに掲載されているので、興味のある方は見物に行かれるとよい。ただ、熱気球の飛行は早朝もしくは夕方で、かつ風が強かったり天気が悪かったりすると中止されるので、せっかく会場までおいでいただいたとしても、気球が見られない可能性があるのが残念だ。

海外、とくにヨーロッパや米国でも気球大会は盛んで、日本の気球乗りもこれらの大会に参加することがある。たいがいの気球大会の主催者は遠い日本からの参加を歓迎してくれるだろう。

ただし、ほとんどの場合、費用は全部自分持ちなので、日本から気球機材と1チーム分の人間を送るのは相当の金額となる。気軽には参加できないが、とはいえ間違いなく海外での気球飛行は心に残るものとなるだろう。なんたって、我々が日本の地主の方々とやっているドタバタ(?)を現地でやるのだから。…………

その土地の文化風習を通常の海外旅行以上のレベルで知ることになる。見知らぬ方々と突然会話して、食事をご馳走になったり、とっておきのワインを開けてくれたり。時には怒られたりもするが、言葉は通じなくとも何とかなるさ、という気構えが最高の出会いを用意してくれるだろう。

気球大会が開催される理由はいくつかある。以前説明したように気球は複数同時に飛んでいるほうが風が良く読める。これが当初の理由だ。やがてその飛行を一般の方々が見物して喜ぶようになり、それに目をつけた自治体が予算を付けてくれるようになる。もちろん趣味でやっている我々がそれによって懐が潤うわけではない。会場の整備や警備や利用許可、もろもろの経費がその予算でまかなえればOKだ。花火大会や神輿みこしを担ぐのと同じなのだろう。

だから一口に気球大会といってもその規模(予算も含めて)は様々だ。参加者が払う小額の参加費がすべての予算であるものもある。日本で一番大きい気球大会は佐賀の大会で、これは別格だ。

自治体や民間スポンサー、それに間接的だが出店の出店料など、かなりの金額が動く大会である。5日間の日程で100万人近い見物人が押し寄せるのだから、まあ当然であろう。

2010年 ゴードン・ベネット・カップ気球大会

ゴードン・ベネット・カップは数ある気球大会の中でも最も歴史が古く、権威ある大会である。ニューヨークヘラルド紙のゴードン・ベネット発行人がスポンサーとなったこの大会、1906年に第1回大会が行われ、戦争や不況の中断を挟みながら、現在にまで続いている。

ルールは単純で、各国から代表チームを出し、決められた範囲内でできるだけ遠くまで行けたチームが優勝。優勝は各国エアロクラブの名誉となり、優勝国が次回の大会を主催できる。感覚的にはヨットのアメリカズカップに近い。

長時間浮いていられなくてはならないので、熱気球ではなくガス気球が対象となる。そのためほとんどの日本人気球乗りには無縁である。ただ日本にも数名だがガス気球を扱えるものがいるので、その人たちにより毎回日本チームが1チームだけだがこの大会に参加している。実力としては、まあ、参加してみました、という程度である。

次頁図が2010年のゴードン・ベネット・カップでの各チームの航跡図である。優勝したスイスチームは3日間飛び続けて競技範囲ぎりぎりまで到達している。

このような競技会であるため、死の危険とは背中合わせである。この大会でもアメリカチームが夜間アドリア海で消息を絶ち、行方不明となっている。図でもそれが判るだろう。これ以外に、

○1923年 嵐の中で6機以上の気球が落雷に遭い、
                 6人以上が負傷、5人が死亡。
   ○1983年 飛行中に気球からゴンドラが外れ、乗員は死亡。
   ○1995年 3機の気球がベラルーシ空軍の攻撃を受け、
                1機が打ち落とされ、2人が死亡。

の事故がある。それでもこの大会への参加者がいなくなることはなさそうだ。それはこの大会が航空機界の歴史と権威に包まれているからだろう。

1980年11月23日 佐賀市嘉瀬川敷 佐賀での最初の熱気球大会

広島大学熱気球クラブの代表、角田正氏は次の計画に向かって動いていた。

○1975年の熱気球クラブの設立
   ○1976年の中国四国九州地域での最初の熱気球の完成
   ○1977年の同地域での最初の熱気球パイロット

と計画を進めていた彼の次の計画はこの地域に熱気球大会を立ち上げることだった。

1978年の時点で日本にあった熱気球の数は50機ちょっとであり、その多くは東日本にあった。熱気球大会も北海道・東北・関東・新潟・琵琶湖あたりで開催されていて、参加機数は15〜20機くらいだった。

当時の角田氏には目標が2つあった。1つは熱気球で瀬戸内海を横断すること。もう1つは日本に熱気球競技会を定着させること、だった。

熱気球競技会のことは前回も書いたが、気球乗りの腕を順位づけることだ。競技参加者にいろいろなタスクを課し、その成績によって全競技者を得点づけし、最終的に最高通算得点を取ったものをチャンピオンとして認定するのだ。

タスクには10種類程度あるが、基本は気球に乗って自分が前もって指定された場所にいかに近づけるか、ということだ。他人と競いあうのだから当然駆け引きも必要だ。世界選手権ともなると5日間以上にわたって毎日タスクをこなしていく生活となる。

質の高い競技会を実施するには、質の高い競技者は必要だが、それにもまして大切なのは質の高い競技役員だ。気球は天気まかせ風まかせのものだけに、これらを読み切ってタスク設定をする必要がある。さもなければ競技として成り立たなかったり、最悪死人が出たりしてしまう。

よって競技前のブリーフィング(競技の内容説明、競技者と役員との質疑応答の機会)では競技者は真剣に競技内容の検証を行い、曖昧な点や危険が予想できそうな点があればどんどん質問をしてくる。

そのときに明確に答えられない競技委員長は、競技者の信頼を失ってしまう。もしそのような事態が起きてしまったら、スポンサーの手前だろうが観客の面前だろうが競技会は成立しない。当然だ。競技者は命を張っているのだ。

このような経緯から角田はまず九州で小さなローカル大会を開くことにした。福岡県の甘木市、旧太刀洗の航空隊があったあたりの地域だ。まず一九七八年に競技をしない、集まって飛ぶだけの小さな大会を開き、次の年には六機だけの競技大会を主催した。

気球を始めたばかりの私もこの大会に下っ端(会計係)で参加した。競技参加者も競技素人なら、競技委員長の角田と周りの競技役員も競技素人だ。いろんなトラブルはあったが、なんとか競技会は成立した。1979年のことだ。

この大会から課題が見つかった。まず大会運営事務と競技実施事務を1人で行うことはできないことがわかった。よって役員チームは二手に分かれて、それぞれの立場で事を進めるようになった。この2チームの利害はときにぶつかることもあった。スポンサーや観客のことを考えると運営役員は気球にどんどん飛んでほしいが、競技役員は天候などの危険を計りながら中止判断をすることもあるからだ。

そしてこの地域の最大の問題は、そこが福岡空港に離着陸する航空機のルートに当たることだった。そのため航空局から高度100m以下で飛ぶように指示されていて、さすがにこの高度制限では無理があった。

もっと気球の飛びやすい場所を探していた角田氏は佐賀市がその条件に合うことを見つけた。佐賀市街には気球の降りられる隙間はほとんどないが、市街の周り全方向は田んぼが広がっている。よって市街地を飛び越えてしまえば降りるのは容易だ。また佐賀市の周りには高圧線の配置もあまりないため、その点でも飛び易い。

1980年に気球大会を佐賀市の嘉瀬川の河川敷で行えるよう、関係の機関と交渉を開始したが当初はどこも及び腰だった。佐賀県庁の観光課、佐賀市役所や建設省の河川事務所、どこも話には聞いていたが熱気球を実際に見たことのない人たちだらけだった。その大会がどのようなものになるのか想像するのは難しかっただろう。

角田氏とその協力者は粘り強く交渉を行い、そして最初に県の観光課長が理解を示してくれた。それから観光課経由で建設省に交渉に当たり、ついに河川敷を正式に大会として利用する許可が出たのは大会開始の前日だった。

こうして迎えた1981年11月21日の大会初日、その日は残念ながら雨であった。よって気球を広げて準備することなくその日は終了。次の22日は強風でまた飛べずに終了。仕方ないので集まった参加者のみでチーム毎のバトンリレーなどの地上ゲームで時間を潰していた。こうして3日間の大会で残るは1日。その日飛べなければ大会は完全に失敗となり、来年の見通しが見えなくなる絶体絶命の状況となった。関係者が腹をくくったその日、23日、佐賀は嘘のような青空となった。

待ちに待った天気の下、各気球チームは自分たちの気球で空に舞い上がった。その数、14機。大会参加者数約90名。現在の大会規模からすれば比べるべくもない数だが、初めて佐賀の空で気球競技が行われたのだった。 

初めに紹介した現在の様子と比べると違いが際立つ

1989年11月21日
佐賀市嘉瀬川河川敷
アジア最初の熱気球世界選手権大会

1980年の大会がかろうじて成功となり、翌年からの大会が継続して行われるようになった。しかしながら実情はローカル大会の域を出ないものであった。確かに大会参加者・参加気球数は順調に伸びていたが、角田氏の最終目的はここで熱気球世界選手権を開くことだった。

そのため1984年には「バルーンフェスタイン佐賀」という名称を「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」に変え、かつ海外の有力選手を複数招待するようにした。

海外から人を呼ぶことは経費がよりかかることになるが、それは世界選手権を開催するにあたり、海外の人々に佐賀の空を知ってもらう・しっかりした大会が運営できることを知ってもらうために必要なことだった。

と同時に角田氏たちは海外のメジャー熱気球大会に参加し、そこの人々とコネクションを作り、また大きな大会の運営方法を学び、そしてそこに参加している選手たちにプレゼンを繰り返し、少しずつシンパを増やしていった。

佐賀での熱気球世界選手権を考えた場合、予算とスポンサーは最大の懸案事項であった。これは基本的には民間スポンサーを運営側で探すことになっていたが、もし見つからなかった場合の担保をどうするか、ということだった。これはいざとなれば佐賀市が担保をしてくれることになり、道筋が見えてきた。

次の懸案事項は果たして佐賀という狭い空域で世界選手権という最高の技量を発揮する機会が可能かということだった。これは実際に世界のトップレベルの選手たちが何度も佐賀を飛び、狭いエリアではあるもののそれに比例した微風を使った精密な飛行が可能であり、今までのような広大なエリアを使った競技会とは性質の違う、異質で密度の高い競技会ができることが証明されたことで問題にはならなくなった。

そして最後に、もっとも重要なことは人だった。世界選手権クラスを安全に効率よく運営するためには大会運営に精通した人間を多数育成する必要があった。気球や競技を知っていることはもちろん、世界各国から約百チーム、加えて海外競技役員約百人が参加してくるわけだから、その人たちをうまく導けなくてはならない。

英語があまり得意でない地域から来るチームだってある。佐賀という外国とそれほど縁のない地域で、これらの国際交流をいかに円滑に行うか。まして今まで述べた通り気球は閉じた場所で行う競技ではない。他人の土地にどんどん降りてくるのだ。いやでもその土地の方々と交わらざるを得ない。それが百機という単位になるのだ。

佐賀ではこの目的のため大勢の地元の方々が毎週のように勉強会を開き、そして何回ものプレ大会を通して問題点を洗い出しては改善していった。そして直接気球とは関わらないものの、大会運営のために数百名のボランティアスタッフが組織された。これらの方々は会場の警備・清掃・交通整理、そして海外からの参加者の佐賀滞在中のお世話、といった仕事を無給でこなされたのだった。

このように公民一体となった運動がうまく機能したのは、おそらく佐賀地域の県民性と、佐賀市制百周年を盛り上げたい当時の宮島市長以下の方々の熱意が合致したからだと思う。

こうした準備のもと、各国の世界選手権誘致合戦を戦い、そして1986年、ついにFAIの気球委員会において1989年の世界選手権の開催地は佐賀であることが決定された。

世界選手権の開催が決まると、そこからは不思議ではあるが、お役所周りの動きがスムーズになり、予算面でもずいぶん楽になった。また民間スポンサーも大口が集まるようになり、特に「コスモ石油」が1989年までのメインスポンサーシップを約束してくれたことで、お金の面でずいぶん見通しがよくなった。

またJR九州は会場近くを通る長崎本線に「バルーンさが駅」という臨時駅を設置することを決定。この駅は現在に至るまで、大会期間中のみ存在する駅である。

こうしてアジア地区で初めての熱気球世界選手権が開催された。参加気球102機、関係者1200名、7日間での延べ観客数は117万人。奇跡的に好天気に恵まれ、毎日の気球飛行ができたことにより、SAGAの名前は世界中の気球乗りが知ることとなった。

また微風を使った競技は「センチメートル」レベルの優劣を争うエキサイティングなものとなった。それに加えて滞在中の海外チームに対する充分なアメニティの提供により、参加者たちから高い評価を得ることができた。

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筆者紹介
 西村一彦(にしむら かずひこ)
 1960年生まれ
 本業はコンピュータ・ソフトウェア・エンジニア。大学入学時に熱気球クラブに入部したことより気球活動を始める。最近の熱気球の飛行は2ヶ月に1回くらいと控えめ。